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『わが。逃走』第六話 「赦しを求めて」

    宿り木緑

    #創作大賞2025 #ミステリー小説部門

    ※本作は、連作『わが。逃走』全7話のうち、“赦し”と“沈黙”を主題とした第6話を抜粋し、単話応募としています。

    物語全体はnoteマガジンにて公開中。本話のみでも読了可能な構成としています。


    ___

    午後。──謝るために、彼は住所を調べた。
    SNSの断片と過去の記録を組み合わせれば、特定は容易だった。

    最寄駅から徒歩十五分。 住宅街の一角にある、ごく普通の家。

    彼はインターホンの前で深呼吸を三回繰り返した。 手に持った紙袋の中には、白い花束と短い手紙。

    何を言えばいいのか、正解はわからない。 ただ、謝りたかった。心からの言葉を、形にしたかった。

    ピンポン。

    チャイムが鳴る。 反応はない。

    一分。二分。 彼は足元に視線を落としたまま、気配を探った。

    そして、玄関の扉が開いた──わけではなかった。 代わりに、数メートル先から誰かが歩いてきた。 制服を着た、警察官だった。

    「すみません、こちらのご家族から通報がありまして」

    彼は言葉を詰まらせた。

    「……ご迷惑を、おかけしたくて来たわけじゃ──」
    警官は静かに首を振った。その動きだけで、すべてが終わった気がした。

    「“これ以上は連絡も接触も控えてほしい”と……それだけです」
    「すみません、伝言も、特には……」

    袋の中の花が、風でかすかに揺れた。

    彼は、ゆっくりと頭を下げた。 警官も、それに倣って小さく頷いた。


    帰り道。歩幅は保たれていた。 だが呼吸は少しだけ浅く、足の裏に実感がなかった。

    風が頬を撫でたとき、耳元で《僕》の声がした。

    《君はまだ赦しを求めているのか。その行為が欺瞞だと気づいてはいるのに》

    彼は何も答えなかった。

    《あれは“許されたい”んじゃない。“謝ってる自分”で、もう一度“正しく”なりたかっただけ》

    《でも──赦しって、“相手が与えるかどうか”の話なんだよね》

    足元に落ちた影が、少しだけ伸びていた。

    《君は、赦しすら“自分の演技”に変えようとした。でも──それも、もう演じられない。拒絶されたから》

    しばらくの間、風の音だけが聞こえていた。

    《この演技も、今回が初めてじゃないよ。知らないフリは辞めよう》

    ポケットの中。名刺が指先で丸まり始めていた。 その感触だけが、“まだ何かを掴んでいたかった”証拠だった。


    夜、ノートは開かれなかった。 開いてしまえば、何も書けないことが証明されてしまう気がした。

    その代わりに、彼は風呂場の鏡に向かって、深く一礼した。

    それが“謝罪のつもり”だったのか、 それとも“これで終わり”の合図だったのか、自分でもわからなかった。

    「3.14159 26535 89793 23846 26433 83279 50288 41971 69399 37510 58209 74944…………。」

    意味のない数字だけが、今の彼を許してくれる。
    脳を閉じる。開いては閉じる。今必要な思考を本能のままに悟っていた。

     
     
     
    “正しさ”が人を壊す瞬間を描きます。 精神科医と少女の診察記録『クロルピクリンと症候群』 赦されなかった加害者の逃走録『わが。逃走』 記憶と幻想の夜をさまよう『ア曖昧に愛舞い』など、倫理と観察の物語を中心に公開中。 note創作大賞2025 応募中 言葉にできない感覚を言葉に。

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