
『わが。逃走』第六話 「赦しを求めて」
※本作は、連作『わが。逃走』全7話のうち、“赦し”と“沈黙”を主題とした第6話を抜粋し、単話応募としています。
物語全体はnoteマガジンにて公開中。本話のみでも読了可能な構成としています。
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午後。──謝るために、彼は住所を調べた。
SNSの断片と過去の記録を組み合わせれば、特定は容易だった。
最寄駅から徒歩十五分。 住宅街の一角にある、ごく普通の家。
彼はインターホンの前で深呼吸を三回繰り返した。 手に持った紙袋の中には、白い花束と短い手紙。
何を言えばいいのか、正解はわからない。 ただ、謝りたかった。心からの言葉を、形にしたかった。
ピンポン。
チャイムが鳴る。 反応はない。
一分。二分。 彼は足元に視線を落としたまま、気配を探った。
そして、玄関の扉が開いた──わけではなかった。 代わりに、数メートル先から誰かが歩いてきた。 制服を着た、警察官だった。
「すみません、こちらのご家族から通報がありまして」
彼は言葉を詰まらせた。
「……ご迷惑を、おかけしたくて来たわけじゃ──」
警官は静かに首を振った。その動きだけで、すべてが終わった気がした。
「“これ以上は連絡も接触も控えてほしい”と……それだけです」
「すみません、伝言も、特には……」
袋の中の花が、風でかすかに揺れた。
彼は、ゆっくりと頭を下げた。 警官も、それに倣って小さく頷いた。
帰り道。歩幅は保たれていた。 だが呼吸は少しだけ浅く、足の裏に実感がなかった。
風が頬を撫でたとき、耳元で《僕》の声がした。
《君はまだ赦しを求めているのか。その行為が欺瞞だと気づいてはいるのに》
彼は何も答えなかった。
《あれは“許されたい”んじゃない。“謝ってる自分”で、もう一度“正しく”なりたかっただけ》
《でも──赦しって、“相手が与えるかどうか”の話なんだよね》
足元に落ちた影が、少しだけ伸びていた。
《君は、赦しすら“自分の演技”に変えようとした。でも──それも、もう演じられない。拒絶されたから》
しばらくの間、風の音だけが聞こえていた。
《この演技も、今回が初めてじゃないよ。知らないフリは辞めよう》
ポケットの中。名刺が指先で丸まり始めていた。 その感触だけが、“まだ何かを掴んでいたかった”証拠だった。
夜、ノートは開かれなかった。 開いてしまえば、何も書けないことが証明されてしまう気がした。
その代わりに、彼は風呂場の鏡に向かって、深く一礼した。
それが“謝罪のつもり”だったのか、 それとも“これで終わり”の合図だったのか、自分でもわからなかった。
「3.14159 26535 89793 23846 26433 83279 50288 41971 69399 37510 58209 74944…………。」
意味のない数字だけが、今の彼を許してくれる。
脳を閉じる。開いては閉じる。今必要な思考を本能のままに悟っていた。