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夜 走る 黄色いスコップの女

    #創作大賞2026 #オールカテゴリ部門

                     柚 麗翠


    深夜 車内に

     エンジンはとろとろとアイドリングを続けていた。その振動が、かすかに身体にも伝わってくる。ルームミラー越しに後部座席をのぞくと、それはまだ確かにそこにあった。使い込んだ木の柄。その先には、夜目にも鮮やかに飛び込んでくる黄色いプラスチックのあれが魔物の手のように付いているはずだ。

     不意にそれが動いた。

     ルームミラーにはおびえを含んだ私の青白い顔。

     心臓の鼓動が高まる。動いた?まさか、と思う。気のせいか?いや、横なぐりに吹きつける風に車体が揺さぶられ、それにつられ自分のからだが揺れ、ミラーを通して見るスコップの柄が動いたかのように感じたのだ。どおんと、風がまた車体に強く当たった。

     女は戻ってこない。

     黄色いスコップを残したまま。

     さっき吹雪の中に出て行ったきりだ。女が開けたドアからびゅうと入ってきたあの時の冷気を思い出し、私はまた身震いした。

    日付けが変わる少し前

    「ねえ、女の人が走ってる。」

    「まさか、こんな吹雪の夜中に?」

     私はハンドルを握り、ときおり車にどうと叩きつけてくる風に耐えながら、かろうじて視界を削り出しているワイパー越しに、助手席に乗る妻の視線を追った。大粒の雪吹きすさぶ前方の闇に目を凝らすと、

    「本当だ。」

     なんと吹雪の車道を時おり足元を雪にすくわれ、よろよろしながら女が走ってくる。手に持った棒のようなものを前に突き出して、それに身体を支えでもするかのようにして走っている。日曜日、吹雪の深夜。

    数日前 床屋で

    「冬休みはいつまで?いいよね、学校の先生は夏冬の休みもあって。春だって2週間くらいあったっけ?」

     床屋のオヤジは、顔に似合わない器用さで、ハサミを動かしながら、鏡をちらと見たり、私のほとんど髪のなくなった頭頂部を見たりしながら、きちんと客とかみ合う会話ができる。まったく巧みの技だ。感心しながらも、刃先の行方に不安を覚えつつ私はこたえを返す。

    「それは、大昔の話です。今は違いますよ。あれは長期休業といって、生徒に学業を休業させるってことで、私たちは出勤なんですよ。」

    「あれ、だけど裏の田中先生なんて、いつだったかタヒチに行ってきたって、ほれ、そこに飾ってある〇人のコケシ、お土産にって持ってきてくれたよ。」

    と、差別用語の「〇人」をたいして気にもとめずに口にしながら、ハサミで鏡の下の棚を指した。田中先生というのは話には良く出てくるが、会ったこともない中学校の先生だ。この人にかかると、客の個人情報なんてお構いなしだ。うかつなことを言うと私のことも他の客に筒抜けになるのだろう。再び戻ってきたハサミから逃れられぬまま、鏡の中の私は、目だけ動かして愛らしい少女をかたどったタヒチの人形とやらをちらと見た。

    「それは、長期休業に合わせて年次休暇を取ったのでしょう。その年によって担任の有無や部活動の状況、分掌業務のやりくりがうまくできたので、そこに年次休暇を入れただけのはずですよ。年によっては長期休業中の方が仕事が増えることもあるんですよ。」

    「ほんとかい?俺たち自営業の者にとっては公務員なんてうらやましいと思ってたんだけどな。特に学校の先生は…。休みはいっぱいあるし、住むところだって、公宅ってのかい?ただで当たるし、残業手当だってつくし…。」

     オヤジはシャカシャカと器用にシャボンを泡立て始めた。

    「世間からはそんな風に見られてたんですね。教員には残業手当はありません。担任を持っている時、保護者の方のつごうに合わせて、帰宅を待って夜の九時に家庭訪問行っても、あれ、ただ働きなんですよ。公宅はちゃんと公宅料を払うんです。大きな都市の公宅が足りない学校に勤めてるときなんて悲惨だ。家賃の高い民間のアパートに住まなければならなくても、補助も低い金額で頭打ちだったり、けっこう辛いんですよ。学校によっては公宅の前に車止めると駐車場使用料が毎月引かれる。夫婦で住んで2台止めたら2台分。」

     オヤジは革のバンドでカミソリをシュッシュッと器用に研ぎながら

    「えっ、じゃあ、なに、教頭先生は、市内に自宅があるってのにお金払って公宅に入ってるの?」

    研ぎ終えたカミソリが首筋にソッと後ろから触れる。

    「そうですよ。ここ数年、自治体の財政難の影響で管理職手当もカットされ、市内単身赴任だから自宅との距離三十キロ以内で単身赴任手当もなし。」

    「やっぱり自宅から通っちゃあ、まずいのかい?」

    カミソリが首筋をスッスッと走る。

    「まずいってことはないですけれど、校長が寒い公宅入ってるのに、教頭が暖かい自宅から通勤というわけにも行かないんですよ。それに、地震なんかあったら、夜中でも校舎の被害状況見に駆けつけなきゃならない。」

    「なるほどなあ。奥さんは何にも言わないのかい?そんなんで?」

     オヤジの手は顔剃りに移った…。

    そして、いま

     床屋のオヤジとの会話を思い出しながら、ルームミラー越しに後部座席を見やる。黄色いスコップは、じっとこちらを見張っているかのような威圧感を放ったまま、依然としてそこにあった。

     やはりこれは現実なのだ。しかし、あの女は本当にこの世のものなのだろうか。「奥さんは何も言わないのかい?」か…。そうだ、妻は何も言わない。こういう仕事だとあきらめているのかもしれなかった。今夜だってそうだ。市内単身赴任状態の私の公宅の掃除と冷蔵庫整理に来て、日曜日を一日費やした。
     ところが、午後になって天候が急変した。夕方には自宅に送って行くはずが、あれよあれよという間に街は吹雪の中だった。しょうがないから泊まっていけばと言うと、こんな寒いところはいやだ。それに猫にえさもやらなければならない。ストーブも消してきているから水道が凍る心配もある。と言いながら雪の止むのを待ち続けたら十一時になった。吹雪の勢いは、少しはましになったかもしれないと妻を車に乗せて自宅に向かった。そしてあの走る女だ。

     妻を自宅に降ろして、じゃあ、「明日の朝は少し早く起きて校長公宅と自分の公宅の間のところから雪はねだ。」と、自宅を出たのが零時五分。まだ吹雪はおさまらない。いや、むしろ先ほどより風が強くなっていた。十分ほど走ったところで、さきほどの女がいた。

     女は、この深夜に吹雪の中を走っていた。たいした防寒着でもない、ちょっと物置に漬け物を取りに出たかのような格好のまま、走り続けている。さきほど見かけた地点から二キロは離れているだろうか。あいかわらず手に棒のようなものを持って、それで身体を支えるかのようにして走っている。よく見ると棒のように見えたのは柄の部分で、その下はスコップだった。ホームセンターなどで売っている除雪用のスコップ。先は黄色いプラスチック。柄の部分を握ってプラスチックの部分を雪の上に滑らせるかのように、前に突き出して走っている。
     私の車のライトが吹雪に霞む女の後ろ姿を照らした。細い華奢な下半身。強い風が来たらスコップごと飛ばされそうなフラフラした足どりだ。どこまで行くんだろう?何しに走っているんだろう?このまま追い越して公宅に帰ったら、明日の朝刊で「ーーースコップを持った女性、力尽きて凍死体でーーー」などという記事を見ることになりはしまいか?声をかけたほうが良くはないか? 
     ふと、幼い頃の母の言葉が思い出された。「だから、知らない猫にかまったりしたらだめだって言ったでしょ。どうするの、ほらついてきちゃったじゃない。振り向かないでさっさと歩くの。声かけちゃだめよ。」しかし、私は母の言うことを聞かない子どもだった。そんなふうにして、野良から我が家の猫になったのは、クロ、トラ、ミィー、シロ、チョビ…、思い出しただけで、すぐに片手の指分は超える。
     今夜は知らない猫じゃない、知らない女だ。もちろん深夜に女性に声をかけ、車に乗せるということにも抵抗はあった。しかし、「…凍死体…」という新聞の見出し文字の想像は、私を思いとどまらせることができなった。

    女 とうとう声を

    「あの、どこまで行かれるんですか?」

     女はスコップの柄で、からだを支えるかのようにして、大粒の雪が舞っている中、立ち止まった。息が白い。

    「いや、娘の車が、帰る途中で雪に埋まって、動けなくなったと電話があったもんだから…」

    血の気のなくなった唇がふるえている。

    「それで、その格好で走っているんですか?こんな吹雪の中、大変でしょう。良かったら乗りませんか?」

     ああ、とうとう言ってしまった。かけてはいけない言葉。してはいけない行動だった。女は「いやぁ、助かります。」と言うと、後ろのドアを開けてスコップと一緒に乗り込んできた。吹雪の中を走り続けた女の冷えきったからだのせいだろうか、ドアを開けた隙に吹き込んだ風の運んだ冷気だろうか、一瞬にして雪だるまに抱かれたかのように車内の温度が下がった。曇ったルームミラー越しに女が静かに頭をさげた。「助かりました。親切な方が通りかかって、本当に良かった。」声が震えている。女が口を開くと、車内は、さらに冷えた。

    「いやー、こんなに手がしゃっこくなったのは初めてだ。」
     ※しゃっこい:冷やっこいの方言。北海道の一部で使われる。

     はあー、と息をかけて、両の掌をこすり合わせる音。歳のよくわからない表情。車を運転する娘がいるというのだから若くても三十八か、いや、それよりもずっと歳をとっているようにも見える。冷気で曇ったルームミラー越しの表情からは二十代のようにも見える。不思議な顔立ちをしていた。現実離れして、夢の中に出てきそうな女…。いや、ひょっとしてこれは夢の中のできごとではないか?寝返りをうって布団から出てしまった私の冷えた身体が見せる悪い夢ではあるまいか。

    「お嬢さんの車は、どのあたりで埋まったんですか?」

    「それが、帰る途中だというので、いつも通ってる道のどこかだろうと思って、すぐ飛び出してきてしまったもんだから…。」

     私は道路脇にできた吹き溜まりを見るたびに、それらしい車影を探しながら車を進めた。しかし、行けども行けども、雪に突っ込んで埋まった車は見当たらない。

    「お嬢さんとは携帯で連絡を?」

    「娘は持っていますが、私は持ってないんですよ。家の電話で受けましたし…。」

    「お嬢さんの番号はわかりますか?」

    「いやぁ、家の電話の横に書いた紙貼っておいて、それ見ながらかけるようにしていたものですから…。」

     だが、行けども行けども、それらしい車の姿は見つからない。私の車は、さほど車高が高い方ではないが、横からの風があたると車体が大きく揺れた。私はしだいに不安になった。もしかして、悪い女なのではないか?後ろからスコップで殴られ…、いや、あの長い柄では車内で振り回すのは無理か。しかし、どこまで走らされるのだ?まさか雪女では?ふと大人げない妄想が湧きあがる。いやいや、あれは、祖母が、新潟生まれだと言っていた祖母が、言うことを聞かない私を怖がらせようと巧みに語った上越地方だか、どこだかの昔話か童話だったのでは…。だから雪女など現実にはいないはず。しかし、車内にこもるこの冷気は異常だ。ヒーターが壊れているんじゃないのか?

    「そうだ、お嬢さんの勤めているのは、どこなんですか?」

    「あれ、あの、飲み屋がいっぱい集まってるとこの居酒屋。海産物を出してくれる、あれ、何て言ったかな、だめだ名前が出てこない。」

    「末広町の居酒屋ですか?」

    「そうそう、午前二時くらいまでやってるあそこ。いつもなら最後まで働くんだけれど、こんな吹雪だから帰れなくなると困るからって、十時にあがらせてもらって走り始めたって言ってた。」

     十時だって?、もう二時間半も経過しているではないか、その間、娘は動けなくなった車の中で暖を取っているのだろうか?悪くすれば排気管が雪に埋もれて、車内に入ってきた排気ガスによる一酸化炭素中毒という事故もあると聴いていた。

    「もし、勤め先がわかれば、私が携帯でその店に連絡をつけることもできると思うのですが。」

    「うーん、ごめんなさい。名前がでてきません。」

    「じゃあ、私が知っている名前を言ってみましょう。『漁り火』。」

    「いや、違います。何て言ったかなあ。だめだ。出てこない。」

    「『魚鱗(うおりん)』。」

    「いや、そんな名前じゃなかった。」

    「『海の助』。」

    「たしか、魚に関係あったような名前だった。あれ、すぐ横に二十四時間駐車場みたいのと、空き地があって…」

    私は懸命に頭の中で、この街の歓楽街「末広町」のおぼろげな景色を描き続けた。

    …と、吹雪に霞む空き地が見えた。

    「『魚人(うおびと)』だ!」

    「あっ、そうそう魚人です。」

     私は、女の娘が勤めているという居酒屋が実在したことで、ほっとした。女が雪女とか、この世のものではないとかいう妄想はおさまった。

     そして、女はその居酒屋の前で車から降りた。だが、黄色いスコップを車の中に残したままだった。そして戻らない。このまま女を置いて立ち去ろうか? 「ーーー教頭、深夜にスコップを盗んで走り去る!ーーー」また朝刊の見出しが私を脅す。まてまて、スコップを魚人の入り口に立てかけて行くのなら罪にはならないのではないか?また私は妄想の虜に落ちていった。

     女は、待っても待っても戻らなかった。車のデジタル時計が三時半を回った。冬とはいえ、やがて夜が明けてしまう。「しらしらと氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の冬の月かな」米町公園にある啄木の歌碑が、わけもなく脳内に浮かび上がる。外は相変わらずの吹雪だ。月が見えるほど落ち着いた冬の夜なら私は待ち続けたかもしれない。
     しかし、もう待てなかった。犯罪者といわれようが、朝刊の見出しに載ろうとも、かまうもんか。悲壮な決意だろうか、それとも追いつめられたときに気力が萎え易い、判断力が崩れ易いという生来の性格のせいか。私はスコップを持って叩きつけるような風雪の中に出た。瞬く間に、殴りつけるかのような風が顔半分に雪を貼りつけた。黄色いスコップを魚人の入り口に立てかけると、振り返りもせずに車に戻り、発進した。車輪が空転し、車体が右、左にふらつく。風が、あの女の叫び声のように追いすがってきた。私はそれから逃れようと懸命に車を走らせた。帰り着くまで、何度も路地から黄色いスコップを滑らせながら、飛び出してくる女の幻影が吹雪の中に見えた。恐ろしい想像が私を襲い、冷えた耳が痛くなるほどの勢いで血液が回り、動悸が収まらなかった。

    月曜日 朝

    「教頭先生、大丈夫ですよ。きっと。その女の人は途中で車を放置して店に戻っていた娘さんに会って安心しちゃったんですよ。」

     木島展子は、私の恐怖の一夜を聞くと笑いながら言った。名前の文字から「テンコちゃん」と呼ばれる彼女は私の勤務先の事務職員だ。私は、さすがにテンコちゃんと呼んだことはなかったが、打ち合わせなどで校長室に行き来するときに通過する事務室で、彼女の笑顔を見ると心が安らいだ。目の縁に疲労感の漂う私に「教頭先生、具合悪そうですね。睡眠不足ですか?」と声をかけてくれたので、とうとう昨夜の黄色いスコップを持った女の一部始終を語ってしまったというわけだ。

    四月になって

     やがて、長かった道東の冬も終わり、四月になった。

     職場の歓迎会の会場は、幹事にあたった先生方の好みということで、「魚人」だった。新年度の慌ただしさの中で、私はあの女のことは忘れていた。宴も進んだ頃、今回の異動で職員もだいぶ入れ替わったのだし、新しい顔ぶれも増えたのだから、この機会に親睦を深めておこうと、私はビール瓶を片手に席を回り始めた。あちこち回って、テンコちゃんのところに辿り着くと、

    「ねえ、教頭先生、あの黄色いスコップの人の娘さんて、ここに勤めているんでしたよね。」

     そのひとことで、私は忘れていたあの夜のことを思いだした。

    「ああ、そういえば…、たしか杉本さんって言ったな。」

     二人の会話の間に、天ぷら盛り合わせの皿を運んできた白い割烹着姿の娘の手が伸びてきた。ちょうど、その娘の胸元のネームプレートが私の目に入った。「杉本祐子」一瞬、迷ったが、何かが私に口を開かせた。

    「杉本さんって、もしかしたらお家は白樺かい?」

    「えっ、そうですけど…何か?」

    「そうか、母さん心配させて悪い娘さんだな。」

    「えっ、母は私が小さい頃に亡くなりましたけれど、お知り合いでしたか?」

    「あれっ、変だな。あんた、この間、帰る途中、吹雪の中で車埋まったんじゃ?」

    「はい、1月のはじめに…」

    「それで、どうしたの?」

    「JAFに電話して助けに来てもらいましたけれど…」

    「じゃあ、オレが途中で乗せた女の人は?」

    「あのー、もしかして、黄色いスコップを持ってませんでしたか?」

    「そうそう、黄色いスコップ持って。」

    「ありがとうございます。母です。」

    「母ですって?あなた、さっきは『亡くなった』って。」

    「はい。家の周りを除雪している時に屋根からの落雪で下敷きになってしまったんです。すぐに、近所の人が気づいて雪を掘ってくれたんですが、母は黄色いスコップを持ったまま亡くなっていました。よほど私のことを心配しているんでしょうね。以前にも同じようなことがありました。」


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    yaaruoo

     
     
    yaaruoo(යාළුවෝ  シンハラ語で友だちのこと。2年間過ごしたスリランカの言葉の中で、好きな響きなので。 柚 麗翠(ゆう れいせん)はペンネームです。

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