
不幸を届けにきました
あらすじ
孤児として育った桐島玲司は、生きるために個人情報を売買する犯罪へ手を染めていた。ある日、「不幸を届けにきました」と書かれた謎の封筒が届き、自分が傷つけた被害者たちの苦しみと向き合うことになる。被害者の少女・結菜や、過去に約束を交わした神崎美羽の導きによって、玲司は逃げ続けてきた罪と孤独、そして闇組織の存在を知る。不幸から生まれた怪異と対峙した玲司は、自ら警察へ出頭し、組織を告発。逮捕・裁判・服役を経て償いの道を歩み始める。出所後は被害防止活動に尽力し、多くの人を支える存在へと成長。かつて不幸を広げた少年は、今度は人々へ希望と幸せを届ける人生を選ぶのだった。
第一章 黒いUSB
雨が降っていた。
窓ガラスを叩く雨音だけが、古びたアパートの一室に響いている。
玲司はパソコンの前に座り、画面を見つめていた。
部屋は狭かった。
六畳一間。
薄い布団と小さな机。
安物の冷蔵庫。
それだけだ。
十八歳の玲司には家族がいなかった。
生まれて間もなく親に捨てられ、児童養護施設で育った。
施設の職員たちは優しかった。
だが、十八歳になれば施設を出なければならない。
世の中は厳しかった。
高校を卒業してから何度も面接を受けた。
しかし学歴も資格もなく、頼れる人もいない玲司を雇ってくれる会社は少なかった。
アルバイトも長続きしない。
生活費は底をついていた。
家賃の支払い期限も迫っている。
冷蔵庫には半額の弁当が一つしか入っていなかった。
「生きるためだ……」
玲司は自分に言い聞かせた。
机の上には黒いUSBメモリが置かれている。
その中には数千人分の個人情報が保存されていた。
名前。
住所。
電話番号。
メールアドレス。
勤務先。
家族構成。
誰にも知られてはいけない情報ばかりだった。
玲司は数か月前から闇サイトでそれらを売っていた。
最初は小遣い稼ぎのつもりだった。
だが一度手を出してしまうと簡単だった。
データを渡すだけで金になる。
罪悪感はあった。
しかし空腹には勝てなかった。
「これで最後だ……」
何度もそう思った。
だが最後になったことは一度もない。
玲司はUSBを差し込んだ。
画面には闇サイトの取引画面が表示される。
相手の名前は「クロウ」。
本名も顔も知らない。
金だけを振り込んでくる相手だった。
送信ボタンにカーソルを合わせる。
あと一回押せば数万円が手に入る。
その瞬間だった。
画面が突然真っ黒になった。
「え?」
玲司は目を見開いた。
停電ではない。
部屋の電気はついている。
パソコンだけが真っ黒になっていた。
数秒後。
白い文字が浮かび上がる。
『不幸を届けにきました』
玲司は固まった。
ウイルスかと思った。
だが見たことのない表示だった。
キーボードを叩いても反応しない。
マウスも動かない。
さらに文字が増えた。
『あなたはたくさんの不幸を売りました』
『これから回収を始めます』
「なんだよ……」
玲司は電源ボタンを長押しした。
画面が消える。
部屋は静寂に包まれた。
「驚かせやがって……」
そう呟いた時だった。
コン。
玲司の身体が硬直した。
どこかで音がした。
コン。
コン。
コン。
部屋の奥からだった。
ゆっくり視線を向ける。
そこにはクローゼットがある。
閉じられたままの扉。
だが中から何かを叩くような音が聞こえる。
コン。
コン。
コン。
「誰だ……?」
返事はない。
もちろん誰もいるはずがない。
この部屋には玲司しか住んでいない。
それなのに。
コン。
コン。
コン。
音は止まらなかった。
玲司は震える足で近づいた。
心臓の音が耳の奥で響いている。
ゆっくりと取っ手を握る。
冷たい。
そして勢いよく開いた。
ガタン!
中には誰もいなかった。
服が数着掛かっているだけだった。
「なんだよ……」
安堵の息を吐いた。
だがその時。
玲司は気づいた。
クローゼットの床に黒い封筒が置かれている。
さっきまではなかった。
絶対になかった。
玲司はゆっくり拾い上げた。
表には赤い文字。
『次の配達先』
背筋が凍った。
封筒を開く。
中には一枚の写真が入っていた。
玲司は思わず息を呑む。
そこに写っていたのは自分だった。
眠っている自分。
コンビニから帰る自分。
パソコンを操作する自分。
どれも隠し撮りだった。
しかも最近撮られたものばかりだ。
「嘘だろ……」
写真は全部で十枚。
最後の一枚を見た瞬間。
玲司は全身から血の気が引いた。
そこには今日の写真が写っていた。
つい一時間前。
この部屋でUSBを机に置いている自分。
撮影場所は窓の外。
つまり誰かがすぐ近くにいたのだ。
玲司は慌ててカーテンを開けた。
雨が降る夜道。
誰もいない。
街灯の光だけが濡れたアスファルトを照らしている。
しかし写真の裏に書かれた文字を見た瞬間、玲司はさらに震えた。
『不幸は巡る』
その文字は赤黒く滲んでいた。
まるで血で書かれたようだった。
玲司は写真を床に落とした。
すると。
玄関のドアが。
ギィ……
ゆっくりと開いた。
鍵は閉めていたはずだった。
誰もいない廊下。
暗闇だけが広がっている。
その向こうから。
かすかな声が聞こえた。
「……届けにきました……」
玲司は恐怖で動けなくなった。
声は確かに聞こえた。
男とも女とも分からない声。
低く。
湿った声。
そして再び。
「不幸を……届けにきました……」
雨音が強くなる。
部屋の電気が一瞬だけ明滅した。
玲司はその場に立ち尽くしたまま、暗い廊下を見つめていた。
知らなかった。
これが地獄の始まりだということを。
そして、自分が売り続けてきた不幸が、これから少しずつ自分へ返ってくることを――。
第二章 監視者の写真
玲司は一睡もできなかった。
窓の外では雨が降り続いている。
時計を見る。
午前四時十三分。
玄関のドアは閉まっていた。
鍵も掛かっている。
何度確認しても異常はない。
だが、昨夜確かに聞いた声だけは忘れられなかった。
「不幸を届けにきました」
あの声を思い出すたびに背筋が冷たくなる。
玲司は震える手でスマートフォンを開いた。
誰かの悪戯だ。
そうに違いない。
そう思いたかった。
しかし、封筒の中の写真を何度見ても説明がつかなかった。
誰が撮ったのか。
なぜ撮ったのか。
まったく分からない。
朝になった。
玲司は外へ出た。
人通りの多い商店街へ向かう。
人がいる場所なら安心できる気がした。
コンビニで温かいコーヒーを買う。
だが落ち着かなかった。
誰かの視線を感じる。
振り向く。
誰もいない。
また歩き出す。
すると。
向かいのビルの窓に自分の姿が映った。
その後ろに。
黒い人影が立っているように見えた。
玲司は慌てて振り返る。
だが誰もいない。
「気のせいだ……」
そう呟く。
しかし心臓は激しく脈打っていた。
その日の夕方。
玲司はアパートへ戻った。
郵便受けを見る。
何も入っていない。
少し安心した。
だが部屋へ入った瞬間。
机の上に白い封筒が置かれていた。
玲司は凍りつく。
鍵は掛けていた。
窓も閉まっていた。
それなのに。
封筒は確かにそこにある。
震える手で開封する。
中には写真が一枚入っていた。
玲司の顔から血の気が引いた。
写真には今の自分が写っていた。
アパートの前で郵便受けを確認している姿。
つい数分前の光景だ。
「そんな……」
さらに写真は続いていた。
商店街を歩く玲司。
コンビニに入る玲司。
コーヒーを飲む玲司。
すべて今日撮影されたものだった。
まるで一日中監視されていたように。
最後の写真を見た瞬間。
玲司は息を止めた。
それは商店街で撮影された写真だった。
自分の後ろに黒いコートの人物が立っている。
顔は見えない。
だが確かに存在していた。
写真の裏を見る。
そこには短い文章。
『見ています』
玲司は写真を投げ捨てた。
「やめろ……!」
部屋に響く声。
もちろん返事はない。
だが次の瞬間。
スマートフォンが鳴った。
知らない番号だった。
玲司は出るか迷った。
だが恐る恐る通話ボタンを押す。
「もしもし……」
雑音。
ザーッという音だけが聞こえる。
そして。
小さな女の子の声がした。
「お兄ちゃん……」
玲司の全身が震えた。
「誰だ?」
返事はない。
代わりに。
「助けて……」
少女は泣いていた。
「お願い……」
プツッ。
通話が切れた。
玲司は呆然とスマートフォンを見つめた。
その時だった。
メールが届いた。
差出人不明。
件名なし。
恐る恐る開く。
本文は一行だけだった。
『一人目を覚えていますか?』
玲司は固まった。
脳裏に一人の女性が浮かぶ。
数か月前。
彼が売った個人情報の中にあった名前。
その後、詐欺被害に遭ったという話を耳にした。
当時は気にしなかった。
関係ないと思った。
だが今は違う。
メールの続きに添付された画像を開く。
そこには新聞記事が写っていた。
「詐欺被害を苦に女性が自殺」
記事の下に赤い文字が浮かんでいる。
『あなたが届けた不幸です』
玲司はスマートフォンを落とした。
床に転がる画面。
そこへ新しい通知が表示される。
一枚の写真。
真っ暗な部屋の中。
ベッドで眠る玲司。
撮影時刻は――
五分後。
つまり。
まだ起きているはずの未来の写真だった。
「……なんだよ、これ」
声が震える。
誰かがいる。
すぐ近くに。
もしかすると、この部屋の中に。
玲司はゆっくり振り返った。
クローゼット。
窓。
台所。
どこにも誰もいない。
だが。
天井の隅にある小さな換気口から。
じっとこちらを見つめるような気配だけがあった。
その夜。
玲司は部屋中の電気をつけたまま座り続けた。
眠ることができない。
目を閉じることもできない。
そして午前零時。
部屋のパソコンが勝手に起動した。
真っ黒な画面。
浮かび上がる白い文字。
『次の被害者に会いましょう』
玲司の恐怖は、まだ始まったばかりだった――。
第三章 消えた顧客
午前零時。
静まり返った部屋の中で、パソコンの画面だけが青白く光っていた。
玲司は椅子から立ち上がることもできず、その文字を見つめていた。
『次の被害者に会いましょう』
画面の文字がゆっくりと消える。
代わりに、一枚の写真が表示された。
知らない中年男性だった。
四十代ほどだろうか。
スーツ姿で、どこか疲れた表情をしている。
写真の下には名前が書かれていた。
「藤原健一」
さらに住所や電話番号、勤務先まで表示される。
玲司の心臓が止まりそうになった。
見覚えがある。
それは数か月前、自分が売った個人情報の一つだった。
「なんで……」
画面に新しい文字が浮かぶ。
『会いに行きましょう』
その瞬間、プリンターが勝手に動き始めた。
ガガガガッ――。
電源など入れていない。
それなのに紙が吐き出される。
印刷されたのは地図だった。
藤原健一の住所が赤い丸で囲まれている。
玲司は恐怖を覚えながらも、その地図を握りしめた。
なぜか行かなければならない気がした。
行かなければもっと恐ろしいことが起こる。
そんな確信にも似た感覚があった。
翌日。
空はどんよりと曇っていた。
玲司は地図を頼りに目的地へ向かった。
古い住宅街。
人気は少ない。
地図に示された家はすぐ見つかった。
だが異様だった。
玄関には黄色いテープが張られている。
家の前にはパトカー。
警察官たちが慌ただしく動いていた。
玲司は近くを歩いていた老人に声をかけた。
「何があったんですか?」
老人は小声で答えた。
「昨日の夜だよ。」
「この家の主人が消えたんだ。」
「消えた?」
「そう。鍵は閉まってた。財布もスマホも置いたまま。」
「まるで煙みたいに消えたんだと。」
玲司の背筋が凍る。
消えた。
それは偶然なのだろうか。
その時だった。
ポケットのスマートフォンが震えた。
知らない番号からのメッセージ。
開く。
そこには一行だけ。
『二人目です』
玲司は思わずスマホを落としそうになった。
さらに写真が送られてくる。
見覚えのある男だった。
闇サイトの取引相手。
ハンドルネーム「クロウ」。
顔を見たことはなかったが、以前送られてきた身分証の画像と一致していた。
その写真には赤い文字が書かれている。
『行方不明』
玲司は息を呑む。
クロウも消えたのか。
次の瞬間。
またメッセージが届く。
『不幸を売った者から順番です』
玲司の手が震えた。
周囲を見回す。
誰かが見ている気がする。
しかし住宅街には誰もいない。
風が吹くだけだ。
帰宅した玲司は、すぐに闇サイトへアクセスした。
クロウとの取引履歴を確認する。
だが、おかしい。
すべて消えている。
過去のメッセージ。
取引記録。
振込情報。
何も残っていない。
まるで最初から存在しなかったかのように。
玲司は他の取引相手を調べた。
一人。
また一人。
連絡が取れない。
アカウントも消えている。
その時。
サイト内の掲示板に一つの書き込みを見つけた。
投稿日時は数分前。
【警告】見られている
個人情報売買に関わった人間が次々消えている。
俺の知り合いも二人いなくなった。
もし「不幸を届けにきました」という言葉を見たなら逃げろ。
もう手遅れかもしれない。
玲司は凍りついた。
次の瞬間。
書き込みが消えた。
画面を更新すると跡形もなく消失している。
そして。
真っ黒な画面に変わった。
白い文字が浮かぶ。
『三人目です』
玲司の耳元で声がした。
「見つけた。」
すぐ後ろだった。
玲司は悲鳴を上げながら振り返る。
誰もいない。
だが椅子の後ろには、一枚の写真が落ちていた。
拾い上げる。
そこに写っていたのは。
部屋でパソコンを見ている今この瞬間の玲司だった。
背後には黒い影が立っている。
長い腕。
歪んだ顔。
そして真っ黒な瞳。
写真には赤い文字が添えられていた。
『次はあなたです』
玲司の喉から声にならない悲鳴が漏れた。
その夜。
アパートの廊下を誰かが歩く音が聞こえ続けた。
一歩。
また一歩。
ゆっくりと。
確実に。
玲司の部屋へ近づいてくる足音が――。
第四章 赤い封筒
コツ……
コツ……
コツ……
深夜二時。
玲司は布団の上で膝を抱えていた。
廊下から聞こえる足音は、もう一時間以上も続いている。
普通ではない。
誰かが歩いているなら、とっくに通り過ぎているはずだ。
それなのに、その足音はまるで玲司の部屋の前を行ったり来たりしているようだった。
コツ……
コツ……
コツ……
そして。
ピタリと止まった。
玲司の心臓も止まりそうになる。
次の瞬間。
コン。
玄関が叩かれた。
玲司は息を呑む。
コン。
コン。
コン。
ゆっくりと三回。
訪問者がいる。
だが、こんな時間に誰が来るというのか。
玲司は恐る恐るドアスコープを覗いた。
誰もいない。
廊下には人影一つなかった。
しかし。
ドアの足元には赤い封筒が置かれていた。
玲司は後ずさる。
見覚えがあった。
黒い封筒。
白い封筒。
そして今度は赤い封筒。
嫌な予感しかしない。
十分ほど動けなかった。
だが封筒はそこにあり続ける。
やがて玲司は震える手でドアを開けた。
廊下には誰もいない。
静まり返っている。
封筒だけがポツンと置かれていた。
拾い上げる。
赤い封筒は妙に湿っていた。
雨に濡れたわけではない。
まるで誰かの手汗で濡れたような感触だった。
玲司は急いで部屋に戻った。
封筒を開く。
中には数枚の紙が入っていた。
最初の一枚を見た瞬間。
玲司の顔色が変わる。
それは被害届だった。
個人情報漏洩による被害報告書。
被害者の名前。
住所。
被害内容。
詐欺。
ストーカー被害。
脅迫。
嫌がらせ。
すべて実在する人間だった。
そして。
どの情報も玲司が売ったデータと一致していた。
「そんな……」
二枚目。
三枚目。
四枚目。
ページをめくるたびに被害者が増えていく。
泣いている女性の写真。
疲れ果てた老人の写真。
退職に追い込まれた会社員の記事。
家族が離散したという記録。
玲司は震え始めた。
今まで考えないようにしていた。
売った先で何が起きようと関係ない。
そう思い込んでいた。
しかし。
こうして突きつけられると違った。
自分の行為が確かに誰かを傷つけていた。
最後のページにたどり着く。
そこには赤い文字でこう書かれていた。
『あなたは何人を不幸にしましたか?』
玲司は紙を投げ捨てた。
「知らない……!」
叫ぶ。
「俺は生きるためだったんだ!」
返事はない。
だが部屋の電気がチカチカと点滅し始めた。
パッ。
パッ。
パッ。
玲司は天井を見上げる。
すると。
壁に影が映っていた。
自分の影ではない。
誰かの影だった。
長い髪。
細い首。
不自然に曲がった腕。
影は壁をゆっくり這っている。
玲司は悲鳴を上げて振り返った。
しかし。
そこには誰もいない。
壁だけだ。
再び壁を見る。
影は消えていた。
「なんなんだよ……」
玲司はその場に座り込んだ。
その時。
スマートフォンに通知が届く。
動画ファイルだった。
送り主不明。
再生する。
映像は監視カメラのようだった。
夜の公園が映っている。
ブランコが揺れている。
誰もいない。
だが突然。
画面の奥に少女が現れた。
白いワンピース姿。
長い黒髪。
少女はゆっくりカメラへ近づいてくる。
玲司は息を止めた。
見覚えがある。
電話で助けを求めていた少女の声と同じだ。
少女はカメラの前まで来ると。
涙を流しながら言った。
「どうして……」
映像が乱れる。
ノイズが走る。
そして。
少女は続けた。
「私のお母さんを返して……」
ブツッ。
動画が終了した。
玲司は凍りついた。
頭の中に新聞記事が浮かぶ。
第二章で見た女性の自殺記事。
あの女性には娘がいた。
まさか。
玲司の喉が乾く。
その時だった。
パソコンが勝手に起動する。
真っ黒な画面。
そして白い文字。
『罪を数えましょう』
一。
二。
三。
四。
数字が次々増えていく。
十。
二十。
三十。
五十。
百。
百五十。
数字は止まらない。
まるで被害者の数を数えているようだった。
玲司は恐怖で画面を閉じた。
だが数字は壁に映り始める。
天井にも。
床にも。
部屋中が数字で埋め尽くされていく。
そして最後に。
数字が消えた。
代わりに現れた言葉。
『まだ終わりません』
その瞬間。
玄関の外から少女の声が聞こえた。
「お兄ちゃん。」
玲司は凍りつく。
「次の人に会いに行こう。」
静かな声だった。
しかし。
そこに含まれた悲しみと怨みは、玲司の心を深くえぐった。
やがて。
玄関のドアの下から、もう一枚の封筒が差し込まれる。
今度は黒だった。
表には赤い文字。
第五章 深夜の訪問者
黒い封筒は、玄関の前に静かに置かれていた。
玲司はしばらく近づくことができなかった。
時計は午前三時を回っている。
外は雨。
街灯の光が窓から差し込み、部屋の中に不気味な影を作っていた。
そして。
あの少女の声は聞こえなくなっていた。
だが、安心などできない。
むしろ静かすぎることが恐ろしかった。
玲司は意を決して封筒を開いた。
中には一枚の紙が入っている。
そこには短く書かれていた。
『今夜、訪問します』
その下には時刻。
午前三時三十三分。
玲司は時計を見る。
三時二十七分。
あと六分だった。
「ふざけるな……」
そう呟いたが、声は震えていた。
誰かの悪質な嫌がらせ。
そう考えようとしても、ここ数日の出来事がそれを許さなかった。
突然現れる封筒。
未来の写真。
消えた人々。
そして少女の声。
説明できるものが一つもない。
三時三十分。
玲司は玄関の前に立った。
包丁を握っている。
護身用のつもりだった。
手は汗で濡れていた。
三時三十一分。
何も起きない。
三時三十二分。
静寂。
雨音だけが響く。
そして。
三時三十三分。
ピンポーン。
インターホンが鳴った。
玲司の心臓が大きく跳ねる。
一回だけ。
たった一回。
だが、それだけで全身が凍りついた。
恐る恐るモニターを見る。
誰も映っていない。
無人だった。
「……」
ピンポーン。
再び鳴る。
画面には誰もいない。
だが、よく見ると違和感があった。
画面の端。
ほんの少しだけ。
黒い髪のようなものが映っている。
人が立っている。
カメラの死角に。
玲司は息を呑んだ。
その瞬間。
ガチャ。
玄関のドアノブが回った。
鍵は閉まっている。
それなのに。
ガチャ。
ガチャ。
ガチャ。
ゆっくりと。
確かめるように。
誰かが外から回している。
玲司は後ずさった。
ドアの向こうには誰かがいる。
確実に。
ガチャ。
ガチャ。
ガチャ。
やがて音が止んだ。
静寂。
数秒。
何も聞こえない。
終わったのか。
そう思った時。
今度は窓を叩く音がした。
コン。
玲司は振り向く。
二階だ。
外から窓を叩ける高さではない。
だが。
コン。
コン。
コン。
確かに聞こえる。
窓の方へ視線を向けた瞬間。
玲司は悲鳴を飲み込んだ。
窓の外。
そこに人の顔があった。
女だった。
真っ白な顔。
真っ黒な髪。
異様に大きな目。
窓に額を押し付けるようにしてこちらを見ている。
玲司は後ろへ倒れ込んだ。
まばたきをした。
すると。
女の姿は消えていた。
窓の外には雨しかない。
「見間違い……?」
言い終わる前に。
コン。
今度は部屋の中から音がした。
玲司は凍りつく。
台所の方だった。
誰もいないはずだ。
だが確かに聞こえた。
コン。
コン。
ゆっくりと近づく。
足が震える。
呼吸も苦しい。
そして台所の角を覗いた。
誰もいない。
だが。
床に濡れた足跡が残っていた。
玄関から台所まで続いている。
まるで誰かが部屋の中を歩いたように。
玲司は血の気が引いた。
その足跡を追う。
台所から廊下へ。
廊下からクローゼットへ。
そして。
クローゼットの前で消えていた。
玲司は震えながら扉を見つめる。
開けたくない。
だが見なければならない。
ゆっくり取っ手を握る。
そして。
勢いよく開いた。
ガタン!
中には誰もいなかった。
服だけが揺れている。
しかし。
奥の壁に赤い文字が書かれていた。
『振り返るな』
玲司の呼吸が止まる。
その瞬間。
耳元で囁き声が聞こえた。
「遅かったね。」
すぐ後ろだった。
玲司は反射的に振り返る。
誰もいない。
だが。
床に一枚の写真が落ちていた。
写真には今の玲司が写っている。
クローゼットを開いている姿。
撮影されたのは数秒前。
そして。
玲司の背後には。
笑っている少女が立っていた。
白いワンピース。
長い黒髪。
涙を流しながら。
口元だけが笑っていた。
写真の裏には文字がある。
『六人目です』
玲司は震える手で写真を握りしめた。
六人目。
それが何を意味するのか分からない。
だが確かなことが一つあった。
訪問者は確実に近づいている。
そして。
次の封筒はすでに届いていた。
机の上に置かれた白い封筒。
そこにはこう書かれていた。
第六章 被害者の涙
朝日が昇っていた。
だが玲司にとって、それは救いではなかった。
一睡もできないまま朝を迎えていた。
机の上には昨夜の写真。
そして白い封筒。
玲司は何度も警察へ行こうと思った。
だが、説明できるはずがない。
「幽霊に脅されています」
そんな話を誰が信じるだろう。
それに。
警察へ行けば、自分の犯罪も明らかになる。
個人情報売買。
不正アクセス。
違法取引。
捕まるのは間違いない。
玲司は封筒を見つめた。
開けるべきではない。
そう思う。
しかし今まで封筒を無視しても状況は悪化するばかりだった。
震える手で封を切る。
中にはUSBメモリが一本入っていた。
白色のUSBだった。
見覚えはない。
恐る恐るパソコンへ接続する。
画面にフォルダが表示された。
タイトルは一つだけ。
『被害者』
玲司は息を呑んだ。
クリックする。
中には動画ファイルが並んでいた。
一番上の動画を再生する。
画面に映ったのは五十代ほどの男性だった。
疲れ切った顔。
やつれた目。
古いアパートの部屋で撮影されている。
男性は静かに話し始めた。
「私は会社員でした。」
「二十五年間、同じ会社で働いていました。」
声はかすれていた。
「ある日、個人情報が流出しました。」
「住所も電話番号も家族構成も全部です。」
玲司の胸が締め付けられる。
男性は続けた。
「その後、嫌がらせが始まりました。」
「会社へ毎日のように苦情電話が来ました。」
「私は仕事を失いました。」
男性は下を向く。
そして。
「妻も出て行きました。」
動画はそこで終わった。
玲司は再生を止めた。
見たくなかった。
だが次の動画が勝手に再生される。
今度は若い女性だった。
目が真っ赤に腫れている。
何度も涙を拭いていた。
「私はストーカー被害に遭いました。」
「住所が漏れたんです。」
「夜中に知らない人が家へ来るようになりました。」
女性は震えていた。
「引っ越しました。」
「でも追いかけてきました。」
「仕事も辞めました。」
「外へ出られなくなりました。」
涙が頬を流れる。
「私が何をしたんでしょうか。」
動画が終わる。
玲司は椅子から立ち上がった。
気分が悪い。
吐きそうだった。
これまで考えたこともなかった。
データを売るだけ。
その先の人生など知らない。
知ろうともしなかった。
しかし。
その「先」が今、目の前にある。
三つ目の動画。
四つ目の動画。
五つ目の動画。
被害者たちが映る。
老人。
主婦。
大学生。
会社員。
誰もが傷ついていた。
人生を壊されていた。
その多くが玲司の売った情報から始まっていた。
やがて最後の動画が再生された。
玲司は固まる。
映っていたのは見覚えのある少女だった。
白いワンピース。
長い黒髪。
あの少女。
今まで何度も現れた存在。
少女は静かにこちらを見つめていた。
そして言った。
「覚えていますか。」
玲司は震えた。
少女は続ける。
「お母さんは死にました。」
「私だけ残りました。」
その言葉に玲司の脳裏へ新聞記事が浮かぶ。
第二章で見た自殺した女性。
その娘。
目の前の少女は被害者の娘だった。
少女は涙を流していた。
しかし。
その表情は怒りではなく悲しみだった。
「お母さんは優しかった。」
「毎日頑張っていました。」
「でも全部壊れた。」
「悪い人が住所を売ったから。」
玲司は言葉を失う。
少女はゆっくり手を伸ばした。
画面越しに。
まるでこちらへ届きそうなほど近く。
「どうして。」
その一言が胸を刺した。
どうして。
生きるためだった。
お金が必要だった。
仕方なかった。
何度も自分に言い聞かせてきた理由。
だが今。
それらは何の言い訳にもならないように思えた。
動画が終わる。
画面は真っ黒になる。
数秒後。
白い文字が現れた。
『涙の数を知りましたか』
玲司は答えられない。
画面に続きが表示される。
『まだほんの一部です』
その瞬間。
部屋の中でポタリと音がした。
玲司は顔を上げる。
天井から赤い雫が落ちている。
ポタリ。
ポタリ。
ポタリ。
血のように見えた。
玲司は恐怖で後ずさる。
だが雫は床に落ちた瞬間、透明な水へ変わった。
そして床一面に文字が浮かび上がる。
『見に行きなさい』
さらに住所が表示される。
見覚えのない場所だった。
その下に新しい文字。
『七人目が待っています』
玲司は震えながらその住所を見つめる。
逃げたい。
関わりたくない。
だが、もう逃げられないことも理解していた。
自分が売った不幸。
そのすべてと向き合う時が近づいていた。
そしてその夜。
部屋の外から再び足音が聞こえ始める。
コツ。
コツ。
コツ。
今度は一人ではない。
二人。
三人。
四人。
大勢の足音だった。
まるで被害者たちが玲司の部屋へ集まってくるように――。
第七章 開かないドア
コツ。
コツ。
コツ。
無数の足音がアパートの廊下に響いていた。
玲司は部屋の中央で立ち尽くしていた。
一人ではない。
二人でもない。
十人以上はいるように聞こえる。
男の足音。
女の足音。
子供の足音。
様々な足音が混ざり合い、ゆっくりと玲司の部屋へ近づいてきていた。
コツ。
コツ。
コツ。
そして。
ピタリと止まる。
部屋の前だった。
玲司の呼吸が止まりそうになる。
ドアの向こうに誰かがいる。
いや。
大勢いる。
その気配だけははっきりと感じた。
すると。
コン。
ドアが叩かれた。
一回。
続いて。
コン。
コン。
コン。
今度は何人もの手が同時に叩いているような音だった。
玲司は耳を塞ぐ。
だが音は止まらない。
コンコンコンコンコン――!
激しくなる。
まるで中へ入ろうとしているようだった。
「やめろ!」
玲司は叫んだ。
その瞬間。
音が止んだ。
静寂。
数秒後。
ドアの向こうから声が聞こえた。
「返して。」
女の声だった。
「私の人生を返して。」
別の声。
「家族を返せ。」
また別の声。
「仕事を返して。」
「未来を返して。」
「希望を返して。」
声が増えていく。
男。
女。
老人。
若者。
子供。
様々な声が重なり合う。
まるで被害者たちが訴えているようだった。
玲司は震えながら後ずさる。
そして耐えきれなくなった。
「出る!」
この部屋にいてはおかしくなる。
逃げるしかない。
玲司は玄関へ駆け寄った。
ドアノブを握る。
回す。
開かない。
鍵を外している。
それなのに。
開かない。
力いっぱい引く。
びくともしない。
「嘘だろ……」
もう一度。
引く。
押す。
蹴る。
それでも開かない。
まるで壁になってしまったようだった。
玲司の背筋に冷たいものが走る。
窓だ。
窓から出ればいい。
玲司は窓へ向かう。
鍵を外す。
開けようとする。
しかし。
窓も開かない。
びくともしない。
何度力を込めても無駄だった。
まるで建物そのものが玲司を閉じ込めているようだった。
「なんなんだよ!」
叫ぶ。
返事はない。
だが。
部屋の奥から声が聞こえた。
少女だった。
「逃げられないよ。」
玲司は振り返る。
誰もいない。
しかし声は確かに聞こえた。
「向き合わないと。」
その瞬間。
机の上のパソコンが勝手に起動した。
画面が光る。
真っ黒な背景。
そして白い文字。
『出口はありません』
玲司は絶望した。
続いて新しい文字。
『まだ見ていない人がいます』
画面に映像が流れ始める。
病院だった。
ベッドに横たわる老人。
やせ細った身体。
疲れ切った表情。
老人の横には若い女性がいる。
娘だろう。
涙を流していた。
画面の字幕が表示される。
『特殊詐欺被害 被害額二千万円』
玲司は息を呑む。
老人は震える声で話し始めた。
「家を売った。」
「老後のための金だった。」
「全部なくなった。」
娘は泣いている。
「お父さんは責任を感じて病気になりました。」
「もう働けません。」
映像が終わる。
玲司は顔を覆った。
見たくなかった。
だが次の映像が始まる。
若い男性だった。
会社の更衣室らしい場所。
男性は俯いている。
字幕。
『個人情報流出による誹謗中傷』
「会社を辞めました。」
「毎日嫌がらせが来ました。」
「死のうと思いました。」
その言葉に玲司の胸が締め付けられる。
映像は続く。
被害者。
被害者。
被害者。
誰もが苦しんでいた。
そして。
最後の映像。
白いワンピースの少女が映る。
あの少女だった。
彼女は静かに言う。
「あなたは孤独だった。」
玲司は顔を上げる。
少女は続ける。
「苦しかった。」
「辛かった。」
「誰にも助けてもらえなかった。」
玲司の瞳が揺れる。
少女は責めていない。
ただ悲しそうだった。
「でも。」
少女の目から涙が流れる。
「だからって、人を傷つけていい理由にはならない。」
その言葉は刃のように玲司の心へ突き刺さった。
少女の姿が消える。
画面が暗転する。
そして白い文字。
『あなたは何から逃げていますか?』
玲司は答えられなかった。
被害者から。
罪から。
現実から。
全部だった。
その時。
ガタン。
玄関の方で音がした。
玲司は顔を上げる。
ゆっくり近づく。
ドアノブを握る。
回す。
今度は動いた。
ドアが開く。
廊下には誰もいない。
足音の主もいない。
だが。
床には一枚の鏡が置かれていた。
古びた手鏡だった。
鏡面には赤い文字。
『次はあなた自身です』
玲司が恐る恐る鏡を覗き込む。
すると。
そこに映っていた自分は笑っていた。
玲司自身は笑っていない。
それなのに。
鏡の中の玲司だけが、不気味に口元を吊り上げていた。
そしてゆっくりと呟く。
「会おうか。」
鏡の向こうの自分が。
そう言った――。
第八章 鏡の向こう側
「会おうか。」
鏡の中の自分は、確かにそう言った。
玲司は思わず手鏡を落とした。
ガシャン!
鏡は床に転がる。
だが割れなかった。
古びた鏡のはずなのに、傷一つ付いていない。
玲司は息を荒くしながら後ずさった。
「ありえない……」
自分は何も言っていない。
それなのに鏡の中の自分だけが動いた。
笑った。
そして話した。
部屋は静まり返っている。
時計の秒針だけがカチ、カチと鳴っていた。
玲司は恐る恐る鏡を拾う。
もう一度覗く。
今度は普通だった。
自分の顔が映っている。
疲れ切った顔。
青白い肌。
寝不足の目。
いつもの自分だ。
「気のせいだ……」
そう呟いた瞬間。
鏡の中の玲司が瞬きをした。
玲司自身はしていない。
鏡の中だけが動いた。
玲司は凍りついた。
鏡の玲司は笑う。
ゆっくりと。
不気味に。
そして口を開いた。
「やっと見てくれた。」
玲司は悲鳴を上げて鏡を投げた。
今度は壁にぶつかる。
しかし。
割れない。
鏡は何事もなかったかのように床へ落ちた。
玲司は玄関へ逃げようとした。
だが背後から声が聞こえる。
「逃げても無駄だよ。」
鏡だった。
床に落ちた鏡が話している。
「誰なんだ!」
玲司は叫ぶ。
すると鏡の中の玲司は静かに答えた。
「僕は君だ。」
「違う!」
「違わない。」
鏡の中の玲司は立ち上がる。
本来なら胸から上しか映らないはずなのに。
鏡の向こう側には別の空間が広がっていた。
真っ暗な世界。
その中にもう一人の玲司が立っている。
「君が捨てたものだ。」
「……何を言ってる。」
「罪悪感。」
「後悔。」
「良心。」
一つ一つの言葉が胸に刺さる。
玲司は言い返せない。
鏡の玲司は続けた。
「君はずっと見ないふりをしてきた。」
「生きるためだった。」
「仕方なかった。」
「そうやって。」
「何度も。」
「何度も。」
「何度も。」
鏡の中の声が重なり始める。
気付くと。
鏡の向こうには何十人もの玲司が立っていた。
全員が同じ顔。
同じ声。
同じ目。
そして全員が玲司を見つめている。
「嘘つき。」
「逃げるな。」
「見ろ。」
「忘れるな。」
玲司は耳を塞いだ。
だが声は止まらない。
頭の中に直接響いてくる。
その時だった。
鏡が突然光り始めた。
真っ白な光。
玲司は目を閉じる。
そして。
気付くと。
知らない場所に立っていた。
暗い廊下だった。
天井の蛍光灯は点滅している。
壁は薄汚れている。
まるで古い病院のようだった。
「ここは……」
振り返る。
鏡はない。
部屋もない。
アパートも消えていた。
玲司は一人だった。
遠くから泣き声が聞こえる。
女の声。
子供の声。
男の声。
複数だ。
玲司は恐る恐る歩き始める。
廊下の奥に一枚の扉があった。
プレートが掛かっている。
そこにはこう書かれていた。
『被害者保管室』
玲司の身体が震える。
扉の隙間から光が漏れている。
中から声が聞こえる。
「助けて。」
「返して。」
「どうして。」
玲司は後ずさる。
だが背後から少女の声が聞こえた。
「あけて。」
白いワンピースの少女が立っていた。
涙を流しながら。
しかしその表情はどこか悲しげだった。
「見なきゃだめ。」
玲司は首を振る。
「嫌だ……」
少女は静かに言った。
「私も見たくなかった。」
玲司は言葉を失う。
少女は続ける。
「でも見た。」
「お母さんが苦しむところ。」
「泣くところ。」
「壊れていくところ。」
涙が頬を伝う。
「だから。」
少女は扉を指差した。
「あなたも見て。」
玲司は震える手でドアノブを握った。
冷たい。
凍るような冷たさだった。
そして。
ゆっくり扉を開く。
ギィィ……
中には無数の椅子が並んでいた。
誰も座っていない。
だが。
全ての椅子の背もたれには写真が貼られていた。
老人。
女性。
学生。
会社員。
子供。
数え切れないほどの人々。
その全員が玲司を見ていた。
写真なのに。
確かに目が動いた。
玲司を見つめた。
そして。
一斉に口を開く。
「覚えているか。」
玲司の心臓が激しく脈打つ。
写真の人々は続ける。
「忘れるな。」
「私たちは実在した。」
「数字じゃない。」
「データじゃない。」
「人間だ。」
その言葉に玲司は膝をついた。
涙がこぼれる。
初めてだった。
本当の意味で。
自分の罪と向き合ったのは。
その瞬間。
部屋の奥で大きな時計が鳴った。
ゴーン。
ゴーン。
ゴーン。
八回。
そして壁に文字が浮かび上がる。
『次の真実へ』
光が溢れる。
世界が歪む。
玲司は再び意識を失った。
目を覚ますと、自分の部屋の床に倒れていた。
だが机の上には新しい封筒が置かれている。
黒い封筒。
そこには赤い文字。
第九章 闇サイトの怪談
玲司はしばらく黒い封筒を見つめていた。
開けたくなかった。
開けばまた恐ろしいものを見る。
それは分かっていた。
しかし、今までの経験から逃げても無駄だということも理解していた。
震える手で封を切る。
中には一枚の紙だけが入っていた。
そこにはURLが書かれていた。
そして、その下に短い文章。
『知りたければ見なさい』
玲司はパソコンを開く。
迷った末に、そのURLを入力した。
画面に表示されたのは見覚えのあるサイトだった。
闇サイト。
かつて玲司が個人情報を売買していた場所。
だが様子がおかしい。
普段は取引の書き込みで埋まっている掲示板が、今は一つの話題で持ちきりになっていた。
タイトルは――
【怪談】不幸の配達人を見た奴いるか?
玲司の喉が鳴る。
恐る恐る書き込みを読んだ。
「仲間が消えた」
「俺の知ってる売人が三人連続で消息不明」
「最後に全員『不幸を届けにきました』ってメッセージを見たらしい」
別の書き込み。
「昨日、パソコンに変な女が映った」
「電源切っても消えない」
さらに別の書き込み。
「夜中に写真が届く」
「全部、自分の隠し撮り」
玲司の顔から血の気が引いた。
自分と同じだ。
まったく同じ現象が起きている。
スクロールする。
次々と体験談が現れる。
やがて一つの投稿が目に止まった。
【投稿者:KROW】
もしこれを見ているなら逃げろ。
あれは人間じゃない。
俺は調べた。
被害者の中に少女がいた。
母親が自殺した。
その後から始まった。
俺たちは何かを起こした。
もう遅いかもしれない。
俺も見られている。
誰かが部屋の中に――
投稿はそこで終わっていた。
玲司は固まる。
KROW。
クロウ。
かつての取引相手だ。
第三章で消えた男。
最後の投稿だったのだろう。
玲司は震える手で続きを探した。
しかし、そのアカウントは削除されていた。
存在した痕跡すらない。
その時だった。
掲示板に新しい書き込みが現れた。
リアルタイム投稿。
投稿者名は表示されていない。
ただ一言。
見つけた
玲司は息を呑む。
数秒後。
新しい書き込み。
九人目
玲司の全身が凍りついた。
まるで自分に向けられた言葉だった。
慌ててブラウザを閉じる。
だが画面は閉じない。
勝手にスクロールが始まる。
そして画面いっぱいに文字が並んだ。
見つけた
見つけた
見つけた
見つけた
見つけた
無数の「見つけた」。
玲司は電源ボタンを押す。
しかし反応しない。
その時。
モニターの画面が変わった。
映像だった。
暗い部屋。
監視カメラのような映像。
誰かが椅子に座っている。
顔は見えない。
だが。
玲司はその人物に見覚えがあった。
クロウだった。
映像の中のクロウは怯えている。
何度も後ろを振り返っている。
そして呟く。
「来るな……」
「来るな……」
突然。
部屋の電気が消えた。
映像が暗くなる。
数秒後。
電気が戻る。
クロウは消えていた。
椅子だけが残っている。
画面の奥。
壁に赤い文字が浮かび上がる。
『十人目』
映像終了。
玲司は恐怖で椅子から転げ落ちた。
その瞬間。
部屋の照明が消えた。
真っ暗。
停電ではない。
パソコンの光だけが残っている。
玲司は息を殺した。
何かいる。
そう確信した。
暗闇の中に。
誰かがいる。
そして。
パソコン画面に映る自分の姿の後ろ。
そこに白い影が立っていた。
少女だった。
白いワンピース。
長い黒髪。
涙を流している。
玲司は振り返る。
誰もいない。
再び画面を見る。
少女はいる。
じっとこちらを見ている。
そして。
ゆっくり口を開いた。
「あと少し。」
その瞬間。
画面が割れたように歪んだ。
ノイズ。
雑音。
悲鳴。
泣き声。
無数の声が重なり合う。
そして最後に。
少女の声だけが残った。
「次は本当に会うよ。」
パソコンが真っ黒になる。
部屋の電気が戻る。
静寂。
何もなかったかのようだった。
だが机の上には一枚の写真が置かれている。
玲司は震えながら拾い上げた。
そこには見知らぬ廃病院が写っていた。
裏には住所。
そして赤い文字。
第十章 最初の犠牲者
翌日。
玲司は写真の裏に書かれた住所へ向かっていた。
行きたくはなかった。
だが、今まで封筒の指示を無視しようとするたびに、恐ろしい出来事が起きてきた。
それに。
心のどこかで知りたいと思っていた。
なぜ自分が狙われているのか。
白いワンピースの少女は何者なのか。
そして――。
「最初の犠牲者」とは誰なのか。
夕方。
玲司は目的地へ到着した。
山の中に建つ古い廃病院だった。
窓ガラスは割れ、壁は黒く汚れている。
入口の看板は半分崩れ、病院名も読めない。
人の気配はなかった。
風だけが吹いている。
「帰ろう……」
玲司は思った。
だが。
病院の自動ドアが。
ひとりでに開いた。
ギィィ……
電気も通っていないはずなのに。
玲司は震えながら中へ入る。
受付。
待合室。
診察室。
どこも荒れ果てていた。
長い年月放置されていることが分かる。
しかし。
床には新しい足跡があった。
濡れた足跡。
裸足の小さな足跡。
少女のものだった。
玲司はその跡を追う。
廊下を進む。
階段を上る。
二階。
三階。
そして最上階。
足跡は一つの部屋の前で止まっていた。
ドアにはプレート。
そこには赤い文字でこう書かれていた。
『記録保管室』
玲司は息を呑む。
ドアを開ける。
部屋の中には大量のカルテや書類が積み上がっていた。
その中央に一冊のノートが置かれている。
まるで誰かが読ませるために置いたかのように。
玲司は近づく。
表紙にはこう書かれていた。
『第一被害者』
ページを開く。
そこには少女の写真が貼られていた。
玲司は凍りつく。
白いワンピースの少女だった。
名前。
年齢。
住所。
家族構成。
すべて記録されている。
少女の名前は――
雨宮結菜(あまみや ゆいな)
当時十歳。
母子家庭。
玲司はページをめくる。
そこには新聞記事の切り抜きが貼られていた。
個人情報流出による詐欺被害。
母親が多額の借金を背負う。
精神的苦痛から自殺。
残された娘は児童保護施設へ。
玲司の身体が震えた。
知っている。
この事件を知っている。
いや。
正確には。
その個人情報を売った覚えがあった。
何百件ものデータの一つだった。
当時は気にもしなかった。
名前すら覚えていなかった。
しかし。
その結果。
一人の母親が命を絶った。
少女は家族を失った。
玲司はページを閉じた。
苦しかった。
胸が締め付けられる。
その時だった。
部屋の奥から声が聞こえた。
「やっと来たね。」
玲司は振り返る。
そこに少女が立っていた。
白いワンピース。
長い黒髪。
涙を浮かべた瞳。
雨宮結菜。
初めて。
現実のようにはっきりと姿を見せた。
玲司は後ずさる。
「お前は……」
少女は静かに頷く。
「私は結菜。」
「あなたが初めて不幸を届けた人。」
玲司は何も言えなかった。
結菜は責めるような顔をしていない。
怒ってもいない。
ただ悲しそうだった。
「私ね。」
結菜はゆっくり話し始める。
「お母さんが大好きだった。」
涙が流れる。
「毎日頑張ってた。」
「笑ってた。」
「優しかった。」
声が震える。
「でもある日から泣くようになった。」
玲司は目を逸らした。
結菜は続ける。
「知らない人が電話してきた。」
「お金を取られた。」
「借金が増えた。」
「お母さんは壊れていった。」
玲司は耳を塞ぎたくなった。
だが結菜の声は止まらない。
「最後の日。」
「お母さんは私に言った。」
『ごめんね』
『愛してる』
『幸せになってね』
結菜は泣いていた。
静かに。
静かに。
「それが最後だった。」
部屋が静まり返る。
玲司の目にも涙が浮かんでいた。
生まれて初めてだった。
自分の罪を本当の意味で理解したのは。
結菜は玲司を見つめる。
「ねぇ。」
「どうして?」
玲司は答えられない。
生きるため。
金が必要だった。
そんな言葉では何も償えない。
結菜は俯いた。
「私はあなたを憎みたかった。」
玲司の心臓が強く脈打つ。
結菜は続ける。
「でも。」
「あなたも一人だった。」
玲司は驚く。
結菜は知っていた。
孤児であること。
苦しんでいたこと。
全部。
「だから。」
結菜は涙を拭いた。
「本当に大切なのは復讐じゃない。」
玲司は顔を上げる。
結菜の表情が変わっていた。
どこか優しかった。
「罪と向き合うこと。」
「逃げないこと。」
「償うこと。」
その瞬間。
病院全体が大きく揺れた。
ゴゴゴゴ……
天井から埃が落ちる。
結菜は玲司を見る。
そして初めて微笑んだ。
「ここからが本当の始まり。」
部屋の壁に赤い文字が浮かび上がる。
『第十一章 孤児院の記憶』
結菜の姿はゆっくりと消えていった。
玲司は一人残される。
だが恐怖だけではなかった。
初めて。
ほんの少しだけ。
自分が進むべき道が見え始めていた――。
第十一章 孤児院の記憶
廃病院を出た玲司は、夕暮れの山道を歩いていた。
空は赤く染まっている。
だが玲司の心は重かった。
結菜の言葉が頭から離れない。
「どうして?」
その問いに、玲司は答えられなかった。
生きるため。
金のため。
何度も自分に言い聞かせてきた理由。
しかし、それだけでは説明できない何かが心の奥にあった。
その夜。
玲司は久しぶりに眠りについた。
だが安らかな眠りではなかった。
夢を見た。
古い建物。
白い壁。
長い廊下。
子供たちの笑い声。
そこは児童養護施設だった。
玲司が育った場所。
夢の中の玲司は十歳だった。
小柄で痩せていて、いつも一人だった。
運動会の日。
他の子供たちには家族が来ていた。
父親。
母親。
祖父母。
皆が笑顔で応援している。
だが玲司の席だけ空いていた。
先生が気を遣って声をかける。
「玲司くん、頑張ったね。」
玲司は笑った。
大丈夫なふりをした。
でも本当は。
誰よりも寂しかった。
夢の景色が変わる。
今度は中学生の頃だった。
施設の仲間が引き取られていく。
新しい家族が迎えに来る。
皆泣きながら喜んでいた。
だが玲司だけは残った。
一年。
二年。
三年。
誰も迎えに来ない。
いつしか期待することをやめた。
夢の中の玲司は夜の屋上に立っていた。
街の明かりを見つめながら呟く。
「どうせ俺なんか。」
その言葉を聞いて、今の玲司は胸が痛んだ。
忘れていた。
ずっと心の奥へ押し込めていた。
孤独。
寂しさ。
見捨てられた悲しみ。
その時。
夢の中に結菜が現れた。
白いワンピース姿のまま。
幼い玲司の隣に立つ。
「寂しかったんだね。」
結菜は静かに言った。
幼い玲司は何も答えない。
結菜は続ける。
「私も寂しかった。」
「お母さんがいなくなったから。」
玲司は目を閉じる。
結菜もまた家族を失った。
自分とは違う形で。
同じ孤独を抱えていた。
夢の景色が再び変わる。
十八歳の春。
施設を出る日だった。
荷物は少ない。
職員たちは励ましてくれた。
「困ったら相談してね。」
「頑張るんだよ。」
玲司は笑顔で答えた。
だが。
施設を出た瞬間。
世界は冷たかった。
仕事は決まらない。
住む場所もぎりぎり。
誰も助けてくれない。
そして。
ある日。
闇サイトの存在を知った。
夢の中の玲司はパソコンの前に座っている。
初めて個人情報を売る瞬間だった。
カーソルが送信ボタンの上で止まる。
迷っていた。
怖かった。
罪悪感もあった。
しかし。
空腹には勝てなかった。
送信。
その一クリックが全ての始まりだった。
夢の中で時間が進む。
一回。
二回。
十回。
百回。
やがて玲司は何も感じなくなった。
数字だけを見るようになった。
人の名前はただのデータになった。
住所は文字列になった。
人生は商品になった。
そして。
夢の世界が暗闇に変わる。
その中に無数の光が浮かぶ。
一つ一つが人の顔だった。
被害者たち。
結菜の母親。
老人。
会社員。
学生。
主婦。
皆が静かに玲司を見つめている。
責めるわけでもない。
怒鳴るわけでもない。
ただそこにいる。
玲司は膝をついた。
「ごめんなさい……」
自然に言葉がこぼれた。
初めてだった。
本心から謝ったのは。
その瞬間。
暗闇の中に一つの扉が現れた。
古い木の扉。
赤い文字が浮かんでいる。
『まだ終わっていない』
結菜の声が聞こえた。
「過去は変えられない。」
「でも未来は変えられる。」
扉がゆっくり開く。
その向こうには真っ白な光。
玲司が手を伸ばした瞬間。
目が覚めた。
朝だった。
窓から光が差し込んでいる。
玲司はしばらく天井を見つめた。
夢だった。
だが。
あまりにも鮮明だった。
そして机の上を見る。
そこには一冊の古い名簿が置かれていた。
施設の卒業生名簿。
見覚えがある。
昔のものだ。
玲司は恐る恐る開いた。
すると最後のページに赤い文字が浮かび上がる。
『消された名前を探せ』
ページが勝手にめくれる。
ある名前だけが黒く塗り潰されていた。
誰かの名前が消されている。
その下には新しい文字。
『第十二章 消えた名簿』
玲司の心臓が大きく脈打った。
その名前こそが、次の真実へ繋がる鍵だった――。
第十二章 消えた名簿
玲司は名簿を見つめていた。
児童養護施設の卒業生名簿。
懐かしい名前が並んでいる。
一緒に遊んだ子。
喧嘩した子。
先に施設を出ていった子。
記憶の断片が次々と蘇る。
しかし。
一か所だけがおかしかった。
ある名前だけが黒く塗り潰されている。
まるで最初から存在しなかったかのように。
玲司は指でなぞった。
黒い塗料のようなものではない。
紙そのものに染み込んでいる。
不気味だった。
「誰だ……?」
思い出せない。
だが。
確かに知っている気がする。
その時だった。
スマートフォンが震えた。
知らない番号からメッセージが届く。
本文は一行だけ。
『思い出して』
玲司の背筋が冷える。
さらに続けて画像が送られてきた。
古い写真だった。
児童養護施設の集合写真。
十年以上前のもの。
そこには幼い玲司も写っている。
そして。
写真の右端。
黒く塗り潰された人物が立っていた。
顔だけが見えない。
まるで何者かが消したように。
玲司は目を凝らす。
だが分からない。
その時。
写真の裏面が表示された。
そこには職員の手書き文字。
卒園記念写真
みんな仲良く元気で
そして一番下に。
玲司
翔太
美咲
健介
結菜
……
玲司は固まった。
結菜。
雨宮結菜の名前がある。
だが年齢が合わない。
結菜は被害者の娘だったはずだ。
玲司と同年代ではない。
混乱する。
「どういうことだ……」
その瞬間。
部屋の電気が消えた。
真っ暗になる。
玲司は息を呑む。
そして。
パソコンが勝手に起動した。
真っ黒な画面。
白い文字。
『記憶は改ざんされる』
玲司は画面を見つめる。
続いて文字が浮かぶ。
『あなたは本当に覚えていますか?』
その瞬間。
頭に激痛が走った。
ズキン。
ズキン。
ズキン。
玲司は頭を抱えて床に倒れる。
何かが見える。
映像だった。
記憶。
施設の中庭。
子供たちが遊んでいる。
幼い玲司もいる。
その隣に。
一人の少女がいた。
笑顔だった。
長い髪。
優しい目。
玲司はその子と一緒に遊んでいる。
鬼ごっこ。
読書。
食事。
いつも一緒だった。
なのに。
どうして忘れていたのだろう。
少女が振り返る。
その顔が見えそうになった瞬間。
映像が途切れた。
玲司は荒く息を吐く。
思い出せない。
あと少しなのに。
その時。
玄関が勝手に開いた。
ギィ……
冷たい風が吹き込む。
廊下には誰もいない。
だが床に紙が落ちていた。
玲司は拾い上げる。
施設の職員名簿だった。
その中に気になる記録がある。
〇月〇日
児童一名死亡
事故として処理
玲司の瞳が揺れる。
死亡?
施設で?
そんな話は聞いたことがない。
その下の記録は黒く塗り潰されている。
名前が読めない。
さらにページをめくる。
すると赤い文字が浮かび上がった。
『本当に事故でしたか?』
玲司は息を呑む。
その時だった。
部屋の奥から少女の声が聞こえた。
「思い出して。」
結菜の声だった。
玲司は振り返る。
白いワンピースの少女が立っている。
しかし。
今回は少し違った。
その背後にもう一人いる。
黒く霞んでいて顔が見えない。
子供だった。
玲司と同じくらいの年齢。
その子は何も言わない。
ただ玲司を見つめている。
「誰なんだ……」
玲司が尋ねる。
結菜は悲しそうな顔をした。
「あなたが忘れた人。」
玲司の心臓が強く脈打つ。
忘れた人。
消された名前。
施設で亡くなった子供。
すべてが繋がり始めていた。
だが。
まだ思い出せない。
黒い影の子供がゆっくり手を伸ばす。
そして指差した。
机の上。
そこには新しい封筒が置かれていた。
今度は灰色だった。
表には赤い文字。
『第十三章 謎の少女』
結菜は静かに言う。
「真実はもうすぐ。」
その言葉を残し、二人の姿はゆっくり消えていった。
部屋には玲司だけが残る。
そして彼は気づいていなかった。
忘れていた記憶が戻るほどに、もっと恐ろしい真実も近づいていることを――。
第十三章 謎の少女
灰色の封筒は、これまでのものとは違っていた。
触れた瞬間、妙な温かさを感じた。
まるで誰かの体温が残っているようだった。
玲司はゆっくりと封を開く。
中には一枚の紙だけが入っている。
そこには住所と時間が書かれていた。
そして最後に一文。
『彼女に会いなさい』
玲司は眉をひそめた。
彼女。
誰のことだろう。
結菜なのか。
それとも、名簿から消された少女なのか。
迷いながらも、その日の夕方、指定された場所へ向かった。
そこは街外れにある小さな公園だった。
古いブランコ。
錆びた滑り台。
平日の夕方で人影はない。
風だけが木々を揺らしている。
玲司は周囲を見回した。
誰もいない。
「また何かの罠か……」
そう呟いた瞬間。
背後から声が聞こえた。
「やっと来たね。」
玲司は振り返る。
そこに立っていたのは少女だった。
白いワンピースではない。
制服姿だった。
中学生くらいに見える。
黒髪を肩まで伸ばし、静かな瞳で玲司を見つめている。
見覚えはない。
だが。
なぜか懐かしい気がした。
「君は……?」
少女は答えない。
代わりにブランコへ腰掛けた。
ギィ……
金属の軋む音が響く。
玲司も少し離れた場所へ立った。
しばらく沈黙が続く。
やがて少女が口を開いた。
「結菜ちゃんに会ったんだね。」
玲司の身体が硬直した。
なぜそれを知っている。
少女は小さく笑った。
「驚かなくていいよ。」
「私は全部知ってるから。」
玲司は警戒した。
だが少女の表情には敵意がない。
むしろ心配しているように見えた。
「君は誰なんだ。」
少女は空を見上げた。
夕焼けが赤く染まっている。
「まだ言えない。」
「でも。」
「あなたに思い出してほしいことがある。」
玲司の胸がざわつく。
また記憶の話だ。
施設で亡くなった子供。
消された名前。
忘れた誰か。
少女はブランコをゆっくり揺らしながら言った。
「あなたは昔、とても優しかった。」
玲司は苦笑した。
「冗談だろ。」
「本当。」
少女は即答した。
「困っている子がいたら助けた。」
「泣いている子がいたら隣にいた。」
「一人でいる子には話しかけた。」
玲司は黙り込む。
そんな自分がいたのだろうか。
今では想像もできない。
少女は続ける。
「だから私は悲しかった。」
「あなたが変わってしまったことが。」
その言葉に玲司の胸が痛んだ。
変わった。
確かにそうだ。
孤独に慣れるために。
傷つかないために。
人を信じないようになった。
いつしか他人の人生を数字として見るようになった。
少女は玲司を見つめる。
「でも、まだ戻れる。」
「本当に?」
玲司は思わず聞いた。
少女は頷く。
「罪は消えない。」
「でも償うことはできる。」
その言葉は結菜と同じだった。
玲司は俯く。
「俺は許されない。」
少女は静かに答えた。
「許されるために償うんじゃない。」
「償うべきだから償うの。」
風が吹く。
木の葉が舞う。
その時だった。
少女の表情が突然変わった。
青ざめた顔で公園の入口を見る。
玲司も振り返った。
誰もいない。
しかし。
空気が変わった。
急激に冷たくなる。
そして。
公園の奥に黒い影が現れた。
人の形をしている。
だが顔がない。
輪郭が揺らいでいる。
影はゆっくりこちらへ歩いてくる。
少女の顔が強張る。
「来た。」
玲司の背筋が凍る。
「何が?」
少女は答えた。
「あなたの罪。」
影は近づく。
一歩。
また一歩。
周囲の景色が歪み始める。
街灯が点滅する。
ブランコが勝手に揺れる。
そして影の中から無数の声が聞こえてきた。
「返せ。」
「返して。」
「どうして。」
被害者たちの声だった。
玲司は動けない。
影はさらに近づく。
少女が玲司の腕を掴んだ。
「逃げて!」
その瞬間。
世界が白く光った。
玲司は目を閉じる。
数秒後。
恐る恐る目を開く。
公園には誰もいなかった。
少女も。
黒い影も。
消えていた。
ただ。
ベンチの上に一冊のノートだけが残されている。
玲司は近づいた。
表紙を見る。
そこには見覚えのない名前が書かれていた。
だが。
その名前を見た瞬間。
玲司の頭に激しい痛みが走る。
忘れていた記憶が溢れ出しそうになる。
そしてノートの下には、新しい封筒が置かれていた。
赤い文字。
『第十四章 不幸の連鎖』
玲司は震える手でノートを抱えた。
その中には、自分が忘れていた過去が記されているのかもしれなかった――。
第十四章 不幸の連鎖
玲司は公園から逃げるようにアパートへ戻った。
胸の鼓動はまだ収まらない。
机の上にノートを置く。
表紙に書かれた名前を見ただけで頭痛がした。
忘れていた記憶が無理やり呼び起こされようとしているようだった。
深呼吸をする。
そして、ゆっくりとノートを開いた。
最初のページには子供らしい字でこう書かれていた。
わたしのたからもの
れいじくん
玲司の指が止まる。
胸の奥がざわついた。
次のページ。
そこには施設の中庭の絵が描かれている。
幼い男の子と女の子。
手をつないで笑っていた。
絵の下には文章。
れいじくんはやさしい
わたしがないたとき
ずっとそばにいてくれた
玲司の視界が揺れる。
頭の奥で何かが軋む。
思い出せそうで思い出せない。
その時だった。
部屋の電気が一瞬だけ消えた。
パッ。
そして再び点く。
机の上を見る。
ノートが勝手にめくられていた。
最後のページだ。
そこには震える文字で書かれていた。
こわい
だれかいる
たすけて
その下には赤黒い染み。
血のようにも見える。
玲司は息を呑んだ。
ページの隅に日付が書かれている。
施設で事故が起きた日だった。
第十二章で見た記録。
「児童一名死亡」
その日のものだ。
玲司がページを見つめていると、突然スマートフォンが鳴った。
知らない番号。
震える指で通話ボタンを押す。
「もしもし……」
返事はない。
ザーッという雑音だけ。
そして。
小さな声が聞こえた。
「助けて。」
少女だった。
「暗いよ。」
「怖いよ。」
玲司の身体が硬直する。
「誰なんだ?」
沈黙。
その後。
少女は泣きながら言った。
「約束したのに。」
通話が切れた。
玲司は呆然と立ち尽くす。
約束。
何のことだ。
その時。
ノートのページが勝手にめくれ始めた。
パラパラパラ――
止まったページには一枚の写真が挟まれていた。
施設の裏山だった。
そして写真の中央には。
小さな女の子が立っている。
顔はぼやけている。
しかし。
玲司はなぜか知っていた。
この子だ。
名簿から消された少女。
忘れていた少女。
その瞬間。
記憶の断片が蘇る。
夕方の裏山。
泣いている少女。
幼い玲司。
そして約束。
「ずっと友達だからね。」
頭痛が激しくなる。
ズキン。
ズキン。
ズキン。
玲司は膝をついた。
まだ思い出せない。
だが確かに存在した。
自分はその少女を知っていた。
そして。
何か大切な約束をしていた。
その時。
窓の外で何かが動いた。
玲司は顔を上げる。
街灯の下。
黒い影が立っている。
一人ではない。
二人。
三人。
五人。
十人。
増えていく。
男。
女。
老人。
若者。
被害者たちだった。
皆が玲司の部屋を見上げている。
無表情で。
静かに。
玲司はカーテンを閉めようとした。
だが手が止まる。
被害者たちの姿が消えない。
その中に。
結菜がいた。
白いワンピース姿で。
だが彼女は玲司を責めていなかった。
ただ悲しそうに見つめている。
そして。
結菜の隣には、もう一人の少女が立っていた。
顔はぼやけて見えない。
名簿から消えた少女だ。
その子がゆっくり手を伸ばした。
そして。
口を動かす。
声は聞こえない。
だが玲司には分かった。
「思い出して」
その瞬間。
窓ガラスに無数の手形が浮かび上がった。
バン!
玲司は飛び上がる。
手形。
手形。
手形。
数え切れないほどの手形。
そしてガラス一面に赤い文字が現れる。
『不幸は終わらない』
部屋の空気が冷たくなる。
被害者たちの声が聞こえる。
「私たちは終われなかった。」
「人生が壊れた。」
「未来が消えた。」
「家族を失った。」
声は怒りではなかった。
悲しみだった。
玲司は涙を流した。
自分が広げた不幸は、一人で終わっていなかった。
被害者の家族。
友人。
子供。
周囲の人々へ広がっていた。
まるで鎖のように。
不幸が不幸を生む。
終わることのない連鎖。
その時。
机の上に新しい封筒が現れた。
黒い封筒。
赤い文字。
『第十五章 呪われた住所録』
そして。
ノートの最後の空白ページに、勝手に文字が浮かび上がる。
もうすぐ会えるね
れいじくん
玲司は震えながら、その文字を見つめていた。
忘れられた少女の真実は、すぐそこまで迫っていた――。
第十五章 呪われた住所録
深夜零時。
雨が降っていた。
玲司は机の前に座り、黒い封筒を見つめていた。
窓ガラスに浮かんでいた無数の手形は消えている。
だが、不気味な気配だけは残っていた。
静かすぎる夜だった。
玲司は封筒を開く。
中には古びた住所録が入っていた。
黒い革表紙。
角は擦り切れている。
まるで何十年も使われてきたような古さだった。
表紙には文字がある。
赤黒いインクで。
『届け先一覧』
玲司の背筋が凍った。
届け先。
その言葉に嫌な予感しかしない。
恐る恐るページを開く。
そこには名前と住所が並んでいた。
何百人分も。
最初のページ。
一人目。
見覚えのある名前だった。
第二章で見た自殺した女性。
その下に赤い文字。
『配達完了』
玲司は息を呑む。
次のページ。
詐欺被害に遭った老人。
会社を辞めた男性。
ストーカー被害の女性。
すべて今まで見てきた被害者たちだった。
そして全員に同じ印。
『配達完了』
玲司の手が震える。
まるで誰かが不幸を届けた記録のようだった。
ページをめくる。
めくる。
めくる。
被害者の数は増え続ける。
百人。
二百人。
三百人。
数え切れない。
その中には見覚えのない人もいた。
おそらく玲司が知らない被害者たちだ。
だが。
ページの最後に近づいた時。
玲司は固まった。
そこに自分の名前があった。
桐島玲司
住所 〇〇アパート二〇三号室
その横には赤い文字。
『配達中』
玲司の喉が鳴る。
配達中。
つまり。
次は自分なのか。
その瞬間。
住所録のページが勝手にめくれ始めた。
パラパラパラ――
最後のページで止まる。
そこには一人だけ名前が書かれていた。
他のページと違う。
赤い文字ではなく黒い文字。
そして。
その名前を見た瞬間。
玲司の頭に激痛が走った。
神崎美羽
ズキン!
玲司は机に手をつく。
その名前。
知っている。
忘れていた。
だが知っている。
頭の奥で記憶が暴れ始める。
施設の庭。
笑顔の少女。
夕焼け。
約束。
そして――
悲鳴。
記憶はそこで途切れる。
玲司は荒く息を吐いた。
神崎美羽。
それが名簿から消された少女の名前だった。
その時。
部屋の電気が消えた。
真っ暗。
静寂。
玲司は動けない。
すると。
部屋のどこかからページをめくる音が聞こえた。
パラ……
パラ……
パラ……
住所録だった。
暗闇の中で勝手に開いている。
玲司は震えながらスマートフォンのライトを点けた。
光が部屋を照らす。
住所録は机の上にある。
しかし。
その周りに人影が立っていた。
何人も。
何十人も。
被害者たちだった。
老人。
女性。
子供。
会社員。
学生。
皆が住所録を見下ろしている。
顔色は青白い。
目だけが玲司を見ている。
玲司は声も出せなかった。
すると。
被害者たちは一斉に口を開いた。
「届いた。」
「届いた。」
「届いた。」
同じ言葉を繰り返す。
まるで壊れた録音機のように。
その中から結菜が現れた。
白いワンピース。
涙を流している。
だが。
その瞳は真っ直ぐ玲司を見ていた。
「不幸は人から人へ移る。」
玲司は息を呑む。
結菜は続ける。
「あなたが売った情報。」
「それが不幸を生んだ。」
「その不幸がまた別の不幸を生んだ。」
玲司は窓の外を見る。
雨が激しくなっている。
結菜の声は静かだった。
「でも。」
「どこかで止めなきゃいけない。」
その言葉に玲司は顔を上げる。
結菜は微笑んだ。
ほんの少しだけ。
「だから、あなたはここにいる。」
その瞬間。
被害者たちの姿が消えた。
部屋の電気が戻る。
住所録だけが残されている。
そして。
最後のページに新しい文字が浮かび上がった。
彼女は待っている
神崎美羽の名前の下に。
さらに住所が現れる。
古い電話ボックスの場所だった。
街外れの廃道。
そして赤い文字。
『第十六章 深夜の電話』
玲司は震えながら住所を見つめる。
神崎美羽。
忘れていた少女。
彼女こそが、この怪異の中心にいるのかもしれない。
外では雷が鳴った。
そして遠くから。
電話の呼び出し音が聞こえた気がした。
リン……
リン……
リン……
まるで誰かが待っているように――。
第十六章 深夜の電話
リン……
リン……
リン……
電話の呼び出し音は、確かに聞こえた。
玲司は窓の外を見る。
雨は激しく降り続いている。
深夜二時。
こんな時間に電話の音が聞こえるはずがない。
それなのに。
リン……
リン……
リン……
音は止まらない。
まるで玲司を呼んでいるようだった。
机の上には住所録。
最後のページに書かれた場所。
街外れの廃道にある古い電話ボックス。
玲司は嫌な予感を抱きながらも、傘を手に部屋を出た。
一時間後。
玲司は目的地へ到着した。
周囲に民家はない。
古い道路だけが続いている。
街灯も少ない。
そして。
道路脇に一つだけ。
赤い電話ボックスが立っていた。
古びている。
ガラスは汚れている。
何年も使われていないように見える。
だが。
電話は鳴っていた。
リン……
リン……
リン……
玲司の背筋が冷たくなる。
誰かが電話をかけている。
こんな場所に。
こんな時間に。
玲司は恐る恐る扉を開いた。
ギィ……
中へ入る。
電話は鳴り続けている。
受話器は正常だ。
玲司は震える手で持ち上げた。
「もしもし……」
雑音。
ザーッ。
ザーッ。
何も聞こえない。
玲司は受話器を戻そうとした。
その時だった。
小さな声が聞こえた。
「れいじくん。」
玲司の身体が凍る。
少女の声だった。
知らないはずなのに。
懐かしい。
胸が締め付けられる。
「誰だ……?」
沈黙。
そして。
「忘れちゃった?」
玲司の呼吸が止まる。
神崎美羽。
その名前が頭をよぎる。
受話器の向こうで少女は静かに笑った。
悲しそうに。
「約束したのに。」
またその言葉だった。
約束。
玲司は必死に記憶を探る。
だが思い出せない。
すると。
電話の向こうから別の声が聞こえ始めた。
男の声。
女の声。
老人。
子供。
何人も。
何十人も。
声が重なっていく。
「助けて。」
「返して。」
「どうして。」
「怖い。」
「苦しい。」
被害者たちの声だった。
玲司は耳を塞ぎたくなる。
しかし受話器から離れられない。
まるで手が張り付いたようだった。
そして。
声の波の中から。
一つだけ。
はっきりした声が聞こえた。
「私は待ってたよ。」
少女だった。
神崎美羽。
その名を聞いた瞬間。
玲司の頭に映像が流れ込む。
夕暮れ。
施設の裏山。
幼い玲司。
そして一人の少女。
笑顔。
長い髪。
優しい目。
神崎美羽。
二人は秘密基地を作っていた。
毎日一緒だった。
兄妹のようだった。
友達以上の存在だった。
記憶は続く。
ある雨の日。
美羽が泣いている。
玲司は彼女の手を握る。
「大丈夫。」
「俺がずっと一緒にいる。」
そして。
指切り。
約束。
「絶対に一人にしない。」
玲司は息を呑む。
思い出した。
確かに約束した。
美羽と。
その瞬間。
電話の向こうで少女が泣き始めた。
「でも。」
「来なかった。」
玲司の胸が痛む。
「私は待ってた。」
「ずっと。」
「ずっと。」
声が震えている。
悲しみ。
孤独。
絶望。
それらが混ざっていた。
玲司は叫ぶ。
「何があったんだ!」
電話の向こうで沈黙。
そして。
美羽は静かに答えた。
「思い出して。」
その瞬間。
電話ボックスのガラスに無数の手形が浮かび上がった。
バン!
バン!
バン!
玲司は悲鳴を上げる。
外を見る。
そこには被害者たちが立っていた。
雨の中。
動かない。
ただこちらを見ている。
そして全員が同時に口を開く。
「思い出せ。」
「思い出せ。」
「思い出せ。」
電話の向こうから美羽の声。
「真実はすぐそこ。」
そして。
受話器から最後の言葉が聞こえた。
「私は死んでない。」
玲司の瞳が大きく見開かれる。
死んでいない。
だが施設の記録には死亡と書かれていた。
頭が混乱する。
その瞬間。
電話は切れた。
ツー……
ツー……
ツー……
玲司は受話器を見つめる。
そして気づく。
電話ボックスの壁に何か貼られている。
古い新聞記事だった。
見出しには大きく書かれている。
『養護施設で児童行方不明』
死亡ではない。
行方不明。
玲司の背筋を冷たい汗が流れる。
記事の下には赤い文字。
『嘘がある』
さらに。
電話ボックスの床には新しい封筒が置かれていた。
赤い封筒。
表にはこう書かれている。
『第十七章 被害者たちの影』
玲司は封筒を拾い上げる。
雨はますます強くなる。
そして遠くの闇の中で。
誰かがこちらを見ていた。
白いワンピースの結菜ではない。
もっと大人の女性。
顔は見えない。
だが玲司は直感した。
この事件の本当の黒幕が、少しずつ姿を現し始めていることを――。
第十七章 被害者たちの影
雨の中。
玲司は電話ボックスからアパートへ戻った。
頭の中は混乱していた。
神崎美羽は死んでいない。
だが施設の記録には「死亡」と書かれていた。
そして新聞には「行方不明」。
どちらが真実なのか。
いや。
どちらも嘘なのかもしれない。
玲司は部屋へ入る。
時計は午前三時を回っていた。
机の上に赤い封筒を置く。
そしてゆっくり開いた。
中には一枚の紙だけが入っている。
そこには短く書かれていた。
『影を見なさい』
その瞬間。
部屋の電気が消えた。
真っ暗。
玲司は息を呑む。
だが恐怖よりも先に、慣れてしまった自分に気付いた。
怪異は終わらない。
逃げても無駄だ。
そう理解していた。
すると。
窓の外から月明かりが差し込んできた。
雨は止んでいる。
その光で部屋の壁に影が映った。
玲司の影だった。
だが。
おかしい。
一つではない。
二つ。
三つ。
四つ。
影が増えていく。
玲司はゆっくり振り返った。
誰もいない。
しかし壁には無数の影が映っている。
老人。
女性。
子供。
若者。
様々な人々の影。
まるで部屋の中に大勢いるようだった。
その時。
最初の影が動いた。
老人の影だった。
壁からゆっくり離れる。
そして人の形になる。
玲司は息を呑む。
見覚えがある。
第七章で見た老人。
詐欺被害に遭った人だ。
老人は静かに言った。
「私は恨んでいた。」
玲司は何も言えない。
老人は続ける。
「家を失った。」
「未来を失った。」
「生きる希望も失った。」
声は穏やかだった。
怒ってはいない。
ただ事実を語っている。
老人の姿が消える。
代わりに若い女性の影が現れた。
ストーカー被害を受けた女性だった。
「私は怖かった。」
「毎日。」
「毎日。」
「毎日。」
涙が流れている。
「誰も信じられなくなった。」
女性も消える。
次は若い男性。
会社を辞めた男性。
そして主婦。
大学生。
高校生。
被害者たちが一人ずつ現れる。
皆が自分の傷を語る。
怒鳴らない。
責めない。
ただ。
失ったものを語る。
玲司は聞き続けた。
逃げなかった。
耳を塞かなかった。
そして気づく。
どの被害者も同じだった。
失ったものはお金だけではない。
信頼。
家族。
夢。
未来。
人との繋がり。
人生そのものだった。
やがて最後に現れたのは結菜だった。
白いワンピース。
静かな瞳。
結菜は玲司を見つめる。
「ねぇ。」
「どうしてみんながここにいると思う?」
玲司は答えられなかった。
結菜は壁を指差した。
そこには無数の影が並んでいる。
被害者たちだった。
結菜は続ける。
「みんな前に進めないの。」
「苦しみが終わっていないから。」
玲司は俯く。
結菜の言葉は重かった。
すると。
結菜は首を横に振った。
「でも。」
「それだけじゃない。」
玲司は顔を上げる。
結菜は微笑んだ。
悲しそうに。
「あなたを待ってた。」
「俺を……?」
結菜は頷く。
「逃げないで。」
「ちゃんと向き合って。」
「そう願ってた。」
玲司の胸が熱くなる。
結菜は復讐のために現れたのではなかった。
ずっと。
罪と向き合わせるために現れていた。
その時だった。
部屋の奥で何かが動いた。
ガタン。
玲司は振り返る。
クローゼットだった。
ゆっくり。
ゆっくりと。
扉が開いていく。
ギィィ……
暗闇が広がる。
そして。
その中から黒い影が現れた。
今までの被害者とは違う。
異様だった。
人の形をしている。
だが顔がない。
全身が黒い霧のようになっている。
影は玲司を指差した。
そして低い声で言う。
「まだ終わっていない。」
玲司の身体が震える。
結菜の表情も変わった。
初めて恐怖を見せた。
「だめ。」
結菜が呟く。
黒い影は一歩前へ出た。
部屋の空気が急激に冷たくなる。
被害者たちの影が消えていく。
まるで何かを恐れるように。
黒い影は再び言った。
「真実を知れば。」
「もっと苦しむ。」
玲司は息を呑む。
影の背後に一枚の写真が浮かび上がった。
施設の裏山。
幼い玲司。
神崎美羽。
そして。
もう一人の大人。
女性職員。
顔だけが黒く塗り潰されている。
玲司の頭に激痛が走る。
ズキン!
ズキン!
ズキン!
何かを思い出しそうになる。
その時。
黒い影は笑った。
初めて。
不気味に。
そして壁に赤い文字が現れる。
『思い出したら終わり』
次の瞬間。
部屋中の鏡が一斉に割れた。
ガシャァァン!
玲司は悲鳴を上げる。
破片が飛び散る。
そして。
割れた鏡の一つに文字が浮かび上がる。
『第十八章 真実への扉』
結菜は消えかけながら言った。
「急いで。」
「もう時間がない。」
そして姿を消した。
部屋には玲司だけが残る。
だが彼には分かっていた。
次の章で。
自分が忘れていた過去。
神崎美羽の真実。
施設で起きた出来事。
そのすべてが明らかになることを――。
第十八章 真実への扉
割れた鏡の破片が床一面に散らばっていた。
玲司はその中央に立ち尽くしている。
胸の鼓動が激しい。
結菜の最後の言葉が頭の中で何度も繰り返される。
「もう時間がない。」
そして。
鏡に浮かんだ文字。
『真実への扉』
玲司はゆっくりと視線を上げた。
部屋の壁に変化が起きていた。
何もなかったはずの場所に、古い木製の扉が現れている。
黒ずんだ扉。
錆びた取っ手。
まるで何十年も放置されていたようだった。
玲司は震える手で取っ手を握る。
冷たい。
凍りつくほど冷たい。
そして。
ゆっくり開いた。
ギィィ……
その先には長い廊下が続いていた。
見覚えがある。
児童養護施設だった。
玲司が育った場所。
しかし様子がおかしい。
誰もいない。
静まり返っている。
時計も止まっている。
窓の外は真っ暗だった。
玲司は廊下を歩き始める。
一歩。
また一歩。
やがて職員室の前へたどり着く。
ドアが少し開いていた。
中から声が聞こえる。
女性の声。
泣いている。
玲司は恐る恐る覗いた。
そこには一人の女性職員がいた。
第十七章の写真に写っていた人物だった。
顔が見える。
四十代くらい。
優しそうな女性。
だが今は泣いている。
目の前には幼い美羽が立っていた。
神崎美羽。
十歳くらいの姿だった。
「先生。」
美羽は震える声で言う。
「本当にお母さんは迎えに来るの?」
女性職員は答えられない。
顔を伏せる。
美羽は何度も聞く。
「来るんだよね?」
「約束したんだもん。」
その瞬間。
玲司の胸が締め付けられた。
美羽もまた。
捨てられたのだ。
女性職員は涙を流しながら言った。
「ごめんなさい。」
美羽の表情が崩れる。
絶望だった。
小さな身体が震えている。
そして。
場面が変わる。
施設の裏山。
雨の日だった。
幼い玲司が走っている。
美羽を探している。
「美羽!」
返事はない。
何度も名前を呼ぶ。
すると。
崖の近くに少女の姿が見えた。
美羽だった。
一人で立っている。
雨に濡れながら。
玲司は駆け寄る。
「何してるんだよ!」
美羽は泣いていた。
「迎えに来なかった。」
「誰も迎えに来ない。」
玲司は言葉を失う。
美羽は俯く。
「私いらない子なんだ。」
その言葉に幼い玲司は首を振った。
強く。
何度も。
「違う!」
「そんなことない!」
そして。
玲司は約束した。
「俺がいる。」
「絶対一人にしない。」
「約束する。」
美羽は泣きながら笑った。
小さく頷いた。
その瞬間。
記憶が途切れる。
世界が暗転する。
玲司は息を呑んだ。
だが。
まだ終わらない。
次の映像が始まる。
数日後。
施設は大騒ぎになっていた。
職員たちが走り回っている。
警察も来ている。
そして。
美羽がいない。
どこにもいない。
玲司は必死に探していた。
裏山。
倉庫。
校庭。
どこにもいない。
やがて。
誰かが言った。
「事故かもしれない。」
「崖から落ちたのかも。」
しかし。
遺体は見つからなかった。
それなのに。
記録には死亡と書かれた。
新聞には行方不明と書かれた。
真実は曖昧なまま終わった。
その時。
玲司はある光景を見る。
職員室。
女性職員が一枚の書類を書いている。
震える手で。
そこにはこう書かれていた。
神崎美羽
死亡扱い
玲司は息を呑む。
なぜだ。
なぜ生死不明なのに死亡扱いにした。
その瞬間。
女性職員が振り返った。
まるで玲司が見えているかのように。
そして涙を流しながら言った。
「守れなかった。」
世界が崩れ始める。
施設が消えていく。
廊下も。
教室も。
職員室も。
すべて闇に飲まれる。
その中で一人だけ立っている。
神崎美羽だった。
成長した姿。
第十三章の制服姿の少女。
彼女は玲司を見つめる。
「思い出してくれてありがとう。」
玲司は震える声で聞いた。
「生きているのか?」
美羽は微笑んだ。
しかし答えない。
代わりに一枚の鍵を差し出した。
古い真鍮の鍵。
「次へ進んで。」
玲司が受け取る。
すると美羽の姿が少し薄くなった。
まるで消えかけているようだった。
「急がないと。」
「何が起きるんだ?」
玲司が聞く。
美羽は悲しそうに笑った。
「不幸を届けている本当の存在が目覚める。」
その瞬間。
闇の奥から低い笑い声が聞こえた。
第十七章で現れた黒い影。
その気配だった。
そして空間全体に赤い文字が浮かぶ。
『第十九章 逃亡』
美羽は最後にこう言った。
「逃げても追いつかれる。」
「でも進めば終わらせられる。」
その言葉を残し。
彼女は光となって消えた。
玲司は一人残される。
手の中には鍵。
そして。
これまでで最も恐ろしい敵が、もうすぐ姿を現そうとしていた――。
第十九章 逃亡
玲司は目を覚ました。
気づけば自分の部屋に戻っていた。
朝だった。
窓から差し込む光が眩しい。
だが、玲司の心に安堵はなかった。
手の中には、あの真鍮の鍵が残っている。
夢ではなかった。
神崎美羽は確かに現れた。
そして言った。
「逃げても追いつかれる。」
玲司は鍵を握りしめる。
頭の中は混乱していた。
被害者たち。
結菜。
美羽。
施設の真実。
そして、自分の罪。
考えれば考えるほど苦しくなる。
玲司は立ち上がった。
ふと鏡を見る。
やつれた顔。
青白い肌。
目の下の隈。
別人のようだった。
「もう嫌だ……」
小さく呟く。
そして。
初めて本気で思った。
逃げよう。
全部から。
この街から。
怪異から。
過去から。
罪から。
玲司は最低限の荷物だけをバッグへ詰めた。
財布。
スマートフォン。
着替え。
そして真鍮の鍵。
それだけだった。
昼前。
玲司は新大阪駅へ向かった。
人混みの中なら安心できる。
そう思った。
駅は賑わっている。
家族連れ。
学生。
会社員。
誰も玲司のことなど見ていない。
そのはずだった。
しかし。
ホームへ向かう途中。
玲司は立ち止まった。
人混みの中に結菜がいた。
白いワンピース。
こちらを見ている。
玲司が目を擦る。
すると消えていた。
幻覚だ。
そう言い聞かせる。
だが。
今度は反対側に美羽が立っていた。
制服姿。
悲しそうな顔。
そして。
ゆっくり首を横に振る。
「行かないで。」
そう言っているようだった。
玲司は目を逸らした。
見ない。
考えない。
逃げる。
それだけだ。
新幹線が到着する。
ドアが開く。
玲司は乗り込んだ。
席に座る。
発車ベルが鳴る。
これで終わる。
この街から離れれば。
すべて忘れられる。
そう思った。
その時。
車内放送が流れた。
だが。
聞こえてきた声は女性の声ではなかった。
低く。
不気味な声。
「逃げても無駄です。」
玲司の身体が凍る。
周囲の乗客は普通にしている。
誰も反応していない。
聞こえているのは玲司だけだった。
窓ガラスを見る。
そこに映る自分の後ろ。
黒い影が立っていた。
顔のない影。
第十七章で現れた存在。
玲司は振り返る。
誰もいない。
だが窓には映っている。
影はゆっくり口を開いた。
「どこへ行く。」
玲司は席を立った。
逃げるように車両を移動する。
だが。
どの窓にも黒い影が映る。
前の車両。
後ろの車両。
トイレの鏡。
すべて同じだった。
影は追ってくる。
そして。
どこへ行っても同じ言葉を繰り返す。
「逃げるのか。」
「また。」
その言葉が胸を刺した。
また。
そうだ。
玲司はずっと逃げてきた。
孤独から。
悲しみから。
罪悪感から。
そして今も。
逃げようとしている。
その瞬間。
新幹線が急停止した。
ガタン!
車内が揺れる。
乗客たちがざわつく。
だが玲司の耳には別の音が聞こえていた。
コツ。
コツ。
コツ。
足音だった。
ゆっくりと近づいてくる。
車両の奥から。
一歩ずつ。
確実に。
玲司の方へ。
そして。
通路の先に白い人影が現れた。
結菜だった。
彼女は泣いていた。
だが怒ってはいない。
「お願い。」
そう言った。
「逃げないで。」
玲司は立ち尽くす。
すると。
その隣に美羽が現れた。
彼女も静かに頷く。
「ここで終わらせて。」
二人の後ろ。
車両全体に被害者たちの姿が現れる。
老人。
女性。
学生。
会社員。
みんな黙って玲司を見ていた。
責めるためではない。
逃げさせないためでもない。
ただ。
向き合ってほしいと願うように。
玲司の目から涙がこぼれた。
逃げても終わらない。
どこへ行っても。
自分自身からは逃げられない。
その時。
ポケットの中で鍵が熱くなった。
真鍮の鍵だった。
取り出す。
鍵が淡く光っている。
そして鍵の表面に文字が浮かび上がった。
『第ニ十章 追いかける足音』
次の瞬間。
黒い影の笑い声が響いた。
今までで最も近く。
最も大きく。
まるで玲司の耳元で囁くように。
そして。
窓ガラスいっぱいに赤い文字が現れた。
『もう逃げられない』
玲司は震えながら鍵を握りしめる。
逃亡は終わった。
ここから先は。
真実と向き合うしかないのだった――。
第二十章 追いかける足音
新幹線の車内に響く笑い声。
玲司は震える手で真鍮の鍵を握りしめていた。
窓ガラスに浮かぶ文字。
『もう逃げられない』
その文字を見た瞬間。
車内の景色が歪み始めた。
乗客たちの姿が薄れていく。
座席も。
照明も。
天井も。
すべて霧のように消えていく。
そして気づけば。
玲司は一人で暗い通路に立っていた。
「ここは……」
見覚えがあった。
児童養護施設の廊下だった。
だが以前訪れた時とは違う。
もっと古い。
もっと暗い。
まるで施設そのものが悪夢になったようだった。
その時。
コツ。
背後で足音がした。
玲司は振り返る。
誰もいない。
だが。
コツ。
コツ。
コツ。
確実に近づいている。
玲司の心臓が激しく脈打つ。
足音は止まらない。
ゆっくり。
ゆっくり。
しかし確実に。
玲司へ近づいてくる。
そして。
廊下の奥に黒い影が現れた。
第十七章から現れている存在。
顔のない影。
人の形をした闇。
影は歩いている。
コツ。
コツ。
コツ。
足音の正体だった。
玲司は後退る。
すると影は口を開いた。
「覚えているか。」
低い声。
男とも女とも分からない。
玲司は答えられない。
影はさらに近づく。
「お前は逃げた。」
「何からだ。」
「誰からだ。」
言葉が胸を刺す。
玲司は拳を握る。
そして初めて叫んだ。
「逃げたよ!」
影が止まる。
玲司の目には涙が浮かんでいた。
「怖かったんだ!」
「一人だった!」
「誰も助けてくれなかった!」
声が震える。
今まで押し込めていた感情が溢れ出していた。
影は黙っている。
玲司は続けた。
「だから他人なんてどうでもよくなった!」
「自分が生きることで精一杯だった!」
涙が止まらない。
影は静かに聞いている。
そして。
ゆっくり首を横に振った。
「違う。」
玲司は息を呑む。
影は一歩前へ出る。
「それは理由だ。」
「だが。」
「免罪符ではない。」
玲司は言葉を失う。
影の言う通りだった。
どれほど辛くても。
どれほど孤独でも。
人を傷つけていい理由にはならない。
それは結菜も。
美羽も。
何度も伝えていた。
その時だった。
施設の廊下に光が差し込んだ。
結菜が現れる。
白いワンピース姿。
そして美羽も現れた。
制服姿のまま。
二人は玲司の左右に立つ。
結菜が言う。
「ようやく認めたね。」
玲司は頷いた。
涙がこぼれる。
美羽も静かに微笑む。
「それが最初の一歩。」
黒い影は二人を見つめた。
そして。
初めてその姿が揺らぐ。
まるで力を失い始めたように。
玲司は気づく。
この影は恐怖そのものではない。
自分が向き合わなかった罪。
後悔。
逃げ続けた心。
それが形になった存在なのだ。
影はゆっくり言った。
「だが。」
「まだ終わっていない。」
施設全体が大きく揺れた。
ゴゴゴゴゴ……
壁に亀裂が走る。
天井から埃が落ちる。
結菜の表情が険しくなる。
美羽も振り返る。
そして二人は同時に言った。
「来る。」
次の瞬間。
施設の奥から巨大な気配が現れた。
今までの黒い影とは比べものにならない。
重い。
暗い。
圧倒的な存在感。
玲司は息を呑む。
それは人の姿をしていた。
だが輪郭は崩れ。
無数の顔が重なっている。
怒り。
悲しみ。
絶望。
苦痛。
様々な感情が渦巻いていた。
結菜が震える声で言う。
「不幸そのもの……」
美羽も青ざめる。
「みんなの苦しみが集まった存在。」
玲司は理解した。
自分が広げた不幸。
闇サイトの連中が広げた不幸。
被害者たちの絶望。
それらが積み重なって生まれた怪異。
黒幕だった。
巨大な影は玲司を見下ろす。
そして笑った。
無数の声で。
「ようやく会えた。」
施設がさらに揺れる。
壁に赤い文字が浮かび上がる。
『第二十一章 闇組織の正体』
その文字を見た瞬間。
玲司の手の中の鍵が強く光り始めた。
真実はまだ終わっていない。
すべての始まり。
闇サイトの裏側。
そして不幸を広げ続けた者たちの存在。
次の章で。
その正体が明らかになろうとしていた――。
第二十一章 闇組織の正体
巨大な影は施設の奥に立っていた。
無数の顔が浮かんでは消える。
泣いている顔。
怒っている顔。
絶望している顔。
そのすべてが被害者たちの感情だった。
玲司は震えながら見上げる。
結菜と美羽も、その存在を警戒していた。
だが。
真鍮の鍵だけが強く光っている。
まるで玲司を導くように。
その時。
鍵がひとりでに浮かび上がった。
そして施設の廊下の先を指し示す。
一枚の扉。
今までなかった扉だった。
黒い鉄製の重い扉。
表面には赤い文字。
『記録庫』
巨大な影が笑う。
「見るか。」
「それとも逃げるか。」
玲司は拳を握った。
もう逃げない。
そう決めた。
玲司は扉へ向かう。
結菜と美羽も後ろに続いた。
そして。
鍵を差し込む。
カチッ。
鍵穴が回る。
重い音を立てて扉が開いた。
ギギギィ……
中は巨大な部屋だった。
壁一面にモニターが並んでいる。
何百台も。
何千台も。
そのすべてに人々の情報が映っていた。
名前。
住所。
電話番号。
勤務先。
家族構成。
個人情報。
玲司は息を呑む。
自分が売っていた情報など、ほんの一部に過ぎなかった。
その時。
モニターが一斉に点灯する。
映像が流れ始めた。
ある男が映る。
スーツ姿。
高級そうなオフィス。
その男は笑っていた。
「個人情報は金になる。」
場面が変わる。
別の男。
また別の女。
さらに別の組織。
皆が同じことをしていた。
情報を集める。
売る。
利益を得る。
被害者の人生など気にしない。
ただ金のために。
玲司は唇を噛む。
自分も同じだった。
規模は違う。
だがやっていたことは同じだ。
その時。
結菜がモニターを指差した。
「見て。」
玲司は視線を向ける。
一つの映像が映っていた。
そこは闇サイトの管理画面だった。
管理者の名前。
取引履歴。
会員情報。
そして。
玲司が利用していたサイトの名前。
すべてが表示されている。
玲司は驚いた。
こんな巨大な組織だったのか。
個人が運営していると思っていた。
違った。
裏には組織がいた。
大量の情報を扱う犯罪集団。
何万人もの被害者を生み出した存在。
その瞬間。
巨大な影が部屋へ入ってきた。
天井に頭が届くほど大きい。
結菜は玲司の前へ出た。
美羽も立ち塞がる。
だが影は二人を無視した。
視線は玲司だけを見ている。
「見たな。」
低い声。
玲司は頷く。
影は続ける。
「お前は末端だ。」
「だが加害者だ。」
その言葉は重かった。
玲司は否定できない。
末端だった。
騙されたわけでもない。
強制されたわけでもない。
自分で選んだ。
その結果、多くの人が傷ついた。
巨大な影は笑う。
「ではどうする。」
「また逃げるか。」
玲司は首を横に振った。
「逃げない。」
初めて迷いなく言えた。
巨大な影が少し揺らぐ。
玲司は続けた。
「俺は警察へ行く。」
結菜が驚く。
美羽も目を見開く。
玲司は拳を握る。
「全部話す。」
「俺がやったことも。」
「組織のことも。」
「全部。」
その瞬間。
部屋中のモニターが激しく点滅した。
巨大な影が怒りの声を上げる。
「それでは終わってしまう。」
玲司は影を見つめた。
そして気づく。
この存在は不幸から生まれた。
人々が傷つくほど大きくなる。
だから。
不幸の連鎖が終われば。
存在できなくなる。
影は咆哮した。
施設全体が揺れる。
モニターが割れる。
壁が崩れる。
だが玲司は逃げなかった。
結菜が微笑む。
「やっとだね。」
美羽も涙を流している。
「約束を守ってくれた。」
玲司は二人を見た。
そして静かに頷いた。
その時。
崩れ始めた壁に新しい文字が浮かび上がる。
『第二十二章 告発者』
巨大な影は消えていない。
だが確実に弱っている。
玲司は知っていた。
次の一歩が必要だと。
罪を認めること。
真実を告げること。
そして。
自分自身の手で不幸の連鎖を断ち切ることを――。
第二十二章 告発者
崩れゆく記録庫の中。
玲司は立ち尽くしていた。
壁はひび割れ、モニターは次々と砕けていく。
だが不思議なことに、恐怖はなかった。
代わりに胸の中にあった重い何かが、少しずつ消えていくのを感じていた。
結菜が静かに言う。
「本当に行くの?」
玲司は頷いた。
「行く。」
「もう逃げない。」
美羽は涙を浮かべながら微笑んだ。
「それでいい。」
その瞬間。
世界が白い光に包まれた。
玲司が目を開くと、自分の部屋に戻っていた。
朝だった。
机の上にはノートパソコンがある。
住所録もある。
そして。
記録庫で見た情報が入ったUSBメモリが置かれていた。
夢ではない。
確かな証拠だった。
玲司は深呼吸する。
怖かった。
警察へ行けば、自分も逮捕される。
人生は終わるかもしれない。
だが。
今さら自分だけ助かろうとは思えなかった。
被害者たちの顔が浮かぶ。
結菜。
老人。
女性。
会社員。
学生。
そして美羽。
皆が苦しんできた。
その苦しみの一部は、自分が生み出したものだった。
玲司はUSBをポケットへ入れた。
そして部屋を出た。
警察署へ向かう道。
空は曇っていた。
だが雨は降っていない。
玲司は一歩ずつ歩く。
足が重い。
心臓が痛いほど脈打つ。
何度も引き返したくなった。
その時。
横断歩道の向こうに結菜が見えた。
白いワンピース姿。
優しく微笑んでいる。
玲司が目を瞬く。
すると姿は消えた。
幻だったのかもしれない。
だが。
背中を押された気がした。
警察署の前に着く。
大きな建物だった。
玲司は立ち止まる。
あと数歩で入れる。
その時だった。
スマートフォンが鳴った。
知らない番号。
玲司は出た。
「もしもし。」
すると。
低い男の声が聞こえた。
「余計なことをするな。」
玲司の身体が凍る。
「誰だ。」
男は笑った。
「お前が何を持っているか知っている。」
「警察へ行くな。」
玲司は息を呑む。
組織だ。
闇サイトの連中。
記録庫の情報を知られたのだ。
男は続ける。
「黙っていれば助かる。」
「過去も消してやる。」
玲司は目を閉じる。
かつての自分なら飛びついていたかもしれない。
捕まりたくない。
楽になりたい。
そう思っただろう。
しかし。
今は違う。
玲司は静かに答えた。
「断る。」
電話の向こうが沈黙する。
玲司は続けた。
「俺は全部話す。」
「被害者に顔向けできないから。」
男の声が険しくなる。
「後悔するぞ。」
そして電話は切れた。
その瞬間。
空気が変わった。
警察署の向かい側。
黒い車が停まっている。
中に誰かいる。
玲司を見ている。
さらに。
別の場所にも人影。
スーツ姿の男たち。
明らかに普通ではない。
組織が動き始めたのだ。
玲司の背筋を冷たい汗が流れる。
だが。
逃げなかった。
一歩。
また一歩。
警察署へ向かう。
その時。
背後から聞き慣れた声がした。
「行って。」
美羽だった。
振り返る。
彼女はそこに立っている。
制服姿のまま。
優しく微笑んでいる。
そして結菜もいた。
二人とも泣いていた。
だが。
その涙は悲しみだけではなかった。
希望が混ざっていた。
玲司は小さく頷く。
そして警察署の自動ドアをくぐった。
その瞬間。
街のどこかで。
巨大な黒い影が怒りの咆哮を上げた。
不幸から生まれた存在。
闇組織を覆っていた怪異。
それが初めて恐怖を感じていた。
真実が明るみに出れば。
自らの存在が消えるからだ。
そして。
警察署の待合室の壁にだけ。
玲司には見える文字が浮かび上がった。
『第二十三章 裏切り』
玲司はまだ知らない。
組織の中に。
そして警察の中にさえ。
闇に協力している者がいることを――。
第二十三章 裏切り
警察署の取調室。
玲司は机を挟んで二人の刑事と向かい合っていた。
部屋は静かだった。
壁の時計の音だけが響いている。
玲司はUSBメモリを机の上へ置いた。
「全部話します。」
声は震えていた。
だが迷いはなかった。
刑事の一人が頷く。
四十代ほどの男性だった。
名札には
高瀬刑事
と書かれている。
もう一人は若い刑事。
こちらは黙って記録を取っていた。
玲司は話し始める。
闇サイトのこと。
個人情報売買のこと。
自分が犯した罪。
そして記録庫で見た組織の情報。
何時間もかかった。
途中で何度も涙が出た。
被害者たちの顔が浮かんだからだ。
話が終わる頃には夕方になっていた。
高瀬刑事は静かに言う。
「協力ありがとう。」
「情報は確認させてもらう。」
玲司は小さく頷いた。
その時だった。
高瀬刑事のスマートフォンが鳴る。
刑事は席を立った。
「少し待っていてくれ。」
ドアが閉まる。
取調室には玲司一人だけになった。
静寂。
だが。
突然。
部屋の照明がチカチカと点滅した。
パッ。
パッ。
パッ。
玲司の心臓が跳ねる。
嫌な予感がした。
そして。
壁に赤い文字が浮かぶ。
『裏切り者がいる』
玲司は立ち上がった。
次の瞬間。
部屋の鏡に人影が映る。
結菜だった。
白いワンピース姿。
彼女は必死に首を横へ振っている。
「だめ。」
声は聞こえない。
だがそう言っているのが分かった。
玲司は息を呑む。
すると。
鏡の中にもう一人映る。
美羽だった。
彼女も焦っている。
そして。
鏡の表面に文字が浮かび上がる。
『逃げて』
玲司の全身に寒気が走った。
その時。
取調室のドアが開いた。
高瀬刑事が戻ってくる。
しかし。
何かがおかしい。
目が違う。
冷たい。
まるで別人だった。
高瀬刑事は微笑む。
「話は聞いた。」
玲司は後ずさる。
高瀬刑事はゆっくり近づく。
「君は余計なことをした。」
その言葉に玲司の血の気が引く。
「まさか……」
刑事は笑った。
「組織は大きい。」
「警察の中にも協力者はいる。」
玲司の身体が震える。
裏切り者。
壁の文字は本当だった。
高瀬刑事は続ける。
「USBはこちらで預かる。」
その瞬間。
取調室の電気がすべて消えた。
真っ暗。
玲司は息を止める。
すると。
どこからか少女の声が聞こえた。
結菜だった。
「走って!」
同時に。
真鍮の鍵が強く光る。
部屋全体が白い光に包まれる。
高瀬刑事が悲鳴を上げた。
「何だこれは!」
玲司は机の上のUSBを掴む。
そしてドアへ走った。
取調室を飛び出す。
廊下を駆ける。
背後から怒鳴り声。
「捕まえろ!」
警察官たちが動き出す。
しかし。
誰が味方で誰が敵なのか分からない。
玲司は必死に走る。
階段を駆け下りる。
出口が見えた。
その時。
玄関前に黒いスーツの男たちが立っていた。
三人。
全員が無表情。
組織の人間だった。
逃げ道が塞がれる。
玲司は立ち止まる。
終わった。
そう思った。
だが。
その瞬間。
背後から別の声が響く。
「動くな!」
若い刑事だった。
取調室で記録を取っていた刑事。
彼は銃を構えている。
だが向けている相手は玲司ではない。
黒いスーツの男たちだった。
「警察だ!」
男たちは逃げ出す。
若い刑事は玲司を見る。
「早く!」
玲司は驚く。
刑事は真剣な表情だった。
「君の話は信じる。」
「まだ味方はいる。」
玲司の目に涙が浮かぶ。
全員が敵ではなかった。
その瞬間。
外の空が真っ黒に染まった。
巨大な黒い影が空を覆っている。
不幸から生まれた怪異。
その存在が怒っていた。
組織が追い詰められている。
真実が明るみに出ようとしている。
だから。
最後の抵抗を始めたのだ。
空に赤い文字が浮かぶ。
『第二十四章 最後の配達』
結菜と美羽の姿が遠くに見えた。
二人は玲司を見つめている。
そして静かに頷いた。
決戦の時が近づいていた――。
第二十四章 最後の配達
空を覆う巨大な黒い影。
それは雲ではなかった。
不幸そのものだった。
人々の絶望。
悲しみ。
怒り。
憎しみ。
長い年月をかけて積み重なった負の感情が形になった存在。
玲司は警察署の前で立ち尽くしていた。
若い刑事が隣に立つ。
「早く車へ!」
だが玲司は動けなかった。
空に浮かぶ黒い影の中心。
そこに誰かが立っていた。
白い服を着た女性。
顔ははっきり見えない。
しかし。
玲司には分かった。
施設の女性職員だった。
第十八章で見た人物。
神崎美羽を守れなかったと泣いていた女性。
彼女は空の上で玲司を見下ろしている。
その瞬間。
真鍮の鍵が激しく光った。
そして。
鍵がひとりでに空へ浮かぶ。
光の筋となって黒い影へ向かう。
結菜の声が聞こえた。
「最後の扉。」
美羽の声も重なる。
「真実の場所。」
世界が白く染まった。
気がつくと玲司は知らない場所に立っていた。
古い施設だった。
しかし今まで見てきた施設とは違う。
時間が止まったような空間。
誰もいない。
静まり返っている。
そして廊下の奥に一つの部屋があった。
プレートにはこう書かれている。
『配達室』
玲司は息を呑む。
ここだ。
すべての終着点。
玲司は扉を開いた。
ギィ……
部屋の中央に机がある。
その上には大量の封筒。
黒い封筒。
白い封筒。
赤い封筒。
今まで玲司の元へ届いたものと同じだった。
そして壁一面には無数の名前。
被害者たちの名前。
数え切れないほど。
その中央に。
施設の女性職員が立っていた。
「あなたは……」
玲司が呟く。
女性はゆっくり振り返る。
優しそうな顔だった。
だが深い悲しみを抱えている。
「私は藤崎先生。」
施設で働いていた職員だった。
玲司の記憶が蘇る。
確かにいた。
いつも子供たちを気にかけていた人。
藤崎先生は静かに言う。
「私は生きている。」
玲司は驚く。
死んでいたわけではない。
だが。
どこか現実の人間とも違う。
藤崎先生は続けた。
「結菜ちゃんも。」
「美羽ちゃんも。」
「被害者たちも。」
「あなたを裁くために集まったわけじゃない。」
玲司は息を呑む。
先生は封筒を一枚手に取る。
そこには名前が書かれていた。
ある被害者の名前。
先生は悲しそうに言う。
「この人は人生を壊された。」
次の封筒。
「この人は家族を失った。」
さらに次。
「この人は夢を諦めた。」
封筒が増えていく。
増えていく。
増えていく。
部屋中を埋め尽くす。
玲司は涙を流していた。
先生は静かに言う。
「これが不幸の配達。」
「誰かが悪意を届けた結果。」
「人から人へ。」
「連鎖して広がった。」
その時。
部屋全体が揺れた。
巨大な咆哮。
黒い影だった。
外から怒りの声が響く。
藤崎先生は窓の外を見る。
「来た。」
玲司も振り返る。
窓の向こう。
巨大な黒い影が施設を包み込んでいる。
今までで最も巨大だった。
まるで世界そのものを飲み込もうとしている。
先生は玲司を見る。
「最後の配達先が残っている。」
玲司は震える。
先生は一枚の封筒を差し出した。
真っ白な封筒だった。
表には名前。
桐島玲司
玲司は息を呑む。
先生は頷く。
「あなた。」
玲司は封筒を受け取る。
恐る恐る開く。
中には手紙が一枚。
そこには被害者たちの言葉が書かれていた。
責める言葉ではなかった。
恨みでもない。
ただ。
逃げないでください。
向き合ってください。
償ってください。
そして。
同じ被害者を二度と生まないでください。
玲司は涙を流した。
その時。
結菜と美羽が現れる。
二人とも微笑んでいる。
結菜が言った。
「これが最後の配達。」
美羽も頷く。
「あなた自身への配達。」
玲司は理解した。
今まで届いていた封筒は恐怖ではなかった。
罰でもなかった。
罪から逃げ続ける玲司へ届けられた。
真実だったのだ。
その瞬間。
巨大な黒い影が施設へ突入してきた。
壁を破壊しながら。
天井を砕きながら。
咆哮する。
「終わらせるな!」
不幸そのものが叫んでいた。
玲司は立ち上がる。
もう逃げない。
そして壁に赤い文字が浮かぶ。
『第二十五章 逮捕』
いよいよ。
すべての決着が始まろうとしていた――。
第二十五章 逮捕
巨大な黒い影が施設を飲み込もうとしていた。
壁が崩れる。
天井が裂ける。
窓ガラスが砕け散る。
不幸そのものが形になった怪異は、最後の抵抗を始めていた。
しかし。
玲司はもう震えていなかった。
逃げないと決めたからだ。
結菜と美羽は玲司の両側に立っている。
藤崎先生も静かに頷いた。
「行きなさい。」
玲司は真っ白な封筒を胸に抱く。
そして一歩前へ進んだ。
その瞬間。
世界が白く染まる。
玲司が目を開く。
そこは警察署だった。
現実の世界。
取調室ではない。
応接室だった。
窓の外は朝。
すべてが静かだった。
机の向こうには若い刑事が座っている。
第二十三章で助けてくれた刑事だった。
「決心はついたか。」
玲司は深く息を吸う。
そして頷いた。
「はい。」
机の上にはUSBメモリ。
闇組織の証拠。
取引履歴。
関係者情報。
被害記録。
すべて入っている。
玲司はゆっくり話し始めた。
「俺は個人情報を売っていました。」
その言葉を口にした瞬間。
胸の奥にあった重い石が少しだけ軽くなった。
刑事は黙って聞いている。
玲司は続ける。
自分の罪を。
闇サイトとの関わりを。
被害者たちのことを。
知っている限りのすべてを話した。
数時間後。
話は終わった。
沈黙が流れる。
やがて刑事が静かに言う。
「ありがとう。」
玲司は首を横に振った。
「違います。」
「これは俺がやるべきことです。」
刑事はしばらく黙っていた。
そして。
立ち上がる。
「桐島玲司。」
その声は公的なものだった。
玲司は目を閉じる。
覚悟はできていた。
刑事は告げる。
「個人情報保護法違反、不正アクセス関連犯罪、その他の容疑であなたを逮捕します。」
玲司は頷いた。
逃げなかった。
抵抗もしなかった。
静かに両手を差し出した。
手錠が掛けられる。
カチリ。
冷たい音。
だが不思議だった。
恐怖はなかった。
その瞬間。
取調室の窓ガラスに結菜が映った。
白いワンピース姿。
涙を流している。
しかし。
その表情は穏やかだった。
美羽も隣にいる。
二人とも笑っていた。
玲司は小さく微笑む。
ありがとう。
そう言いたかった。
声にはならなかったが。
二人には伝わった気がした。
警察署の外。
パトカーへ向かう途中。
玲司は空を見上げた。
あの巨大な黒い影は見えない。
代わりに。
曇っていた空の隙間から光が差している。
その光の中で。
無数の人影が見えた気がした。
老人。
女性。
会社員。
学生。
今まで出会った被害者たち。
皆が静かに玲司を見ていた。
責めることもなく。
怒ることもなく。
ただ見送っている。
玲司は涙を流した。
許されたわけではない。
罪が消えたわけでもない。
だが。
ようやく始まったのだ。
償いが。
パトカーのドアが閉まる。
その瞬間。
玲司のポケットの中で何かが光った。
真鍮の鍵だった。
鍵はゆっくりと砕けていく。
役目を終えたように。
そして最後に。
小さな紙片へ変わった。
そこには赤い文字。
『第二十六章 裁判の日』
玲司はその文字を見つめる。
次に待つのは裁き。
本当の意味で罪と向き合う場所だった。
パトカーはゆっくり走り出す。
そして遠くの空で。
結菜と美羽の姿が光に包まれながら消えていった――。
第二十六章 裁判の日
季節は流れた。
玲司が逮捕されてから数か月。
拘置所の小さな部屋で、玲司は静かに朝を迎えた。
窓は小さい。
空も少ししか見えない。
だが、以前のような逃げたい気持ちはなかった。
今日が裁判の日だった。
自分の罪が正式に裁かれる日。
玲司はゆっくり立ち上がる。
係員に連れられ、法廷へ向かった。
法廷には多くの人がいた。
検察官。
裁判官。
傍聴人。
記者たち。
そして。
被害者たちの姿もあった。
玲司はその光景を見て胸が苦しくなる。
彼らは実在する。
データではない。
数字でもない。
人生を持った人間だ。
それを忘れていた自分を思い出す。
裁判が始まった。
検察官は淡々と事実を読み上げる。
個人情報売買。
不正アクセス。
犯罪組織への協力。
被害件数。
被害総額。
玲司は黙って聞いていた。
どれも事実だった。
否定できない。
やがて。
被害者の証言が始まった。
最初に立ったのは年配の男性だった。
第七章で見た老人。
実際の人物だった。
老人は震える声で語る。
「私は老後のために貯めた金を失いました。」
法廷は静まり返る。
「家族との関係も壊れました。」
「何度も死のうと思いました。」
玲司は俯いた。
老人は玲司を見た。
しかし。
怒鳴らなかった。
ただ悲しそうだった。
その方が辛かった。
次は若い女性。
ストーカー被害を受けた人だった。
「住所が漏れました。」
「毎日恐怖でした。」
「外へ出られなくなりました。」
涙を流しながら話す。
玲司も涙をこらえた。
証言は続く。
会社員。
学生。
主婦。
それぞれが失ったものを語る。
人生。
仕事。
信頼。
家族。
夢。
どれも取り戻せないものばかりだった。
そして。
裁判官が玲司に尋ねる。
「被告人は何か言いたいことがありますか。」
法廷中の視線が集まる。
玲司はゆっくり立ち上がった。
手が震えている。
声も震えていた。
だが。
逃げなかった。
「申し訳ありませんでした。」
深く頭を下げる。
法廷は静かだった。
玲司は続ける。
「俺は、自分が生きることしか考えていませんでした。」
「苦しんでいる人がいることを見ようとしませんでした。」
「皆さんの人生を傷つけました。」
涙が落ちる。
「許されるとは思っていません。」
「でも。」
玲司は顔を上げた。
「残りの人生を使って償います。」
それが今の本心だった。
その瞬間。
法廷の後ろに二つの人影が見えた。
結菜。
そして美羽。
他の人には見えていない。
二人は静かに立っている。
結菜は微笑んだ。
美羽も頷く。
玲司の目から涙が溢れた。
午後。
判決が言い渡される。
裁判官は長い説明を行った。
犯罪の重大性。
被害の大きさ。
組織への協力。
そして。
自首したこと。
捜査協力したこと。
反省の態度。
すべてが考慮された。
やがて。
判決が告げられる。
「被告人を懲役五年に処する。」
法廷は静まり返る。
玲司は目を閉じた。
重い判決だった。
だが。
当然だと思った。
これが自分の罪だ。
受け入れなければならない。
裁判が終わる。
法廷を出る直前。
玲司は振り返った。
結菜と美羽が立っている。
二人とも笑顔だった。
結菜が言う。
「逃げなかったね。」
美羽も微笑む。
「約束を守った。」
玲司は小さく頷く。
そして。
二人の姿は光の中へ溶けていった。
その夜。
拘置所の部屋へ戻ると。
机の上に一枚の紙が置かれていた。
もちろん現実にはあり得ない。
だが。
玲司には分かった。
最後の封筒の続きだ。
そこには赤い文字。
『第二十七章 償い』
玲司は静かにその文字を見つめる。
裁判は終わった。
だが。
本当の償いはこれから始まるのだった――。
第二十七章 償い
刑務所の朝は早かった。
午前六時。
起床のベルが鳴る。
玲司は静かに目を開けた。
判決から数か月が経っていた。
懲役五年。
短くはない。
だが玲司は受け入れていた。
これは自分が背負うべき時間だと。
刑務所での日々は規則正しかった。
起床。
点呼。
作業。
食事。
消灯。
同じことの繰り返し。
最初の頃は苦しかった。
自由がない。
孤独だった。
だが。
不思議なことに以前の孤独とは違った。
逃げていないからだ。
過去からも。
罪からも。
自分自身からも。
ある日。
玲司は刑務作業で封筒を作っていた。
紙を折る。
糊をつける。
整える。
単純な作業だった。
しかし。
封筒を見るたびに思い出す。
黒い封筒。
白い封筒。
赤い封筒。
結菜たちが届けた真実。
玲司は手を止める。
あの封筒がなければ。
自分は今も逃げ続けていただろう。
夜。
独房で過ごしていると。
窓から月明かりが差し込んだ。
玲司は空を見上げる。
すると。
ふと結菜の声が聞こえた気がした。
「頑張ってるね。」
玲司は小さく笑う。
本当に聞こえたのか。
それとも幻か。
分からない。
だが。
少しだけ心が温かくなった。
季節は流れていく。
一年。
二年。
三年。
玲司は刑務所の中で勉強を始めた。
法律。
情報セキュリティ。
被害者支援。
以前の自分なら興味も持たなかった分野。
しかし今は違う。
知りたかった。
二度と同じ過ちを繰り返さないために。
そして。
出所した後。
少しでも誰かの役に立つために。
四年目の冬。
玲司は刑務所の図書室で本を読んでいた。
その時。
職員が呼びに来た。
「桐島。」
「面会だ。」
玲司は驚く。
自分に面会へ来る人などいないと思っていた。
家族はいない。
友人もほとんどいない。
面会室へ向かう。
ガラス越しに座っていたのは。
見知らぬ女性だった。
三十代くらい。
優しい目をしている。
玲司は席に着いた。
女性は緊張した様子で言った。
「初めまして。」
「私は……」
一度言葉を止める。
そして。
「被害者の家族です。」
玲司の心臓が止まりそうになる。
玲司は俯いた。
謝る資格などない。
何を言えばいいのか分からない。
だが女性は続けた。
「今日は責めに来たわけじゃありません。」
玲司は顔を上げる。
女性は静かに言った。
「あなたが自首したこと。」
「裁判で逃げなかったこと。」
「ニュースで知りました。」
目には涙が浮かんでいる。
「私たち家族は今も苦しんでいます。」
その言葉は重かった。
玲司は深く頭を下げる。
「申し訳ありません。」
女性は頷く。
そして。
思いもよらないことを言った。
「だからこそ。」
「出所したら。」
「同じ被害者を増やさないでください。」
玲司は目を見開いた。
女性は涙を流しながら微笑んだ。
「それが私たちの願いです。」
面会が終わる。
玲司は独房へ戻った。
涙が止まらなかった。
許されたわけではない。
傷は消えない。
だが。
前へ進むことを願ってくれる人がいる。
その事実が胸に響いた。
そして。
五年目の春。
桜が咲く季節。
玲司は出所の日を迎える。
長かった。
本当に長かった。
だが。
まだ終わりではない。
これからが本当の意味での償いだ。
刑務所を出る前夜。
机の上に一通の封筒が置かれていた。
もちろん現実にはあり得ない。
だが玲司は驚かなかった。
白い封筒だった。
優しい色だった。
そこには赤い文字。
『第二十八章 許しの手紙』
玲司はそっと微笑む。
もう恐怖はなかった。
封筒は不幸を届けるものではない。
未来へ進むための道しるべになっていたのだから。
第二十八章 許しの手紙
出所前夜。
静かな独房の中で、玲司は白い封筒を見つめていた。
これまで届いた数々の封筒。
黒い封筒は恐怖を。
赤い封筒は真実を。
そして白い封筒は希望を運んできた。
玲司はゆっくり封を開いた。
中には一通の手紙が入っていた。
見覚えのない字だった。
差出人の名前は書かれていない。
玲司は静かに読み始めた。
桐島玲司さんへ
この手紙を書くかどうか、ずっと悩んでいました。
私はあなたの行為によって人生を大きく変えられた人間の一人です。
正直に言います。
私はあなたを憎みました。
許せませんでした。
家族も傷つきました。
毎日が苦しかったです。
玲司の胸が痛む。
だが手紙は続いていた。
裁判のニュースを見ました。
あなたが逃げずに罪を認めたことも知りました。
それでも私は簡単には許せませんでした。
けれど時間が経つうちに思ったのです。
憎しみだけでは前へ進めないと。
玲司の目が潤む。
私は被害者です。
その事実は変わりません。
でもあなたもまた、過去の傷や孤独に苦しんでいたことを知りました。
だからといって犯罪は許されません。
けれど人は変わることができると信じたいのです。
手紙を持つ手が震える。
どうか残りの人生を使ってください。
同じ被害者を生まないために。
誰かを助けるために。
それができるなら。
私はあなたを完全には許せなくても。
前へ進むことを願います。
最後に。
幸せになってください。
そして誰かを幸せにしてください。
手紙はそこで終わっていた。
玲司は顔を覆った。
涙が止まらなかった。
被害者からの言葉だった。
優しさではない。
同情でもない。
苦しみを知った人だからこそ書けた言葉だった。
翌朝。
出所の日。
刑務所の門の前に立つ。
空は晴れていた。
五年前とは違う景色に見える。
自由になった。
だが。
本当の意味ではこれからだ。
玲司は一歩前へ進む。
その時。
春の風が吹いた。
桜の花びらが舞う。
ふと前を見る。
結菜がいた。
白いワンピース姿。
少し離れた場所で微笑んでいる。
その隣には美羽もいた。
制服姿のまま。
二人とも穏やかな表情だった。
玲司は立ち止まる。
「ありがとう。」
自然に言葉がこぼれた。
結菜は微笑む。
美羽も頷く。
そして。
二人の姿は光の中へ溶けていった。
今度こそ。
本当に。
安らかに。
玲司は空を見上げた。
不思議だった。
あれほど恐ろしかった怪異が。
今では悲しみと願いだったと分かる。
彼女たちは復讐したかったのではない。
玲司に罪と向き合わせたかった。
未来を選ばせたかったのだ。
その日の夕方。
更生支援施設へ向かう玲司の鞄の中に、一枚の紙が入っていることに気づいた。
いつ入ったのか分からない。
白い紙。
そこには赤い文字。
『第二十九章 再出発』
玲司は小さく笑う。
そして前を向いた。
今度は逃げるためではない。
歩き出すために。
誰かの未来を守るために。
自分の未来を作るために。
新しい人生が始まろうとしていた――。
第二十九章 再出発
春の風が吹いていた。
更生支援施設の前で、玲司は立ち止まる。
五年前。
児童養護施設を出た時と似た景色だった。
だが。
あの頃とは違う。
手には仕事の紹介資料。
鞄の中には被害者からの手紙。
そして胸の中には、自分の罪と向き合った記憶があった。
玲司はゆっくり施設の扉を開く。
更生支援施設での生活は決して楽ではなかった。
元受刑者という肩書きは重い。
面接を受けても断られる。
履歴書を見た瞬間に表情が変わる人もいた。
何度も心が折れそうになった。
「やっぱり無理なのかもしれない。」
そう思った夜もある。
しかし。
玲司は諦めなかった。
逃げないと決めたからだ。
数か月後。
玲司は小さなNPO法人で働き始めた。
仕事は情報セキュリティ啓発活動だった。
学校。
高齢者施設。
地域イベント。
そこで個人情報流出の危険性や詐欺被害の防止について話す。
最初は怖かった。
自分には資格がないと思った。
だが。
だからこそ伝えられることもあった。
玲司は講演会で言う。
「私は過去に加害者でした。」
会場が静まり返る。
だが玲司は続ける。
「だからこそ分かります。」
「一つの情報が誰かの人生を壊すことを。」
人々は真剣に耳を傾けた。
活動は少しずつ広がった。
被害者支援団体との交流。
学校での講演。
ネット犯罪防止セミナー。
玲司は忙しくなった。
だが充実していた。
誰かの役に立てることが嬉しかった。
ある日。
講演が終わった後。
一人の少年が近づいてきた。
中学生くらいだった。
どこか昔の玲司に似ている。
少年は俯きながら言った。
「俺、施設で育ってるんです。」
玲司の胸が揺れる。
少年は続ける。
「将来が不安で……。」
その言葉は、かつての自分そのものだった。
玲司は少し笑う。
そして言った。
「大丈夫。」
少年が顔を上げる。
玲司は続けた。
「辛いことはある。」
「理不尽なこともある。」
「でも。」
「誰かを傷つける道だけは選ばないでほしい。」
少年は静かに頷いた。
その目には少しだけ希望が宿っていた。
その夜。
玲司は帰り道を歩いていた。
空には満月。
穏やかな夜だった。
公園の前を通り過ぎる。
すると。
ブランコがゆっくり揺れていた。
風もないのに。
玲司は立ち止まる。
そこには誰もいない。
だが。
一瞬だけ。
結菜と美羽の姿が見えた気がした。
二人は並んで座っている。
笑顔だった。
とても穏やかな。
玲司も微笑む。
「見ててくれ。」
小さく呟く。
「俺、頑張るから。」
その瞬間。
ブランコは静かに止まった。
帰宅すると。
机の上に一通の封筒が置かれていた。
玲司は驚かなかった。
もう分かっている。
最後の封筒だ。
真っ白な封筒。
そこには金色の文字で書かれている。
『第三十章 幸せを届けにきました』
玲司は封筒を胸に抱く。
長い旅だった。
不幸から始まった物語。
罪と向き合う物語。
そして。
幸せへ向かう物語。
いよいよ最後の扉が開こうとしていた――。
第三十章 幸せを届けにきました
春が過ぎ。
夏が訪れ。
秋が去り。
そして冬。
玲司は静かに歩いていた。
五年前とはまるで違う人生だった。
今の彼は、被害者支援や情報セキュリティ啓発活動に携わっている。
決して裕福ではない。
有名でもない。
だが。
胸を張って生きていた。
ある日。
玲司は講演会を終えた後、一人の高齢女性から声を掛けられた。
「ありがとう。」
女性は涙ぐんでいた。
玲司は驚く。
「私の友人が詐欺被害に遭いそうだったんです。」
女性は微笑んだ。
「でも、あなたの講演を聞いていたおかげで助かりました。」
玲司は言葉を失う。
小さなことかもしれない。
だが。
確かに誰かを守れた。
昔の自分なら決してできなかったことだった。
その夜。
玲司は自宅へ帰った。
小さなアパート。
決して豪華ではない。
だが温かい部屋だった。
机の上には一枚の写真がある。
児童養護施設の卒業アルバム。
そして。
手紙。
被害者から届いた手紙。
何度も読み返した大切な手紙。
玲司は椅子に座る。
窓の外では雪が降り始めていた。
静かな夜だった。
その時。
玄関で小さな音がした。
コトン。
玲司は立ち上がる。
胸が少し高鳴った。
どこか懐かしい感覚だった。
玄関へ向かう。
ドアを開ける。
誰もいない。
ただ。
一通の封筒だけが置かれていた。
真っ白な封筒。
玲司は微笑む。
最後の封筒だと分かっていた。
部屋へ戻る。
ゆっくり封を開く。
中には一枚の便箋。
そこには美しい文字でこう書かれていた。
玲司へ
長い旅、お疲れさま。
あなたはたくさん間違えました。
たくさん人を傷つけました。
それは消えません。
これからも消えません。
でも。
あなたは逃げませんでした。
向き合いました。
償いました。
そして誰かを守る道を選びました。
だから。
もう大丈夫です。
玲司の目から涙がこぼれる。
文字は続いていた。
不幸を届ける物語は終わりです。
これからは。
幸せを届けてください。
最後に名前が書かれている。
雨宮結菜
神崎美羽
玲司は手紙を胸に抱いた。
涙が止まらない。
だが。
それは悲しい涙ではなかった。
その瞬間。
部屋の中が柔らかな光に包まれた。
玲司は顔を上げる。
そこに二人が立っていた。
結菜。
そして美羽。
初めて出会った時のような悲しい表情ではない。
穏やかで。
優しくて。
幸せそうだった。
結菜が笑う。
「ありがとう。」
美羽も微笑む。
「約束守ってくれたね。」
玲司は涙を流しながら頷く。
「こちらこそ。」
「ありがとう。」
二人は嬉しそうに笑った。
そして。
ゆっくりと光の中へ溶けていく。
今度こそ。
本当に。
安らかな旅立ちだった。
窓の外。
雪はいつの間にか止んでいた。
雲が晴れる。
夜空には満天の星。
玲司はベランダへ出る。
冷たい空気が心地よい。
空を見上げる。
すると。
二つの光が夜空へ昇っていくのが見えた。
まるで結菜と美羽のように。
玲司は微笑んだ。
翌朝。
玲司は新しい講演会へ向かう。
会場にはたくさんの人が集まっている。
学生。
高齢者。
保護者。
皆が話を聞きに来ていた。
玲司は壇上へ立つ。
そして話し始める。
自分の過去を。
過ちを。
そして。
やり直すことの大切さを。
会場には真剣な眼差しが並んでいる。
玲司は思う。
きっと。
人は変われる。
どれほど遠回りをしても。
どれほど大きな罪を背負っていても。
向き合い続ければ。
前へ進むことはできる。
講演が終わる。
拍手が響く。
玲司は深く頭を下げた。
その時。
窓から一陣の風が吹き込んだ。
柔らかく。
温かい風だった。
そして。
どこからか声が聞こえた気がした。
「幸せを届けにきました。」
玲司は空を見上げる。
そして静かに微笑んだ。
完
『不幸を届けにきました』