
疾風怒濤神猫戦隊
あらすじ
主人公の上長悟は、幼い頃に交通事故で死んだ黒猫に触れたことで、黒猫の魂と共に生きる「神猫」となる。高校生になった悟は、猫のような高い身体能力を持ちながら平凡な日常を送っていたが、美少女の鹿野紅子や新任教師の赤屋南美との出会いをきっかけに、自分が特別な存在であることを知る。南美から、十の生を得た猫は「神猫」と呼ばれ、人知れず世界を守る使命を負っていると告げられた悟は、黒猫の倖と力を合わせて戦うことになる。恋愛感情が絡む紅子との関係や仲間探しに悩みながらも、悟は神猫としての運命に向き合い、人々を守る戦いへと踏み出していく青春ファンタジーである。
プロローグ
猫は九つの生を得るという。では、十の生は……?
一 転生

その日、名もなき黒猫は九回目の生を全うした。
いや、正確には、全うはできなかった。
他の猫よりも速く動ける、速く走れると思っていたのに、道路を横切ったら車がクラクションを鳴らしながら突っ込んできた。ブレーキは踏んでいた。でも間に合わなかった。
人間は悪くない。だって、黒猫は信号を守らないから。青だった。黒猫が悪い。
悪いけれども、人間に罪悪感をなすりつけてしまう。人間は殆どが青ざめた顔をしていた。不可抗力とはいえ、目の前で動物を殺したのだ。無理もない。
きっと、事実を知った後は阿鼻叫喚の地獄絵図が完成するのだろう。
――九度目の生は、もうちょっと猫生を謳歌したかったものだ。
そう思いながら、血を撒き散らしつつ黒猫は宙を舞い、地面に横たえた。
黒猫は車に轢かれて瞬殺。とうに息絶えている。
車を止めた運転手が震える手でドアを開けて、黒猫の安否を確認した。
父親と思しき男の顔色は悪く、後味の悪い思いをしている。
後ろの席に座っていた少年が、父親の元へ駆け寄る。
父親は唇を噛んで首を横に振った。
「駄目だ、もう……」
「死んじゃったの?」
少年は黒猫に手を差し伸べた。
黒猫は動く気配がない。死体になってしまって、動けないのだ。
少年はしゃくり上げて涙ぐむ。誰よりも黒猫の死を嘆き悲しみ、慟哭した。
彼は多分、猫が好きだったのだろう。だからこんなに鼻水も垂らして、泣きじゃくっているのだ。
黒猫は動かなかった。でも、黒猫の心はまだ、死んではいなかった。
少年が黒猫を持ち上げると、黒猫は光り輝いた。蛍の光に包まれたように、眩く美しい光を放っている。何が起きたか、少年も父親もわからなかった。こんな非科学的なことが起きるなんて、誰が想像したのやら。
少年の涙はいつの間にか引っ込んでいた。
そして、光り輝いていたはずの黒猫の姿が刹那に消える。少年は左右を見た。黒猫はどこにいったのか。四つん這いになって、少年は手で地面を探る。
黒猫が急にいなくなってしまって、少年は口を噤んだ。
「……うう、どこ?」
「悟、お前……」
父親が少年を悟と呼んだ。
父親は悟を指差して瞠目している。
悟が自分を見て、父親が驚いていることに気がつくと、自分の身体に視線を落とした。手や胴体や脚、自分の身体全体が光っていることがわかった。
黒猫を包んだ光と全く同じもの。
悟は湧き上がってくる昂揚とそれに匹敵する恐怖に堪え切れずに声を漏らした。
「なに、これ?」
父親が悟の肩を掴んで揺さぶり、逼迫した目つきで乱暴に問う。
「どうしたんだ? おい、どうした? どうなってる?」
悟は手の平を見つめて虚ろな声で呟く。
「にゃんこが……」
悟にはわかった。
黒猫が自分の中にいることが。
だがそれを誰かに打ち明けてはならないことも同時に理解できた。
父親は感づくだろうか。悟はドキドキしながら父親を見た。
「どうした?」
いいや、気づけない。
摩訶不思議な出来事を受け入れられるほど、父親は世の不思議に遭遇してはいないから。
テレビで観るような怪奇現象だって、あれは作り物だと豪語するくらいで、全く信じない。言っても、信じやしない。
だったら、これからずっと守り抜く。
新たな生を得られた黒猫と共に生きていく。
一人と一匹で人生と猫生を同時に歩んでいこう。
幼い少年は、決意を固めた。父親に初めて嘘を吐く。
「大丈夫。にゃんこはきっと、成仏したよ」
「それなら……よかった」
父親は安心したような顔で、微笑んだ。
傍にいる。
二 神猫
数年後、上長悟は高校生になった。
背はすらっと伸びて、縦に長い。一部の女子よりもスリムだとかいわれる始末。
身体能力は異様に高く、異常に青魚が食べたくなってきていた。
無性に誰かの前を横切りたくなるのも、自分の脚の速さを自慢したくなるのも、きっとあの黒猫のせいだ。
パンをかじりつつ、玄関で靴を履き替える。
「いってきまーす」
悠長に挨拶している暇もないのに、いつも挨拶だけは忘れない。
父親が返事をしてくれたので、悟は慌てて玄関を開けて登校する。
悟の家は父子家庭だった。母は幼くして病気で亡くなってしまい、父親が男手一つで育ててくれた。仕事に就きやすい男でよかったのか、それとも慈愛と母性に満ち満ちた女の方がよかったのかは悟にもわからない。
悟には、どちらもいた方が、いいに決まっていた。
でもそんなことは、欲張りだと悟は思っていた。両親がいて幸せな人も多いが、それ以上に片親だったり親がいなかったりするこどももたくさんいたから。痛みを分かち合える余裕がある。父親がきちんとしつけて、強い子に育てたから。
どんな逆境にも負けない、強い子に。
(母親がどんなのかっていうのも、よくわかんないし)
塀を飛び越えて、四つん這いで走っていきたい衝動に駆られ、悟は首を大いに振った。
目の前を走る金髪の少女に追いつく。少女は麗しい顔をこちらに向けて微笑んだ。
「おはよう、悟」
白銀の雪のように真っ白な肌。長く縁取られた金の睫毛。大きくて丸い金眼。
白磁の肌に映える紅色の小さな唇。
どこを見ても魅惑的で蠱惑的な抜群のスタイル。
腰まで届くさらさらのストレートヘアー。
百合の花の髪飾りまでもが彼女の魅力を一層引き立てる。
彼女の顔を一目見れば、女子に耐性のない悟はドギマギしてしまう。
「お……おは……よう」
鹿野紅子は猫島学園1‐2のマドンナ。なのに、誰に対してもフランクに話しかけ、誰の名前も呼び捨てにする。
取り分け人気を誇っているわけでもない、さして格好いい容姿でもない悟に対しても優しげに声をかけてくれる。悪く言えば、八方美人な子だ。
他の女子を名前で呼ぶのは恐れ多いが、彼女だけは特別。彼女自身が名前で呼ぶことを許可しているから。高嶺の花のはずだけど、近くて遠くない。
告白したら、ふられるだろうが。
気を落ち着けて、悟も彼女を名前で呼ぶ。
「……紅子」
紅子は気づいた素振りを見せず、笑顔で悟の背中を叩く。
「また遅刻寸前だねぇ!」
「ははは、お前もな!」
彼女の顔を見ずに悟も紅子の背中を叩き返した。
紅子はちょっとだけむすっとしている。
「お前じゃないでしょ?」
「はいはい、紅子さん」
と、こんな風にじゃれ合っていると、傍から見れば彼氏彼女のように見えるのだが、紅子にそんな気は一切ないと思っている。誰とでもこんな感じだからだ。
何年経っても彼女ができない悟は、トホホと心中で涙を流した。全く相手にされないとわかっているから、優しくされると余計に心苦しい。優しさは罪だ。無自覚は罪だ。
「悟、急げー!」
「あいよー」
紅子が颯爽と走る。脚力を抑えて悟も紅子の後をついていく。
堤防のある薄汚れた川の橋を渡り、商店街を突っ切って大通りに出たら学校が見えてくる。学校は大自然の森に取り囲まれていて、山近くにある。
距離にしておおよそ二㎞前後。ジョギングには最適の距離だ。
紅子がいなければ、アクセル全開にして塀の上を走り、学校まで一っ跳びの勢いでいけるのに。
美少女と一緒に登校できて嬉しいのは山々だが、したいことができなくて少しばかり遺憾であった。
「遅い遅い! 置いてっちゃうよ!」
黒猫が憑いてからというもの、性欲よりも自己顕示欲、食欲が勝る。全く男らしくない。
でも性欲だって、時には勝るのだ。
(こんなだから、彼女できないのか……)
興味はあるのに、奥手なところも瑕疵だ。全く以て男らしくない。
中学生活では灰色だった人生を、高校生になって謳歌することはできるだろうか。
滑り込みセーフで、悟と紅子は学校に到着。
正門前に立っていた生活指導の教師が「またお前らか」とカンカンに怒っていたが、そんなのはどこ吹く風だ。適当にしらを通してさっさと教室にいく。
昼休み中や放課後に呼び出されたりはしないだろう。
悟と紅子は1‐2の教室の前で相談する。
教室内は喧騒の嵐だった。生徒は喧しく友人たちと話している。あれだけ煩くしているなら、こちらの話し声が彼らに聞こえることはないだろう。
断腸の思いで、悟は紅子に話を持ちかける。全ては敵を作らないため。
「一緒に入ったら、怪しまれると思うんだよ」
「どうして?」
「そりゃおま……紅子が人気者だから」
悟はため息をついて、後頭部をかく。
わかっていて言わせているような気がしなくもなかった。
それを聞き、胸の前に綺麗な手を翳した紅子は、頬を紅くして目を逸らす。
「わたしはべつに……いいんだけどなぁ」
「……へ?」
(今、何て言った? べつにいいって……どう……)
はっきり聞こえていた。
悟がその言葉の真意を理解する時間も与えずに、紅子はキッと眉をつり上げて声を強める。思考を遮るかのような言動だった。
「気にしないでいいよ。誰か何か言ってきたら、わたしが悟を守ってあげるから」
「それは……どうも?」
確かにほっそりとしてはいるが、見た目からしても紅子よりは体重もあるし、身体能力も申し分ない。
守られるほど弱く見えるのだろうか。だとしたら残念だなと悟は思った。
ふつうは男が女を守ってやらないと、と思うので、女に守られるのは男として情けない。女だって、男に守られてばかりじゃいやかもしれないが、好きな女の前では、可愛い女の前では、男は格好つけたいのだ。
紅子に守られる、そんな機会が絶対にこないことを祈る。
紅子が先に教室に入り、悟は間を置いてから後に続いた。悟が中に入ると、悪友たち三人が手を振って悟に声をかける。
「遅かったな! 今日も遅刻ぎりぎりかー?」
悟は席に着いて、悟の席近くに座る悪友たちの方を向いて話をした。
「何とか間に合った。俺、夜行性だから」
猫は夜目が利く。悟が幼い頃見た黒猫も、夜行性だった。
人間に生活リズムを合わせる猫もいるらしいが、彼は野良猫で夜間によく徘徊していた。
夜行性と言ってしまったのは失言だ。でも悪友たちは揚げ足を取るのはあまりしない。それとなく言い換えて話を続ける。空気の読める悪友なのだ。
何故悪なのかは、今にわかる。
悪友の一人が机をバンバン叩いて大笑いしている。いつものように遅刻寸前までゆっくりしてしまう悟を嘲って、大声を出す。みんな煩いので、あまり騒がしくないけれども。
「夜型人間やばし!」
「早く寝ろよォ! モーニングコールしてやろうか?」
ニヤニヤと嫌味に笑って、彼女のできない悟をいじり倒すからだ。
もちろん、冗談であることはわかっている。たまに度が過ぎるいじりをされることもある。それでも、悟はそんな悪友たちを嫌いにはならない。
彼らにもいいところがたくさんあって、困った時は助けてくれることを知っているから。
「うわ、やめろよ。気持ち悪いな。そんなことされたら、冗談でも吐くわ」
悪友の一人が涙目になって腹を抱え、悟を指差す。
「ぷぷぷー! おモテになれない悟さんはァ、男にモーニングコールされる想像しかできなくて、可哀想なやつー! お前実はアッチなんじゃね?」
プチッと切れた。
温厚な悟だって、そこまで言われて言い返さない道理はない。
悟は机を握り拳で叩く。恋愛事にいちゃもんをつける気はないが、失礼にも程がある。
「何だよそれ。俺がいつそんな素振り見せたよ? 勝手に決めんな。俺だってなあ、好きでこんなモテない人生送ってるわけじゃないんだぞ? それを言うお前だって、浮いた話聞いたことねえよ! 彼女の一人くらい作ってから言えよ!」
予想外に真に受けられ、怒鳴られて悪友の一人は茫然としていた。
「ア……ハイ。すんませんした。俺が全面的に悪かったっす」
呆気に取られている悪友の様子を見て、悟も我に返ってすぐに謝った。
「わ、悪い。俺も言いすぎた」
ついむきになって、空気を読まずに本気になって正論をぶつけてしまった。
二人は罰が悪いように俯く。そんな重苦しい空気を打ち破るように、悪友の一人が弾んだ声で話題を転換した。
「そ、そういえばさー。今日、新任の教師がくるらしいんだけど、お前ら知ってる?」
「へえ。そうなのか」
悟がその話に乗る。
ほっとしたように、悪友は頷いて話を続ける。目を輝かせて両手でガッツポーズ。
「それもとびっきりの美人で、超若いネエチャンらしい!」
「「「おおおお!」」」
三人は仲良くハモった。さっきまでの険悪なムードを一切感じられないくらい、仲のいい唱和だ。悟をからかいすぎた悪友と目を合わせると、二人して笑った。
「担当は国語だってよ。ぶっちゃけ、保健体育がよかったよな」
「激やばし。保健体育なら、王道のアレも……」
「教えてもらえるかもしれなかったよなァ……」
「王道のあれっていうと……やっぱ……」
ごくりと唾を飲み込む。
女子のいる教室で口汚い単語を発してよいものか。口にはしない。
みんなは頭の中で理想の教師とのシチュエーションを思い描いた。一人は鼻の下を伸ばし、一人は頬を赤らめ、一人は鼻血を出し、一人は最初こそ想像していたものの、ものの見事に別のものに乗り換えた。言わずもがな、最後が悟だ。
(俺は教師より生徒と……)
ちらっと斜め右後ろにいる紅子に視線をやった。
視線に気づくというか、紅子はずっと悟を見続けていたらしい。
悟は怖くなって、視線を逸らしてしまった。紅子の吸い寄せるような鋭利な目と目が合ってしまい、心臓がバクバクしている。
何故紅子は悟を凝視していたのだろう。もしや、さっきの会話が聞こえていたのか?
あの眼は、そう物語っていた。お前たちの会話は丸聞こえだと。
こんなに騒がしい教室で、悟たちの会話を聞き逃さないなんて、明らかにおかしい。最初から聞くつもりだったとしか思えない。紅子は何を考えているのか、いまいち掴めなかった。普段から飄々としていて、掴みどころがないからかもしれない。
まさかとは思うが、この中の誰かを好いているのではないか――。
(俺……は、ないよな、多分……)
悟の胸が痛んだ。
自分以外の誰かだったらと思うと、完全に敗北者だ。
悟は紅子に一目惚れだったから。紅子が悟をどう思っているかは、悟にはまだわからない。弟みたいに思われている可能性だって、なきにしもあらず。
思案しているうちに、教室のドアが開いて担任が入ってきた。
朝礼をすませて、新任の国語教師を呼ぶ。
そっと入ってきた新任の教師は悪友の話の通り、美人だった。
ふわふわした茶髪のポニーテールで、眼鏡をかけているグラマラスな女性だった。
V字型の胸元の空いたノースリーブから覗く黒いシャツ。タイトスカートも黒いタイツもポイントが高い。
年上好きだったらあの高いヒールで踏んでくれと懇願し、イチコロにされたことだろう。
(いやいやそんな趣味はないって)
「赤屋先生。自己紹介、よろしくね」
「はっ、初めまして、猫島学園の皆さん。今年の四月で二十三歳になりました……」
緊張しているのか、声が上ずっていてかなりテンパっている。ここには1‐2の面々しかおらず、猫島学園に通う生徒全員ではない。
「赤屋南美です。は、初めてなので……よろしくお願いします!」
男子生徒が歓喜の雄叫びを上げた。
多分、ある一部分を脳内で再生しリピートしているのだろう。
猫島学園の男子生徒は特に女性に対して興味津々なのだった。
何せ、この学園に集まる女性は美人が多い。女子生徒の大半は美少女だし、妄想も捗っているはずだ。彼女ができなくても目の保養さえあればいいという生徒もいる。
担任が手を叩いて生徒の注意を促す。
「静かに」
すぐには黙らないのが1‐2の生徒たちだ。
担任の言うことを聞いてもテストの点数は増えない。授業態度が悪いと通知表に記載されて親を呼ばれて三者面談させられるだけだ。それを忌避する生徒もいれば、べつに構わないと高を括っている生徒もいる。人生、楽しんだもの勝ちなのだ。
担任はすうと息を吸って、大音声でみんなを途端に黙らせる一言を放つ。
「静かにせんと……テストの点数を読み上げる!」
こればっかりはみんなもいい子ぶって姿勢を正した。
成績がいいはずの生徒でさえびっくりさせる。泣く子も黙る担任の一喝。本気を出した担任の怒声は、耳がキーンとなってとても痛い。従わざるを得なくなる。
教室がしんと静まり返った。
周りを見て確認してから、南美は黒板に名前を書いた。顔だけを向けて微笑む。
「赤屋南美はこう書きます。私も皆さんの名前頑張って覚えるので、皆さんも、私の名前覚えてくださいね」
生徒たちの大半は口々に返事をした。
返事をしない生徒は話を聞いていないわけではなくて、単に恥ずかしいから返事ができないだけなのだ。悟もそのうちの一人。だけど、頷いてはいる。バチッと南美と目が合ってしまった。
(……い?)
南美はにっこりと笑みを浮かべて、顔の横で手をひらひらと動かしている。
あれはどう見ても悟の方を向いている。悟の近くに座っている男子生徒が勘違いして、ときめいていた。
「あ……! 俺、今日死んでもいい……!」
真っ赤な顔で胸を押さえて椅子ごと後ろに倒れた。
絶頂した生徒が倒れても、他の生徒は慌てた様子を見せない。それどころか、全く意に介さない。心優しい悟も一瞥したのみで彼の心配をしていない。新任の南美だけが口元を手で覆い、心配していた。
「大変! 先生、生徒さんが……。保健室へ連れていかないと」
「ああ、あれは病気みたいなもんですよ。通常運転です。ほっといたら、直に帰ってきますよ。ここの生徒は変わりもんが多くてね」
「そうなんですか……?」
南美は戸惑いを隠せない表情をした。彼女がこれからどう猫島学園の色に染まっていくのが、楽しみだ。性格が変わってしまったら、責任を感じるが。
一限目の授業は国語なので、担任は教室から出て職員室に向かい、南美が差し棒を持って初授業を執り行った。説明がうまくてよく耳に入る。生徒たちからは絶賛の嵐だった。
近くの席から悪友がこっそりと話しかけてくる。
「先生、教えるのうまいよな。ベッドでもうまいのかもしんねえな」
「……はは。それはどうだろうな……」
南美は後頭部を撫でてへらへらと笑っていた。頼りなさそうに見えるのに、意外と有能だった。緊張が解けて本来の力を発揮したのだろうか。
「ありがとうございますー」
授業後の休み時間に赤屋に呼び出された。二人きりで話がしたいと言ってきたのだ。
悟は名指しされたことに戸惑いを隠せない。
「俺ですか?」
「何で悟だけ……ずるいぞ」
「俺だって知らないし」
「ふふ。あなただけですよ」
南美と二人で向かった先は、校舎裏。
草木が生い茂り、植物部の飼育している花々が植えられた花壇が並べられている。
人けのない、鬱蒼とした場所で、夜だとちょっぴり怖い。肝試しでもできそうだ。
悟は何を言い出されるのか、ドキドキしている。
(告白……とかはないよな、こういう状況で)
一目惚れされるような魅力的な容貌でもなかった。
「率直に問いましょう」
勿体つけて南美は目を閉じて眼鏡を外し、髪ゴムを取って髪を下ろす。
髪を振り乱して重々しく目を開く。
柔らかそうな表情が、打って変わって厳しそうな表情になった。
親しみやすさがなくなって、華麗さが表れた。悟を冷ややかな目で見つめて腕を組む。如何にも年上の女性っぽい仕草だ。同級生の女子生徒とは気迫が違う。
南美は髪をさらっと手ですいて肩の後ろに流した。
「上長悟君。あなた、神猫――ですね?」
「かみねこ?」
「はい。神猫、ゴッドキャットです」
「えっと……。それは何でしょうか? コマーシャルですか?」
「猫は九つの生を得るという話は、聞いたことがありますか?」
「はい、一応」
「では十の生を得た猫は?」
「……」
「例外で十の生を得られた猫は神猫と呼ばれます。神レベルの猫です」
「それだけで?」
嘲るような、呆れるような表情で訊き返す。
神猫が特例ということを、悟は知らないからそんなことが言えるのだ。
南美は一瞬俯いて、震える手を押さえた。悟の目には、南美が悔いているような表情をしていたように見えたが、顔を上げた時には笑顔が戻っていた。
「そうです。あなたの身に宿る神猫の力、我々に是非貸していただきたいのです」
「えーっと、いきなりそんなこと言われてもな……。……具体的には、どうすれば?」
悟が半信半疑に問いかけると、南美はバッと手を翳して、声を張り上げる。
「神猫戦隊を作るんです! あなたがリーダーです」
「戦隊……? そんな、高校生にもなってごっこ遊びなんてできませんよ」
「ごっこじゃありません。あなたは選ばれた戦士なんですよ。最弱ですが」
「え。俺最弱なんですか。何で最弱なのに声かけられてるんですか。俺要りませんよね?」
「はい。その代わり、幸運の持ち主ですよ」
最後の質問は軽く受け流された。南美は笑みを絶やさない。
「それは嬉しいですけど」
「あなたの運を犠牲にして、他者に幸運を分け与えることができます」
「アンフェアだ!!」
そういう意味の幸運の持ち主だったらしい。
悟が前を横切ると、幸せになれるという意義だ。
「黒猫の特性です。日本には迷信があるみたいですが、黒猫は幸運を届ける使いなんですよ。出会ったらラッキーと思うことですね。但し、イタリア人には気をつけてください。会った瞬間殺されます」
「え、ちょ、待ってください。何で……」
「黒猫が不吉とされるからですよ。まあ、ばれなければ何ということはありません」
「……それはそうですけど……」
自分が神猫だとばれたら、殺されるのだろうか。
だからあの時、他人にばれちゃいけないと感じたのだろうか。
でも、南美にはばれている。南美は敵ではないと思うが、正体はばれてしまった。
神猫のことは知ったばかりでよくわかっていない。
「神猫は全部で五十七種類になるはずです。図鑑にも載っている猫の種と同じですね。この学校にもいるでしょう。探してください。私も探しますけれど……神猫オーラを感じ取れるのは、今のところあなただけなのです。あなたを見つけたのは、私の上司です。上司も私と同じ人間ですけれど、神猫オーラを感じ取れる類稀なる予言者なんですよ。もし見つからなければ、あなた一人で敵と戦わなければいけません」
南美がその上司を心から尊敬しているのが、明るんでいく表情から見て取れた。
南美の説明を聞いて、悟は戦慄を覚える。
「そんな……戦うってだけでもあれなのに……。一人で決めポーズとか取るなんて、いくらなんでも恥ずかしすぎる。ありえない。あれは他にもやってくれる人がいるから恥ずかしさが半減されるのであって、決して恥ずかしがらずにできるもんじゃないって。役者でもない限りふつうはできませんって! 無理!」
悟は真っ赤になりながら、思っていることを全部吐き出した。
南美は眉根を寄せて顎に親指を当てた。
「恥ずかしい? 猫の未来を、人類の未来を決める戦いが、恥ずかしいですと?」
悟を壁に押しやって南美は顔を近づける。
顎を撫でられ、悟は気持ちよさに目を回す。
「くぅ……」
「ふふふ。こっちは恥ずかしくないんですか? 黒猫さんが宿っているとはいえ、顎を撫でられて快感を覚えるなんて、人としては致命的な欠点ですよ? こんなところが弱点なんて他の人に知れたら……どうなることやら……。えーい、こちょこちょー」
「悔しい……でも嬉しい……」
身体は悦びつつも泣いている。
女性と縁がなかった悟にも遂に春がやってきた。こうしておちょくられるのは腑に落ちないが、相手にされなかった今までの人生を考えると、喜びが湧き上がってくる。
これも猫のおかげなのだろうか。猫が運んでくれた人運……。
女難の相でなければよいのだが。
暫くの間赤屋の好きにされていたが、そこへ救世主が現れた。
ザッと砂を蹴って、満を持して登場。まるで映画に出てくるヒーローみたいだ。
目をいからせた金髪の美少女が、猫背でずかずかと歩いてくる。
「赤屋先生ッ! わたしの悟に! 何やってんですか!」
「えーっと……誰でしたっけ」
「先生……。鹿野紅子さんです……」
うっかりしていた南美に、悟は半眼で睨みながらこっそりと教える。
「そうなんですか。ありがとうございます」
「悟困ってるじゃないですか! 生徒困らせちゃ駄目だと思います!」
南美は真っ赤になって身悶えている悟に直接訊く。
「困ってるんですか?」
悟は目を逸らして、紅くなる頬をぽりぽりとかいた。
「多少は……」
「とにかく! 生徒と逢引なんて、わたしはぜぇーったい許しませんからね! 特に悟はダメ! ……わたしの狙ってる獲物なんだから……」
最後の一言は、二人に聞こえないくらいの小さな声で紅子は呟く。
悟には聞こえていなかったが、紅子の様子がおかしいことだけは気づいていた。
紅子の異常な執着心を感じた悟の背筋に、悪寒が走るほどだったのだ。
「神猫は神猫に惹かれるのですよ……」
「つまり、紅子も?」
「わたしの前で! 何を二人っきりで! 話してるんですか!」
手をぶんぶん振り回し、甲高い声で叫び、紅子は嫉妬に狂っている。
南美がこそっと耳打ちをする。途端に紅子が眼光を鋭くして南美をねめつけた。
「視えますか? 神猫オーラ」
「そんなもん急には……。何も視えませんけど」
紅子をじっと見つめると、紅子は低い声で乾いた笑いを漏らしていた。
どす黒いオーラみたいなものは視えている。幻覚か何かだろうが、物凄く恐ろしい。
今なら、紅子をまじまじと見つめていても顔は紅くならない。
「ははは……ふふ……そうですか。そうなんですね……そういうことでしたか……。宣戦布告と受け取りますよ? いいんですね……? ふふふ……。わたしを敵に回したこと、後悔してください……赤屋先生……。日記に綴ってやるぅうう……」
翳の落ちる顔。据わった眼でゴキバキと拳を唸らせていた。悟、南美をも震わせる。
「彼女、いつもああなんですか?」
「いや、いつもはもっと穏やかでこんな風に怒ったりはしないっていうか」
「なるほど、悟君専用ですか……罪深い神猫ですね」
赤屋はやれやれといった風情で肩を竦める。悟は何が何だかわかりかねている。
青筋をビキビキと額に立て、紅子は腕まくりをした。腕も真っ白でほっそりしている。とても強そうには見えない。あんな細腕で悟を守れるのだろうか。
「わたし、こう見えて腕っぷし強いので!」
「私も司令官をしています。纏めるには力がいるんです! 強くなければ、戦士たちはついてきてくれませんからね」
南美と紅子は悟を放置して取っ組み合いを始めた。
「何でこんなことに……」
悟は額を押さえてため息をついた。
午前の授業が滞りなく終了し、昼休み。
紅子はたくさんの友達に囲まれて食事を取っている。
悟のことが気になって仕方がないといった様子でもない。さっきの豹変ぶりは一体何だったのか。あの壮絶な怒りよう、周りの見えていなさ、猪突猛進な獰猛な生物……いや般若のようだった。紅子は顔も綺麗なので怒ると迫力が増す。怒らせてはいけない人だ。
悟は悪友たちと食堂に向かう。
入口に近いところの四人掛けの席に座って、弁当を持っていきテーブルにつく。
食堂にきたからといって、学食を食べるわけではない。
悟が食べられるものは、青魚と猫用の缶詰。人間の食べる食べ物なら、缶詰以外は一切口にできない。食べたら、死にかける。特に腹が悲鳴を上げるのだ。チョコレートなんて食べた日には、救急車で運ばれる。
死なないですむのは、悟が神猫だからだろうか。
そんな食生活でも、悟の正体が神猫だとはばれない。栄養の心配をされても、人間でないとは思われない。夜型人間、偏食家などといった、不名誉な渾名はつけられるが。
知名度が低いから、知人に正体がばれる心配は、あまりしなくていいだろう。
「なー、今時戦隊ものって、どう思う?」
「なな何だよいきなり俺が戦隊もの好きなの知っててそんなこと訊くのかよ狼藉か」
「バイクブイブイいわすのかァ?」
「アリなんじゃね?」
「そうか……存外みんな肯定的なんだな」
「何かあった?」
「いや、ちょっと戦隊もの観たくなってさ」
「急に? 突然? 何でまた」
「おう。初心に返る感じ? 青春満喫したいし、少年心を取り戻して女子と仲良く……とか考えたりしてな。でも無理だよなーははは」
女子とまともに話すこともできないのに、そんな夢物語を語る。女子の中でも最難関、クラスのマドンナ紅子とは長時間顔を合わせられないのに、だ。
でも南美とは長い間顔を合わせられた気がする。真剣な話をしていたからか?
「あながちそうでもないと思うんだが」
「女子ってケッコー好きじゃね? 少年系」
「女子女子してるやつばっかとは限らないしなァ。悟はどっち系好きなんだよ」
「俺は……そうだなあ……俺のこと好きって言ってくれる系。でも重いのはちょっと苦手だ。ホラー系無理。ホラー番組とか観た後、トイレ一人で行けないな。朝まで我慢する」
そして膀胱炎になって病院へ直行。腎不全になる可能性もある。我慢は危険だ。
「怖いの苦手なくせにホラー観るなよ……ったく、悟はバカだな」
「しょうがないだろ……ドキドキすんだよ」
「怖いもの見たさに負けるよな……」
「だろ? よくわかってるよなあ」
怖いものが苦手な人は多いが、それ以上に人は未知の恐怖を知っている。
知らないことは怖い。恐ろしい。知れば怖くなくなるかもしれない。
そうしてのめり込んでいって、いつの間にか釘付けになっていることもままある。
悟の場合は未知の恐怖の感情で怖いものを観るのではなく、苦手だが気になってしまうからだ。要するに、面白いから目が離せない。
怖かろうが、懐が寒かろうが、魍魎の匣を開きたくなる衝動には負ける。
知らないことは怖い。けれど、それは同時に楽しくもあるのだ。
「じゃ、紅子は? クラス一の美少女! あいつと付き合えたら周り敵だらけ! 告って断られたやつは数知れずの無敵の美少女。スタイルも運動神経も抜群」
「紅子はいいよなあ……可愛いし、話しやすいし面白い」
(でも何か怖いんだよな。執念深いっていうか……)
「悟が紅子と付き合ったりしたら、えんがちょ」
「俺もォー。美人な彼女持ちとか超ムカつく。友達でいたくねェ」
「あーそうか。じゃーお前らは美人な彼女作る気ないんだな? 端から諦めてるんだな?」
「俺たちの顔じゃ……無理だろ。なあ」
「「だな」」
顔を見合わせて三人は頷く。
自分たちのことは自分たちが一番よくわかっている。
誰に何を言われずとも、顔が悪いことを。飛び抜けた何かがないことを。
しかし面と向かって言われたら若干傷つく三人。悟はちょっと哀れに思った。
実は悟だけは、ちょっとした特技のようなものを持っているからだ。
「男は顔かよ。顔より性格だって言ってくれる子もいるって」
そうは言いつつも、悟も割と面食いだ。
男も女も、やはり第一印象は容姿で決まる。
紅子が自分を選んでくれるなんて、悟は思いもしない。性格が顔の凡庸さを補ってくれるほどいいわけでもない、数学が得意ということより他に取り立てていいところもない、釣り合わないと思っているから。
友にこう言えるのは、自分がそうでありたいと思っているから。顔よりも性格で相手を見たい。周りの女子のレベルが高すぎるだけなのだ。
「自分より上の女って、男としてはな……」
「顔は可愛い方がいいけどな。ブス専じゃねェし。中の上が付き合いやすい」
美人は三日で飽きるが、中の上のちょっぴり可愛い女子なら飽きもこないかもしれない。でも美人な紅子がクラスのマドンナであることは紛れもない事実で、飽きる美人というのは完璧すぎてつまらないのだろうか。それか、性格がかなり悪いかのどちらか。
美人だったら性格が悪くても許されはしないだろうか。
悟も性格の悪い美人はご遠慮願いたいと思っているが、そもそも相手にされないのに妄想力が過剰。取らぬ狸の皮算用、可能性を考えるのは誰もがすることだが、自分の顔を鏡で見てみると虚しい。
(結局、美人は中々結婚できないんだよな)
美人も相手にそれなりの価値を求めるから、自分に見合う男でないと認めない。例えば経済力だったり学力だったり。顔が駄目なら、エリートを求める。自分のためにどこまでできるかを試す。尽くす女もいれば、尽くされたいと感じる女もいる。
できる女は尽くされたい方ではないだろうか。
赤屋南美は……どっち側なのだろうか。
「それも高望みっていうか」
「ちょっと不細工な方がそそる。中の下がよくね?」
「好みとか千差万別……って答えしか出ないな。俺は絶対美人派。目の保養がいい」
議論は煮詰まらず、結論は出なかった。
男子高校生はしょうもないことで白熱する年頃。いや、しょうもなくなんかない。
彼らにとっては「どんな女と付き合いたいか?」の話題は食が進み、大いに盛り上がる腹の足し同様。この話だけで何時間も話し続けられるのだ。
みんなは昼食を終え、食堂を後にした。
午後からの授業は眠気を誘う。大人しく着席していると、腹一杯になった悟の口から欠伸が出る。神猫になっても、半分は人間。悪友たちもつられて欠伸をした。
何故か欠伸や流涙は伝染する。
人の生理現象は謎だらけ。誰かこの謎を解明してくれないだろうか。
悟は机に突っ伏す。授業が始まるまで眠ることにした。
目を閉じると、不思議なことに早々に夢を見た。シャボン玉が浮かんでいて、自分の身体も浮遊していた。目の前には一匹の猫がいる。あの時死んでしまった黒猫だ。
ニャーと鳴いて、喋る。
「悟」
「……お前は」
「夢の中で会うのは、初めてだね」
「あの時確かに……。……何で、生きてるんだ? 話には聞いてたけど、俺の身体がおかしくなったのもわかってたけど……でも何で?」
うまく言葉にできなかった。説明しようにも、何で、何でと疑問ばかりが浮かび上がる。
黒猫は人間みたいに笑う。全然、猫っぽくない。
「ぼくはきみのおかげで、十の生を受けられたんだ」
「俺、何かしたっけ? 泣いただけだったと思う」
「きみがぼくを生き返らせてくれたんだよ。きみの願いが天に届いて、ぼくらは神猫になった。これからはきみの半身として、きみに助言していくことになる。ぼくの力はきみの力でもある。ぼくらは一つなんだ」
幼い悟は黒猫が死んでしまって悲嘆していた。号泣した。
無意識下で、生き返って欲しいと願っていたのだろう。悟は数年前のことをよく覚えていない。黒猫が死んでしまったことだけは脳裏に焼きついていたけれど。
黒猫は目を閉じて笑った。前足で毛づくろいをする。
さっきも不思議に思ったが、猫が笑うなんて、おかしなことだ。
この猫には並々ならぬ力があり、魂がある。怪奇的な猫には力が宿るのだ。
「きみの運命を変えてしまって、ごめんなさい。ぼくは感謝している。ありがとう、ぼくに新たな生をくれて。きみと出会えて、本当によかった」
「神猫になったって、多分俺のこれからの人生、そんなに変わんないと思うな。神猫になったのって、もっと前のことだろ? ずっとモテないし、今日赤屋先生に言われただけで実感あんまないしさ。身体能力が高くなっただけじゃないか?」
「大きく変わるよ。悟は知らないだけ。神猫がどんなものかを」
そうはっきりと言われると、ちょっとばかり寂しい気がした。
「まぁ、そうだな。知らないけど……」
「人生、謳歌できるといいね。ぼくもそうなって欲しい。ぼくは悟に幸せになって欲しいよ。だって、悟が好きだからね」
「……ありがとな……」
悟は嬉しくなって、頬をかいた。幸せを願われるのは素直に嬉しい。
「ぼくは。野良で、三歳四か月だった。名前はなかったよ」
「何にしよか……?」
「何でもいいよ」
「じゃー、サチ……倖で。俺と倖、どっちも幸せになれたらいいな!」
「ありがとう。凄く嬉しいよ」
「これからよろしくな」
手を差し出し、悟は鼻の下をこすった。倖は左前足でタッチする。
猫のオスは左利きなのだ。
悟の身体はシャボン玉に包まれて、淡い光と共に消え去った。
目を開くと、とっくに授業は始まっていた。悟の前に腕を組んで立っている人影ができている。悪友の一人が、起こしても起きなかったとこっそり小声で言った。
(えらく現実的な夢だった……)
夢は覚めてしまったらしい。
頭をかきむしって、恐る恐る顔を上げると、厳つい顔で怒気を孕んだ日本史の教師が仁王立ちしていた。元々の顔つきが厳ついからか、憮然としているようにも見えた。
「上長……」
「はい……」
「罰として、お前は今日の放課後居残りでテストだ。こないだのテストの点も褒められたもんじゃない。なのに、居眠りをする始末。これは補習だ」
「そんな……殺生な」
「それとも廊下で立っとりたいか? 日本史の教科書を読みながら」
「そっちでお願いします」
「よし、大学レベルの教科書だ。しっかり勉強しろよ」
分厚い本を机にどさっと置かれて、悟はトホホとため息をついて嘆いた。
「…………テストの方がよかった……」
「自業自得だな!」
後ろから茶化され、悟は振り向いて拳を振り上げる動作を取る。
悪友ははにかんで頭を腕で守った。悟はハァと嘆息する。
後ろを向いていたせいか、紅子の仕草がふと目につく。
息をついた紅子が胸の前で拳を握る。席を立ち、手を挙げた。
「先生。わたしも廊下で勉強したいです」
「何? 鹿野もやりたいのか?」
「はい! 今度のテストは満点目指します!」
「感心感心。二人仲良く立っとれ」
喜色満面の笑みを浮かべた日本史の教師に、無理矢理立たされて背中を押され、ぴしゃりと閉められた。閉め出しを食らったような気分だ。
紅子も後からトテトテとついてきた。可愛らしく手を後ろにやって上目遣いでこっちまでくる。悟はごくりと喉を鳴らして、視線を逸らした。
「何で一緒に?」
「だって、一人じゃ勉強できないでしょ?」
分厚い本は一冊しかない。つまり、密着して勉強することになる。
千載一遇のチャンスが到来したと言っても過言ではない。
一気に急接近できる潮時なのだ。しかし、悟にそのような胆力はない。
「紅子も勉強嫌いじゃ……」
紅子の視線がこっちを刺してくるのがよくわかる。顔を見られない。
「悟となら、一緒にできるよ? 一人で勉強なんて、つまんないんだもん。みんなでわいわいやるのが好き! みんなと一緒にやったら、捗るんだよね」
「好き……」
不謹慎にも、好きという単語が山びこのように脳内で反響する。
「悟、知ってる?」
「何が?」
「わたしね、ずーっと前から……好きだったんだよ」
深刻そうな顔で言うものだから、思わずドキリと胸が高鳴り、茫然とする。
「……え……?」
「廊下に立つの!」
(何だ、そっちか……)
がっかりしたものの、どこかほっとしたような複雑な気分。
好きと言われたら嬉しい反面、明日からの高校生活は地獄だ。今まで平穏無事に日常を送れていたのに、底辺に位置する悟が一気に頂点に駆け上ったとなると全校の男子が許さない。
人は誰も祝福してくれない。
「他人の不幸で飯が美味い」を地でいく生徒が大多数を占める。
男は常に不条理を生きる。
「悟は好きな人いるの?」
「……それはつまり……」
こっそり盗み見ると、紅子はかなり真っ赤になっていて、恥ずかしそうに指をつついていた。声だけでは緊張していることはわからなかった。とんだ食わせ者だ。
「うん。単なる興味……かな? わたし、みんなに訊いてるんだよね」
「わかってるよ。いるっちゃいるけど……」
「ううん、全然わかってない。……いるのはいる、じゃなくて、きちんと自覚して、呼び出して欲しいじゃない? 女の子としての意見はこうかなー。悟、女の子から告白させちゃ……めっだよ?」
鼻先に指を突きつけられ、言葉に詰まる。ちゃんと聞いていたつもりでも、悟は話がこんがらがってきていた。ドキドキよりもアセアセが勝った。
「脈絡ないな……」
「ええい! 女の子はしょっちゅう話題が飛ぶんだよ!」
「会話してくれ」
紅子はチッと舌打ちして、小声で呪詛を唱えるように呟く。
「わたしは結構わかりやすいと自負しているんですけどねー。どっかの激ニブちゃんが、すっごーく奥手で自分に自信がないから、こうやって遠回しにでもアドバイスしてあげているというのに。それでもまだ勇気を出さないか……」
「ご、ごめん。何か、俺悪いことしたよな……」
よもや自分に言われていることだとは思うまい。
鈍いけれども、それには理由がある。悟には好意を寄せられる自信がない。
紅子みたいな美少女に言い寄られるなんて妄想はするけれども、現実だとは考えない。それは自惚れていて身の程知らずだと思うから。紅子は悟をからかって楽しんでいるのだと悟は自らを卑下し、過小評価する。
実際は誰にも嫌われていない。教師には多少は目の上のたんこぶ程度には思われているが、嫌われるほど目立ってもいない。ちょっとネガティブなだけで、悪口も言わないし悪いことも滅多にしない。遅刻寸前常習犯なのが玉に瑕。
「いいよ! 勉強勉強! 学生の本分は勉強っていうもんね!」
紅子が空元気だったのは、言うまでもないことだ。
廊下で紅子と二人で日本史の勉強をしていたので、放課後は拘束されずにすんだ。
しかし全く頭に入らず、理解する気も起きなかったものだから、紅子と二人で談笑しながら勉強するふりをしていたと表現した方が相違ないか。
勉強している間、紅子は何事かをぶつぶつと呟いていて、悟は言い知れない恐怖を覚えた。紅子の目が虚ろでオカルトめいていたのだ。
悟が悪友たちと帰ろうと下駄箱にいったら、眼鏡をかけたポニーテール姿の南美が、クラブ勧誘の貼り紙が貼られた掲示板を背に、手招きした。
「おい、どういうことだよ。何でそんな親密になってるんだよ説明しろよ悟」
「いや、それが……俺にもどう説明したらいいのか……」
説明するとなると、神猫の話までしなければならなくなるので言葉を濁し誤魔化した。
神猫の話は悪友らには関係のないことだ。一般人を巻き込んだら、南美に優しく窘められるかもしれない。それはそれで悟はニヤニヤしてしまうのだが、正義感がそんなことは許さない。良心の呵責があればこそ、悟はそうそうしでかさないだろう。
「悟君、紅子ちゃんに変化はありましたか?」
「しかも名前呼びィ。うらやますィなオイ」
「変化っていうか……前よりちょっと過激になったと言いますか……。極言すれば、変化していると言えますね」
「そう……ですか。では、彼女はまだ違う、と断言できますね」
「まだってことは、これからなる可能性が?」
「あります」
「な。何の話してんだ?」
「あ、ごめん。先生にカウンセリングしてもらってて……」
嘘をついてしまい、悟は心が痛んだ。他にどう言い訳すればいいかわからない。南美がフォローしてくれそうもなかったので、致し方なかった。
「悟君。お友達には先に帰っていただいてもいいですか?」
「あ、はい。みんな、ごめん。先帰っててくれるか?」
「えー先生! 俺たちの名前も覚えてくれよ! 覚えるって言ってたじゃん!」
「覚えますよ。先生に出席簿貸してもらっていますからね。明日には覚えます!」
ぎゅっと胸の前で拳を握って、天真爛漫っぽさを出す南美。
悟は彼女が天真爛漫ではないことはとうに知っている。完全に男を手玉に取る悪女だった。ギャップがあってよい。でも好みとは程遠い。
「じゃーな、悟!」
「ああ……また明日」
みんなの姿が見えなくなるのを見計らって、南美は真剣な目つきになって言う。
「指令です」
「……いきなりですか……」
悟はげんなりした。
「噛み犬が現れました。凶暴で手のつけられない暴れん坊だそうです。討伐に向かってください。やつは、噛みウイルスに侵されています。助ける方法は……一つしかありません。斃すことです」
「神犬? 神ウイルス? 神猫以外にも仲間がいるんですか?」
何だかゲームみたいな話だな、と悟は思った。
クスリと微苦笑して、南美は首を横に振る。
「いいえ。噛む方です。噛んだところから黴菌が繁殖、体内で毒を生成し、やがて死に至る危険な病にかかります。斃さなければ、多くの犠牲が出ます」
「くっ。これだから会話は……。そんな危険なもの……放っておけませんよ」
「急いでください。戦闘の手順は私が教えます」
「俺は攻撃されても死なないんですよね?」
「……死にます。運が悪ければ」
「ちょ……ええー!? 俺いきなり死ぬんですか? 神猫特有のスキルとかなし!? あんまりな! こ、ここ殺される……!!」
「大丈夫です。冷静に考えてください。神猫に選ばれたあなたが、そんな簡単に死ぬはずないでしょう。あなたの力を目覚めさせてください。さ、呼んで。夢の中で出会った、かの名を」
「……倖」
パァッと全身が光り輝く。悟の目の前に淡い光を纏った黒猫が出現した。
「悟、お呼びだね。力を貸そう」
「倖……また会った」
「でもね。ぼくときみの本当の力は……拳撃や蹴撃ではないんだよ」
(だったら……何なんだ……?)
倖を包む光が更に増し、光は分裂して悟の両手、両足にくっつく。
やがてグローブになり、ブーツになった。どちらも黒で、猫の絵が刻まれている。
自身が武器となり、自身を扱う。それが神猫の真の姿。
倖の声が武具を通して響く。
『ぼくらで、斃すんだ。そして……未来を見よう』
「……わかった」
肯んじる。
悟が最も多用している能力は身体能力。悟が最も得意とするのは武闘だ。
拳や脚を使った攻撃を繰り出すファイター。他の神猫の能力には劣るが、今はここにいる誰よりも強い。悟にしか噛み犬は斃せない。
「どうするんですか?」
「噛み犬が出現した場所に、本部の者が結界を張っています。私がナビゲートするので、ついてきてください。その間に戦闘手順を説明します」
クンッと姿勢を低くして、南美はカモシカの如く校舎の外を駆ける。悟も疾走し、南美の後を追う。南美のスピードはかなり速く、悟でも追いつくのがやっとだった。
南美は、何者なのだろう。
「噛み犬は神猫に比べて鈍足なので、戦闘では先手を取れます。その前に名乗ってください。名乗らなければ、斃しても成果に反映されないのですよ。私が状況を本部に送信するので。名乗りは、私のためでもあり、あなたのためでもありますよ。成果が出れば、本部から食糧も装備も支給されるんです。結果齎さぬ者に、褒美なしという考えです」
努力を認めないなんて、世に言うブラック企業みたいだ。
でも、結果を出せば報酬がもらえるのなら、ちょっとはましかもしれない。残業代の出ない会社もあるらしいし。働いたこともないのに、そんなことを思考した。
「何て名乗れば?」
「『疾風怒濤神猫戦隊! 推参!』と」
「うわー……」
小さい頃ならば、格好いいと思っていたことだろう。歳を重ねると、ろくなことがない。
南美はにこにこと微笑んでいる。
「私の司令部ではそう名乗ってもらうことになっています。疾風怒濤司令部なので」
「一人で?」
「はい、一人で」
「戦隊ですらねー……」
「直に人数が増えていくと思いますから、今は我慢してください」
「……くそう、いやだ……」
「先手を取って一撃で仕留めるのがいいですが、火力の低い悟君ではそうはいきません。反撃されます。その時、防御に回るか、回避するか、攻撃を受け流すかのどれかを選択してください。今しておけば、のちのち苦労しないでしょう。どちらかを命令すれば、身体が反応してくれるはずです。神猫はそういうシステムですからね」
システムという言葉は、機械に使うものだと思っていた。
「わかったような、わからないような……」
「答えを決めておけば、楽なだけですね。神猫の力は身体が覚えているものですから。それを何度か行い、決着が着いたら、『疾風怒濤神猫戦隊! 討伐完了!』と叫んでくださいね。神猫の宣言反応を本部が受信して、あなたと私の成果になります。神猫オーラを察知するんですよ。何も言わなければ、討伐したことになりません」
「どうあっても、言わなきゃならないんですね……」
「そうですね。言わないと、得しませんし。噛み犬がある場所から一歩も出られないよう、結界を張っています。一般人は入れません。それが……ここです」
南美は、そこで立ち止まる。
「本部の者は、結界を張った後、速やかに退散しました。結界は一度張れば、遠隔操作ができるんです」
ザッと辿り着いた先は、人けのない公園だった。使い古されたジャングルジムやブランコ、滑り台といった遊具はあるのに、人っ子一人いない。寂れた廃屋、廃工場みたいだ。
人けはなくとも、犬けはあった。
血に飢えた獣三匹が目を光らせ、涎を垂らしながら唸っている。今にも飛びかかってきそうだが、機動は低いらしい。悟は恥ずかしさを呑み込んで、目を閉じて宣言した。
「しっ……疾風怒濤神猫戦隊! 推参!」
戦隊ですらなく、戦士たった一人なのだが。
噛み犬に攻撃を仕掛ける。猫パンチを繰り出し、顔面にダメージが入る。敵は少々仰け反る。すかさず噛み犬が涎を撒き散らして襲いかかってきたので、悟は紙一重で回避した。
少しでも噛まれただけで死ぬかと思うと、心臓のバクバクが止まらない。
「……次!」
どうやら、知能は低いようだ。いや、早計か。まだ判断するには早い。
悟は強烈な上段の猫キックを見舞う。キックがもろに顎に入ったらしく、一匹だけ気絶した。ピクピク痙攣して腹を見せた。
不謹慎にも、引っくり返ると、ちょっとだけ可愛いと思ってしまう。
「止めを」
「はい」
敵とはいえ、生き物の命を奪う。それはどんなに心を痛めることか。
唇を噛み締めて止めを刺そうとした時、二匹の噛み犬が悟を襲う。
武具から、倖が悟に警告した。
『悟! なめちゃいけない!』
「ごめ……」
一匹の噛み犬の爪が悟の脚を掠め、悟は片目を瞑る。
血が潮のように舞った。傷が浅くてすんだものの、地面まで垂れている。
悟はうわあと言葉を吐いて、蒼然とした。自分の血に、精神がすり減る。
「悟君!」
南美が急いで走ってきて悟の腕を掴んで、公園から出る。
噛み犬が後を追う。が、後一歩のところで追いつかなかった。悔しそうに唸り声を上げて吠え立てている。
「すぐに手当を! 爪にも黴菌がうじゃうじゃいるんです! 危険です!」
「あ……はい……。お願いします」
鬼気迫る形相でまくし立てられて、悟は言われるがままに脚を出した。
南美は懐から取り出した消毒液を吹きかけて応急処置を施す。
噛み犬は視えない壁に体当たりをしているが、公園の外へは出られないようだ。壁を前足で削り、キャンキャンと吠え立てる。早く戦ってくれと懇願しているようだ。
早く飯にありつきたいと言っているのかもしれない。
身震いがした。
(猫は犬の気持ちわかるんだろうか)
悟は胸に手を当ててみるが、さっぱりわからなかった。
悲しげな顔をした南美が、悟の頬を物凄い力で抓った。悟の頬が赤くなる。
「悟君。神猫だからといって、油断してはいけませんよ。やつらはふつうの犬とは違うんです。狂犬病にかかった犬よりもよっぽど兇悪で、ちょっと傷を負わせただけでも生き物を殺せるんですよ。即死しない分、苦しさも数倍に跳ね上がります」
そうだったのか、と悟は得心した。
「いたた。傷より痛い」
「痛みは教訓です。舐めてかかると痛い目を見ますからね。油断は禁物です」
「あの、先生のが痛いんですけど……」
ムッとして南美は手を放した。目を伏せてため息をつく。
「……私だって、あなたたちのような若者を、戦場に赴かせたりしたくありません。未来ある若者の命を摘むような真似もしたくないんです。でも……あれは、あなたたちにしか、斃せないんですよ。私がどれだけ強くとも、私は神猫ではないから」
顔を上げた赤屋は涙を流していた。表情には、途轍もない悲壮感があった。
「あなたたちにしか、できないんです」
「…………はい……」
巻き込まれてしまった。
十代のうちに命を落とすかもしれない。けれど、この人の叫びは聞き届けたいと悟は思った。神猫に選ばれた戦士を戦場に送り出すことを、南美が一番悲しんでいる。本当は自分が戦いたいのだろう。でも選ばれた者に頼むしかないのだ。
「……戦場から無事に帰還したあなたを、私は抱き締めてあげたいです。存分に甘やかしてあげたいです。好きなものを買ってあげたい。楽しいことをさせてあげたいです。辛いことをさせてごめんなさいと、ずっとずっと謝りたいです」
「……」
「……どうかしましたか?」
言い辛いけれども、悟は小声で呟くように言った。
「……母さんって……、こんなのかな……って……」
「お母さん……ですか。それもいいですね。私にはこどもはいませんから。私でよければ、あなたの母親になってあげますよ」
南美はにこりと微笑む。
サポートに回ることしかできない自分を責めている彼女に応えるには、生き残ること。勝ち続けること。勝って、彼女に自分が生きていることを報告することだ。
今はほんの気休め程度の言葉をかけよう。悟は笑った。
「最弱だって、支えられたら最強になれますよ」
「支える……?」
「だって、リーダーの役割は一つじゃないでしょう?」
誰かに言われたのではない。悟がそう思っているのだ。
「……あ……!」
思い当たったように、南美は声を上げる。悟は頷いて、立ち上がった。
「頑張ってきます。見ていてください。南美先生……!」
初めて名前を呼ばれたのが、こんなにも嬉しいことだったなんてと南美は顔を綻ばせる。
悟は背中を見せて、颯爽と公園を駆け抜ける。
南美は何かを言いかけたが、途中で言うのをやめた。悟に男気を見た。
見間違いではない。普段はなりを潜めているが、悟は正義感が強い男だ。それは初対面の時から何となく感づいていた。遅刻ぎりぎりばかりだが、本来は誠実な男なのだろうと。
読みは外れていなかった。
必ず南美の空いた心の隙間を埋めてくれるだろう。
南美が悟に母親になってもいいと申し出たように、悟にだって南美を支えられる。
「頑張って……!」
目を閉じて手を組み、神に祈った。彼の中に在る、神に。
これといった策はない。勢いをつけて走り込んで思いっ切り顎を蹴るだけだ。失敗することも考えていない。正に、猪突猛進。脳味噌が筋肉でできているような思考回路。ごり押しでどうにかなると思っている。作戦を考えられるような頭の出来ではない。
作戦を立てられるだけの情報もない。
何のために命を張り、誰のために戦うのか。誰のために命を奪うのか。
答えは一つしかない。悲しむ人を生まないためだ――!
回し蹴りで悟の猫キックが炸裂し、噛み犬は全滅。失神させた。
「勝ちましたよ!」
振り返って、笑顔でサムズアップ。汗が粉雪のように舞う。
まだ終わっていないと口を動かした南美は、泣き笑いをしていた。
三 恋慕
最近、食べ物が喉を通らなくなってきた。何だか、食べたくないのだ。
何故かはわからないが、食べたら何かが起きそうな気がして食べられない。だから、ツナ缶ばかり口にしている。他の何も口にできなかったのに、これだけは食べられる。
拒食症にでもなってしまったのだろうか。
母も心配しているし、早いところ治した方がよさそうだ。
飼っていた白猫のみーちゃんが他界してしまってから、鹿野紅子は毎日毎日、明くる日も、まめに日記を記していた。
始めは、一番好きだったものがいなくなってしまって、寂しさを埋めるために書いていたものだった。今日何があった、今日は何をしたと天国にいるであろう白猫に伝えるために書いたものだった。
初めはそうしていた。
だが、当初の目的からどんどん変わり、今現在では日記に記す内容はいつも決まっている。悟のことだ。鹿野紅子は上長悟の観察日記を記している。病的なまでの文章が何冊ものノートに書き記され、友人の誰一人にも話すことができないものだ。
今日の日記はこうだ。脳内に描く文章をシャープペンシルに走らせる。
『今日も悟はわたしのことを見ていた
わたしと目が合うと少し恥ずかしそうにする
照れ屋さんだ
そういうところが可愛い
そういうところが好き
明日も悟はわたしと話してくれるだろうか
いつになったらわたしの目をまともに見られるだろうか
わたしに気後れすることないのに
あなたは十分魅力的な男の子なのに』
ここまではいつも通りだ。感情も噴出していない。沈着冷静に、書き綴っている。
紅子は書き始めると感情を文章に乗せていくタイプなので、長々と書いているうちに想いが溢れてきてしまう。誰も予想できなかった、鹿野紅子の本性が表出する。
悟たちの前では、その片鱗を見せていた。
『悟悟悟好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き
どうしてわたしともっと話してくれないの?
こんなにわかりやすくアピールしているのに
どうして見てくれないの?
どうしてあんな女と仲良くするの?
あんなぽっと出の女よりわたしを見てよ
わたしの方があなたに相応しいよね
あなたはわたしが最初に目を付けたのに
誰にも渡さない
あの女にも渡さない
わたしだけのペットなのに
奪われてたまるものですか
わたしが守ってあげるから……
ずっと傍にいて』
猫島学園のマドンナ鹿野紅子は、実は……独占欲の強い、病んでいるサディストだったのだ。顔面偏差値の高くない悟が好きすぎてたまらず、毎日こうして想いをぶちまけなければやっていけないほど欲求不満なのだ。お盛んな年頃、というわけだ。
紅子は指を噛む。爪ではなく、指を。
あの忌々しい新任教師、赤屋南美を排除できないものかと考え込んでいる。
美人でスタイル抜群な上にポニーテールで眼鏡という、男子が好きそうな要素が三拍子揃っている。劣ってはいないと自負しているものの、紅子は気が気じゃないのだ。悟が鈍感だから。
「悟は……わたしが見つけたのに」
悟の隣に立てるのは、わたしだけ。
誰にもその場所は譲らない。譲りたくない。
翌朝。また遅刻寸前に、紅子は悟を見つけた。
今日は正門が閉まる五分前だ。いつも走っていて体力が馬鹿みたいにありあまっているらしい。何故いつも遅刻寸前まで寝ているのかは、紅子にもわからない。
紅子も馬鹿みたいに悟に付き合って、遅刻寸前まで家で待機しているのだ。
いつもの商店街で待っていると、悟の姿が急に消失した。
(何!?)
ガサゴソと音がする。
茂みに入って、近道をしているようだった。紅子もこっそりと後をつけていく。遅刻しないように、時間を気にしつつ。
茂みを抜けると、悟はぎゅっと足に力を入れて爆発的に加速した。
目にも留まらぬ猛スピード。本当に人なのかと疑うくらい速い。あっという間に見失ってしまった。
ぽつんと一人、あまりいかない裏路地に取り残される。抜けた先には住宅が左右に建ち並んでいて、目の前は線路沿いの道になっていた。
踏切を物凄い速さで駆け抜けたのだろうか。目を離していないはずなのに、一瞬にして視界からログアウトした。
「……何、あれ……?」
呆然として、紅子は悟の後姿を思い浮かべていた。
……あれは、人がする走法じゃない。
動物がする走法だ。四足走行、とでも表すべきか。
紅子は悟に声をかけることも叶わず、挙句の果てに遅刻した。遅刻するのはこれで何度目になるか。紅子の通知表には、『最近遅刻が多いので早寝早起きを習慣づけるように』と書かれることだろう。優等生ではないので教師からのウケがいいわけではない。
その日の体育の授業、悟はかなり活躍した。
前々から身体能力は突出していると思っていたが、今日は何だか変だ。
あまり目立ちたがらない悟が妙に目立っている。目立ちすぎると調子に乗っていると男子に目の敵にされるはずなのに、どうして。しかも、あまり怪我をしない悟が、脚に包帯を巻いている。誰かにいじめられでもしたのだろうか。
だとしたら、懲らしめてやらなくてはいけない。
他の理由は何があるだろうか。紅子は脳を覗き見るように目だけを上に動かした。
(……今流行りの……邪鬼眼とかいうのじゃないよね)
友人からの言伝だったので、間違えて覚えていた。
心配なのは山々だが、聞きにいくチャンスがない。
もっと親しくしたいのに、悟の取り巻きが邪魔で近づけないのだ。紅子を取り巻く友人たちを撒くのも難しい。遠くからこっそり眺めることしかできない。性格のいい女を演じるのは、骨が折れる。愛想笑いも自然になってきたけれど、頬の筋肉が痛い。
悟の取り巻きたちが悟と話をしていた。
「悟、お前どうしたんだそれ」
「ああ、これか……。ちょっと野良犬に脚ひっかかれて」
「大丈夫か? 野良はヤバイぞ野良は」
「大丈夫。消毒してもらったし手当もしてもらったから。心配してくれてありがとな」
聞き捨てならない言葉をキャッチして、紅子は目をぎらつかせた。
(誰に? 誰にしてもらったの? まさか、あの人? 違うよね? 違うと言ってよ)
「誰にやってもらったんだァ?」
「み……、いや、知り合いの……人」
「何だそれ。みって何だよ、みって。途中まで言ったな? 南美先生なんだろ? このこの! あーあー、ずるいよなあ、お前だけ! マジうらやま! 俺も怪我してえ!」
紅子はプチッと静かにきれた。しかし顔には出さない。
「ほんと、お前だけ名前呼びされてるしさ。ずるいんじゃね? 代われよ」
「代われるもんなら、代わってやりたいわ!」
目は山なりになっているがピクピクと眉は動いていて、悟もきれているように見えた。
赤屋南美に好き好んで手当してもらったわけではないらしい。
紅子はほっと胸を撫で下ろした。南美に先を越されまくっていて、もう自分の入る隙がなくなったらどうしようと思っていたのだ。
悟は自分を好いてくれているのだろうか、不安でたまらない。
もし、自分の本性を知ったら、彼はどう思うだろうか。
嫌いになってしまうだろうか。
二度と言葉を交わしてくれなくなってしまうだろうか。
悟に限ってそんなことはないと断言できるのに、不安で押し潰されそうになる。そんな時、友人の一人が声をかけた。
「こーたん」
ボリュームのある水色髪のポニーテール。それを赤
暮は背も低く、喋り方もこどもっぽい。甘えん坊で素直で可愛くて、男子から好かれている。となると女子には嫌われるのがセオリーだが、嫌われていないのが日暮の凄いところだ。勉強もできて、優しくていい子で面白いので、こんな喋り方でもいじめられない。
日暮が再度訊く。
「こーたん、どしたん?」
「うん、何かな?」
「なやんでるようにみえた」
「そっか……そんなことないんだけどなあ」
「さとるんのこと?」
「まあね。でも、日暮が気にするほどのことじゃないから。悟の怪我は心配だけど、手当をした相手が誰かなんて、ほんとどうでもいいことだから。わたしは気にしてないから。ほら。ね?」
紅子がウインクすると、日暮は癒し系の笑顔を見せた。
変に勘繰ったりしない、素直で単純だからこそ紅子は日暮と付き合っていけるのだ。
騙されやすく、奸計に溺れるが、こういう子は場を和ませてくれるいい子なので、紅子は日暮を好いている。きっと、掛け値なしに恋愛も応援してくれるだろう。
紅子は笑顔になった。
「さとるん、しゅき」
「…………は?」
紅子は真顔になった。
威圧的な声で訊き返す。紅子の百面相に日暮は驚いていた。
「こーたん、こわい。ひーたん、びっくりした」
「日暮? それどういうこと? 何で日暮が悟のこと好きになってるの? いつ? どこで? どんな時に? 何で好きなの? ねえ、何で?」
据わった目で紅子は日暮の肩を揺さぶった。日暮は目を回している。
「あうう~こーたんん、めがー」
「わたしだけが悟のよさを知っていると思っていたのに……! まさか、日暮まで悟のことが? 何で好きになったの? ねえ、教えてよ。教えてくれないと、納得できない!」
「はうう……」
「あ、ごめん……わたし、取り乱しちゃって……。ごめんね、日暮」
「いいよおお~」
グワングワン揺れていて、まだ目が回っている様子だ。答えは訊けなかった。
体育の授業が終わったら、紅子は悟の観察を再開した。
悟は紅子のようによく笑っているが、紅子のような愛想笑いではない。たまにすることはあっても、心から面白い、楽しいと思って笑っている。
悟のようになりたいと思ったこともあった。無理して笑わなくても自然に笑顔になれたらいいのにとずっと思っていた。多分、日暮と遊んでいたらそれは叶うだろう。日暮が恋のライバルでなければ、話していて楽しくて嬉しい。
もしライバルだったら、日暮を蹴落とすしかないのだろうか。
数少ない理解者でもある大事な友人をなくしたくはない。
恋愛とは実に難しい。友情を拗れさせる代物だ。
できれば、日暮を傷つけたくはない。
悟を好きだと言い出して多少焦りはしたものの、友人は友人。これからも付き合っていきたいので、育んでくれた友情を無駄にしたくない。あくまで、多少だ。
紅子は首をぶんぶん振る。
今は考えに耽っている場合ではない。
ただでさえ苦手な数学の授業だ。数Iと数Aから始めるところを、いきなり数Ⅱと数Bにランクアップされていて、ついていけていない。
勉強は苦手だが、留年はしたくない。留年したら、悟と同学年でいられなくなるかもしれない。悟も勉強が苦手っぽいのだが、驚くことに数学はかなり得意らしい。勉強しなくても毎回九十点以上は取っているのだと。勉強したら、とんでもないのではなかろうか。
理系男子と聞くだけで格好よく聞こえてしまう。何故だろう。
「わかんない……」
頭を抱えてノートに落書きする。
書く内容はもちろん、悟のことばかり。
授業中も関係のないことに気を取られて、ろくに説明も聞けやしない。
恋する女子高生は勉強よりもその他のことで頭がいっぱいなのだ。要領の悪い紅子は二つも三つも同時にできない。
それに比べて日暮は勉強が得意だ。日暮のこどもっぽい喋り方からは想像もできないが、なんと彼女は学年一位の成績を誇る超優秀な生徒なのだ。
勉強はできるが、狡猾さもなく単純なので頭はあまりよくない。
純真無垢だから貪欲に物事を吸収できるのだろうか。
彼女に勉強を教えてもらおうと頼むと、彼女の基準で話を進められるため、誰もついていけない。教えるのがこの上なくド下手なのである。悟も人に教えるのは下手だろう。
他人ができないことができてしまう非凡さを持つ異常で天恵に満ち溢れた人間は、自分の世界を持っているから、それを他人と共有することは不可能。
(……また赤点取っちゃうかも……)
勉強が嫌いだが頑張ってはいる。頭が悪いだけで。理解力が皆無なだけで。
座布団を取ったら、きっと親に叱られる。小遣いもなくなる。いきたくもない塾に通わされる。愛しい悟を観察する時間もなくなってしまう。常人にこの重圧が耐えられるか。
病むほどに悟を愛しているので、人を想う気持ちなら誰にも負けない。
苦手意識を抱いている数学教師にチョークで指名される。
「鹿野。問4」
「くう……。はい……」
ノートを閉じて、椅子を引いて立ち上がる。
「こーたん、がんば」
後ろの席から激励の言葉がかかる。心強い日暮の言葉でも、今は泣きたい気分だ。
何故、答えられないとわかっている人を指名して、わからないことをみんなの前で告げなければならないのだろう。
これは、失敗してみんなの前で怒鳴られるのと大差ない。
いや、もっと酷いだろうか。大恥をかかされて、数学の教師を殴りたいと思った。
拳を握り締める。
「わかりません……」
唇を噛んで、せめて一矢報いようと睨みつけた。でも数学教師は全く相手にしない。
「わからなくても、とりあえず解くんだ。答えが間違っていたら、間違えたところを繰り返し復習する。わかるまでやるのが勉強だ。過程を積み重ね、結果を出す。それに……学校は恥をかく場所じゃない。間違えて学んでいく場所なんだ。間違えることを恥と思うな」
言っていることは格好いいと紅子は認めている。
正論だともわかってはいる。
けれど、そんな綺麗事を並べられても、恥ずかしい気持ちがなくなるわけじゃない。
誰もができることじゃない。
TPOを弁えない正論は、人を無闇に傷つける。
そんなものは、できる人間の、意見の押しつけなのだ。
だから紅子は数学の教師が苦手なのだ。
できない人間のことを考えようともしない。
自分勝手な意見を他人に押しつけている偽善者だと思っている。
もっと、相手の立場を考えてくれたら、紅子だって数学の教師を好きになれたかもしれなかった。数学も、いつも答えは一つだけれど、いつも自分に答えをくれない。
いつも間違った道を示す。幾つも選択肢のある方が、紅子には楽だった。
誰も笑っていないのに、笑われているような気分だ。
所詮「顔だけ」だと思われているかもしれない。
紅子は俯いて被害妄想を抱く。今にも押し潰されそうになる心。重圧がのしかかる。
誰かが手を挙げた。
「先生。俺、その答えわかります」
紅子が振り向くまでもない。声の主は悟だった。紅子を助けたのは、悟だ。
思えば、紅子が初めて悟を好きになった時も、悟が紅子に手を差し伸べてくれた。
悟は覚えていないかもしれないが、入学式の日、他校生に絡まれて困っていた時に、初対面なのに優しく声をかけてくれたのだ。その時に惚れた。
悟は紅子の顔をよく見ていなかったらしく、顔をまじまじと見つめたら照れて目を合わせてくれなくなったのだが。
(悟は優しくて頼りになる。わたしは、そんな悟が好きなんだ)
悟が答えを言うと、数学教師は頷いて正解だと言った。その後も悟は続ける。
「あの、先生。差し出がましいかもしれませんけど……、余計な話かもしれませんけど、みんなの前でわからないって言うの、勇気いるんですよ。めちゃくそ恥ずかしいんです」
「何だと?」
悟は目を見て話していた。諭すように柔らかい口調で教師に進言している。
「できたら、間違っててもちゃんとした答えを言いたいんですけど、わからなかったら何と答えればいいのかって迷うんですよね。俺もよくあるし。だから……わかる人に挙手してもらって、答えてもらったらダメなんですか?」
「それだと、数人しか手を挙げない。しかもいつも決まった生徒ばかりだろう。意味がないのだ。普段挙手しないからこそ、この授業形態に意義があるんだ」
「先生のお考えも一理あると思います」
「そうだろう? 私はお前たち生徒のためを思って、授業をしているからな。考えが正しくて然るべきなのだ。何一つ間違ってなどいない」
梃子でも動かない頑固一徹さに、悟は苦笑いしていた。
「一理ある」と言っているのに、全面的に支持すると受け取っている辺り、人の話を聞いていない。
悟はため息を一つついて、数学教師に問いかける。
「先生。一つ質問させていただいてもよろしいですか?」
「何なんだ、さっきから。授業が進まない。手短に話せ」
「鹿野さんは、どんな気持ちだとお思いですか?」
「どんな……気持ち?」
数学教師は面食らった顔をしている。
そんなことを問われると思っていなかったのだろう。数学教師の間抜けな面を見ることができて、紅子は気分爽快になった。悟のおかげだ。
「はい」
「もっと勉強しておけばよかったと考えているだろう」
「間違った憶測ではないですか?」
「何だと? さっきから教師を愚弄しているのか、お前は!」
声を荒らげ、悟にチョークを向ける。ぴんとこない絵面だ。
意外にも肝が据わっていて、悟は微動だにしなかった。
悟とは対照的に、数学教師は怒り心頭に発している。
「馬鹿にしているつもりはないんですが……。自分の立場を弁えずすみませんでした。ですが、申し上げます。みんなも、きっとわかっていると思います。鹿野さんの心境。先生だけがお気づきでないのではないかと思って、出すぎた真似ですが進言させていただきました」
悟はぺこりと頭を下げている。丁寧すぎる謝罪に、数学教師の怒りは一層膨れ上がる。
「慇懃無礼という言葉を知っているか……?」
悟は顔を上げて答える。
「え? あ、はい。一応は」
「教師に意見するなど、十年早い! お前だけは数Ⅲ数Cだ!」
指を差されて怒号を浴びせられて、それでも悟は怒りもせずにただ笑っていた。
それどころか、挑戦的な、あるいは煽りの言葉を叩きつけた。
「……それは、贔屓ですね」
悟は知らないだろう。
悟は今、最高に格好いいということを。
わたしにとってのヒーローは、やっぱり悟だ。
嬉しさが込み上げてきて、涙しそうになったのを必死で堪えた。
ここで泣いたら、理由を訊かれてしまう。
彼に惚れ直した、だなんて、口が裂けても言えやしまい。
下校時刻になって、紅子は五人の友人と下駄箱へと向かおうとしていたが、赤屋南美と悟の姿を下駄箱の前で見かける。
南美が悟とべったりとくっついていて、何事かを話している。
特別な課外授業を受ける約束でもこぎつけたのだろうか。
それとも、南美が悟に言い寄っているのだろうか。
悟のことを想うと、紅子の心はいつも荒れ模様。苛立ちで眉間に皺が寄る。
「紅子、どしたの? そんな顔して」
「美人が台無しだよー」
「え? ……あはははは……、ありがとう……」
「こーたん、しわ」
「う、うん。そうだね。ちょっと最近目が悪くなっちゃって。遠くを見ると、自然とこうなっちゃうんだよね。眼鏡かけようかなあ」
「えー? 紅子が眼鏡?」
「似合うと思うけど……、そのままがいいよ! コンタクトにしたら?」
「それ、いいかも! ありがと、そうする!」
「ひーたんもこんたくとする。たのちい」
「いやいや、怖いって。異物目に入れるのとか、ほんと怖いから! あたし、眼鏡派!」
「あたしは裸眼派だなー」
「わたしも裸眼がいいな。ケアとか大変そうだし」
気になって、悟たちの方をちらちら見てしまう。
彼らが楽しそうに話していると、紅子の堪忍袋の緒がはち切れそうになる。
ビキビキとこめかみに青筋が走っては、心の中で耐えろ、耐えろと言い聞かせる。
何の会話をしているのか、ここからでは全く聞こえない。
こんな時、我慢せずにちょっと急用を思い出したと言って断りを入れられるだけの話術があればいいのに。紅子は自身の無駄なコミュニケーション能力を恨んだ。
日暮が何かを察した目をして、紅子の袖を引っ張る。
「こーたん」
「どうしたの、日暮」
日暮の背に合わせて目線を下げる。日暮は真剣な眼差しで紅子を見ていた。
「ごめんね? みんな、さきかえって。ひーたんとこーたんはいくとこある。いますぐ」
「あ、そうなんだ。早く言ってくれればいいのにー」
「それなら、あたしら先帰るね」
「明日話聞かせろよー!」
「じゃー、バイバーイ!」
「うん、ごめんね! 言い出せなくて……」
満面の笑みで手を振りながら、友人は大声で返事をした。
「気、遣ってくれたんでしょ? 優しいよね、紅子は!」
違う。そんなんじゃない。
わたしはみんなのこと、疎ましく思っていた……。
みんなのことが大事だけど、鬱陶しく思ったりもしたんだよ。
わたしは、みんなみたいに優しくなんてない。
みんなが知っているわたしは、偽者なの。
紅子の胸はきゅっと締めつけられた。
みんなの優しさが身に沁みる。みんなが綺麗であればあるほど、紅子は自分を好きになれなくなる。本当の自分はもっと性格が悪くて、嫉妬深くて可愛げがないのに、どうして好いてくれているのかと疑問に思い、自分に自信がなくなる。
こんなにいい友人に恵まれて、紅子は涙ぐんだ。
何で今まで邪険に思うことしかできなかったのだろう。自分を恥ずかしく思った。
「ごめんね、みんな……。わたし、最低だよね」
「こーたん……」
日暮が紅子の背中を撫でた。紅子が泣いても日暮は理由を訊かなかった。
興味がなくて訊かないのではない。
訊かなくてもわかるから、紅子に無理をさせまいとしたのだ。
言わなくともよいことを、言わせるものではない。
人には言いたくないことだって、あるのだ。
それを口にしたら、たくさんの涙で溢れることを、日暮も理解しているのだろう。
日暮はニコニコと笑っている。純白の天使みたいだと紅子は思った。
「こーたんはさいていなんかじゃない。さいていなひとは、じぶんでそんなこといわない。だれかにいわれるまでわからないから。こーたんはさいていじゃないよ」
「ありがとう、日暮。さっきも、わたしの心中を察してくれて、ありがと」
「こーたんは、やさしいよ」
「日暮には敵わないなあ」
紅子はクスッと笑って、涙を拭いた。
紅子と日暮は悟たちの後をつけた。
南美は教師ゆえに賢しいのか、二人の尾行に感づいていた。激がつくほどの鈍さを持つ悟は全く気づいていない様子。
南美が時々こちらに視線を向けるのに、悟は「どうかしましたか?」の一点張り。
あれだけ鈍感だと、紅子の恋愛感情についても心当たりがないのではないだろうか。
この恋が実る日は一生こないかもしれない。紅子は悲しくなってきた。
校舎裏まできて、腕組みをした赤屋南美がこちらに振り向いて声を張り上げる。
「そこにいる紅子ちゃん……と日暮ちゃん。出ていらっしゃい!」
「え? 紅子? 烏丸?」
一拍遅れて、悟も後ろを見たが、見当つかずに辺りをキョロキョロと見回している。
(本当に気づいてなかった……。危機管理ないよ、悟ぅ!)
日暮はあっさり観念して、ガサゴソと音を立てて物陰から出た。日暮に手を引っ張られているので、紅子も観念して両手を挙げた。
「つけたりして、ごめんなさい」
「ごめんなさい」
二人して葉っぱのついている頭を下げた。南美は二人を矯めつ眇めつしている。
「駄目ですよ。尻尾の見えやすい尾行は。敵に感づかれたら、尾行は途端に意味を成さなくなるのです。この私を尾行する度胸だけは、認めますけれどね」
「先生……」
「きゃらちがう」
「キャラ? そうですね。私は敏腕司令官ですから」
ふふんと鼻を鳴らして、得意気に胸を張った。悟が目を細めて事実を暴露する。
「まだ新米らしいけど」
「こら悟君! しっ!」
「そうなんですか……。それで……悟とはどういう関係で?」
「今日は食ってかかったりしないのですね。成長しましたか。えらいですねー。なでなでしてあげましょう」
「からかわないでください! 質問には答えてもらいますよ!」
「教師と生徒の関係ですよ。ね、悟君」
「はい、南美先生」
「じゃーじゃーじゃー! なんっで、そんなに仲がおよろしいんですかあ!? 教師と生徒っていったら、ふつう、そんなにベタベタくっつきませんよねえ? ええ!? この学校は特殊なんですか? 教師と生徒の恋愛もアリアリ女王アリなんですかっ?」
「ぷっ。紅子ギャグ……」
たいして面白くもない駄洒落が、悟には好評だったらしい。
「女王蟻ではありませんよ。駄洒落でもありませんよ。私はこの学園の教師ではないのです。とある組織の者です。赤屋南美という名前は、本名ですけれどね」
「組織? 組織って……変な宗教の団体みたいな?」
「いいえ。そんなちんけなものではありません。列記とした公的組織です。世界的有名な英雄を輩出する名のある組織、それが我々の所属する組織です。名を、KMNKと言います。気軽に南美と呼んでくださっても、構いませんよ?」
神猫をローマ字で表記して省略した、アルファベットの頭文字だ。
当然、紅子は神猫を知らないので、組織の名前も覚えない。耳を素通りしていく。
「我々って……それじゃ、悟もその組織の一員なんですか?」
「ああ、まあ……そうなる、な。最弱だけど」
「最弱って……」
「彼が所属する戦隊名、その名も……ゴッドキャットウォリアーズ!」
それだと、神猫戦士たちにならないだろうか。
「言っていいんですか? 無関係の人に……。名前違うけど」
正しくは、疾風怒濤神猫戦隊だ。疾風怒濤が消失している。
「無関係ではありません。紅子ちゃんと日暮ちゃんは神猫になると本部で上司に予言されています。知っておいて損はないのです」
「それはよかった……って、俺彼女らより弱いんですか……」
「男の面子丸潰れですか? いいじゃないですか、悟君。この間言ってくれましたよね。リーダーの役割は一つじゃないと。その通りです。戦うだけがリーダーじゃありません。人を動かす力を持っていればこそのリーダーです。あなたには、その力がある。悟君だって、戦隊の立派なリーダーなんですよ」
「……ですかね」
「ですよ」
「やーでも、上背があって女子より弱いなんて、恥だよなあ」
「力が全てじゃないんですよ! 悟君、私に謝ってください! 凄く傷つきました!」
「ええ!? 何で! 俺何も悪いことしてないのに」
「悪いことを言いました! 悪い子にはおしおきです!」
と言って、南美は悟の頭を掴んで自分の胸に顔を埋めさせた。ご褒美の間違いだ。
「ふごっ、ふがっ……」
「うふふ。枕にしてもいいんですよ。柔らかいでしょう? 母性溢れる枕というものは」
耳まで真っ赤にして、悟は豊かな胸に溺れていた。
その光景を目の当たりにしていた二人は絶句。
これが女の武器……だと確信した。
胸が嫌いな男は、今日日どこにいけば会えるだろうか。いるはずなのに、ここにはいなかった。あの悟までもが赤屋南美のフェロモンに骨抜きにされている。
(悟……。わたしの胸で寝てくれたらいいのに……)
「さとるんがたいへんなことに」
「そうね……。羨ましい」
「どっちが?」
「何故訊くの? 赤屋先生に決まっているじゃない」
「ひーたんはさとるんがうらやましい。だかれたい」
「ちょ、ちょっと待って。その発言は……!」
「ひーたんもみーなにだかれたい。やわらかくてきもちよさそう。もふもふ」
日暮は同性愛者ではないだろうが、ちょっと引っかかってしまう。
純粋な少女の言葉は、時として人を惑わせる。特に、思考が腐敗している人の心を。
(わたしは悟を抱きたい……!)
抱かれたい、ではなく、抱きたいと思うのも彼女の思考が腐敗しているから。
悟は窒息寸前の真っ青な顔になって解放された。
ご褒美だが、やはりおしおきだった。
赤屋南美の、眼鏡の奥の双眸が、妖しさに輝いている。
初対面時とは印象が真逆。妖艶な美女、あざとい悪女だ。
紅子が目指すところは、南美の現在の性格。目標にすべきではないが。
「南美先生」
「何ですか、紅子ちゃん。名前で呼んでくれましたね」
「わたし、先生の弟子になりたいです。弟子にしてください」
「こーたん? なぜに」
日暮が目を丸くしている。紅子の性格を真に理解していないからだろう。
赤屋南美の豊満なバストから解放され、数分後に悟が復活した。
血の気が戻って、死ぬかと思ったとひとりごちている。
豊かな胸はご褒美とおしおきの役割を持つので、武器になり拷問器具になる。
南美の肉体の戦闘力は一体幾つなのだろう。どれだけの男を陥落させられるのか。
自らの肉体の戦闘力は如何ほどなのかと試してみたい気分だ。悟で。
一歩前に出て、鋭利な眼差しで南美を見つめる。
「わたしもそんな小賢し……いいえ、いい女になりたいんです」
紅子が使った『小賢しい』は誤用。
『小賢しい』は決して卑怯などという意味は持ち得ないのだ。『姑息』も同様。
そんな言葉で南美が苛々するはずもない。失言でもないから。
「小賢しいですか。うふふ。あなたの言う通りですよ。私は頭がいいので」
「先生ー? 何か、すっごいナルシストみたいですよ」
悟が赤屋南美に突っ込んでいる。
「ナルシシストだなどと人聞きの悪い。私が間違ったことを言いましたか? 実力の伴わない自己陶酔でもなく、自己愛性パーソナリティ障碍者でもないのです。私は自分の顔に性的な感情を抱いたこともありませんし。私は現に、有能なのですから、己を褒めるのは当たり前なんですよ。日課に等しいんです」
「そんな有能な南美先生の弟子に……!」
「紅子まで何言ってんだよ」
悟は呆れ返っている。紅子の熱心な頼み込みに、額を押さえるほど。
割と常識人の悟はみんなに振り回されてばかりだ。そこが彼の面白いところでもある。
「こーたんもさとるんもへん」
「何が……って、さとるんって、俺? 何でそんな女の子みたいな渾名」
「かわいいから」
「悟は悟よ。でも、日暮は特別なんだよね。日暮自身が可愛いから、許されちゃうの。誰にでもこうだし、男だけに猫被りなぶりっ子でもないから、みんなから愛されるキャラなんだよね。日暮は可愛いから、甘やかしたくなっちゃう」
日暮を可愛いと連呼する紅子は、誰に対しても猫を被っている。
「そう言ってる紅子も可愛いけど」
「悟君。たらしはいけませんよ。またおしおきされたいんですか?」
「嬉しいけどそれはちょいとご勘弁を……」
「悟、今わたしのこと……」
「えーと、か、可愛いと言いました……」
目を逸らして、頬をぽりぽりとかいている。
相変わらず目を合わせようとはしない。けれど、紅子はその一言だけで幸せだった。
悟が紅子を女として可愛いと認めてくれていると紅子は天にも昇る心地になる。
もう死んでもいいとまで、大袈裟すぎるが思った。
「こーたん、かわいい」
「あ、ありがとう」
「まだまだ熟れていない、初々しい生徒というのは、見ていて愉快ですね。あー、空が青いですね。海も青いですね。顔は赤いですね。紅子ちゃん」
「な、何ですか!」
「いえ、何もありませんよ?」
南美はクスクスと笑っている。紅子の朱に染まる頬を見やって、諧謔している。
若いとはいえ、赤屋南美は大人だ。
紅子よりも人生経験が豊富で、恋愛経験も豊富なのかもしれない。彼女の佇まいは年齢にそぐわない、老成された雰囲気を醸し出している。
……実は、鯖を読んでいるのではなかろうか。
「先生、ドジッコ説どこに消えたんですか?」
「ドジッコ? はて、そんなことしましたっけ?」
赤屋南美は小首を傾げて訊き返す。恐らく、とぼけたふりをしている。
「授業初めの時……先生かなりテンパってましたよね」
「それですか。もちろん、そんなものどこにもありませんよ? あれは演技です。それとも、本物だった方がよかったですか? 事故を装って、悟君を押し倒したり、胸に顔を埋めさせたりした方が、よかったですか? ねえ、悟君」
南美の甘美な誘惑に、悟は照れながら余計なことを口走る。
「そ、そんなことしてくれるんですか……じ、事故じゃなくても、俺はべつに……」
「アァ?」
「ハイ、スミマセン」
紅子のチンピラのような威圧的な声に、超速の彗星の如く悟が謝った。
悟は心底脅えている。紅子の鬼のような形相に、恐れをなした。
「こーたん、おさえて」
「いけない、わたし……。悟にあんな声出すなんて……」
ハッと我に返って口に手を当てる。紅子はお淑やかさをアピールした。
悟は既に気づいているので、手遅れだった。
紅子がマドンナの性格ではないことはバレバレだ。女番長みたいな性格だ。
「紅子ってさ……」
「な、何?」
次の瞬間、紅子の目が大きく見開く。
「いい子を演じてる? っていうか、いつも他のみんなと話す時嘘っぽいよな。感情がこもってないっていうか。役者でも目指してんのかなって思うけど、役者を目指すならもうちょいましな演技した方が……。ごめん、余計なお世話だったな。忘れてくれ」
鈍い鈍いと思っていたものの、かなり核心を突いてくる。
人を見ていないようで人を見ている。
目を合わせるのが得意ではないだけで、紅子をしっかりと見ている。
わたしを見てくれている。
(嗚呼……。わたしの想いは届いていないわけじゃない。わたしに興味がないわけじゃない。わたしが日記にあなたのことを綴るように、あなたもわたしのことを見ていてくれている。わたしはあなたの目に映っている。わたしは……あなたの世界にいる! この歓びは、どう表現したらいいの?)
胸中で溢れ出す涙を止められなかった。
顔には出さなかったけれど、心では確と泣いていた。
余計な世話なんかじゃない。
自分を本当に理解してくれる人が、自分が一番好きな人でよかったと思っている。
これはもう、相思相愛だ。悟は紅子を愛している。
猜疑心の塊が圧潰し、疑心が確信に変わる。
告白待ったなしだ。もう、男が女に告白するものだとか、どうでもいい。
心臓の音が、早鐘のように身体に鳴り響く。
息をするのも苦しくなるくらい、一拍一拍が間を置かずに速く。
ドッドッドッと紅子を急かすように加速する。冷や汗をかく。
ぎゅっと胸の前で拳を握って、真っ赤な顔して目を細めて勇気を振り絞る。
「悟……。あのね、」
「紅子ちゃん……。話の腰を折って、ごめんなさい。時間、なので」
「ごめん、紅子。また後で」
悟と南美は校舎裏を後にし、街に走っていった。
一世一代の告白の瞬間を、よりにもよって南美に邪魔されてしまった。
しかも悟には軽く流されてしまった。
あんなに心臓の音が鳴っていたのに。
ドキドキしすぎて寿命が縮まったかもしれない。ドキドキし損だった。
紅子は神様を怨んだ。
あんなにわかりやすい態度を示しているのに、悟は何とも思っていないと紅子は思い込んで落ち込む。
悟たちがしていることを知らない紅子は、そうとしか考えられない。きちんと説明していれば、齟齬がなかったかもしれない。
美少女の告白と人の命を天秤にかけるのは、人の命に失礼だ。
たとえ美少女であれ、ぞんざいな扱いを受けざるを得ない状況にある。
クラス一のマドンナ、鹿野紅子でさえも、悟たちの正義感の前では塵にも等しい存在になる。そんなこと、紅子には知る由もない。
もし、「他の人なんかどうでもいい、自分だけを愛してくれ」と紅子が言っても、悟は優しいからそんなことはできないかもしれない。
悟はその優しさを罪だとは知らない。
罪深いから正義の味方になれる。博愛主義だから、みんなの英雄になれる。
命が懸かっているということは、どんなことよりも最優先させられるものなのだ。
それでも。紅子は悔しくて、悲しくてたまらなかった。
何も知らなくても、自分が仲間に入れてもらえなくてもいいから、伝えたかった。
自分の言葉を無下にされて、物凄く悲しかった。
それこそ世界の終わりみたいに、悲しかった。
好きな人に、好きだと伝えられないことが、侘びしい。切ない。心苦しい。
(わたしはもう駄目だよ……。もう言えない……)
これを逃したら、チャンスは二度とこないかもしれない。
悟は自分を好きじゃないかもしれないとまたネガティブに取り、自信をなくした。
「こーたん、げんきだして」
「うう……。上がり症治したい……。もういやぁ……」
日暮に背中をさすられて、じわりと涙が滲み出る。なんと義理人情に溢れた友人か。
人目も気にせずわんわん大声上げて日暮に泣きつきたくなった。
帰り道、紅子と日暮は廃ビルで悟たちを見かけた。悟は、十数匹もいる何かと戦っていて、南美は少し離れた場所で悟に指示を出している。紅子たちは廃ビルに近寄った。
腕や脚に包帯を巻かれている悟が立っていた。
非常に疲弊しているらしく、汗だくで、倒れそうだ。
あんな状態の悟を、南美はすぐ近くで眺めているだけなんて。
何をしているのかと苛立ちを覚えて睨みつけると、南美は血が滲むほど唇を噛み破っていた。
「悟君……。やはり一人では……分が悪いか……!」
口調まで乱暴になっている。彼女も相当怒髪天を衝かれているようだ。
南美は手を出さないのではない。手を出せないのだ。
見ていることしかできず、悔しさで心を痛めている。彼女を責めるのは、お門違い。
彼女が最も酷く悔恨の念を抱いている。
部外者が割って入っていいかわからないが、紅子は悟の元へ駆け寄る。
「悟!」
「さとるん……!」
苦戦しながらも猫パンチや猫キックを見舞っていた悟が二人を視認する。
「紅子、烏丸……。何でこんなとこに」
紅子と日暮は結界の中へは入れない。神猫オーラのある者とここにいる南美だけが入れる。要するに、噛み犬の仇敵以外はこの中には一歩たりとも入れないのだ。
紅子と日暮は壁を叩く。何度だって壁に突進する。
けれど、びくともしない。身体を痛めつけるだけ。
日暮は小さいから、体重がかかっていない。紅子だって、悟より軽い。
あんなに近くにいるのに、あんなにボロボロになってまで誰かのために戦っているのに、見ていることしかできないのか? 何もできないのか?
「そんなの……あんまりだよ……」
ずるずると地面に落ちていく。力尽きかけている。日暮もくたくただ。
紅子はお願い、と神様に願った。
今だけでいいから、彼を守る力が欲しい。
わたしを助けてくれた、わたしを救ってくれた彼の……力になりたいの。
キッと噛み犬の群れを睨みつけた。想いを込めて、声を振り絞る。
「悟を…………傷つけないで!」
言い放つと同時、紅子の身体が光り輝いた。悟の時よりも眩しい光が、紅子の身体を包み込む。紅子は驚きで言葉を発せない。
目の前に、血統書つきの、見慣れた白猫が現れる。
「初めまして紅子」
「え……、みーちゃん……?」
また会えるとは思いもしなかった。喜悦の感情が膨らむ。
「そう。わたしはきみのペットだったみーちゃん。もう随分前に死んでしまったみーちゃんだよ。でも、本当はずっときみの中で眠っていたんだ。時が来るまで、ずっと。わたしは、きみの想いに反応して、神猫になったんだよ」
「かみねこ……?」
「さあ、掴み取って。きみとわたしの力を。一緒に、悟を助けよう」
「……うん!」
紅子が力強く頷くと、みーちゃんは紅子の両手の中に収まる。
そして分裂するように幾筋もの光を硬質化させる。
紅子の両手に握られたものは……刀。柄に、猫の装飾が施されている。
鍔のない短刀、匕首数振りと打刀一振りだ。銀に煌めく猫刀が手に握られる。
「これが……猫刀……」
紅子には流れるような速さで使い方がわかった。
使い方を最初から知っていたような気がする。
初めからこれは、自分の中にあったのだと。
紅子は結界を通り抜けて悟の前に庇うように立ち、匕首の猫刀を振り抜く。
「わたしは、あなたのために戦う!」
「……紅子……?」
「悟の敵は、わたしの敵! みーちゃん、見ていて! わたし……頑張るよ!」
紅子は跳躍し、空中で匕首を数振り投擲する。まるでダーツを投げるように、軽々と。
「それっ」
群れの数体に命中。
刺さった傷口がじわりと広がっていく。これが紅子の神猫の特質。
跳躍での命中率アップ、更に高速回転刃により、海の危険生物ダツのように大きな穴を穿つ。紅子の想いは強い。かなり強力な神猫の能力だ。
残った敵は、切れ味のいい猫刀、打刀で斬る。姿勢を低くし、中段に猫刀を横に構える。
「閃け! 猫刀・銀燐一閃、参る!」
襲いかかる噛み犬を大振りの一太刀で薙ぎ払った。終わった後に暴れ風が襲いくる。
チン、と音を鳴らして紅子は納刀した。
息をついていると、後ろで悟が驚愕の声を上げた。
「つよ……っ」
「悟を守るために、強くなったんだよ。わたし。褒めてくれるかな?」
自信満々の表情を見せつけてから、慈悲深い聖母のように微笑む。
「……っ」
悟の顔が赤くなった。目を合わせてしまった、とばかりに高速で目を逸らして慌てる。何か口にしかけようとしていたのに、南美がパンパンと手を叩いて注目させる。
「紅子ちゃん、上出来です。悟君も、よく頑張ってくれましたね」
むかつくほどに、ニコニコと朗らかな笑みを浮かべている。
悟はどんよりと暗い顔で沈んでいた。
「いや、俺今回は紅子がいないと駄目でした……」
「そんなことありませんよ。まだ神猫になって間もないのに、大分頑張ってくれていましたよ。悟君はいいリーダーになれると思います。これからもその調子でお願いしますね」
「そうですか。よかった。それで……」
「はい?」
「まだ食糧とか、装備とかもらえないんですか?」
「宣言を忘れていますよ」
うまく、はぐらかされている。
「あ、やべ」
「紅子ちゃんも一緒にどうぞ」
わざとか? わざとなのか?
でも、南美のあの悔しげな顔を見たら、そうでもないような気もしてきた。
悟に教えられた通りに、紅子は悟と声を合わせて宣言した。
「「疾風怒濤神猫戦隊! 討伐完了!」」
二人が叫んでいる姿を、日暮はじっと寂しそうに見ていた。
「ひーたんも、なかまになりたい……」
「日暮ちゃんは、まだ覚醒してませんからね……」
「そうか……。やりたいのか、これを……」
疲れ切っている悟は、自分の傷だらけの身体を見つつ低い声で呟く。
「ともあれ。紅子ちゃん、初仕事お疲れ様でした。次もお願いしますね」
南美の心は優しさでできているとは思う。性格は自分よりもいいと思う。
けど、やっぱり悔しい。
紅子は引き攣った笑みを浮かべ、硬い声で応じた。
「ふ、ふふ……。ありがとう、ございます……」
――この女は敵だ。今日から、恋のライバルと見なす。
四 人心
三度の飯よりおかきが好きだ。将来の夢はおかきを全世界に布教すること。
そんな烏丸日暮は猫島学園の誰よりもこどもっぽく、誰よりも勉強ができる。
勉強ができるけれど、頭はよくない。だって、日暮は箱入りの超お嬢様だからだ。
皆に愛され甘やかされて育って、人を騙せるような言葉巧みな話術もなく、独創的な考えもないのだ。
ステレオタイプな勉強しかできない。されど、勉強ができる優秀なこども。
だから勉強ができれば、親に褒めてもらえた。
百点を取るのは簡単だった。だが刺激がなくて、退屈だった。
食べ物に苦労したことも一度もない。
金に困ったことも一度もない。
欲しいものはいつだって、全部手に入った。
やりたいことも全部やれた。
金さえあれば何でもできると教えられ、本当にそのように育ってきた。
ガラスを割っても、人に怪我をさせても、人を傷つけても、どんなに間違ったことをしても、親に叱られたことも、他人に怒られたことも、教師に何か言われたことも一度もない。
(ひーたんはだれにもせめられなかった)
こどもの頃の夢は、今全て叶った――。
こどもの頃の話だ。
みんなして、『あの子に何か言おうものなら、親が黙っていない』と口々に言うのだ。
きっと、腫れ物みたいに思っていたのだろう。
他人には、親の権力を笠に着て威張っているように見えている。そうしているつもりもないのに、みんなと仲良くしたいだけなのに。周りはそうさせてはくれない。
いつも仲間外れだった。特別扱いなんて、本当はして欲しくなかったのに、超お金持ちというだけで贔屓された。
今思えばいじめられていたのだろうが、日暮はそんなことに気づかなかった。
仲間外れにされるのは、自分が悪いからだと思っていたのだ。
自分がみんなと違うから。
自分が贔屓されているから、みんなは怒っているのだと。でも怒らなかった。
怒って欲しかったのに。
みんなと同じがよかったのに。
どうしてみんな仲良く一緒にいられないのだろう。
どうして誰かを仲間から外したがるのだろう。
こどもの頃、不思議に思っていた。
そうしたことがきっかけで、日暮は地元から遠く離れた学校に通った。烏丸のことを知る人は少ない。猫島学園の生徒は違う。日暮を特別扱いしなかった。別の意味では、特別だが。
悪いことをしたら、怒ってくれる人がいる。『烏丸』という二文字に臆せずに、気持ちを伝えてくれる。色々なことを教えてくれる。今までわからなかった心を。
(こーたんとさとるんは、たいせつなともだち)
日暮はこどもの頃、手にできなかった友達を手に入れた。
紅子には最近、自分が助言することが多くなった。でも紅子は物知りだ。
勉強ができない、また赤点だと常日頃から嘆いているが、日暮は紅子が羨ましかった。紅子は頭がいいから。
文章を書く才能に恵まれている。見せてもらったことはないが毎日日記をつけているらしい。日暮は毎日何かをしたことはない。勉強だって、土曜と日曜は休んでいる。学校から帰ってきた時にしかしていない。毎日続けられない。
悟みたいにみんなの前で誰かに意見するのもあまり得意じゃない。
マニュアル通りにしかできない自分が、あまり好きではない。
ちょっとでもイレギュラーな部分があればいいのにと日暮は悲嘆に暮れる。十分にイレギュラーなことを、日暮はわかっていない。
ここは日暮専用の別館。
モニターに人の影が過ぎる。使用人がきたのだろう。
中流家庭なら、自分の部屋のはずだが、日暮は別格。遊園地よりも広い敷地の家を親からもらっている。流石は超お嬢様。紅子や悟が烏丸家にきたら、目玉が飛び出るだろうか。
モニターのボタンを押すと鍵が開く。
解錠の音がして、門が自動で開いた。
使用人が一歩入って美しい所作で会釈をする。そして淡々とした声で用件を述べる。
「失礼致します。日暮お嬢様。旦那様がお呼びです」
「わかった」
遠く離れた猫島学園にいきたいと我儘を言ったのに、父親はついてきて別邸を二つも買ってくれたのだ。
優しすぎて甘すぎて眉をつり上げたところを見たことがない。
甘やかすのは甘やかすが、日暮と別居している辺りは愛すべき親バカとも呼べない。
日暮が年頃の女の子だから、気を遣って別居してくれているのかもしれないが。
数十キロに及ぶ庭を自家用車でいくと、本館があった。父親と母親が住んでいる。
またしても巨大な邸宅で、一般人が見たら「城か」と突っ込んでしまいそうなくらい絢爛豪華な屋敷だ。新築で、今も尚ぴかぴか。家と称すれば語弊があるかもしれない。
日暮が正門前に姿を現すと、重低音を響かせつつ正門が開き、屋敷までの道が開けた。歩いていくには、かなり遠いのだが日暮は健康のために歩いている。使用人も三歩後ろからついてくる。
父親に叱られたことはない。今回の呼びつけも、いつもの小言だった。
荘厳な顔つきの父親が、テーブルクロスの敷かれたテーブルの真向いに座っている。入口から遠い、上座だ。テーブルも、無駄に長い。
蓄えた立派な顎髭を触り、口を開く。
「日暮。この間、お友達と買い食いをしたそうだね。由緒正しき烏丸家の娘が、そんなことをしては、他の者に示しがつかない。あんなゴミを口にしたら、お前の舌が汚れてしまうよ。早くそんな者たちとは縁を切るんだ」
よもや父親の口からそんな言葉を聞く羽目になろうとは。
何故父親の口から出てくるのだ。由緒正しい家の人間が、そんな言葉を放って空気を汚していいのだろうか。何かを蔑み貶していいのだろうか。
そんなの、許せない。たとえ、自分たちの立場がどうであれ、何かを貶めていいはずがない。何かを貶していいはずがない。間違っている。
日暮は怒りを抑えつつ、父親にはっきりと伝える。まだ意見が変わる余地はある。
「ごみじゃない。おいしかった」
「ザンクフード? とかいうゴミはお前の口に合うものではないよ。あんなものは、ゴミだ。貧乏人が食べるものだ。お前は貧乏人なんかじゃない。お前は名門烏丸家の娘だ」
ジャンクフードだ。一般的には、ファーストフードなどと呼ばれる。
スナック菓子やファーストフードには、トランス脂肪酸や飽和脂肪酸といわれる、記憶力を低下させる脂肪酸が含まれている。だから、脳に必要な栄養素であるブドウ糖を多く含む食べ物を摂取すればいい。米やパンやうどんなどに含まれる。
日暮の大好きなおかきには、米も含まれている。
ファーストフードが身体に悪いことは大抵の人間が知っている。毎日のように暴飲暴食していなければ、心配する必要はないし、健康な食生活を送っていれば必ずしも長生きできるとは限らない。太っている人間は早死にする、も必ずではない。
生活習慣病にかかるのは、食生活だけではない。世間一般の目下の問題は、食ではなく職だろう。
医者もこう言うだろう。病気にかかる原因は一つではないのだ。何か一つの要因を責めたところで、正答はない。さまざまな悪因が蓄積されて初めて病を患う。
それを、この頭の硬い頑固親父は、わからないのか。
日暮はぶち切れて、精一杯の暴言を吐いた。
「おとうさんのばか! おいしいっていってるのに、ごみだなんて、いわないで!」
「わしはお前の健康を心配しているんだよ。あんなものを食べて育った人を見たことがあるだろう。ブクブク太って、身体に必要な栄養もない。おかしなものが入っているとも聞くし。身体に悪いんだ。あんな安物は、食べるべきではないよ」
「みんなは……やすくないっていってる。このあじがやみつきになるんだっていってる。おとうさんはたべたこともないのに、なんでそんなこというの。たしかに、けんこうにはわるいけど、たまになら……たべてもいいでしょう? へんけんばっかりもってるおとうさんには、わからないよ。ひーたんのきもちなんて」
日暮は瞳を潤ませる。
健康のためを思うなら、毎日の食事を栄養バランスの心がけた野菜・魚・米・鶏肉中心の食事にすればいい。シェフの作る料理よりも、母親の作る庶民の味を堪能した方が長生きできるだろう。
沖縄県のもずくも長寿になれる要素の一つか。しかし、ヨウ素の摂りすぎには注意だ。もずくに多く含まれるヨウ素を分解してくれるのは、大豆。納豆などが挙げられる。他に身体によいものは、果物。健康を維持したければ、適度な運動も大事だ。
これはあくまで一例にすぎない。
日暮の父親のように、風味豊かなおいしい料理を食べすぎると、庶民の味は食べにくい。まずいと感じる。健康を人に教示できる立場ではないのだ。
父親は何かを言いかけたが、呑み込んで日暮を責めるようなことを言った。
「お前は世間知らずだから、そういうことは教えてやらなくてはならない」
「おとうさんだって、しってるのはおかねもちのせかいだけじゃない。しょみんのくらし、しらないんでしょ。ひとづてにきいただけで、かってなことぬかさないで」
日暮は立ち上がって、口論を放棄した。言っても無駄だと思った。
「かえる。おとうさんとは、しばらくくちきかない」
「日暮……」
日暮はぼそりと呟く。
「ひーたんのきもちわかってくれるまで……くちきかない」
日暮も大概頑固だった。
登校途中の出来事だ。近所の公園でのこと。
よくないことは、考えれば考えるほど降りかかる。降って湧いた災難を引き寄せるように、ネガティブなことを考えればネガティブなことが目に入る。気にしなければ気づかないのに、気にしてしまえばいやでも目にしてしまう。
近所のマンションの備え付けのゴミ箱だとか、焼却炉だとか、そんなものを目にすれば心がざわつく。胸に突き刺さる。
父親のあの単語に敏感になり、トラウマになっていた。
小学生くらいの小さな男の子たちが、横たわっている鳥をいじめていた。いや、石をぶつけて嘲笑っている。まるで……ゴミにでも話しかけるような口調で。汚いものを見るような目で、羽を散らした鳥を貶めている。
(……ちがう。ちがう、ちがう、ちがう! ごみなんかじゃない……! みんな、まちがってる。とうといいのちなんだ。さげすんでいいものなんかじゃない)
日暮は小学生たちに向かって叫んだ。
「やめて!」
彼らの前に立ちはだかり、鳥を庇う。
「は? なんだよ、こーこーせーかよ。ちっせー」
「こうこうせいだよ」
「でもあたまわるそー。な」
「ひーたんはあたまわるいけど、ひととしてまちがったことはゆるせない。きみたちはまちがってる。このこはとうといいのちをもってるんだよ」
日暮が何を言おうとも、小学生は聞く耳を持たなかった。
「じぶんのことひーたんとかいってる~! ケッサク~!」
「じぶんをすきなふうによんで、なにがわるい! たにんのめをきにするほうが、おかしいんだよ! たにんがどうおもうかなんて、ひーたんにはかんけいないもん!」
日暮がまくし立てると、小学生たちは怯んだ。小学生が口論で高校生の日暮に勝てる道理はない。日暮は一歩も引かない。自分の主張を真っ向からぶつけていく。
「な、なんだよ……」
「しんでるんだぞ、そいつ……」
「じゃあ! なんでしんでるこにいじわるするの!? だれがしていいっていったの!! がっこうでおしえられなかったの!? どうとく!!」
「しんだら、ごみじゃん」
『あんなものはゴミだ』
脳裏に蘇る、父親の言葉。
誰がそんなことを聞きたいのか。
誰がそんなことを肯定するのだ。誰が肯定しようとも、自分は否定する。死んだらごみだなんて、そんなこと言わないで欲しい。何にでも命があるのだ。物だって、必要がなくなったら今までありがとう、役目が終わった、ご苦労様と言って感謝しなければならないのに。ごみだなんて言葉で嘲って、汚く飾らないで欲しい。
ごみなんかじゃない。大切なものを失ってしまったのだ。
この世のものは等しく尊ばれるべきなのだ。
優しい少女は、たった一羽の鳥の死を嘆き悲しむ。
「……ぅっ」
「うわ、なきだした! キモッ!」
「たかがとりがしんだくらいで、なくなんてありえねー!」
「そんなことば、つかうな!!」
「あるものをつかって、なにがわるいんだよ!」
「つかいかたを、まちがってる……!」
ごみという言葉を生み出した人間を、日暮は心底軽蔑した。否、尊いものに向かってごみだと言い始めた人間のことが憎いと感じた。
何故そんな言葉を使って貶めることしか考えないのだろう。自分が他人にごみだと言われて、傷つかないのだろうか。自分が好きな人にごみだと言われて、存在を否定されても何とも思わないのか。
どうしてそんな言葉を使えるのだろう。彼らは、人間じゃないのか? それとも、人間だからそんな言葉を使いたがるのか?
日暮の頭の中はぐちゃぐちゃになった。身近な人がそういう言葉を使うと知り、自分にもそんな言葉を使う人間の血が流れていると知り、日暮の心は壊れそうになった。
人の使う言葉の問題は、思春期の傷つきやすい女の子には、酷な問題だった。
日暮は登校する。学校に着くと急いで南美を探した。訊きたいことがある。
紅子にでも悟にでもなく、日暮は南美に訊きにいった。
紅子や悟には、こういう話はしない。新任だが、日暮には南美の手腕がわかっていた。尾行を早くに見破っていた時から。こどもっぽい審美眼ゆえに、日暮は凄腕の人物を少ない時間で看破できるのだ。
職員室にいると思って、日暮は職員室にノックもせずに入っていった。
「みーな! みーな!!」
ノックもせずに大声を上げても、先生を渾名で呼んでも、敬語を使わなくとも教師たちは注意しない。名門烏丸家の令嬢に口答えできる人間はいなかった。
ただ一人を除いて。
柔和な笑みで、その人は穏やかに言う。
「どうしましたか、日暮ちゃん。急いでいても、挨拶はきちんとしましょうね。皆さんが見られている手前では、敬語を使いましょう。それが日本の掟です。血相変えて、何かいやなことでもありましたか?」
「ご、ごめんなさい……。みんな、しんだら……ごみになるの?」
「はい?」
「ひーたんもしんだら、ごみになるの? ごみだっていわれるの? ひーたん、いらないこになるの? しにたくないよ、しにたくない……いやだよ。だれかにごみだっていわれるの。しんでもだれかにさげすまれるなんて、いやだよ。こわいよ。しにたくないよ」
悲壮感の漂う日暮を見て、南美は悟ったような顔をした。
「落ち着いて。深呼吸してください。場所を変えますよ」
日暮は言われた通り、深呼吸をした。
裏庭にいく。南美は向き直り、タイトスカートを押さえて、しゃがんだ。日暮の背丈と同じくらいの目線になって、微笑む。
「日暮ちゃん。誰かにいやなことを言われたんですね」
「うん……。とりが、しんじゃって、それをこどもがいじめてた。ひーたんがとめたけど、とりはすでにしんでて……そのとりを、こどもはごみだっていった。しんだらごみだって」
「あなたは、いい神猫に憑かれるでしょうね。あなたは正しいですよ」
「ほんと? ひーたんはただしい?」
「はい。彼らはきっと知らないのでしょう。自分の言葉がどれほど、その亡くなった鳥とあなたを傷つけるものであるか。傷つけるのをよしとする人は、自分もたくさん傷つけられるのです。蔑まれるのです。自分の欲求を満たすために、他者を貶めるのですよ。抑えようのない不平不満を、何かにぶつけることでしか、生きていけないのです」
「……」
「欲求が満たされていれば、不平不満がなければ、悪いことなどしないのですよ。彼らはむしゃくしゃしていたのかもしれません。学校でいやなことがあった。親や友達と喧嘩をした。自由に空を飛べる鳥が羨ましかった。考えたくもないことですが……ただそこにあったから傷つけた、とかね。さまざまな理由が考えられますよ。人は生まれながらに罪深き生き物です。どう生きるかは他人が決めることではない。自分が決めることです。他人の価値観に流されず、自分を持ち続けなさい。間違っていると感じれば、我先に異を唱えなさい。どれだけの人に否定され、どれだけの人を敵に回しても、あなたを認めてくれる人は必ずいます。そうすれば、あなたは正しい人間になれます」
日暮の目に涙が溢れる。耐え切れず、嗚咽が漏れる。
「忘れないで。あなたを好いてくれる人のことを。あなたの努力を認めてくれる人のことを。私はあなたの味方ですよ。あなたの言葉を、私は否定しません。私は他人でも、あなたの先生ですから、あなたの一番の味方です。決してあなたを裏切らない」
裏切らない。
その言葉は決まって、裏切る人の言う言葉だ。ふとしたことがきっかけで、人間の関係は拗れる。けれど、南美ならばそれを真実に変えてくれるだろうか。
その言葉を、彼女自身を信じてみてもいいのだろうか。騙されはしないだろうか。
自分を馬鹿にしてはいないだろうか。自分を否定したりしないのだろうか。
本当に、彼女は嘘をつかないのだろうか。
その顔は、日暮が言葉を紡ぐのを待っている。麗しい微笑みは、全てを包み込んでくれる。傷ついた心を癒してくれる。どんな言葉よりも簡単に、心の奥底を温めてくれた。
トラウマだと思っていたものが、徐々にそうでなくなっていくような気がした。
「ありがとうございます、みなみせんせい」
「よくできました」
後光の差す天女のような美貌。誰にも侵されない怜悧な瞳。優しく、それでいて気高い笑顔。全てが完璧、完全無欠だと感じた。美麗に微笑んだ南美が日暮の頭を撫でた。
(ひーたんも、みーなのでしになりたい)
盛大に泣けば、気持ちが晴れやかになる。
日暮の心は吹っ切れた。だが、これはあくまで一時的にすぎない。また何かよからぬ単語を耳にすれば、日暮の心は揺れ動き、傷つき惑わされる。そんな言葉を聞きたくなんてないのだ。だから日暮には聞こえてしまう。人間の悪い部分が、視えてしまう。
「日暮! どうしたの、そんな顔して」
「うん……」
「わたしには言えないこと? いつも日暮にお世話になってるから、わたしでよければ相談に乗るけど。言えないような辛いことだったら、訊かないよ。日暮は何も言わずにわたしを慰めてくれるからね。いつもありがとうね」
にっこりと笑う紅子。日暮は首を振って、ううんと言った。いつも世話になっているのは自分の方だ。だから礼を言うことはない。きちんと言葉にしなくても、紅子は意味を履き違えたりしない。日暮と紅子はそういう関係だ。
「こーたんは、しんだらなにになるとおもう?」
「死んだら……って唐突だね。そういう話は、あんまりしないし、考えたこともなかったなあ……。んーと、そうだなあ……。死んじゃったら、まず……好きな人たちに会えないかな」
「……すきなひとに……?」
紅子は悲しげに笑う。そして、話を続けた。
「うん。それはとても悲しいことだよね。わたしは悟と会えないのも、日暮と会えないのも悲しい。わたしを大事に育ててくれた家族と離れ離れになるのも悲しい。友達と離れるのも悲しい。わたしを想って、泣いてくれる人がいるのも悲しいかな。だから、自殺は絶対にしないの。恥ずかしすぎて死にたいって思う時もあるんだけど、やっぱり生きていたらいいこともいっぱいあるし。わたしは、好きな人たちの傍にいて、生きていることが幸せだな。それ以上の幸せも、いっぱい思いつくんだけどね。って……答えになってないかあ~……難しいな、ごめんね日暮。わたし、頭よくないから」
「そんなことない。ありがとう、こーたん」
「そう? よかった。大丈夫だよ。死ぬことを考えていてもすぐに死は訪れないから。わたしがそうだったからね」
「なんでこーたんはしにたいの?」
「上がり症ってさ、すっごい心臓に負担かかるんだよ。小学校の卒業式の練習で、全部の机をくっつけて丸く囲むんだけど、起立してみんなの前で名前を言う……そのたった一つのことだけなのに、一時間かかったことがあったよ。待たせているのに、どうしても恥ずかしくて言えないの。冷や汗大量にかいて、身体も震えるし、心臓の音なんて気持ち悪いぐらい響いてくる。言い出そうとしても声が出ないの。出せないの。泣きたくなった。みんなが見てる、視線が怖いって思って、縮み上がるような思いだった。他の子は淡々とできるのに、わたしだけが緊張してた。恥ずかしくて、逃げ出したくなったよ」
それが、『自意識過剰』というものだ。重度のものだと、そうなる。
「……つらい」
「そう。辛いんだよ。視線が痛いし、怖い。『早くしろよ、お前なんかのせいで時間食ってるじゃねえか』って顔されるんだよ。わたしが悪いのはわかってる。みんな嫌いだった。誰もわたしのこと、わかってくれないから」
それからも紅子は日暮に昔話を続ける。
紅子の上がり症は、かなり重症だった。みんなの前で何かをする、それに対して苦手という言葉だけでは言い表せないほどの嫌悪感を持っていた。
スピーチをするのや作文を読み上げるのでもそう、国語の教科書を音読しろと言われた時も心臓に多大な負担をかけていた。酷い時は、失声症になったこともあるのだと。
長大な自意識過剰さが引き起こすストレスは、生半可な言葉じゃ慰めにもならず、半端ではない過負荷を自らに強いている。紅子の上がり症は、未だに治らない。
「でも死ぬのは駄目なの。死んだら何になるって、さっき訊いたよね。わたしは――死んだら、夢も希望も潰えて、無になるんじゃないかと思う。死んだら意識は多分なくなる。わたしが、わたしじゃなくなっちゃうんだよ。肉体は燃やされて、わたしが好きだったものも、わからなくなる。描いていた夢も、死んじゃったら全て終わり。だから、生きる」
「しんじゃったら……すべておわり……」
「でも、終わらない命もあるのかもしれないね。神猫は異例だもの」
神猫とて永遠の命を約束された存在ではない。神話に登場する神々のように、神の死は大いにありえるのだ。それが生持つ者ならば、死もまた隣に存在する。いつかは終わりがくる。終わりがないものに、命などないのだ。
「ひーたんもかみねこにあいたい……」
「日暮にも素質があるって、南美先生言ってたよ」
「ほんと?」
「うん。日暮はわたしよりも強くなるんだってー。いいなあ、わたしより強いなんて。日暮が悟を守ったら、惚れちゃうかもしれないよー。『あ……日暮様可愛い……(トクン)』みたいに。そうなったら超ショックだよ! 悟ぅー!」
紅子はさっきからよくわからない誰かの声真似をしている。今度は目をキリッとさせて気障な男っぽい声でやった。いつも紅子は日暮を楽しませてくれる。
紅子が日暮に惹かれているように、日暮もまた紅子の陽気なところに惹かれている。
「こーたんはかわいくておもしろい」
「ありがと!」
次は悟のところにいった。珍妙なことに、悟は一人で自分の席に着いていた。
日暮のことを烏丸と呼ぶ悟だが、悟は烏丸家を知っているのだろうか。いや、慇懃な悟だったら、知っていれば日暮に敬語を使うかもしれない。数学教師には慇懃無礼に見えても、日暮には慇懃に見える。彼はいつも遜った態度で、偉そうにしない。すぐに自分の非礼を詫びる。自分の非を認めようとせず、紅子をいじめた数学教師とは違うのだ。あの時、自分にも意見する能力があればよかったと思っている。
所詮はこども。年上に向かって意見できるとすれば、父親が相手だった時のみ。先生に意見するのは、素直な日暮といえども難しいのだ。論破する力もない。
論破する力を持っている悟に、憧れを抱いている。
「どした? 烏丸」
「ひーたん」
「え。ちょ、待てよ? ひーたんって呼べとか言うつもりじゃないよな? それはちょっと待ってくれ。ひーたんは待ってくれ。俺、人を渾名で呼べるほどフレンドリーなやつでもないんだけど。それに、女子の名前を呼ぶのはあんまり得意じゃなくてだな……」
訊いてもいない言い訳を始め、しどろもどろになっている。
日暮には、悟が女子で唯一紅子を名前で呼ぶ理由がわからない。彼女がそう呼べとみんなに言っていることは日暮も知ってはいるが、嫌なら呼ばなくてもいいのだ。他人の呼称など、自由に呼べばいい。紅子一人を贔屓する必要もないのに。
とどのつまり、恋愛感情だとか、そういう話は日暮には早かった。
「わかった。名前で呼んで欲しいんだったら、名前で呼ぶよ。べつに親しくないのに、お前も名前で勝手に呼んでるしな……」
「ひーたん」
「だから、ひーたんはやめろっ! ひーたんは! 日暮でいいだろ? 呼ばせんなよな」
真っ赤な顔して叫んで、思いっ切り呼んでいる。
日暮は悟をからかうのが楽しくなってきた。
「さとるん、ほんとうはよびたい?」
視線を泳がせて後頭部を押さえる悟。本心がもろバレだ。
「それはその……まあ、何だ……。そんなことは、断じて、ないっ」
「さとるん、おもちょい」
「おもちょい?」
「かんだ」
「そーかそーか。ひーた……日暮はマイペースだな」
「やっぱり。よびたいんだ」
「観念する……」
悟は項垂れる。悟の顔を両手で掴み、顔を上げさせる。質問をぶつけた。
「さとるん。さとるんにしつもん」
「彼女いない歴なら、もうすぐ十六年だけどー?」
悟の茶化しはスルーした。
「ごみってなに」
「ごみ? そんなの、訊くほどのことか? 不要品のことだろ」
「ふようひんってなに」
「要らなくなったもの。道端に落ちてる煙草とか、空になった缶とか、空になったペットボトルとか。野菜の皮とか食べられないもの」
目を窄めて、悟は一般論を言い立てる。日暮が求めている答えとは違うが、正解だ。
「じゃあ、ふようなにんげんは?」
「不要な人間? ……そうか、日暮はそんな風に考えたことがあったんだな。俺は一度もそんな風に考えたことはないよ。俺には母さんがいないけど、母さんが不要だから死んだんだとか、そんなことは考えない。俺は会えなくて残念だった。死んじゃって悲しいと思った時期もあったよ。今は……落ち着いてる。母さんは、天国に必要な人間だったんだと思うようになったから、だな」
悟はそう口では言いつつも、ちょっとだけ寂寥感を感じさせるような表情をした。
「ふようなにんげんは、いないの?」
「いるって、言って欲しいのか? 俺はいないと思うけど。みんなそれぞれに定められた役割を持って生きているんだと思うな。だって、そうだろ? 問題が起こるのは、問題を起こす人間がいるから。問題を起こすのが間違いであるかどうかは、人間が自分たちの尺度で決めるもんだしさ。間違ってるかどうかは、誰にもわかんないんだよ」
でも、正解不正解という言葉は、確かに存在している。間違っていると決めるのも、間違っていないと決めるのも、人間だ。
正解不正解を結論づけるのは、その人間の判断基準によるものだ。
しかし、誰も正解を持っていない。誰かが「それは正しい」と感じたら、それは正解であって不正解であるのだ。正しいと感じた人にとって正解であり、千差万別の人に正解ではない。それを間違っていると唱える人物が必ずいるからだ。
発されたその言葉は、多種多様の人々の思考により常に矛盾した結果を生む。時代が作用することもあれば、場所が作用することもある。満場一致の正解はありえない。人が創り出す意見に正解などない。
人が創り出すものにもまた、正解などない。
正解とは、人が生み出した理想にすぎないのだ。ゆえに、人間は意見の多様性を持ち続け、よりよいものへと近づけていくことができる。
「さとるんは、すごい」
「俺の言葉が間違ってるって決めるのは、俺じゃないんだよ。他人でもないんだよ。時世と人の生き方が決めるんだ。時代に合わせて、どうあればよいとされているか、それが今正しいとされている答え。だから、日暮は俺の意見を正しいと思ってる」
「でもいいまわしがむずかしい」
「わかりやすく言うのって、難しくないか? あーじゃあ、言い換えるとだな……。俺たちが考える意見っていうのは、誰かが正解と思っても誰かが不正解だと思うことがある。みんな考えが違うから。つまり、誰も正しい意見を持ってないんだよ。正しい意見を作るのは、時代と人の生き方。たとえば戦国時代だったら、平和な暮らしをよしとしないかもしれないじゃないか。戦争をなくしたい、なんて言ったら排斥されるかもしんないぞ? でも今は違う。戦争は悪だと考えられているから、平和的解決が優先される。ならば、今正しいとされる意見は、より平和的に解決できる方法……だろ?」
探りを入れながら悟は長々と説明した。具体的に教えてくれたので、日暮は理解した。
「よくわかった。ありがとうさとるんるん」
「何か、増えてないか?」
「きのせい」
「俺の意見なんかじゃ、たいして役に立たないと思うけど……。べつに話すのが嫌いなわけじゃないし、いつでも訊きにこいよ」
「ううん。じゅうぶんやくにたった。もうひとつ、しつもん」
「あいよー。今度は何だ?」
「さとるんはからすまのこと、しってる?」
「国内有数の金持ちの烏丸……だよな。それがどうかしたか?」
「しってるんだ」
「知ってたからって、べつにどうということもないよな……俺、お前にたかる気はないし、お前の家が見たいとか思ってるわけでもなし。かと言って、同級生に敬語使うのも変だしな。天皇家の方ならともかく。金持ち一家に生まれた、ちょっとふつうじゃない子ってだけで、特別扱いされるのも、好きじゃないんだろ?」
「なんでわかる?」
「日暮を見てたら、そう思う。何となく」
見ていたのが意外だった。悟は紅子のことしか見ていないのだと思っていた。日暮は驚きを通り越して感動した。
悟の手を握って自分の胸の前に持っていく。照れた悟は驚きと焦りで手を引っ込めようとしていたが、日暮は強い力で離さなかった。
「ひーたんのしんぞうのおと、つたわる?」
トクントクンと心臓が穏やかに脈打っている。目を閉じれば、鼓動を感じる。
目を逸らした悟はカチンコチンに固まっていて、ロボットみたいだった。
「イーエ、キコエマセン」
「むないたでも、どきどきする?」
日暮を意識していなかったはずの彼が、女の子に大胆なことをされて目を回している。
「胸板って……。いや、僅かに膨らみが……って、いあ、何を言ってるんだ俺は。そもそも制服越しだったら触り心地もよくわかんねえし。やっぱビールは生がいいよな、生が。大人になったらビールは生派で一本だ! 生じゃないビール、のどごしよかない!」
意識しすぎて関係のないことまで口走っている。悟は紅子と同じで、慌てると饒舌に。
これが暗喩だと日暮は気づかない。慌てふためき狼狽える悟を見つめている。
「さとるん?」
「ごめん。俺、ちょっと風呂入る。風呂入らないと、駄目な気がする」
「え。なにが、どうしたの」
学校に風呂場はない。プールの後に使うシャワー室ならばあるが。
悟は額を手で押さえて、ぽつりと呟く。
「欲情していいのは、浴場だけってことだ……。さらば、日暮! 幸せな一時をありがとう! でも俺以外にこんなこと、すんなよ! 絶対だぞ? 約束だからな!」
指を差されても、日暮は意味を解せない。
「?」
席を立った悟が、手を振って走り去ってしまった。
放課後。
また南美と悟は校舎裏にいき、話をしている。毎日のように噛み犬が現れている。噛み犬が出現するのは、いつも突然なのだそうだ。何故出現するのかも、わかっていはいない。でも、上司の予言は百発百中なので、被害は抑えられている。
現れては本部の者が至急結界を張り、その場に留めて学校が終わったら悟に斃しにいかせる。数が多い時は、一つの場所じゃ足りないので、移動する。休んで戦い、休んで戦う。その繰り返しだ。多少の疲労はあっても、過労はさせない。しっかり休養を取らせる。
それが、疾風怒濤司令部のやり方だ。南美に詳しく説明してもらった。
この間紅子も神猫になったので、悟の負担はかなり軽減された。悟と紅子は仲良く二人で戦っている。「戦隊」とはまだ言えないが、疾風怒濤神猫戦隊と敵前で名乗っている。
日暮は除け者だ。一緒に尾行した仲なのに、危険だからついてくるなと紅子に言われる。悟もそうした方がいいと言うし、仲間外れみたいで寂しい。
他の友達と一緒に帰るのもいいが、日暮は紅子と一緒に帰りたいのだ。
紅子が一番好きだから。
(……どうしたら、かみねこになれるんだろう)
小石を蹴りながら、トボトボと小道を歩く。
「かみねこに、なりたい」
「本当に?」
誰かの声が聴こえてくる。日暮は目を見張った。
「……え」
「おまえは……本当に神猫になりたいのか?」
「だれ?」
「神猫になれば、運命が変わってしまうのだよ。まともな人生を歩めないかもしれない。ろくな死に方ができないかもしれない。それでも……よいのか?」
「……」
そんな訊き方をされると、逡巡してしまう。
「おまえには素質がある。おまえは強い。しかし、おまえは真っすぐに生きていくべき子だ。おまえの心は、澄んでいる。見据えなくともよい世界まで、見る必要はないのだ」
「でも、なりたい。こーたんやさとるんとおなじ、かみねこになりたい」
「ごみのように斃されても? それが言えるのか?」
日暮はドキッとした。何故一度でもトラウマになったことを、的確に言い当てることができるのだ。自分に声をかけているのは、一体誰なのだ。
声だけが聴こえてきて、姿を一向に現さない。
ゴミのように斃されるのは怖い。でも、友達が戦っている。仲間外れも嫌だ。けれど、力になれないのは、もっと嫌だ。見ていることもできないのは、もっと辛い。
日暮は真剣な目をして、高らかに宣言した。
「しなない。しなないよ……。まけない。ひーたんは、みんなとたたかうから」
「烏丸日暮。おまえを、認めよう」
「……!」
強烈な光に包まれた優雅な三毛猫が、満を持して姿を現す。
「わたしの名を呼ぶがいい」
「……つわもの」
「おかしな名前をつけてくれたな。よい、おまえとわたしは、一つの存在だ。日暮――わたしと戦え。二人を守り、おまえの信じる世界を守るのだ。死んでも、正義を貫け」
「――うん」
日暮が肯んじると、つわものは日暮の手の中に収まった。
凄絶な光を放ち、武器へと姿を変えていく。
日暮の武器は、二丁の拳銃。拳や脚、刀よりも強い飛び道具。日本刀は弾丸を切れる。でも、弾丸を切るのは、至難の業だ。今の紅子がそれをなせるかどうか不明。
弾丸が猫の形になっている、猫銃だ。右手はエネルギー弾、左手は殺傷弾の二種類の弾
丸が入っている。重みが手の平から伝わってくる。
日暮は猫銃をあますところなく見た。安全装置を解除し、引き金を引いてみる。ドンッと勢いよく弾が発射し、日暮はすっ転んだ。
「わっ」
狙った場所とは違う場所が木端微塵に吹き飛ぶ。威力は絶大。だが、隙が多い。
日暮は上体を起こしつつ、気が動転していることを理解する。生まれてこの方、銃を握ったこともない日暮が、発砲した。必要な筋肉のついていない身体では、耐えられなくて当然。だが、神猫の力は身体能力の強化も可能としているはず。それなのに、どうして。
「悟と紅子とは違い、おまえは神猫になって日が浅いのだ。仕方あるまい」
「でもこーたんはすぐにつかえた」
「神猫の潜伏期間が長かった。おまえとわたしが出会ったのは、今日が初めてだ。まだ神猫として真の力を発揮できない。二人の力にはなれないのだよ」
「……うう……」
「戦いの場にはいける。おまえが望めば。二人の応援ができる」
「おうえんで、ふたりはげんきになれる?」
「そうなるかどうかは、おまえの力が物を言う」
日暮は二人のいる場所へ向かった。二人の居場所は、神猫が教えてくれる。
悟と紅子と南美は町のケーキ屋にいた。ケーキ屋に敵が現れるなんて、とんでもない敵だ。敵も腹を空かせていたのかもしれない。
結界の中に、一般人はいない。結界を張る前に避難誘導させたようだ。
狭い室内の中に、三匹の噛み犬。二人の神猫。
結界の外にいるのは南美とケーキ屋の店主、店員。ケーキ屋の店主たちは不安そうな顔で肩を寄せ合って事態を見守っていた。
紅子は匕首の猫刀をぶっ放し、悟は猫キックを放っている。
しかし、鈍重なはずの噛み犬に全ての攻撃を避けられ、思うように決着を着けられない様子。室内も狭く、せっかくの身体能力も生かせていない。戦い辛いのだろう。
「くっ……!」
「悟、ごめん、わたしがうまくできないばっかりに……!」
「いや、俺が足止めもできないのが悪い。頑張って引きつける!」
「お願い!」
悟が前に出て、高速の猫パンチを繰り出す。何発かが噛み犬にヒットし、噛み犬は後ずさった。噛み犬は反撃には出ない。深刻なダメージが入り、動けないのだろう。
「よし!」
悟はガッツポーズを取って、即座に他の噛み犬を斃しに向かう。
「悟、避けて!」
紅子の声がかかり、悟は後ろも見ずに、横にスライドするように避けた。
「了解!」
「はああああ! 閃け! 銀燐一閃、参る!」
打刀を正眼に構えた紅子が疾駆し、袈裟斬りを見舞う。
刀は噛み犬の肉を削ぎ、鮮血を迸らせた。噛み犬は吹っ飛び、息絶える。
きちんと連携が取れている。安心したのも束の間――
紅子が最後の一匹を斃そうとした時、噛み犬からの反撃が襲う。噛みつかれる!
「つっ」
紙一重で避けた。瞬時に、紅子は猫刀を横薙ぎに払う。が、跳躍して避けられる。
攻撃を食らわないか、心配だ。日暮はぎゅっと拳を握り締める。
「こーたん、さとるん……」
「悟と紅子の心配はしなくていい。あれくらいの噛み犬、今の彼らが苦戦するほどの相手ではない。不安に思わずともよいのだ。おまえとわたしが真の力を発揮できたならば、あれくらいの敵、一撃で木端微塵にしてくれるがな」
そうは言われても、二人は相当苦戦している。もうちょっとで敵の攻撃を食らいそうになったのだから、あれは楽勝とはいわないだろう。
「……ふふ」
「何がおかしい? 本当のことだ。盛ってなどいない」
「ひーたんは、ふたりよりこころがよわいから。ふたりよりつよくなれるのって、おかしい。ふたりより、よわいはずなのに」
「心の強さと神猫の強さは比例しないのだ。心じゃない、意志だ。それに……わたしよりも強い神猫はそれこそ、山のようにいるだろう。まだ現れていないだけで」
「そうなの」
話し合っている間に、悟が噛み犬に止めを刺していた。
悟と紅子は汗を拭いて、「せーの」と息を合わせて、手を掲げ大声で叫ぶ。
「「疾風怒濤神猫戦隊、討伐完了!」」
爽快感のある、笑顔。二人のあんな顔は、初めて見た。
「どうだ。やりたいか?」
「うん。すごく、やりたい」
人に感謝される。人を助ける。使命感を持って任務を遂行する。そのどれもが、日暮には響きのいいことだと考えられた。
誰かの言葉で傷ついてばかりじゃ、先を進めない。
間違っていると誰かに言っても、自分の言葉が正しいとは限らない。
ならば、自分が正しいと思ったことをして、認めてもらえばいい。
そしたら、人は変われるはずだ。
日暮はつわものに向かって、決然と言い放つ。
「かみねこせんたいに、はいる。そして、ひーたんがただしいってこと、しょうめいしてみせる。ひーたんがただしいとしんじておこなうことが、まちがいじゃないってことを」
「おまえの覚悟は、受け取った。宜しく頼む」
「母さんに言われてしまったよ。貴方のやり方は間違っていると……」
母に諭されたらしく、父は別館に一人訪れる。日暮はムスッと頬を膨らませていたが、父は気まずそうに汗をかきつつも、日暮に向かって頭を下げた。
「日暮……悪かった。父さんが間違っていたよ」
「え」
日暮は目を大きく見開く。
「ザンクフードをゴミだと言って、悪かった。本当は、そんなことは思っていないんだ」
「……じゃんくふーど、だよ」
「ああ。私は昔、庶民の暮らしに憧れた時期があってね。ザンクフードを食べてみると、意外にもおいしくて毎日のように食べていたんだ。食べ盛りだったもので、毎食三人前ほど頼んで、糖尿病寸前まで陥った。糖尿病にならずにすんだのは、不幸中の幸いだった。それ以降、私は食習慣を見直すようにしている。悪く言ってしまって、本当にすまなかった。ザンクフード店にいって、謝罪し、賠償金を支払おうと思う」
ファーストフード店が実際に害を被ったわけではない。だから賠償金を支払わなくともよい。それでも、支払う意思は強い。そこまでするところが、父のいいところだ。
「そうだね。あやまろう」
「ああ……。言い方というものを、考えねばならないな。私の悪い癖だ」
日暮は遠い目をして、呟く。
「いつか――あのこたちにも。そしたら、いっしょにおかきをたべたいな」
ごみは、生ある者、生あった者に対して使う言葉じゃない。
不要な物に対しても使う言葉じゃない。
存在していても、使わなくていい言葉も、あるのだ。
だけど、相手を否定しちゃいけない。相手の言い分を、しっかりと聞こう。
そしたら、平和的に和解できるかもしれない。
五 潔癖
毛先がカールした紅い髪。つり上がった眉。長く縁取られた睫毛。つり上がった桃色の瞳。桃色の唇。紅いピアス。白皙の肌。紅く美しく塗られた爪。タイツの合う細い脚。
紛うことなき美少女。彼女自身も、自分の容姿を好いている。
彼女の自己評価で挙げられる、唯一の欠点は、身長。 一年生の烏丸日暮よりも背が低いので、よく小学生と間違われる。百三十センチ台だ。
星の髪飾りで縛ったツインテールを揺らしながら、高林サリーは猫島学園の美化委員副委員長として、校内を歩き回ってはごみを回収している。
『サリー』
(何だ、最強)
『神猫捜しはいいのか』
(そのうち、やるさ)
廊下に紙くずが捨てられている。それを拾って、サリーは目を細めた。
(学園に蔓延るクズどもめ。今日も、ゴミを散らかしているな)
委員長になったら、委員長権限で校内のクズどもに処罰を与えるつもりだ。
そんな、小さくて怖い副委員長に、誰も口答えできない。
一年生らしき男子生徒を見つけて、サリーは声をかけた。
「おい、そこのクズ!」
「は、はいいっ!」
男子生徒はびしっと姿勢を正す。
よく調教できていると満足げに頷いて、サリーは男子生徒に紙くずを見せる。
「これを捨てたやつを見なかったか? 見ていなくても、答えろ!」
男子生徒は敬礼してから、考え込む。犯人に心当たりはないようだ。
「イエスマム! え、えっと……。そ、そうだ……。あいつ、最近紅子と仲良すぎてむかつくし……。上長です! 一年の上長悟! あいつがやりました!」
途中の不躾な言葉は、サリーの耳を素通りしていった。
「上長? あの、小賢しい一年坊か? 本当に、そいつがやったんだな?」
『上長……というと、最弱の神猫か』
(そうだな。ちょうどいい。そいつから始末してやる)
「はい!」
男子生徒が勢いよく頷くので、サリーはその言葉を信じてクククと笑う。
「よし。捕まえて吐かせてやる……。私の前にゴミを見せたこと、後悔させてやる……。覚悟するがいい、上長! ハハハハハ! 待っていろ、私の可愛いエモノ! すぐにボコボコにして、成敗してくれるわ! アーハハハハハ!」
サリーは楽しそうに高笑いして、ルンルン気分で廊下を走っていった。
「こえー……」
可愛さあまって、怖さ百倍。高林サリーは可愛いが、恐ろしい。
美化委員を引き連れ、サリーは1‐2を訪ねた。ガラッとドアを開けて、怒号を飛ばす。
「上長! 上長はいるか!?」
『あの子だ、サリー』
(あれか……。見るからに弱そうな面をしている)
『サリーよりも可愛げがあるね』
最強に詰られて、忌々しいとばかりに、サリーは鼻を鳴らした。
上長悟は手を挙げて、名乗りを上げた。
「あ、はい。俺ですけど」
「よし、きた。これを廊下に捨てたのは、おまえだな。覚悟しろ。捕縛する」
「え? 違いますけど」
「問答無用! 総員、かかれ!!」
サリーが命令すると、美化委員は承知して上長悟の周りを取り囲む。光の速さで、上長悟を縄で縛った。神猫であるのに、上長悟は動揺して一歩も動けなかったらしい。
サリーは最強と話す以前から、上長悟が神猫であることを知っていた。
「悟、いってらー」
彼の友人らしき人物が手を振っているが、上長悟はじたばたと暴れている。
「俺が何したってんだよ!! 紙を廊下に捨てたことなんてないぞ!?」
「おまえと同じ一年坊が証言した。おまえが捨てたと言っていたぞ」
「んなバカな……」
「恨むなら、おまえの日頃の行いを恨むがいい」
「……日頃の行い、俺そんなに悪いかな……。悪かないはずなんだけど」
「他人に信用がないということは、悪い行いをしているということだ」
「……そうですか……」
上長悟はため息をつく。観念して、お縄についた。
「捕獲完了だ。皆ご苦労。大義であった」
サリーは手を挙げて美化委員に言った。美化委員はその場に跪いて感謝の言葉を述べた。
「副委員長、ありがたきお言葉でございます」
「うむ」
そんな内輪のノリについていけない一年生たちは、密かに距離を取っていた。
美化委員たちには校内の見回りをさせ、別行動を取ることにしたサリー。上長悟をずるずると引きずって、美化委員専用の倉庫へ移動する。
掃除用具入れのロッカーと換気ができる窓があるだけの、何の変哲もない一室。
電気をつけないと、ちょっとムーディな感じだ。
「いてててて……もうちょい優しく……」
埃っぽかった倉庫を、半日で隅々まで綺麗にしたのがサリーだ。サリーは綺麗好き。美しいことを尊敬し、美しいものを好む。汚いものは言うまでもなく、ふつうも許せない。
引きずってきた上長悟に対して侮蔑の視線を送るのも、それが原因。
「上長。おまえ、いつからだ?」
「いつからって……」
縄で縛りつけたままの上長悟を床に座らせ、腕を組んで続きを言う。
「無論。神猫のことだ」
『あ、言っちゃうんだ』
押し倒し、脚で腹を踏みつけ、身動きを取れなくする。こうすれば、大抵の人間は起き上がれない。体重の軽いサリーでも、神猫の力があればどんな男も一蹴できる。
『サリー。無闇に神猫は使っちゃダメだよ』
(黙れ最強。調教こそ正義だ。私は何者にも縛られない気高い神猫だ)
『やれやれ……』
上長悟は苦しんでいる。
「つっ……」
制服のスカーフを緩めて、フッと不敵な笑みを零す。獲物を捕らえた狩人の笑みだ。
「調教は好きか? 折檻は?」
「好きじゃ、ありません……。先輩みたいな乱暴な人も、好きじゃありません」
「この期に及んで、減らず口を叩くか。この状況で、おまえに勝ち目などないのに」
「それでも……俺は、嘘はつけない。つけないんです。だから先輩にも、俺がやってないってことを、信じていただきたいと思っています」
信念を持った真っすぐな瞳で、挑むような毅然とした態度。
容貌は中の中だが、その姿は幾ばくか格好がいい。サリーの心を揺れ動かすほどに。
(……ふん。いい顔も、できるんじゃないか)
ちょっと紅くなったサリーは、上長悟の腹に乗せていた脚を退ける。それから上に乗っかって、神速のような速さで唇を塞ぐ。数秒後、唇を離す。吐息がかかった。
未だに頬の熱は冷めない。
サリーは目を回しつつ、挑発した。
「ふん、どうだ。これで……おまえは神猫の力を使えまい」
「かっ……」
上長悟は真っ赤になって、困惑していた。が、すぐに真顔になった。
「どうした? 怖気づいたか?」
「何で俺が神猫だってこと……」
「わかるさ。私も、神猫だからな」
「じゃあ何で……」
「神猫だからとて、仲間になるとは限らないのだ。神猫同士、反発し合うことも考えなかったのか? 人も、反発し合うではないか。特別な力を授かったからといって、違うとは言えまい。神猫だって、同じなのだ。おまえを無力化し、おまえを助けにきた他の神猫も、私が使えなくしてやる。私よりも弱い神猫が、存在しているのが目障りだ」
上長悟は嘲笑して呟く。
「ばれちゃいけないってのは、そういうことか……」
『何のことだろうね』
「……高林先輩。あんたは、正義感を持っていないのかよ」
上長悟の目が反抗的になる。
「あるぞ。おまえたちよりも崇高な志を持っている。だから、おまえたちのようなクズどもが、私の前に出ることを嫌うのだ。おまえたちは私が始末する。二度と足腰立たなくしてやることだって、できるんだぞ? おまえたちなんぞには、私の強固な結界は破れまい」
『結界持ちはかなり強力だからね』
「始末する気なら、どうして俺にキ、キ……スなんか」
言い淀む上長悟。サリーも訊かれてみて、初めて考えた。けれど、判然としない。
「どうしてだろうな。私にもよくわからない。でも……おまえをめちゃくちゃにしたい気持ちは心の奥から湧き上がってくる。何故だろう、止められないのだ」
サリーの目は蕩けている。頬も上気して、息も荒くなる。
上長悟は目を回して、脅えている。
「は、発情期……?」
顔が赤くなるのを押さえられなくなり、サリーは両頬を手で包んで首を振る。
「く……! 弱くて使えないクズのくせに……どうしてこうも愛しく感じてしまうのだ……! 私は何故こんな不細工な男なんかに熱烈なキッスを……! お熱いキッスなんかを……! 馬鹿な……!」
「ぶ、ぶさいく……ひでえ」
「何故だ!! おまえが何でこんなにも可愛いのだ! 顔は下のくせに! おかしい!」
叫びつつ、サリーは上長悟を万力のような力で抱き締めた。
上長悟は意識を失った。なので、サリーはもっと処罰を与えることにした。
すぐに動かなくなるなんて、つまらない。
「さあさあ。調教だ。めいっぱい、愉しませてくれよ……?」
めいっぱい愉しんだ後は、紅茶を飲もう。サリーは悟を逃がさないよう、倉庫の鍵をかけて、出ていく。その前に、気を失っている悟に向かって人差し指を突き出して一言。
「そこで待っていろ。おまえにも紅茶を持ってきてやる」
そう言って、サリーはご機嫌にスキップして倉庫を後にした。
「春らんらん♪ サリーもらんらん♪」
歌まで歌って、サリーは至極ご満悦だ。傍から見ていれば、変人だろう。あの鬼のように怖い高林サリーが乱心したと校内が大騒ぎになるはずだ。
『ははは。サリーは変な子だね』
でも、サリーの容姿は凄く可愛い。白い肌に紅いツインテールは目立つ。
普段は怖くとも、笑顔を浮かべていれば目を惹くのだ。
「嘘だ……! 高林先輩が可愛いなんて……! 何かの間違いだ……!」
「今なら、サリーちゃんって呼べる……!」
「サリーちゃん可愛すぎるサリーちゃん天使すぎるうわああああ!」
愛を叫んでいる男子生徒もいた。しかし今のサリーには聞こえていない。
「ふふっ」
思わず、歓びが漏れてしまう。
「高林先輩が……笑った! 女の子みたいな声を出したぞ!」
「乱心だ! 高林サリー様がご乱心なされたぞ! 皆の者、出会えー!」
「サリーちゃん可愛いサリーちゃん可愛い」
「明日も調教だ♪ らんらんるんるん調教日和♪ 私の犬にっなるがいい♪」
「やっぱ怖い……」
やはりサリーの可愛さは怖さには勝てなかった。それでいいのか、男子たちよ。
サリーが向かった先は放送室。ノックをして人がいるかどうか確認。蛻の殻だった。放送室のドアを開けて、サリーは抜き足差し足忍び足で入る。
口の端に笑みを浮かべながら、よからぬ企みを実行する。
スイッチを入れ、マイクに口を近づける。放送の音楽が流れた後、キーンと音がした。
『えー、1‐2の生徒に次ぐ。上長悟は預かった。返して欲しくば、美化委員専用の倉庫まで来たれ。以上』
これで、悟を追って他の神猫が現れるはずだ。向こうからくるように言えば、探す手間が省ける。悟を見捨てるようならば、悟の人望もそれまでということ。人望のないようなただの人間に興味はない。サリー自身が人望に篤いからだ。
特別な人間ならば、何かしらの力を持っているはず。
弱さをカバーするだけの力があるはずなのだ。それをサリーは引き出したい。
『サリーはほんと、お節介さんだね』
サリーは放送室を出て、食堂にいって二人分の紅茶を入れてから倉庫に戻った。倉庫の前に人がいた。二人。凸凹した身長のコンビ。どちらも女子だ。一方は鬼の形相になっていて、もう一方は膨れっ面になっている。
三人並ぶとトリオ。漫才でも始められそうだ。
熱々の紅茶を入れたカップを両手に持ちながら、サリーはニヤリと笑う。
「ふん、きたか。クズども」
「……くず?」
水色髪のポニーテール美少女・日暮が眉根を寄せる。
「ひーたんはせいちょうした。でも、しょたいめんでいきなりくずはないとおもう。ひーたんのこと、なにもしらないのに。てっかいして」
「ならばおまえも口の利き方を弁えろ。私はおまえの先輩だぞ」
「ひーたんよりちいさいけどおおへい」
「大柄だと? 人は背丈よりも器で勝負するのだ。私の器はおまえより大きい」
「そんなことより! あなたなんですね? 悟を拉致ったの! どうしてですか!」
手をぶんぶん振って金髪の美少女・紅子がサリーに噛みつく。
サリーの眉間に皺が寄った。深い、深い皺を刻み込んでいる。
「そんなことだと? 私のありがたいお言葉を、そんなことの一言で片づけるのか! 礼儀のなっていない餓鬼め。これだから私以外の人間はクズだというのだ」
「さっきからきいてれば……くずくずって……。そんなふうにひとをみくだしていると、いつか……いたいめをみるよ」
「おまえこそ。私を舐めるな」
「ぺろぺろ」
「コントは要求していない。おまえは馬鹿か!?」
「ばとうしてばかりじゃ、はなしあいにはならないんだよ。こーたん、いくよ」
「うん、日暮」
二人は戦闘モードに突入。対するサリーは見下した態度を崩さず、身構えもしない。
「倉庫の前で暴れようというのか? おまえら……」
熱々の紅茶を入れたカップも持っているし。
とりあえず、倉庫の中に置いておこうと思った直後、
「先輩。話があります」
割り込むようにドアを蹴破ってきた、神妙な面持ちの悟が縄を解いて、登場。
ちょっとだけ、ヒーローみたいな登場の仕方だ。だが実際には囚われていた。
サリーは片目だけに力を入れて、吐き捨てるように言った。
「ち、上長……。出られたのか」
「悟……!」
「さとるん」
「俺の目を見て、俺が嘘をついているように見えますか? 見えるのなら、何も申し上げることはありません。俺のこと、信じてくれますよね」
「ふん……私より弱いくせに、私に口答えなど……」
「ならば、弱者を虐げるのは強者のすることですか? それこそ、程度が痴れますよ」
『あららー。言われちゃってるよ。この子、正しいことを言うね』
「ぐ……! 私の行いに口を出すな! おまえには関係ない!」
「関係あります。俺はさっきまであなたに拘束され、軟禁されていましたから」
その後の言葉は尻すぼみになった。心なしか、顔も赤くなっている。
口づけのことを思い出したのだろう。あれは、サリーですらも顔が赤くなる事柄だ。
手をだらんと前に出した紅子が恐る恐る声をかけた。
「あの……」
「ななな何だおまえ、やるのか!?」
あからさまな動揺で、サリーは身構えた。顔を真っ赤にして、
「えーと、何を?」
「何だろうな?」
サリーは真顔で首を傾げた。紅子は困り果てて眉をピクピクさせた。
「わたしに訊かれても……訊いてるのはわたしなんですけども」
「このひと、へん」
「指を差すな。第一、おまえに言われる筋合いはないぞ。おまえなど、高一にもなって、自分のことをニックネームで呼んでいるではないか。おかしいのはおまえであって、私は断じてふつうだ」
「ひーたんもふつう」
サリーと日暮は睨み合い、火花を散らした。ちびっこ同士対抗意識を燃やしている。
「ポニテVSツインテ……」
憮然とした悟が呟くと、突如として、ツインテールバーサスポニーテールが始まった。
サリーは紅茶を両方とも飲み干して、悟と紅子にカップを突き出して無理やり握らせた。
軽く舌を火傷したが、我慢する。強くなっても、やはり猫舌。
「来たれ、神槍クルファイン! おまえに血を吸わせてやる……!」
光に包まれた手の中に大きな槍が出現する。小さな身体にそぐわない大きな槍。
それを構える姿は、さながら本物の武人のよう。
「にゃんじゅう! たたかいのじかんだよ」
叫んだ日暮の手には、光を放つ二丁の拳銃が握られていた。
日暮の武器を見るや否や、サリーは憐みの表情を浮かべ、ぼやく。
「ふん。銃か。皮肉なものだな」
「じゅうに、かてないはものはないよ」
銃に勝てない刃物は、ない。サリーには、刃物が銃よりも強いみたく、聞こえる。
槍を刃物と言う時点で、ちょっとばかりずれている。刃物ではあっても、刃物ではない。
生き物を確実に殺せる、血を吸う武器だ。
『見せてやりなよサリー。きみの力を』
「生憎だが……私は弾丸を通さぬ身体なのだ。結界持ちでな!!」
バネがあるようにクンッと屈んで、ツインテールを翻しサリーは一歩で日暮に肉薄する。
神速を誇る機動力。遅れて、突風が訪れる。
予測すらできなかったのか、日暮は怯んだように一歩、二歩と退く。
「う……っ!」
どうした、そんなものかと言わんばかりの顔でサリーは余裕の笑みを零し、その場で上半身を半回転。柄を日暮の身体にぶち当てた。肋骨を折るつもりで。
刃を使わない攻撃。一般人ならば、気絶する。しかし、神猫は身体能力が高く、生命力も人より数段上。気絶できずにあらゆる苦痛を伴う。
「あう……!」
日暮の目から涙が零れ、口から唾液が飛んだ。苦痛で目元が歪んでいる。
槍を持ち換え、軽々と回し、トンと音を鳴らして床に立てる。
倒れかかる日暮の腹を蹴り上げ、床に転がした。日暮は喀血する。
「銃など、当たらなければどうということはない。我が身体能力に勝るものなし」
「うう、うう……あうう……うぅ……」
腹を押さえ、日暮は悶絶し涙を流した。歯を食い縛っている。
「覚えておけ、プチクズ」
「……」
「どんな宝も、どんな武器も、使い手の能力次第でクズにも神にもなる。今のおまえでは、宝の持ち腐れだ。神猫の力とは、私にこそ相応しい力なのだ」
サリーが言うと、日暮はボロボロと涙しながらも反抗的な目を向けていた。
「いい目だ。大物になる」
今度は、違う笑みを零す。期待を込めた、朗らかな笑みを。
サリーと日暮が諍いを始める少し前のこと。
悟と紅子は二人の行方を見守るように、空のカップを持ちつつ生暖かい目で見ていた。
「ふつうって何だっけ……?」
「何だろうな……俺にもわかんなくなってきた……」
「わたし、訊きかけてた疑問どっかにいっちゃったよ……。何だっけ……」
「あるある。超ある」
目を閉じてうんうんと頷く悟をボーっと眺めていた紅子が、突然思い出したように、手をポンと叩く。電球にパッと明かりがつくイメージだろう。
「あ。思い出した。何で高林先輩あんなに照れてたんだろ……?」
「それは話すと長くなるというか……」
「悟も照れてる。何で?」
紅子の目に不信感が募っている。悟は頬をぽりぽりかいて、目を更に逸らした。
「一言で言うには言えるんだけどな……ちょっと覚悟が必要というか何というか」
「それはそれはそれは!? わたしに覚悟しろということ? ねえ!!」
「いててて……やめっ、首絞ま、おえー!」
「ええい、吐きなさい、悟ぅ!」
紅子は悟のネクタイを引っ張って凄んだ。悟は白目を剥いて青ざめる。
紅子は引き攣る頬を抓り、サリーに申し出た。悟から話を聞き出したのだろう。
「先輩が仲間になってくれたら、心強いんですが……」
「は? 仲間だと? 馬鹿も休み休み言え」
日暮がムスッと頬を膨らませて、座っていた。口元を腕で拭って、相も変わらずサリーを睨んでいる。
「そうだよ。それはひーたんがいやだ」
「このプチクズも言っていることだ。申し出はやめておけ」
「でも俺は……先輩がそこまで悪い人には見えません」
『サリーは……本当は、いい子だからね。よく見ているよ、この子は』
「そうか? 私はおまえを信じなかったが?」
「俺を試しているんですよね。俺たちを」
「どうしてそう思う?」
「先輩の台詞、日暮を思ってのことですから」
まただ。
また彼はこういう時だけは、まっすぐと心を覗き込むように目を合わせる。
恥ずかしがりやなくせに、人一倍女子と話すのが苦手なくせに、何故かこういう時だけはまっすぐと目を逸らさずに立ち向かってくる。
上長悟という人物が、よくわからない。
(何なんだ、こいつは……)
「確かに、ちょっとやりすぎな気もしますけど……。日暮だって女の子なわけだし……でも戦いに女も男も関係ないんですよね。女も男も死ぬ時は死ぬし。手加減はしてくれたみたいですし、やっぱり優しいんだと思います。最弱な俺が言うのもなんだけど」
「先輩は日暮を鍛えてくれようとしてくれているんですよね? わたしたちを殺すっていうのも、嘘なんですよね?」
「むむむぅ……」
意味がわからない、としか言いようがなかった。言動が矛盾している。
だが、自分もまた、言動が矛盾している。サリーはそう感じた。
『ははは。サリーの性格自体が、矛盾したものだからね』
(最強には敵わないな……)
フッと笑って、踵を返す。紅いツインテールがふわりと風に靡く。
「ひとまず……保留にしておいてやる」
そのまま格好よく立ち去ろうとしたサリーだったが、後ろの騒がしいやり取りが気になって、ちらと一瞥をくれた。
こそこそと内緒話をしていたらしい。紅子が悪戯っぽく笑っている。
「ね?」
おお、と言って悟が白い歯を零し、ポンと手を叩く。
「三人並ぶと、信号トリオですね」
ツインテールがふわりと揺れ、髪がサリーの表情を少しだけ、隠した。
「ああ……。そういう感じは、嫌いじゃない」
六 天賦
最近、チョコレートを食べられなくなった。
柑橘類のにおいも苦手になった。
顎の辺りを撫でられたいと思うようになった。
ふさふさしたものを見ると、無性に飛びつきたくなってしまう。
女の子の鞄についている、チャーファームとか。道端にある綿毛とか。
以前まではそんなこともなかったのに、味のあるものを食べると腹を下すようになった。
正確に言うなれば、人間の食事を一切口にできなくなった。
缶詰や魚しか口にできないのだ。
愕然とした表情で、トイレの前で立ち尽くす。腹に触れ、思っていたことを口にする。
「身体が……おかしい」
触覚らしき二本の毛が揺れる。あたかも生きているかのようにふわふわと。
ボブスタイルの緑色の髪。両のこめかみにピン留めを二つずつつけている。
ふさふさした睫毛。大きな青の瞳。小麦色の肌。サリーを凌駕する低身長。
幼すぎる顔立ちは、きっと小学生にしか見えないだろう。
(食べたら、死ぬ気がする。ぼくは……人間じゃなくなっちゃったんだ……)
鎌中ゆとりは猫島学園きっての天才美少女。1‐1の生徒で、テストでは常に学年二位をキープしている。全国模試でもトップ3には必ず入る才女だ。
天才のはずなのに、一位になれないのは……
1‐2に所属する勉強大好きな烏丸日暮に及ばないのは、彼女にやる気がないから。
一位を取りたいと思ったことはない。
彼女にとって一位とは、たいして意味のないことだからだ。
取ったところで、世界が大きく変わることはない。
名前も覚えていない誰かに甘えていると言われたこともある。
ゆとりはフッと自嘲気味に笑った。
(甘え? そうだな。そうかもしれない)
ふつうに考えれば、一位と二位は雲泥の差だと考える。けれど、ゆとりは違った。見えているのだ、この先の世界も。だから、二位に甘んじて、受け入れる。ちょっとでも努力しようものなら、簡単に一位を取れてしまうけれど、それをしない。
どっちだって、同じなのだ。大差ない。取るに足らない些細なことなのだ。
(どうせ、変わらない。ぼくをいいように利用するだけだ)
一位だろうと、二位だろうと、教師の目も変わらない。親の目も変わらない。
頭のいいゆとりには見えてしまっている。世の中が。この世界の歪みが。
今の身長よりも更に小さな頃から、彼女は一度見たこと、聞いたことを一度で覚える能力を持っている。その上、英語で書かれた論文まで読めてしまう高度な知識を秘めていて、誰もが彼女の才能を恐れた。
でも、彼女は努力をしなかった。努力すれば、海外にいって、飛び級をして今頃は世界中に名を馳せていたかもしれなかったのに、彼女はそれをよしとしなかった。
探究心がないわけじゃない。研究したくないわけじゃない。
ただ、勉強が嫌いなだけだった。面倒だったのだ。
面倒だから、超絶な努力家には抜かれる。才能があるのに、努力しない。
彼女の行動は、まるで努力を嘲笑うかのようだったので、彼女に友達はできなかった。友達ができなくても、仲間外れにされても、どうでもよかった。マイペースだから。
勉強には興味がない。なのに、好きなことは読書。色々な本を読むのが好き。
将来の夢も特にない。今を生きられれば、それでいい。
だのに。
その考えを打ち破る唐突な不幸が訪れてしまったのだ。
この感覚、わかる。ゆとりでなくても、わかってしまう。
額をごつんとトイレのドアに押しつけて、長く重いため息をつく。
「はあああああぁ……。ぼくは……猫になったんだな……」
澄み渡る青い空の日。今日、この時から、鎌中ゆとりは神猫になってしまった。
学校に登校した。
「……」
頬杖をついて、眉根を寄せる。トントンと指で机をつつく。
この悩みを誰かに打ち明けたい。けれど、言葉を交わせるような友達は誰もいない。みんな、ゆとりのことは気にかけず、ゆとりに一言も挨拶をしない。いないかのような扱い。
ゆとりはたいして傷ついてもいない。いじめられる心当たりがあるから。
二人組を組めと先生に言われた時は、いつも一人であまる。あまったら、先生と組まされる。そしたら笑われる。三日月形に目を歪ませて、ケラケラと笑うのだ。
(ぼくがぼくって言っているから。それ以外にも理由はたくさんあるけど、これが最も痛いんだって。あいつらは、ぼくがぼくであることを嫌うんだ)
別のクラスにいけば、誰かと親しくなれるだろうか。
同じ悩みで悩んでいる子がいるとは思えない。猫になるなんて、おかしいから。
学年一位の烏丸日暮となら、話が合うかもしれない。
ハッとして、ゆとりは首をぶんぶんと振った。
(いやいや。あの子は……勉強が好きなんじゃないか。だから満点ばっか取ってるんだよ。ぼくが一教科のみ九十九点を取って、いつも負けてるんじゃないか)
一教科だけ、ある意味で落とすのは、先生が応用問題をたくさん出すから。勉強していなくても解けるし、九十九%正解にできる。でもその一%はでかい。
日暮は全教科満点だ。万遍なく勉強するのが好きなのだろう。
(あの子と話……合うんだろうか?)
天才と秀才が邂逅すれば、どうなるのだろう。交わるはずのなかった二人が、どんな言葉のキャッチボールができるというのだろう。
懊悩した末に、ゆとりは席を立って1‐2へ向かう。
予鈴までは十分時間があるので、問題ない。
コンコンコンとノックしてから、ドアを開けて所在を訊ねる。
「烏丸日暮、いる?」
ドアが開いたからか、生徒たちがこちらに視線を送ってきた。自分には関係ないとばかりに、そっぽを向いて喋り続けている生徒もいたが、殆どの生徒がゆとりを認識している。
――ぼくは、ここにいる。
「ひーたんなら、ここにいるよ」
日暮が手を挙げて、ガタンと席を立つ。とことことこちらへきた。
顔立ちはゆとりの方が幼いが、口調は日暮の方が幼い。頭がよさそうには見えない。
こちらにきた日暮をじっと見上げつつ、ゆとりは考え込む。
(学年一位の子っていうから、どんな完璧美人かと思ったけど……意外だな)
あんにゅいな顔で日暮は首を傾げる。
「だれ?」
「ぼくは、鎌中ゆとり」
訊かれたので答えると、日暮は反芻し、失礼なことを言う。
「かまなか……ゆとり……。まんねんにいの」
「何だ、その呼び方。好きじゃないなあ、そういうの」
「ゆーとりはひーたんになんのよう?」
その呼び名は、コアラの好きな葉っぱのように聞こえる。
「何故伸ばす? ユーカリみたいで変だ。面倒な子だな」
「気に入らなかった?」
「でも……他人に名前で呼ばれたのは初めてだ。ちょっと新鮮な気分」
ゆとりは指をつんつんして照れると、日暮は唖然とした。
「ともだち……いないの?」
日暮の遠慮がちな問いに、ゆとりは肯う。
「うん。ぼくに友達はいないよ。いつも一人だ。だから、人と話すのも久しぶりだ」
日暮はしょんぼりしている。心外だ。同情でもしているのだろうか。
同情されるほど、落ちぶれてはいないのに。
「くちも……きいてもらえないんだ」
「……」
何だか、癇に障る物言いだ。
「でも、ひーたんはくちきくよ。こーたんも、さとるんも……それから……」
日暮は言いかけて、茶を濁す。苦々しい顔をしている。言いたくはないようだ。
日暮が憐憫して話をしているわけではないことがわかり、ゆとりは笑みを浮かべた。
「ありがとう」
「うん。ゆーかりは、ともだちがほしいの? ほしくて、ここにきたの?」
(ユーカリになってるし)
仇名が決定してしまい、ゆとりは口の端を引き攣らせた。
「友達が欲しいわけじゃないけど……悩み事があって、誰かに聞いて欲しかったんだ。ぼくと同じ立場のきみなら、聞いてくれるだろうかと思って。どうだろうか、聞いてはくれないか? いきなりですまない。たいした話でもないんだが……」
下手に出れば、大体の人間は引き受ける。ゆとりを嫌っていなければ、の話だ。
「たいしたはなしじゃない?」
「うん」
日暮はニコッと柔らかい笑顔で人差し指を立てた。
「じゃあ、みんなにはなそう。ひーたんだけじゃ、もんだいのかいけつはむずかしい」
「いや。たいした話じゃないから、そんなに人に話しまくることでもないと思うんだが」
「そうなんだ。でも、きっときにいるよ。こーたんとさとるんはいいひとだから。ひーたんがほしょうする!」
ドンと胸を叩いて、日暮は任せろといった体で胸を張る。
「ひーたんがなやんだときは、いつもたすけてくれる。だから……」
「……友達って、そんななんだ。くだらない話ばかりしているものかと思っていたよ」
これは偏見だ。趣味の話や世間話、誰かの噂、そんなものはくだらないと。
ゆとりがくだらないと思っている話は、彼らには面白い話であり、楽しいのだ。暇潰しにもなるだろう。他人の迷惑になるのも省みず、道の真ん中で屯して談笑している。
ゆとりがする話は、いつも難しくてわからないと昔クラスメイトになった人々が口々に言い、ゆとり自身にも飽きていた。呆れていた。蔑んでいた。
またわけのわからないことを言っているよ、こいつ。
構ってもらいたくてそんなことを言っているのだろう。
教科書に間違いなんてあるわけないじゃないか。
君みたいな小さい子が論文なんて読めるわけがないじゃないか。
住む世界が違うのだとゆとりは思った。自分は宇宙人なのだと。
「ひーたんのともだちは、とくべつ」
彼女も宇宙人だろうか。
「会って、みたいな」
「よんでくる」
「それはどんなの?」
「え?」
「特別って、どう違うのさ。ふつうとどう違う? 何がスペシャルなんだ? ぼくも、スペシャルなのか? ぼくもみんなと違う。でもぼくのことを誰もスペシャルだとは言わない。おかしい、変だ、クレイジーだって言うんだ。ぼくは変わっているんだと。勉強が好きじゃないのは、変じゃないと思うけどね。好きな方が変だよ」
一息でまくし立てるゆとりに呆気に取られたらしく、日暮は目を大きく見開く。
「ひーたんはふつうだよ」
「どこがっ!? きみみたいなのは稀だよ! 勉強って言葉を知っているかい? 『勉め強いる』ことだよ。本来は気が進まないことをするんだ。学ぶことじゃないんだよ。現代は学ぶことを勉強だと捉えられているようだけど、ぼくにはそうは聞こえない。だったら、何故こんな字を当てるんだと思うね。勉強は辛いことだろう? だから好きじゃない人間が後を絶たないんだ。つまり、きみたちはマゾだ。とんでもなくマゾヒストなんだよ! ぼくみたいに勉強を嫌う人間は、マゾじゃないんだ」
早口で弁論するゆとりから、日暮は距離を取った。
「な、なにを……」
「あー……またぼくは人を引かせてしまった……」
ゆとりは額を押さえながら悩ましげに明言する。
「ゆとり教育は天才を生むのさ」
「あたまのおかしい……てんさい」
「天才とは、頭のおかしいものなんだ。よく知らないのか。ぼくは左巻きだ」
「ひーたんはみぎまきだよ」
「違うな。きみも同じ穴の貉さ。似て非なるものだと勘違いしてもらっては困る。きみもぼくと同じ世界の住人だ。頭おかしい人間の世界へようこそ。歓迎するよ」
ゆとりが尊大な態度で手を差し出すと、日暮は虚ろな目でそれを拒否した。
「かんげいしてほしくない。こーたんたちよんでくる」
踵を返して、タタッと走り、例の二人を呼んできた。
一人は男子、一人は女子。美男美女ではなかった。
顎に手を当てて、無愛想な表情で感想を漏らす。
「男の方は…………ふつうだな」
どう見ても平々凡々、中の中といった顔立ち。目立たず、人の波に溶け込む顔。
素直に感想を述べただけなのに、彼は後頭部を押さえて困惑している。
(何か、まずいことでも言ったか?)
「はは……。ふつうでごめんな。この学校、女子のレベル高すぎるんだよな」
よくわからないが、謝られてしまい、ゆとりはちょっぴり申し訳なく思った。
謝らせるつもりはなかったのだ。人付き合いはどんな問題よりも難解だ。
「すまない。ぼくは口下手なんだ」
「あ、そうなのか。了解」
「悟はふつうでもないと思うけどなあ。諸々含めてね」
もう一人が小悪魔的な声音で彼をじっと見つめた。彼は目を逸らす。
……何故か、顔がりんごのように赤い。
日暮が二人を交互に指差す。
「こっちがこーたん。こっちがさとるん」
「上長悟。宜しく」
「鹿野紅子です。よろしくね」
「1‐1の鎌中ゆとりだ。よろしく」
「なやみがあるんだって」
「どんな悩みだ?」
「ぼく……今日、自分の身体がおかしいことに気づいたんだ。人間の食べ物を食べられなくなった。チョコレートも柑橘類のにおいも駄目だ。ふさふさしたものを見ると、無性に触りたくなる。妙に毛づくろいをしたくなる。これは、確実に、人間じゃない。ぼくは猫になったんだと確信したよ。何なんだ、この現象は。まさか、人類の間で流行っているのか? 苟もぼくは人類だ。宇宙人だとしても。猫になるなんて、ありえない」
迫真の演技に、三人は面食らっていた。
何も言い出さないので、ゆとりは不安になった。眉が下がる。
「……ぼくはおかしなことを言ったか?」
「いや……おかしくない」
悟が呟く。悟は紅子にバトンタッチした。
「もしかして、神猫? えっと……ゆとりちゃんは、猫の声が聞こえたりしない?」
「聞こえないが……」
「なかま」
「仲間? 何で? きみたちもそうなのか? 変な現象がその身に起きているのか? ぼくのように、人間が普段口にする食べ物を食べたら……死にそうになったことがあるのか? 動いているふさふさしたものに飛びつきたくなって、顔から火が出るような思いもしたのか?」
「俺は四つん這いで走りたくなったことがある」
悟はフッと笑って、自慢げに語った。自慢にもならない。
「走りたくなったというか、走ってたよね」
「見てたのかよ! って、いつ!?」
「結構前だったかなあ。謎だったよ、ほんと……」
「マジかよ……」
衝撃の事実を知ってしまい、げんなりしていた。
ふと、腕時計に目をやると、チャイムが鳴る二分前。もうすぐ始業の時間だ。
話を脱線し過去の話に花を咲かせている悟と紅子に苛立つ。
埒が明かないので、ゆとりは話を纏めて進行させた。
「要するに、ぼくはその『かみねこ』とやらなのか? 何だ、それは。聞いたことがないぞ。新種の生物か? 宇宙開発された兵器か?」
訊くと、暇そうにしていた日暮が答えた。首肯しない。
「その、どっちでもない」
「詳しい話は、次の休みか昼休みにでもどうだ?」
「そうしてくれると助かる。ぼくは一応、授業には出ているから」
先生の話も聞いてはいる。問題児ではない。
紅子がニコニコしながらゆとりの頭を撫でた。軽々しく頭に触れられ、ドキリとする。
「そうなんだ。えらいね」
「えらいえらい」
「えらい? 何を当たり前のことを。さてはきみ……遅刻魔だな?」
「ぐっ、ばれた……」
「俺は遅刻寸前魔だな……」
「ひーたんはちこくしたことないよ。いつもじかんにゆとりがあるようにじゅんびしてる」
ゆとりの肩がドキリと一瞬強張った。
「……呼ばれた気がする」
「名前、ゆとりだもんなー」
「ゆとりって名前、いいよね。色んな意味に取れるし」
「そうかな? ぼくはあまり、好きではないんだが」
ゆとりは鼻で笑うように、微苦笑した。
でも、名前を呼ばれて、不思議と胸の奥で何かがじんわりと広がった気がした。
待ちに待った昼休みの時間。授業の合間の休み時間に待ち合わせ場所を校舎裏にして、ゆとりは校舎裏に向かった。三人は赤屋南美という先生も連れてきた。
「みーな、つれてきたよ」
美人で背の高いグラマーな女性で、ゆとりの思い描いていた完璧超人だ。
朗らかな笑みを浮かべ優雅に歩く、凛とした佇まいにゆとりはポーッと見蕩れた。
「花の顔だ……」
「ふふ、ありがとうございます。初めまして、鎌中ゆとりさんですね?」
「ええ、そうですが」
「私は赤屋南美です。1‐2の副担任をしています」
「でもそれは仮の姿でぇ……」
「本当は神猫戦隊の司令官なんだよな」
「悟君、疾風怒濤を忘れていますよ」
「へー。ぼくの悩みを解決してくださるのですか?」
「だな。先生にはもう言っといたから、即刻解決できると思う」
「あなたは神猫です」
なるようになれと投げ槍になって、ゆとりはため息をつく。
「はあ……ふつうじゃないのですな」
「そして我々と共に戦うのです。今は噛み犬が発生する時期ですから、噛み犬と戦ってください。夏になれば……噛み犬より強敵が現れると予言されていますけれど」
「急すぎやしませんか? ぼくには武器も何もないのですぞ?」
「神猫と対話さえできれば、あなたにぴったりの武器を創ってくれますよ。もしや、ゆとりちゃんはまだ対話していないのですか?」
「対話? 猫と話ができるのですか? とんだオカルトですな」
「神猫は猫がパワーアップした最終形態と言っても過言ではありません。ですから、あなたもその力が備わるはず。あなたならば、疾風怒濤神猫戦隊最強になれるかと。強烈な猫オーラがひしひしと伝わってきます」
「何だ、その造語は……。凄くダサいと思いますが、先生が創られたのです?」
「そうですよ。専門用語は作っておかないと、ですよ」
「ついでに、後もう一人メンバーがいるんだけど……。先輩だから、学校でも滅多に顔を合わせない。こうやって待ち合わせしないといけないんだよな」
「そうなのか。その先輩って、どんなやつ?」
歯に衣着せない物言いが気に障ったのか、悟が口元を引き攣らせた。
「やつって……。高飛車で傲慢で、普段は沈着冷静な人……だな。でも怒りっぽいし、あれはあれで……高林先輩は結構可愛いところもある。お茶目な人だな」
高林サリーは有名人なので、学年の違うゆとりも名前だけは知っていた。
サリーの話をすると、日暮が途端に口を噤んだり、口を尖らせたりする。あからさまに嫌っているような素振りだ。確執があったのだろうとゆとりは勘繰る。
「ひーたんはまだみとめない……」
「高林先輩は日暮のこと認めてくれてると思うよ。やり方がちょっとアレだけどね」
どうどうと紅子が日暮を宥める。
「それはわかってる。でも……きにいらない」
不機嫌な表情の日暮が口を尖らせて、言葉に棘を入れる。
「何か、あったんだな。日暮と高林先輩」
「海よりも深い事情がな……」
南美はこどもみたいに頬を膨らませる。プンスカプンスカ拗ねている。
「その時は、私はいませんでしたね。みんなして私を仲間外れにするんですから。酷いですよ、皆さん。私も呼んでください。私だって、おしおきしたかったんです」
「……俺はもう、おしおきって言葉は勘弁願いたいんですけど」
「悟も、何かあったんだな」
「そうなのよね……。悟と高林先輩が……。ああ、ああぁ……」
紅子の瞳からぶわっと涙が溢れ出した。ゆとりは驚愕し、仰け反った。
「ななな何なんだ、きみは!」
グスグスと泣きながら小声で何事かを呪文のように唱えている。
「だって、だってええ……。悟の、ファースト……キッスが……。わたしのものだったはずなのに……。ぽっと出のきゃわいいちびっこツインテ先輩に取られるなんて……くそお~! 許さないー! 悟ぅううう」
いいことを聴いたとばかりに、ゆとりは相好を崩す。
「これ、ほぼ告白じゃないか? おい、悟」
「何だ?」
「紅子がきみの初キッスを奪いたかったと言ってるが、きみはどうなんだ。紅子のこと。好きなのか? 好きなら、ここで唇を奪ってやれ。熱く、蕩けるようなキッスを」
真顔で問うと、悟は頬を上気させて、茫然とした。
「え……」
「きゃーきゃーきゃー! 何言うの、ゆとりぃいい! バカー!」
紅子は真っ赤になって悶絶したのち、ぶち切れてゆとりを張り倒した。
(理不尽だ)
尻餅をついてしまい、スカートに砂がついてしまった。ムスッと膨れっ面になって、スカートの砂を払い、立ち上がる。
「何故ぼくは、こんな役回りをしているんだ。損じゃないか。ぼくはどんな立場なんだ」
「どんな立場なんでしょうね?」
「対話って、俺たちはどんな風にやってたっけ?」
「何か、勝手に出てきた気がする。突然?」
「ひーたんは、はなしかけられた」
「ぼくも話しかけられるのか? 誰かに声をかけられることはないんだが」
「変わったケースですね。様子を見ましょうか。サリーちゃんも呼んできます? 彼女はベテランの神猫なので、詳しい事情を知っているかもしれませんよ」
「放課後にそうしてもらえるとありがたいですな」
ゆとりが肯うと、悟が気を取り直すように息をついて仕切った。
「じゃ、また放課後に。またな、ゆとり」
「またね、ゆとり」
「ばいばい、ゆーかり」
「また会いましょう、ゆとりちゃん」
「うん。ばいばいだ、みんな」
一旦別れて、ゆとりは1‐1の教室に戻る。
いつも通り、ゆとりと目を合わせず、無視するかと思いきや、手を腰に当てた女子生徒が冷たい目で見下ろしてきた。それでも、ゆとりは蛇に睨まれた蛙のようにはならない。
「あんた、調子乗ってる?」
「……何でそう思う?」
冷静に、無表情で無機質な声で問い返す。
「別のクラスのやつと仲良くなろうとしてるんでしょ? あんたが1‐2にいったって、あたしの友達が報告してくれたんだよ。あんたみたいな変人に、友達なんかできるわけないでしょうが! 身の程を弁えろよ、バーカ!」
『友達』を強調し、嘲笑する。女子生徒は因縁をつけたくて仕方がない様子。
女子生徒の行いを誰もが見て見ぬふり。いや、傍観もしくは黙視しているのか。
ゆとりが次にどんな行動を取るのか、楽しんでいる。
「負け犬が吠えよるわ。身の程を弁えるのは、きみの方だ。格物致知のぼくに物言える立場なのか? この意味がわかれば、認めてやらなくもないが」
「……? 何ですって?」
悪役の狼狽に、ゆとりはため息をつく。
「呉下の阿蒙。きみは一度としてぼくを勉学で抜いたことがあるか? 勉学が好きでもないぼくに、どうして負ける? 知識はぼくより豊富か? この十六年でどれだけの教養を身に付けた? 頭も背も身体もきみの方が大きいのに、きみの脳味噌の容量はぼくよりも小さいのか? その図体は飾りなんだな。頭でかいくせに、何故脳を有効活用できない? 頭がでかけりゃ、脳味噌の容量も大きいんだが。きみの頭はおしゃれでしか機能し得ないのか。可哀想な脳味噌だな。脳味噌をもっと労わり、使え。使わなければ、脳はどんどん衰えていくんだ。今のうちに詰め込んでおけばいいさ」
神速で繰り出される舌戦に敗北を喫し、女子生徒は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。激しい言葉の数々に、ぐうの音も出ないのだろう。
ゆとりを論破できるほどの生徒は、この学園にはいない。
「きみはぼくを貶めるためにどれだけの努力ができる? 臥薪嘗胆、今のきみにできるのか? 行尸走肉の輩のきみに」
わざと難しい言葉を使い、相手の理解を遅らせる。
努力をしないゆとりが、目の前の女子生徒に『努力』の二文字を突きつける。
半ば、自虐だった。
「え」
気圧されて反論できない女子生徒を、更に煽った。
「何を驚くことがある。ぼくを苦しめるのが目的なんだろう。ならば、こんなところで負けていいのか。これからもきみはたいしたことがないんだなとぼくにあしらわれるだけだが。ぼくが何を言ってくるか、想定してどんなことにも対処できるようにならなければ、一生ぼくには勝てないぞ。突っかかってくるなら、相応の能力を身に付けてこい」
女子生徒は肩をわななかせて、ゆとりを睨んだ。
「く……! 覚えてなさい!」
女子生徒は顔を燃え上がらせ、負け犬の遠吠えを吐いて逃げた。ゆとりは肩を竦める。
「ぼくは覚えているが、果たしてきみは覚えているだろうか?」
ぼくの口にした、一字一句を。
ゆとりは授業を適当に聞き流し、その日も適度にやり過ごした。
1‐1の生徒はみんな、ゆとりのことはどうでもいい。突っかかってきた女子生徒やその女子生徒と仲のいい生徒はゆとりが気に食わないかもしれないが、ゆとりのことなんて空中に浮遊する羽虫程度にしか思っていないのだろう。ゆとりも同じだ。
彼らのことなんか、どうでもいい。他人なんかと馴れ合わないのが吉。
ゆとりが彼らにいじめられてさえいなければ、他人『なんか』と侮蔑することもなかったろうに。ゆとり自身が周りにそうさせている、とも甚だ気づいてはいる。
他人でも、悟たちはこいつらとは違う。温かい心を持っていて、気兼ねなく接してくれる。会話だけでなく、行動でもゆとりを楽しませる。
ゆとりは悟たちと話す時間が早くくればいいのに、と思った。逸る気持ちが抑えられなくなって、そわそわする。いてもたってもいられず、ゆとりは校舎裏にはやばやと向かう。
予感は的中し、誰もいなかった。
(1‐2の授業はまだ終わってないのか)
ゆとりはみんながくるまでじっと待った。待ち続けた。
けれど、みんなは一向に現れなかった。一時間以上は待っているのに、誰一人として待ち合わせ場所にこない。待ちぼうけを食らい続け、ゆとりは舌打ちをする。
(何故だ。……もしや)
嵌められた?
ゆとりは悟たちに疑念を抱く。自分を騙すつもりで、優しい顔をしていたのか。
あの話も全部嘘で、悩みを解決するという上手い話も全部嘘なのか。
所詮は他人の戯言に付き合っただけか。
ゆとりはフゥと息をついて嘲るように笑い、空を仰いだ。
「待ち合わせ場所にこないなんて、おかしすぎる。連絡先は知らないが……何かあったなら、誰か一人くらいはここにきて報告してもいいだろうに。ぼくを謀ったのか?」
疑いたくはない。でも、ゆとりは、人付き合いは得意ではない。真っ先に人を疑う。信じる心など、どこかに置き忘れてきてしまったのだ。
「ぼくには……できないことが多すぎるな……」
空を見る瞳が、光の反射のせいか、潤んだ。未だ沈まない夕日が眩しかったのだ。
他人とのかかわりで、泣いたことなど一度もなかった。ここまで自分の心を動かした彼らには称賛を与えてもいい。だが、二度とかかわりたくない。
心を痛めるのは、これっきりにして欲しい。
ゆとりは腕で顔をごしごしと拭いて、決然と一歩を踏み出した。
泣いていては何も解決しない。鎌中ゆとり、何もしないでどうするか。
真相を、確かめにいくのだ。
息せき切って、南美は校舎裏まで走った。周りを見渡しても、人の姿はない。
「入れ違いましたか……」
待たせすぎた原因は、今現在も進行形で起きている疾風怒濤神猫戦隊と噛み犬との戦いだ。ここに赴任してきてから、一番多い数になる。その数は数百匹。
サリーと日暮が奮戦してくれているものの、数の暴力が圧倒的で苦戦している。
ゆとりとの待ち合わせより戦闘を優先しなければならなかった。断腸の思いで、南美は決断したのだ。ゆとりが傷つくことをわかっていながら。
ゆとりが人を信じられないことも、本部からの連絡で事前に知っていた。
放っておくと、ろくなことにならないのも、知っていたのに。
こういう事態が重なると、誰かを傷つけなければすまなくなる。紅子の時も、邪魔をしたいわけではなかったのに。本当は、邪魔なんてしたくなかった。悪かったとは思いつつも、謝れない。謝ったら、余計に彼女を傷つけてしまう。だから、怨まれればいい。
憎んで、嫌いになってしまえばいい。
私は……進んで、憎まれ役を買いましょう。
物悲しさに、南美は顔を覆う。
(私は……教師としては失格ですね……)
司令官としては優秀すぎるほどなのに、教師としてはまだまだ半人前にも満たない。約束を反故にする教師は、生徒のことを想っていないも同然。
しょうのなかった、と言い訳することも南美はしない。
悪いのは世界じゃない。いつだって、自分なのだ。
「説明して、戻らないと……」
ゆとりが神猫の力に目覚めてくれれば、この事態も早く収まるかもしれないのに。
小さなこどもに頼ることしかできない無力な大人は、今日も自分を苦しめる。
ゆとりは1‐2の教室を訪れて、悟たちの所在を訊ねた。
答えてくれたのは、未だに教室で机に座って駄弁っている悟の悪友たちだ。
「悟なら、南美先生と紅子たちと走ってどっかいったぞ」
「サリー先輩もいたぜ。なァ」
「かなり急いでるみたいだったけどな……」
状況を思い出して、親切に話してくれる。
「何か、伝言とかはなかったか?」
「伝言? めちゃくちゃ急いでたし……そんなもんは、聞いてないな」
「ああ、俺も聞いてねえし」
「伝えたいことがありゃァ、携帯で連絡でもしてくれんだろ」
ゆとりは携帯電話を持っていない。悟たちも携帯の番号を教えなかった。
持っていないのではなく、教えたくなかったのだろうか。
ゆとりは疑心暗鬼になりつつも、首を振って疑いの心を払拭した。
「ぼくは携帯を持っていない。必要がないと思って、買っていないんだ」
「そりゃ、大変だなァ。今は携帯がなきゃ、生きていけねェよ」
「大袈裟すぎんだろ! 生きていけるって!」
「携帯なしもアリじゃね?」
悟の悪友の一人が、ゆとりに目を合わせて話す。
「心配するなよ。お前が悟たちの大事な友達だったら、何か伝えてくれるはずだ。あんな顔してたんだ。時間がなかったんだろ。あいつは俺たちの目から見ても、悪いやつじゃない。あいつはいいやつだ。クラス全員が知ってる。あいつは優しすぎるくらいに、いいやつなんだよ。悪くなってもいいだろって思うぜ」
「俺みたいなワルでもよォ、あいつはきちっと向き合ってくれんだよ」
「信じてみるのが、人間関係の第一歩じゃね」
悟がいないところで、悪友たちは悟を褒める。面と向かって言うのは恥ずかしいからだろう。男の友情は、女の友情よりも『つかず離れず』が大きいかもしれない。
べったりしたり褒め合ったりするのは、恐らく女だけだろう。
でも、だからこそ男同士の友情は儚くないし、温かくもある。
ゆとりは、人がこうして優しくできることに、感慨を覚えた。
「そうか……。ありがとう。悟には、こんなにいい友人がいたんだな」
「よせよ。照れるじゃねえか!」
悟の悪友の一人がゆとりの肩をバンバンと叩いた。
「いてっ。叩くなよ」
片目を瞑ってじゃれ合っていると、悟の悪友の一人が違う場所を見てキリッとした。
「人を叩くのが、女だけの特権と思うなよォ」
「誰に向かって言ってるんだ……?」
ゆとりは眉を顰めて首を傾げた。
ゆとりと南美が学校にいる最中、疾風怒濤神猫戦隊は敵と交戦していた。
場所は、廃墟と化した市街。死の臭いが充満している、荒廃した街だ。
戦いは苛烈を極め、疾風怒涛神猫戦隊は劣勢。敵の数はまだ数百いる。
広範囲殲滅型かつ遠距離攻撃の担い手がいない。
近距離の悟、紅子、サリー。攻撃力の高い中距離の日暮。
遠距離からじわじわと敵を攻撃する隊員がいなくては、近接戦闘タイプの三人の消耗がかなり激しい。特に、殿と同程度の大変さがあるサリーが苦しい。
日暮は必死に二丁拳銃をぶっ放しているが、依然狙撃の腕は上がらない。
息が上がっているのを押し隠そうとするサリーが日暮を叱責する。
「プチクズ! 何をしている! それでは、敵の攻撃を食らう!」
「う、だって……」
日暮はたじたじとした。
「私は強い……。だが、こうも敵が多いと……疲労が溜まる」
敵を縦横無尽に薙ぎ払いつつ、サリーが少しだけ弱音を吐く。
槍の柄を地面に突き立て、両手で掴み、身体を浮かせる。両側の敵を素早く開脚して蹴り倒す。まるで体操選手のように。そして軽業のように着地し、槍をぶん回す。
不敵な笑みを浮かべ、虚空に無数の紅い線を作っていく。
「私の武器が、薙刀ならば……よかったかもしれんな」
槍で薙ぎ払うのは、結構難しい。
「悟とわたしが引きつけても……数が多すぎる。勝ち目ないよ……」
敵の動きは遅い。遥かにこちらの機動力が勝る。
それでも、耐久はどんどん減っていく。疲労はどんどん蓄積されていく。
如何に神猫といえども、疲れは溜まる。体力無尽蔵とはいかないのだ。
最前線(とは名ばかりなものの)で戦っていた悟も、諦めの色を見せる。
「ゆとりが覚醒するしかないのか……?」
「ううん。ひーたんが……そげきがんばる」
日暮が二丁拳銃を構え、後ろから狙撃する。いっぺんに数十匹を斃せるが、何分隙が多い。護衛がいなければ、やられてしまう。その護衛が、今回はサリーだ。
日暮の前にサリー、紅子、悟の順で一列に並んでいる。
サリーが日暮に接近する敵を一手に引き受け、悟と紅子が討ち漏らした敵を後方支援に回った日暮が、狙撃する。
けれども、未だに神猫の力を使いこなせず、狙撃の腕はあまり上がっていない。
だから、悟と紅子は負傷している。
悟は脚を、紅子は右腕をやられた。処置は南美が施してくれたが、二人の疲労は日暮と最も体力のあるサリー以上ではないだろうか。力を酷使しすぎている。
日暮は連射しつつ、集中力を極限まで高めた。
「あたれ……! あたれ……!」
空薬莢が地面に転がり落ちていく。反動が身体にきて、日暮は顔を顰める。
サリーは日暮が焦燥していることに気づき、槍を構え直した。
そして、小声で激励の言葉を贈る。
「……頑張れ」
悟や紅子を飛び越えて日暮を襲いにきた敵を串刺しにし、振り回して他の敵も一緒に片づける。
次々と敵を薙ぎ倒し、サリーは吠える。光る汗を飛ばし、紅い髪を揺らしながら。
「まだまだぁー! こんなものか、おまえらの力は!」
サリーの発破を掛ける言葉に、悟と紅子は正気を取り戻した。
「悟……」
「紅子」
二人は顔を見合わせて、頷く。
紅子は猫刀に手を添えて、脚を開いた。ザッと砂を鳴らす。
「連携攻撃よ」
「わかった!」
バッと二人は二方向に分かれて、敵を翻弄する。
悟が複数の敵に軽く猫キックを見舞い、止めは紅子が刺す。紅子は猫刀を振るい、目にも留まらぬ速さで敵を切断していく。
神猫によって達人の剣捌きが身体に刻まれているので、神速の剣技を振るえる。
空気が唸り、地が騒ぎ、敵が蠢く。
紅子はニヤと戦闘狂じみた笑みを零し、悟に微笑みかけた。
「悟、わたしと愛の共同作業だねっ! だねだねっ!」
「そうだな……」
「ふえ?」
冗談で言ったのに、悟が照れなかったので紅子が紅くなった。
紅潮していても、敵を斃すことは忘れない。喋りながら敵を真っ二つに斬りまくる。
「じょじょじょ冗談だってばっ! 何本気にしてるの!? バカじゃないの? バカだよね! 悟はほんと何もわかってないんだからっ! もぉ、エッチ!」
どさくさに紛れて、関係のないことまで言った。
悟は真面目に敵を斃している。猫キック、猫パンチと頭突きもかましている。
紅子ほどではないが、敵をたくさん屠っている。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ……今戦闘中だから会話にはあんま集中できなくて……」
「しょ、しょうでしゅか……」
紅子は見るからにしょげた。でも敵を斃しまくっている。
彼女には、最恐の称号を与えてもいいのではないだろうか。
敵の数がみるみるうちに減少していく。数えられるほどにはなった。
二人が仕留められなかった敵は、こちらへやってくる。目の前の敵を斃すよりも、後方支援のタッグを組んでいる日暮とサリーを斃した方が楽になると考えているのか。
噛み犬は、案外賢い生き物だ。
猫槍を振り回し、言葉とは裏腹にサリーは二人に感心する。
「ふん。プチクズどもめ。その程度の体力が、まだ残っていたのか……」
「……こーたん、さとるん、がんばれ……」
日暮はリロードして、二丁拳銃を再度構えた。
サリーが暴れ回るように、槍を巧みに振り回している。次々と敵を薙ぎ倒していく。
でも、サリーは跳び回れない。後ろに日暮がいるから、思うように身体を動かせない。
ガキッと耳に響く音がする。噛み犬の爪が刃に当たった音だ。
サリーは噛み犬を振り落とし、日暮に声をかけた。
「私に気を遣う必要はない。私ごと弾丸を貫通させても構わん」
泡を食った日暮は、息を呑む。
「でも……けっかいがあるって……」
噛み犬を突き刺し、サリーは話を続ける。
「結界を一瞬だけ解けばいい話だ。赤子の手を捻るよりも簡単な話だな。私は大分疲れている。集中力を持続するのも大変なのだ。楽をさせてくれても、損はしないと思うがな」
「なかまをうつのは、きがひける……」
残り数十匹になったが、みんなは既に疲労困憊。いつ倒れてもおかしくなかった。
倒れないのは、心が死んでいないから。死んでいなければ、人は、戦い続ける。
神猫も。
サリーの体力も、もう限界をとっくに超えている。
噛み犬を斃す速度が最初の頃に比べて、格段に落ちてきた。
「嘘をつけ。私を恨んでいるのだろう。私に不満があるのだろう。あの二人と違って、おまえは私の名前を一度も呼ばないではないか」
汗を手の甲で拭いつつ、猫槍の切っ先で噛み犬の引っかき攻撃をいなす。そして即座に噛み犬に猫槍をぶっ刺す。一匹ずつ斃していく。
日暮も噛み犬に猫銃を向け、引き金を引いて斃していく。噛み犬は身体の中央に大きな穴を穿たれて、血を撒き散らし一瞬にしてこの世から消え去った。
「でもそれは……あなたもおなじ……」
「私は私より強いやつならば、様づけで呼んでやるつもりだが、おまえは私には一生勝てないだろう」
「……」
次々と襲撃する噛み犬をグサリと刺し、薙ぎ、突く。
噛み犬はサリーの攻撃を避けられない。でも、サリーの一撃の力が弱まっていく。
サリーはがくんと片膝をついて、息を乱した。ぜえぜえと口から乾いた音を出し、猫槍で疲れ切った身体を支えている。
情けないなと舌打ちしてから瞳に闘争心を宿らせ、ニヤッと酷薄な笑みを刻む。
「今日だけは勝たせてやる」
噛み犬がサリーを襲う。鈍重な動きで隙だらけだが、サリーはもう一歩も動けない。
「でも、そんなかちかた、のぞんでない」
「おまえの銃は当たれば相当のものだ。広範囲殲滅とはいかないが、広範囲に被害が及ぶだろう。私の身体で証明してやろう。私が結界を解く合図をするから、おまえは装填していろ。すぐに引き金を引けるように」
サリーを襲う噛み犬を、サリーは最後の力を振り絞って猫槍で殴った。
噛み犬は後退し、体勢を立て直した。
「……」
サリーにどれほどの覚悟があるのか、日暮は知らない。日暮は圧倒されるばかりで、何も意見できなかった。サリーは正しく、格好いい先輩だ。
交戦した時は性格の悪い人だと日暮は思っていたが、サリーは性格が悪いわけじゃない。
自らの信念を持っている、格好いい人なのだ。
だから彼女は強い。強くて、格好いい。そして、自信に満ち溢れている。
日暮はサリーの横顔を見つめつつ、サリーに少しだけ憧れを抱いた。
「……わかった。やる」
「それでいい。弱いやつは強いやつに従うものだ。これは絶対的な真理」
噛み犬が再度攻撃を仕掛けてくる。
日暮から見える位置に、悟と紅子の姿はない。今なら確実に敵を葬れる。
日暮が装填する音を耳にしてから、サリーは目を閉じた。
「しんでも、しらないから」
「死にはしない。大丈夫だ。私は、あいつらほどやわな身体じゃないからな」
目を歪めて、日暮は歯を食い縛って引き金を引いた。
銃声が轟く。
目の前に穴を穿ち、夥しい血が舞い、遠くも爆発する。噛み犬を全て斃した。
倒れたサリーは目を虚ろにしていて、息がない。サリーの腹に大穴が開いていた。
「――っ」
日暮は戦く。顔面蒼白になり、戦意を喪失した。
紅いツインテールの少女が、紅い血の海に溺れるのを見て。
「だ、だいじょうぶって……、いったのに……」
敵を殲滅できたので、悟と紅子が駆け寄ってくる。南美がいないので宣言はしなかった。
悟は蒼然とし、紅子は口元を覆う。だが冷静に心を保っていた。
「すぐに治療を……!」
「でも南美先生いないぞ。どうするんだ、このままじゃ先輩が……」
「うごか……ない……」
日暮が真っ青な顔で呟く。質問しているのではなく、独り言を言っているようだ。
「ちゆって、どうするの……」
「治癒? 俺たちは治癒の術なんか使えないぞ」
「てをあてれば、なおせる……?」
日暮がサリーの身体に手を触れた。血がべっとりと付着し、日暮は首を緩やかに振る。
「い……や…………なん……で……こんな……やだ……」
悟が苦々しげに日暮に言いかける。
「……日暮、先輩は……」
日暮はぼろぼろと涙を流し、サリーの身体に手を当てて生命力を注ごうとした。
けれども、日暮に治癒の力はない。傷を治すことはできない。
「そんな、そんなの、やだ……。ひーたんは、このひとのことすきじゃないけど……でもきらいなんかじゃ……。しんでほしくなんか、ないもん……!」
「ぼくの出番だな」
ふふんとした顔のゆとりと南美が現れた。紅子が叫ぶ。
「……! ゆとり!? 南美先生、連れてきてくれたんですね!?」
「はい。遅くなってしまいましたね。皆さん、よく頑張ってくれました。後で、宣言をお願いします。彼女が、最強の疾風怒濤神猫戦隊隊員ですよ」
「攻撃力、防御力、治癒力全てを備えたオールマイティな天才が登場だ」
どんと胸を叩き、ゆとりはすぐに日暮の傍にいく。日暮は縋るような目でゆとりを見た。
「ほんと? なおしてくれる?」
「当たり前だ。友、達の頼みとあれば……断るわけにいかない」
ゆとりは照れつつ、友達と口にした。
日暮が泣き笑いの顔でゆとりに抱きつく。
「ありがとう、ゆーかり!!」
「よせ、ゆーかりは……。それにしても、ここ臭いな……鼻がもげそうだ」
ゆとりはジトッとした目をしながら、サリーの身体に手を触れた。
サリーの身体が眩い光に包まれ、頬が熱を帯びていく。次第に散らばっていた彼女の肉体の一部が集まってくる。血と肉をサリーの身体に戻しているのだ。
いきなり現れたゆとりの大活躍ぶりを悟が疑問に思い、南美に訊く。
「でも待ってください先生。ゆとりはまだ神猫に目覚めたばっかじゃ……」
「それがですね……老成された神猫なんですよ。凄く長い時を経ている神猫です。元が強い上、素質が極上なので……ゆとりちゃんはここの誰よりも強い、そしてずっと待ち続けていた広範囲殲滅型の猫爆弾の使い手です。略してにゃんばくですね」
「爆弾……。そりゃ強いですね」
「地雷とかいっぱいあるのかな……?」
「いえいえ、そういうのではないと思いますが。ただ彼女に似合う武器というだけで」
「存在自体が爆弾、とか?」
治療中のゆとりの近くで騒ぐ二人に、日暮がキッと睨んだ。
「ふたりとも。しずかにして」
睨みが利き、二人はしゅんとした。
「あ、ごめん……煩くして」
「悪かった」
「べつに構わないぞ。ぼくは人が煩くしていても、集中できるから」
飄々とした物言いで、涼しげな顔をしている。天才は一味違った。
悟は顎に手を当てながら、小さな声で考えを口にする。
「損傷したものを治すのはできると思うけどさ、ないものを戻すことって、できるのか? ふつう、できないよな……?」
「確かに、それはそうですね」
「でも、傷口が段々塞がっていってる。穴は小さくなってるよ……。これはないものを創る力もあるんじゃないかな? 凄い力だけど」
ゆとりには見えているものが、みんなにはまだ見えていないようだ。
ゆとりはニヤリと笑った。
「気になるかい?」
「ああ、気になるな」
ゆとりは鼻を鳴らして、得意気に指を立てて顎を突き出した。
「ないものを創っているわけじゃない。散らばった彼女の残骸を集めているのさ。ほら、ご覧よ。よく見てみればいい。神猫の力を引き出すんだ。肉と一緒に血も吸収しているだろう? 回帰の力さ。永劫回帰。これがぼくの力の一つだ。どうだ、凄いだろう?」
集中して見てみれば、よく見えるだろう。悟は驚嘆した。
「強すぎだろ……」
「なくなったものは、元には戻せない。心臓が潰れても、頭が飛んでも、胴体が真っ二つになっても、近くにあれば、元に戻せる。だが、吹っ飛んでしまえば終わりだ。もう、助からない。この高林先輩とやらは、死ぬ覚悟があったのだろうな。なんて無茶苦茶な人だ」
治癒は終わり、サリーの身体は元通りになった。夥しい血も跡形もなく消えた。
意識が戻るのも、時間の問題だろう。
「ばかだ……このひとは、ばかだ……」
「でも、ゆとりちゃんのおかげで、命が助かったんです。ゆとりちゃんがいなければ、サリーちゃんは今頃……。本当に、よかったですね、日暮ちゃん」
南美も涙ぐんでいる。担当しているクラスの生徒ではないが、大事な生徒をなくさずにすんでよかったと安堵したのだろう。
「ありがとな、ゆとり」
「ありがとね、ゆとり」
「うん。よかった。ほんとに……。ひーたん、このひと、ころしたとおもったから……。ゆーかり、ありがとう……。ゆーかりがいないと……ひーたんは……」
みんなに感謝され感激されて、鼻の下を擦って、ゆとりは照れた。
「ぼくも疾風怒濤神猫戦隊の仲間……だからな。これくらいはして当然だ」
ゆとりは後頭部を押さえて、にへらと力のない笑みを浮かべた。
「こんなに感謝されたのは、生まれて初めてだ」
みんなは悲しげな顔をする。
ゆとりは手を膝の上に置いて、語り始めた。
「ハハ、佳人薄命というからな……。ぼくは、生来から天賦の才を持っている。けど、幸せなんかじゃなかったよ。ぼくは、生まれた時から特に期待されてはいなかった。望まれて、生まれてきたわけじゃなかった。期待されるようになっても、ぼくはあいつらの玩具としか思われていなかった。ぼくを利用することだけしか考えていなかった。ぼくはいつだって、他人にも家族にも排斥される存在だと自分でも思っていたよ」
一旦言葉を切って、また続けた。声が掠れる。
「あいつらなんかとは格が違うんだって言い聞かせていた。ぼくがどれほどの成績を取っても、褒めるどころかぼくを自慢の道具としか見なさなかった。ぼくの功績を、あいつらがかっさらっていく。そんな感じだったよ。そんな、惨めなぼくが、人に褒められる日がくるなんてね……嘘みたいだよ。現実じゃないみたいだ。まやかしのように思える」
惨めな自分を慰めるために、人に辛く当たっていた。きつめの言葉を投げつけていた。
自分の性格がこうだから、やつらは離れていくのだとそう考えるようにした。
そしたら、友達ができない言い訳に使えるから。
だから、意識してこんな喋り方、こんな性格にしていたのだ。
みんなと遊びたかった。みんなの仲間になりたかった。友達になって欲しかった。
言い合った女子生徒とも腹を割って話し合いたいと思っていた。
無視されて、辛くないわけじゃなかった。
ずっと我慢していたのだ。ずっと、ずっと自分の気持ちに嘘をついていた。
(ぼくは、友達が欲しかった……。こんな、優しくて……最高の友達が)
片方の目から、つ……と一筋の涙が流れてきた。目元を指で押さえる。
「ぼく、初めて……生きていてよかったと思ったよ……。ぼくみたいな人間が、感謝される日がくるなんて。本当に、そんなことがありえるのかと思っていたけど……。友達もできて、仲間も救えて、こんなに感謝されて、ぼくは……今、最高にいい気分だ」
生きていることを、やっと実感できた。
いつも孤独で、いつも一人ぼっちで戦ってきた。
やっと、心を見せられる人に出会えた。本音を言える仲間に出会えた。
「よかったですね、ゆとりちゃん……」
「ゆーかり……」
「友達って、仲間って、こんなにあったかいものなんだな。いつも馬鹿にしていた。群れて、じゃれ合って、くだらない会話をして、何が楽しいんだって思っていたよ。もっと早くに知っていればよかったよ。馬鹿だなぼくは……ほんに……馬鹿だ」
「遅くったって、いいじゃないか。知れたなら、いい。出会った時から、お前は俺らの友達だよ。同じ性質を持った友達だからな」
「そうだよ! ゆとりを悪く言うやつなんか、ぶっ飛ばしちゃえばいいからね! ゆとりは凄いんだからねって!!」
「そうだな。ありがとう、みんな」
目を開いたサリーが口を尖らせて怒っている。
「人の顔の上でごちゃごちゃと喋るな……。煩くて、眠れないではないか」
「お、早いな。もう起きたのか。高林先輩とやら」
「「先輩!」」
「おきた……」
サリーは身体を起こして、かったるい様子で首や肩を回す。
「何だ? あれしきのことで、この私がくたばるとでも思っているのか、おまえは。はん。これだからプチクズは……。プチクズカゴにでも入っていればいいものを……」
日暮は泣き出してサリーをぎゅっと抱き締めた。
「さりりん!!」
「は!? な、何だおまえ、いきなり抱きつくな、気色悪い!」
そう口では毒を吐きつつも、顔は紅くなっていた。
「サリーちゃん。あなたを助けてくれたのは、ゆとりちゃんですよ」
「そこのチビが……か?」
サリーは引き攣った苦笑いを浮かべる。ゆとりの眉がぴくりと動く。
「チビ? 背が低いと何か問題でも? 弱そうに見えるとかいう感想か? ぼくよりちょっと背が高いからって、ぼくを貶すなんて、恩を仇で売るつもりなのか?」
ゆとりが腕を組んで見つめると、サリーはうっと唸った。
「く……! 最強、しかしだな……」
「最強?」
ゆとりは鸚鵡のように呟く。脈絡もなく出てきたので、理解していない。
「サリーちゃんの神猫の名前です」
「日暮と似てるネーミングセンスだな」
「日暮の神猫はつわものだもんね」
「ぼくの神猫の名は、宇宙最強果物と書いてウルトラビッグコスモパイナップルだ」
言葉の意味に口煩いゆとりなのに、このネーミングである。
悟と紅子は思いっ切り引いた。
「うわー……」
「類は友を呼ぶ……だな。正に、仲良し痛々しトリオだ」
「いとをかしトリオだね……」
「あなたたちのネーミングセンスも、私はどうかと思いますよ?」
「南美先生には、センスどうこう言われたくないですよ!」
「紅子の言う通りです! 噛み犬とかセンスなさすぎでしょう! もっとかっこいい名前にしましょうよ。英語の方がかっこいいと思いますけど」
「そこまで言わなくとも……」
悟たちがネーミングについて口論している一方で、サリーはまだゆとりの呼び名に悩んでいた。大人しく権力に屈するか、それとも反抗するか。長いこと、懊悩していた。
日暮がサリーを責めるような目で咎めた。
「じぶんよりつよいやつは、さまづけでよぶっていってた」
サリーはハァとため息をついて、観念する。
「お、おまえ様、名前は……何と言う」
「ぼくか。鎌中ゆとりだ」
ゆとりは指で空中に漢字を書いてみせた。サリーがわかるように反転させている。
「か、鎌中様……」
「様はいらない。ゆとりでいい」
それでは駄目だと言わんばかりに、サリーは口を挟む。
「いやしかし……」
「ゆとりでいい。ぼくはきみのことを、先輩とは呼ばない。サリーと呼ぶ」
「はい」
こうして、サリーを従わせる強者が現れた。
「ゆーかり、すごい」
「ぼくにかかれば、他人を従わせるなんて、序の口さ」
ゆとりは調子に乗って、ありもしないことを言ってのける。
ゆとりの語りを聞いていたサリーが、ボソッと抗議するように漏らした。
「どの口が……」
「ゆーかり、さりりんがなんかいってる」
「何だ。ぼくに口答えするのか、サリー?」
これみよがしに、ゆとりはいやらしい笑みで先輩を呼び捨てにする。
サリーは首を振ってすぐさま否定した。
「いや、何でもない。私は何も言っていない。治癒、感謝する」
「けいごでしゃべらせよう」
「それはいいな。名案だ、日暮。サリー、敬語で喋れ」
ゆとりはパチンと指を鳴らし、サリーに命令する。
まるで犬のような扱いに、サリーはがなり立てた。
「何だと!? おまえ、この高潔なる私を愚弄する気か……? 命の恩人といえど許さんぞ。それだけは私のプライドが許さん!! 成敗してくれる!」
先輩を弄る、という愉快な遊びを思いついた才色コンビ。敵に回すと恐ろしい二人だ。
サリーを絶対服従させようと、二人共悪知恵を働かせている。
「負け犬が吠えよるわ。年下のぼくに様をつけていたくせに、プライドもくそもない」
「もうせんぱいとしてのぷらいどは、くずれさったもどうぜん」
二人は言葉でサリーを追い詰める。あのサリーが、冷や汗をかく状況に陥っている。
「そ、そんなことはない! 私はまだ面目を保っているはずだ! 多分!」
「多分って言っている時点で、ないに等しい。安いプライドだったな。ご苦労、帰っていいぞ。プライド。ハウス」
ゆとりは真顔で手を下げた。二人はゆとりのノリについていけていない。
「ぷらいどって、いきもの?」
「違うと思うが」
「ユーモア溢れる天才もいいものだろう?」
喜色満面のゆとりに、日暮は苦笑して首を傾げた。
「あふれてはいないとおもう……。ゆーかりは、みんなにすかれたかったの?」
「……突然話を変えてきたな。さっきの話か?」
ゆとりが日暮に問い返す。すると、片目を開けたサリーも話に入ってくる。
「私の耳にも届いていたぞ。おまえの恥ずかしい過去の話は」
「恥ずかしくなんかない! ぼくは……きみたちを信用するって、決めたんだ。信用していなかったら、自分の話なんてできないさ。ぼくの話を聞いてくれるって思ったから、ぼくはきみたちに……本音を打ち明けたんだ」
サリーは首を振り、冷ややかな視線でゆとりを射抜き、間違いを正した。
「恥ずかしいぞ。おまえの話は。他人に好かれようなどと思うことが間違いだ。人間のことを何もわかっていまい。好かれるのではなく、嫌われろ。嫌われる努力をしろ。私は敵をたくさん作る。おまえにも敵がたくさんいる。敵が多いのは、誰にでもじゃない。愛されれば愛されるほど、敵は多くなるのだ」
日暮もしっかりとサリーの話を聞いている。
「おまえは愛されているから、敵が多い」
「誰に?」
サリーは両手を広げて感情を込め、大仰に演技をした。
「人に。神に。才能に。そして世界に。おまえは愛されているのだ。愛される者は、憎しみをも一手に引き受ける。ゆとり、おまえが罪深き人物だからだ」
それはサリーにも言えることだった。
「敵が多いのは、愛されている証拠なのだ。理解できたか?」
「……まあ。サリーは結構大人だということがわかった」
「そうだろう。私は泣く子も黙る美化委員副委員長だからな」
「あまりかんけいないような……」
日暮が当惑していた。
どっぷりと夜になっていた。ゆとりたちは家に帰る。悟と紅子は同じ方向へ、日暮とサリーとは反対方向へゆとりは家路を急ぐ。
遅くなったら、親に何を言われるかわからない。
「友達ができたぞ」
他にも、もっと話すことはいっぱいある。
「ぼくは、今度こそ、努力しようと思う」
疾風怒濤神猫戦隊の一員になったこと。
本心を口にできたこと。
仲間に感謝されたこと。
話したいことがいっぱいある。
できれば、あの女子生徒とも仲良くなりたい。
ぼくのことを気にかけているのなら、ぼくが変わればあの子も変わるかもしれない。
ほんの僅かな……一縷の望みだけど、やらないよりやって後悔したいのだ。
ゆとりは家まで全力で走る。類稀なる身体能力を駆使して、家まで全力疾走。
「いつか、友達を百人作って、小学生の頃の自分とさよならするんだ」
ゆとりは、新たな世界へ走り出した。
七 特訓
漸く疾風怒濤神猫戦隊のメンバーが全員揃った。
そこで、南美は猫島市の地下にある、疾風怒濤司令部にみんなを呼び、特別メニューの紙を配布した。疾風怒濤司令部は、最先端の科学施設。タッチパネル式のモニターが天井に山ほどあり、薄暗く目に悪いブルーライトが室内を照らす。
オペレーターも多数在籍し、優秀な人材が揃っている。主な仕事は本部との通信、結界、神猫と敵の研究。
そのうちの一室、休憩用の狭い部屋に皆を集まらせた。ここは明るい。
休日を返上して、みんなで猛特訓だ。休日がなくなったので、ちらほらと抗議の声が上がるが、南美は封殺した。
「皆さん、お静かに。世界を守るヒーローであるということを、忘れてはいけませんよ」
「でも、毎日俺休みなしだし……ちょっとくらい、羽目外させてくださいよ」
「ブラックですよ、先生ぇー」
「そこの二人、ぶう垂れない。新入りさんもいるんですからね」
「最強の新参者だが、何か?」
「最強だったら、べつに特訓なんかしなくても……」
悟が目を細めてぼやく。それを見咎めたサリーが非難するように低めの声で言う。
「特訓は、おまえたちのためにあるようなものだぞ。最弱二人」
「ひーたんも、とっくんするの?」
「日暮ちゃんは狙撃の精度を上げないといけませんよね。紅子ちゃんと日暮ちゃんで組んでもらいます。紅子ちゃんは銃弾を斬ってください。当たると大変なことになりますよ」
「ええ……? 嘘でしょ? 日暮の猫銃って、威力絶大なのに……斬れるわけな……」
「こーたん、だいじょぶ。ゆーかりがいるから」
「頑張れよ、紅子」
悟は紅子の肩にポンと置いてから、さっと逃げ腰になる。
悟に冷徹な視線を送り、最弱の悟の手を掴んで離さない。
「悟君も、ですよ!」
「えー、俺も? 俺、どう考えても勝ち目ないんですけど」
「大丈夫です。ぐちゃぐちゃにされても、ゆとりちゃんに治してもらえますから。元通りに、ね? だから、安心してやられちゃってください」
南美の笑顔は、ちょっと引き攣っている。
「ぼくの力、酷使しすぎじゃないか? すんごいハードなんだが」
「上長。おまえは、私とだ」
「……くう……先輩と、なんて……」
「精々死なない程度に甚振ってやる。調教の時間だ。たっぷり哭いてくれよ……?」
舌なめずりをして、猫槍を身体に密着させている。サリーは甚大なるスケベだ。
ぶるっと震えて、悟は悪寒を覚えたようだ。
「わたし、悟とやりたかったなー……」
「ひーたんとじゃ、いや?」
「そういうわけじゃないんだけどね。高林先輩ばっかり、いっつも悟を独り占めできて、羨ましい。わたしだけが、悟と進展ない感じだしさぁ。何で嫉妬してくれないのぉ……」
「さとるんは、こーたんとよくしゃべってるよ。ひーたんよりも」
「さて。私は本部にいってきましょうか。皆さん、サボらずにしっかりやってくださいね」
「「「はーい」」」
「相わかった」
「司令官。了解しましたぞ」
悟と紅子と日暮の三人は唱和して、サリーとゆとりはそれぞれに返事をした。
南美の所属する組織の拠点は、人の目につかない地下にある。疾風怒濤司令部もそうだが、本部も地下に位置する。
入口は鍾乳洞のようになっていて、そこがどこかの施設だとは容易に判明しないだろう。だが、人が寄りつかない、森の奥深くにあるので、関係者以外は立ち入らない。一般人には見えない結界を張っているので、見つけられたこともない。
銀に光るドアを指紋認証で開錠し、ドアの取っ手を掴んで中に入る。
室内は疾風怒濤司令部の作りとほぼ変わらない。驚くべきは、その広さ。猫島学園ほどの広大な敷地に、数千人もの人間が集まっている。
オペレーターはみんなインカムをつけていて、モニターに向かい合って黙々と執務をこなしている。いつでも音を拾えるように、インカムをつけているのだ。
(……本部は今日も忙しそうですね)
オペレーターを指揮するのが司令官の役目であり、その司令官に仕事を与えるのが本部長(別名予言者)……つまり南美の上司である。
本部に帰還した南美は、中央に立っている上司に会って早々、敬礼した。
「疾風怒濤司令部の赤屋南美です。只今戻りました」
上司は年老いているふくよかな男性。顎の弛みと腹の出っ張り具合が少々気になる。
私生活には難ありだが、仕事はできる。上司は紺のスーツを着用している。
「ご苦労。早速、予言を聞いてくれ。次の出現ポイントだが……」
「はい」
「残念なことに、君のゆかりのある場所だ……」
「……と言いますと……やはり、あそこですか……」
南美は真剣な目で上司に目配せした。上司は肯う。
「ああ。その数はおよそ数百。この間に続いて数が凄い。疾風怒濤司令部だけでは、手に負えないだろう。メンバーの一人が致命傷を負ったそうじゃないか」
南美はごくりと唾を飲み込む。あんな事態は二度と起きて欲しくはない。
「はい。ですが、一人……物凄く強い神猫がいます」
上司は顎に手を当て、思い当たる節を探している。
「自称天才の鎌中ゆとり君か」
「自称……ではありますけれども、彼女は実際天才です」
「神猫に選ばれること自体が、才能の塊なんだがね」
上司の何気ない一言。弓矢に射られたかの如く、心の臓に突き刺さる。
裏を返せば、選ばれなかった自分には才能がない、ということ。
誰かを救う力がない、ということだ。
「そう、ですね……」
上司はしょげた南美の顔を見やって、慰めの言葉をかけた。
「君はよくやっているよ。司令官で戦場に赴くのは、赤屋君だけだ」
『現在は』が省かれていた。
「私は見ていることしかできないんです……何もできません。彼らの命も守れない、ただ命令するだけの……愚かな司令官です……」
上司はフ、と不敵な笑みを零す。
「見ているだけでも、心強いと思うがね。……もし、己が死ぬ時、誰も見ていてくれなかったら、悲しいじゃないか。仲間がいる、司令官がいる、それはいいことだ。誰にも知られずに死んでいくのは、悲しいだろう」
戦場で幾多の散りゆく命を見てきた上司の言葉は、何よりも重く、深い。
南美が戦場でサポートをするのも、この上司の影響だ。
彼は、長年司令官として神猫を先導していた。南美は彼に指導、鞭撻をしてもらっていて、頭が上がらない。彼は偉大な人だ。
その偉大な人が、寂然とした表情をして、悔恨の念を抱いている。視線が斜め下を向く。
「だが、一緒に死んでやれないのが、もっと悲しい」
「……」
「わしは、長く生きすぎた。わしも早く彼らに会いたい。わしの指導が原因で、彼らは死んでしまった。若くして散っていった命。どうしていつも神猫は若い子ばかりを選ぶのだろうか。わしのような老害こそ、いなくなればよいものを。何故彼らばかりを不幸な目に遭わせるのか。神は、何がしたいのだろう」
罪悪感がずっと胸につかえているのだろう。上司は自殺志願者みたいに、自らの死を望むような言葉を口にした。どうしてあの子たちでなければならなかったのか、と上司は神猫の理を呪っている。神猫の根本を、上司は許せないのだ。
でも、南美だって、許せない。
あろうことか、南美は上司である彼の胸倉を掴んで叱咤した。
「……自殺願望を口にするのは、やめてください。彼らだって、死にたくて死んだわけじゃありません。でも、本部長のせいでもないんです。彼らの命は、その日に燃え尽きてしまう約束だったんですよ……。神猫との、悲しい約束だったんです」
運命、だとは言いたくなかった。運命だと言ってしまえば、それを受け入れてしまうから。自分が神猫に選ばれなかったのも運命であったと、受け入れるしかなくなるから。
優しい心を持った長官のようになりたい。
でも、長官のように自らの死を安易に受け入れたくはない。
私は死に抗う。死ぬのが怖くないなんてことは、絶対に口にしない。
でなければ、死んでいった彼らが浮かばれない。
「――私は、死にたくありません。彼らを、死なせたくもありません。死のうとする人は私が止めてみせます。私には神猫は宿りませんでしたが……誰かの行為を止めるだけの力は、持っているはずです。本部長、貴殿も例外ではありません」
鋭い目、硬い声音で断言すると、上司は畏縮して従順に謝罪した。
南美の非行を責める様子はない。上司はそれぐらい、温厚篤実な人なのだ。
「……悪かった……。君は、目の前で死んだ隊員を見たことがあったんだったね……」
「……もう、過去のことです。然程気にしていませんよ」
「あの時、止められなかったのを、今でも後悔しているのか?」
「私にはその力があると、その時は過信していましたからね。でも今は……」
止められる、と確信している。
上司は服を直すと、ふうと一つ息をついて厳かな声で問い質す。
「なら、一つ訊こうか」
「何でしょうか?」
「高林サリー君のあの件は、自殺ではないのか?」
南美はビクッと肩を震わせる。
「……あれは……」
「未遂に終わったが、烏丸日暮君の猫銃の威力については事前に知っていたそうだな。撃たれれば、生きて還ってはこられまいと。君の監督不行き届きとは違うのか? 命が助かるという確信は、彼女にあったのか?」
南美はその場を見ていなかったから、詳細を答えられない。けれど、サリーの言葉を覚えていた日暮の証言によれば、死ぬつもりだったと判断して相違ない。勝ち目のない戦いで、自分の命を犠牲にしてサリーはみんなを助けようとしていたのだ。
サリーはああ見えて、非常に仲間思いで思いやりのある、いい子だ。
サリーの機転がなければ、全滅だった。しかし、もしサリーが助からなければ、大きな損失を被ることになっていた。サリーの抜けた穴は大きすぎると痛感していただろう。
南美の特訓の目的は、大怪我を負うことで死を恐れてもらうこと。二度とこんな怪我で死の淵に立ちたくはないと思ってもらうことだ。そのためならば、鬼にも悪魔にもなる。
決して、死を怖がらないようなことにはならぬよう、しっかりと教育する。
ゆとりの能力はかなり強力だが、死なないわけじゃない。
(自分の命を、使い捨てるようなことは、しないで欲しい……)
唇を噛み、南美は頭を下げて、謝罪する。
「申し訳、ございませんでした」
「……いや。わしも意地悪をしすぎたな。悪かったよ。……そんな戦法を取らずにすむ策を、君が日頃から教えていてくれればいいことなんだ。結果として命は助かった。これもまた、神猫が約束してくれたことなんだろう?」
「……そうです……」
「そうだな。我々の行き先も、神猫が導いてくれる。きっと」
その道が真っ暗であっても、神猫が薄明かりを照らしてくれるのだろうか。
南美はみんなのいる場所に戻った。特訓をしている四人は汗をいっぱいかいている。
右端で待機しているゆとりは足をぶらぶらさせて、みんなの様子を眺めていた。
南美がいなくても、みんなしっかりと約束を守っている。南美は思わず顔が綻ぶ。
左側では紅子と日暮が特訓をしている。紅子は猫刀を首と一緒に横に振った。
「日暮! ちょっと待って、それは無理! 無理だからぁ!」
どうやら、日暮が猫銃を三連射するみたいだ。日暮は無表情でサムズアップする。
「さんぱつくらい、こーたんならきれる」
「一つ斬るのでやっとだったんだよ!? そんな反射神経、ないよ!!」
「だいじょうぶ。しんがん」
(心眼……ですか)
日暮は紅子に向かって発砲した。紅子はあわあわと慌てて、弾を華麗に避ける。ダンスするように、右へ左へと軽くステップし、猫刀を振るう。
まるで、舞っているような華美な勇姿。紅子の美麗な容貌を一層引き立たせる動きだ。
弾丸をスパッと軽やかに斬っていく。一つ、二つ、三つと。全てを斬った。
紅子が一番驚いていた。猫刀を握り締め、視線を刀身へと移す。
「で、できた……!」
「こーたん、すごい……!」
日暮がきらきらした目で拍手する。超人的な動きをマスターした紅子に称賛の声も送り、自分のことのように大喜びしている。日暮は猫銃を仕舞って、紅子も猫刀を仕舞って二人はひしっと抱き合った。
歓びの涙を二人して流している。
「やったー。怪我するかと思ってハラハラしてたよー。でもよかったぁ……」
「ひーたんもこーたん、けがさせるとおもって、こわかった……」
日暮は割とノリノリだったような気もしたが、心のうちは如何に南美といえど読めない。
やはり、親友に怪我をさせるのは心にくるのか。確かに、ふつうはしない。
酷なことをしてしまったと南美は少し反省した。
ふっと気がついて、紅子がこちらに顔を向けた。日暮もつられてこちらを見る。
「あ、南美先生」
「おかえり」
「ただいま戻りました。お二人共、特訓の成果は出たようですね。よかった」
「はい。悟と先輩がまだやってますけど」
「さとるん、ひどいけがばっかしてる。さりりんはあくじょ」
言われて、南美は右側を見た。悟はサリーにボコボコにやられている。
余裕綽々な表情のサリーは無傷で、猫槍を立てて仁王立ち。悟は裂傷、打撲と酷い有様な上、地面に這いつくばっている。超絶スパルタな特訓だ。
「立て、プチクズ! まだ特訓は終わっていないぞ! ここで音を上げるのか、おまえは!!」
「そ、そりゃないですよ、先輩……。俺、もっと強くならないと。足引っ張ってばっかですから……」
「よし、こい! おまえのありったけを持ってこい!! 私にそれを捧げるんだ!」
「はいっ!!」
見ていて胃液が込み上げてきそうな、泥臭い、熱血な特訓だ。
サリーを悟の特訓相手に宛がうのは、凡ミスだったか。
「あれが調教……なんでしょうか?」
「だったら、怖い……。いや、何か恥ずかしい……」
「あなたが言うことでもないような気がしますが……」
「……それ、どういう意味です?」
紅子に咎めるように見られ、南美は目を逸らして口笛を吹いた。
ゆとりがとことこと歩いてやってきて、ツンツンと南美の手を突いた。
「ぼく、暇なのですが。本を読んでいても、いいですかい?」
南美は腰を下ろして、ゆとりと同じ目線の高さになって微笑みかけた。
「ゆとりちゃん。ゆとりちゃんは、特訓はしないんですか?」
ゆとりは悩むように、顎に指を当てた。
「んー、そうですな……。善処はしましょう。だがぼくは薄志弱行なもので。……いや、すまない。言い訳をしました。何をすればいいのか、わからないもので。南美司令官、教えてくだされ。ぼくにできることなら、何でもしましょう」
南美はゆとりがそんなことを言うと思っていなかったので、目を丸くした。
「何でも、ですか」
ドンと胸を叩いて、得意気に胸を張って背伸びをした。
「ぼくに二言はないのです。ぼくだって、やる時はやるのですよ」
「身長も、もう少し高くなるといいですね」
「ぬ……。何を言うか……。ぼくはこのままでも特に問題はないというのに」
「サリーちゃんと張り合っていたではないですか。背が低いのはコンプレックスですか?」
「ぼくに、そんな劣等感はないのです」
ゆとりはキリッと逞しい顔つきになり、紅子を見た。紅子が素っ頓狂な声を出す。
「ええ? そうなの? わたしのこと、羨ましそうな目で見てくるのに?」
「紅子ちゃんは、このメンバーで一番スタイルがいいですからね……」
司令官である南美を除いて。
紅子は呆れたような目をして、肩を竦めた。
「みんながちっちゃすぎるだけだと思うんですけど」
「そうですね。どこもかしこも小さいですね。大人になったら、大きくなりますよ」
南美がフォローすると、ゆとりが真顔でずいと迫った。
「高校生だからといって、成長するという根拠はないのですがね。南美司令官、それは根拠があっての発言ですか? ぼくは中学の時から背も伸びず、おっぱいも大きくならなかったのですぞ。未だにぼくのおっぱいは、最小サイズであるのに」
「奇遇だね。日暮も最小だよ」
「なんでこーたんがあいづち」
「ぼくの見立てによると、サリーも最小の気がする」
ゆとりの名探偵ぶりに、紅子はアハハと軽く笑う。
「ぺったん同盟でも結んじゃえば?」
「何という、傷の舐め合いか……! 空しい、実に空虚な発想……」
「かなしい」
二人は向かい合って両手を組み合う。二卵性の双子みたいだ。
そして豪快なまでに、涙が溢れ出す。滝のような涙の奔流に、紅子は引いた。
「ご、ごめん。そこまで泣かれると思ってなくて……。ほんとにごめん」
「紅子ちゃん、謝るのか引くのかどっちかにしてください。ややこしいです」
「えーっと、ごめんなさい」
「こーたんのばか。ちじょ。へんしつしゃ。いんらん。だにく」
「紅子の変態」
日暮とゆとりの二人に罵詈雑言を言い立てられた。二人の滅茶苦茶な中傷に、紅子は多大なショックを受け、両手を出して食い気味の突っ込みをする。
「何でわたしが変態!? っていうか、何その悪口の応酬! 何もしていないよね!?」
「セクハラしたじゃないか。ぼくらを傷つけた」
紅子の異議申し立てをゆとりはぶすっとした顔で軽くあしらう。
紅子は泣き出しそうな顔で叫ぶ。
怒鳴り散らすような大声で、二人に向かって唾を飛ばす。
「需要があるからいいじゃない! わたしなんて、たまに変な人に乳牛とかババアとか言われるんだよ? まだピチピチの高校生なのに! 幼い方がいいに決まってるじゃない!! わたしだって、若く見られたいもん!!」
南美はほろりと涙ぐんだ。紅子の気持ちは手に取るようにわかる。同類だ。
「紅子ちゃん、私もよくわかります……。胸が大きくても、得することなんて……」
ここまで悲痛な叫びを聞いても、ゆとりは尚も紅子と南美の二人と敵対する。
「自分で揉める。感触がわかる。それは得じゃないのか?」
「大きいと体重も重くなるんですよ?」
南美は自分の胸を持ち上げてみた。重量感のあるふくよかな胸だ。高校生にしてはスタイルのいい紅子よりも大きいので、かなり重そうに見えるだろう。南美はまだ若く、運動もよくするので、弾力があって柔らかい胸を保っている。垂乳根にはなりたくはない。
ゆとりは南美の胸をじっと見つめる。そして、いきなり掴んだ。
「いた……」
「ん? そんな強くは掴んでいないのですが。……柔らかいな。そしてでかい」
両手で鷲掴みしていたゆとりの手を日暮がどけて、日暮も南美の胸を掴んだ。
「ゆーかり、ずるい。こーたんも」
「でかすぎる。正に西瓜パイだ」
「すいぱい。まずそう。こーたんはめろんぱいがいい」
南美はため息をついて、幼稚園児に言い聞かせるように、優しい声音で叱った。
「お二人共。人の胸を触る時は、優しく撫でるように触ってください。でないと、私が可哀想ではないですか。乳腺が傷ついたら責任取ってくれるんですか?」
「「はーい」」
二人は笑顔で返事をしながら南美の巨大な胸を堪能していた。
変態はどっちだと不満に思っていそうな紅子が、呆然と呟く。
「何この光景……」
苦笑を浮かべてはいるものの、こどもができたみたいで嬉しく思っていた。
特訓を終えた紅子と日暮は帰宅したので、南美は悟とサリーの近くへ寄った。
相変わらず、サリーの体力は化物だ。全身怪我だらけの悟が地面に仰向けに寝転がって荒い息を吐いているのに、サリーは汗を拭っただけで微笑している。差が激しすぎる。
猫槍をくるくると回して、トンッと地面に突き立てた。
「最前線で戦うのだろう? おまえ、そのままでは死ぬぞ」
悟は目を開けて押し黙る。
「……」
彼女が言えることなのだろうかと南美も思った。
仲間のためとはいえ、自殺を図った彼女の言葉が、果たして意味を成すのかどうか。
信憑性のある意見としての意味を。
悟だったら、多分反論する。
「先輩……」
消え入りそうな声で、悟が呼びかける。
「何だ」
悟は息を整えて、話を続ける。
「俺は……弱いですよね。先輩がいないと、この間の戦闘で俺ら……全滅していたかもしれなかった。日暮は強いけど……隙が多すぎて先輩が日暮を守っていてくれなきゃ、日暮も死んでた。日暮は先輩に銃口を向けたこと、きっと後悔してますよね」
サリーは腕を組んで、声のトーンを落とした。
「……あの時は、ああするしかなかった。私があいつの障害だったからな。目の前に何かいたら邪魔だと思うだろう。ストレスも発散できて一石二鳥だったと思うが」
悟は地面に手をついて、ゆっくりと起き上がった。起き上がる途中、片目を瞑り歯を食い縛る。身体の節々が痛むのだろう。
どうにか胡坐をかくことには成功したようだ。
「人を撃つんですよ? 憎んでた……かもしれませんけど、今まで平穏無事に暮らしてきた少女が、いきなり人を撃つんですよ。しかも仲間を……殺しかけた。日暮の精神が無事だったことが信じられませんよ。俺は耐えられない。仲間を犠牲にしてまで、生き残りたいとは思いません。自己犠牲的な戦いは嫌です」
「……全滅必至だったと思うが。おまえたちも大怪我を負っていた。疲労困憊だった」
「それでも! 何か他に方法があったはずです。選択肢が一つなんて、この世に存在するんですか? 俺は、可能性は無限にあると思っています。答えは、いつだって一つじゃない。話し合う時間がなかった。でも話し合えば……最善の策も出たかもしれないんです」
『かもしれない』。
それは、言い出すと止まらなくなる魔法の言葉だ。いや、呪いの言葉かもしれない。
「可能性の話をするな。私はそういう言葉は好かん」
頑固一徹のサリーに、悟は例え話を持ち出す。
「パラレルワールドってご存じですか? 幾つもの世界のうちの一つです。俺は、平行世界を信じてますよ。一つ選択するごとに未来が変わっていくんです。選択を変えれば未来は変わる。自分自身も変わると思います。それも可能性ですよね」
「何が言いたい」
「自分一人で抱え込まずに、俺たちと話をしてください」
サリーは眉根を寄せて、厳然たる声音で問い返す。
「……先輩である私が、おまえたちと相談しろと?」
「あんなところで先輩風吹かせなくても、先輩は最初から先輩です。共に戦う意思を持っているのであれば、俺たちと情報を共有してもいいんじゃないですか?」
「えらそうな物言いだな」
「先輩っていっても、一つしか違わないじゃないですか。何言ってるんです?」
「おまえ……やはりムカつくな……絞める」
「お褒めに与り、光栄です」
悟は爽やかに笑う。最早暗黒に染まる笑顔に見える。
いい性格をしていると南美は内心褒めた。悪い意味ではない。
(悟君は割とこういうところがあるんですよね……。そこがちょっとカッコイイですね)
「だが……私もおいそれとおまえに同意するわけにはいかんのでな。おまえが私から一本でも取れたら、同意してやらんこともない」
「先輩……天邪鬼というか……何というか……。マジ素直じゃないですねー」
悟がからかうと、サリーは顔を茹蛸のように真っ赤にして怒髪衝天した。
「何だと!? 私が千歩譲って条件を出してやっているのに、おまえ……! 殺すぞ?」
「うわ、怖……。先輩の『殺す』はマジで殺される気がするんで、ちょっと勘弁願いたく」
サリーはどす黒いオーラを放ちながら、槍を構えた。心なしか、目が光っている。
「いや、殺す。絶対に殺す。死んでも殺す。死ぬまで殺す。じっとしていろ」
「ひいい! ちょ、待ってください!! 冗談の通じない人だな!!」
悟は蒼然としてもつれる脚に鞭打って全速力でダッシュした。
槍を振り回してサリーが追いかける。飛ぶような一歩が速く、すぐに追いつきそうだ。
「問答無用! 待て、プチクズ! 隅から隅まで綺麗にしてやる!」
「いや、死んだら絶対綺麗にはなりませんって!! ぐちゃみそですよ!」
逃げながら悟は律儀に突っ込んでいた。その間にもサリーが肉薄し、猫槍を突いている。
追い詰められると、とんでもない力を発揮する。それは人も神猫も同様だ。
悟はサリーの凄絶なる突きの猛襲を完全に見切っていた。
怒れる少女の心理でも読んでいるのか。
如何せん攻撃が単調。突きと薙ぎしかない。悟は翻弄するように縦横無尽に動く。
勉学の成績は一部を除いて芳しくないものの、悟は頭がよく回る。恐らく、ある分野では、天才と呼ばれるゆとりに匹敵するほどの頭はあるはずだ。
ゆとりは全分野に秀でているだろうが、日暮と同じステレオタイプの域を出ない。
対する悟は、イレギュラー。
自分では気づいていないだろうが、彼もまた天才なのだ。
彼は、無意識のうちにこれらをやってのけている。感覚ではなく、脳の命令で動いている。南美もそれを見抜けるが、南美は天才ではない。
だから、南美は悟をリーダーに選んだ。
「ちょちょ、先輩! 見えてますよ!」
「何がだ!!」
「パ、パンツ……が……」
「何っ!? 嘘をつくな!!」
「嘘じゃありませんって! もろにいちごパンツが丸見えなんですけど!!」
「いちごパンツなんて履いてないぞ!! 今日の私は黒レースだ!!」
墓穴を掘ったサリーの爆弾発言に、悟は紅くなった。
「……そ、そうなんですか……。大人ですね……」
「な、おまえ……!!」
ハッタリをかまされたサリーはぶち切れる寸前。恥ずかしさよりも怒りが勝つ。
近くで見てきた悟が大きくなって、南美はちょっぴり感動した。
(悟君、成長しましたね……。前までなら、そんなセクハラできなかったでしょうに)
心理戦ならば、悟が得意とする分野かもしれないと信じて。それが見事に的中した。
この先の戦いでも、悟はめざましく活躍してくれるだろう。
メンバーの中で一番怪我をする回数の多い悟。だが、彼は疾風怒濤神猫戦隊に必要不可欠な人物。最も必要とされるべき存在。
南美は手を合わせて祈る。
「悟君……。どうか、生き延びてくださいね……」
みんなの成長を噛み締めてから数日後。本部で予言されていた日がやってきた。
場所は、南美にとって最もゆかりのある地。猫島市の川辺。
平素であれば、川のせせらぎや爽やかな風が気持ちいいと感じられる。でも、南美の心はあの時荒んでいた。今は少しだけ、心が揺れる。
南美が以前司令官見習いをしていた時の疾風怒濤神猫戦隊は、全滅した。
いや、正確には、全員が自殺したのだ。勝算のない厳しい戦いだった。だから、敵に殺されるくらいなら、自害した方がましだと思ったのだろう。
そんな武士道精神を、重んじて欲しくはなかった。
生きて欲しかった。ボロボロになっても、怪我の手当くらいはできるから、目の前で入水なんてして欲しくなかったのだ。思い出すだけでも、心が震える。
先代の疾風怒濤神猫戦隊は、死んだ。でも、次代の彼らならば……生き残ってくれると南美は信じている。生きる意志の強い者は強いのだ。
南美は祈ることしかできない。だけど、彼らの力にはなるはずなのだ。
生きていて欲しいと思う人がいれば、人は生きられる。死に抗えるはずなのだ。勝ち目がゼロじゃなければ……必ず……救われるはず。
南美たちは川辺のほとりに立つ。毅然とした態度で南美は彼らに声をかけた。
「……皆さん」
「「「「「はい」」」」」
打ち合わせでもしていたのか、みんなは声を合わせて返事をした。
「この間のように、今回も数がとんでもなく多いです……。ですが、ゆとりちゃんが入ったことで、少しだけ前線で戦うみんなの負担が減るでしょう。ゆとりちゃん一人だけが大変ですが、頑張ってください」
「大丈夫です。ぼくは何て言ったって、選ばれし神猫なのですからな」
ゆとりの強さは発見された神猫の中でも群を抜いている。これといった弱点もなく、完璧なまでの強さを誇る。でも、油断は命取りになる。驕り高ぶっていては、痛い目を見るだろう。
先代の疾風怒濤神猫戦隊だって、かなり強かったのだ。今の彼らと比例するぐらいに。
「頼もしいですね。でも、驕りがすぎてはいけませんよ」
「わかっているさ。ぼくは回復役だからな」
「俺の負担が減るのは願ってもないことだったけど……。リーダーに選ばれたからには、俺も活躍したいかな。最近俺ってあんま活躍してない気がする」
「それを言うなら、わたしもだよ。日暮と高林先輩とゆとりにいいとこ取られてる気がするし。今日のMVPは、わたしが取るからね!!」
「こーたんとさとるんには、ゆずらない」
「ふん。今回も私の一人勝ちといこうじゃないか。負けんぞ、ゆとり」
「ぼくに勝とうなんて、百億年早いな、サリー。ぼくに手も足も頭も出ないくせに」
冷や汗をかいて圧倒されているサリーが、ゆとりを指差して宣戦布告する。
「く……! いつか、おまえを倒す!! 必ず、だ!」
「やれるものなら、やってみるといいさ」
強者の余裕を湛えるような言葉を紡ぐ。ゆとりは、本当に強い。
サリーとゆとりの言い合いを傍観していた悟は、顎に手を当てて沈黙していた。
「……なあゆとり、確認していいか?」
「何だ、悟。トイレか?」
「違うって。そんなのくる前にやるだろ、ふつう。お前の回帰の力って……お前には使えるのか? お前が回復役だったら、お前が大怪我した時、誰が面倒見てくれるんだよ」
悟の最もな質問に、ゆとりは息を呑む。
「……それは、考えていなかったな……」
「ゆーかりがけがすると、だれもゆーかりをたすけられない?」
サリーはまたも、ゆとりを指差す。敬意を表することができないようだ。
「では、こいつを護衛したらいいのか? おまえの爆弾攻撃は凄まじいからな。真っ先に狙われるだろう。おまえが怪我をして抜けたら、こちらは打つ手がなくなる」
「やはり、サリーちゃんが最後の砦ですか……」
「厳しそうだね……。また先輩に頼むしかないの……?」
紅子が不安そうに言うと、悟が首を振った。
「いや。二の轍を踏むのはいただけないよな。先輩の代わりに、俺がやる。先輩は最前線でお願いします」
「いいのか? わたしは結界持ちだぞ? おまえでは、ゆとりを守り切れない。この間の言葉通り、おまえが死ぬことになるかもしれんぞ」
「その時はその時です……。俺だって、無謀な賭けなんかする気ないですよ」
悟とサリーのやり取りを斜に見て、ゆとりは呟く。
「……二人は……似ているな……。実に危ういぞ、悟とサリーは」
「俺の立てた作戦を、みんなに説明する。よく聴いてくれ」
悟は手短に要点だけを言って、みんなに配置につかせた。
南美はみんなの戦闘の邪魔にならないよう、土手を上って道路の方までいった。結界は川辺全体を覆っているが、道路は範囲外だ。
南美は両手を口の横に当てて、大声で叫んだ。
「皆さん、私もここで見ていますから!!」
みんなは振り向かずに、頷いていた。
悟の作戦では、最初はゆとり以外のみんながゆとりの後ろで待機。悟が一番前、次に紅子、次に日暮、最後がサリーの順番に並んでいる。ゆとりが噛み犬と離れた場所から爆弾を複数投げ、斃せるだけ斃してもらう。
爆風による煙幕を張ってもらったら、みんなは奇襲を仕掛ける。
紅子は匕首を放り投げ、日暮は銃を乱射し、サリーは暴れ回る。
その前に、悟が飛び出してゆとりを全力で守り抜く。そして、悟はゆとりを後ろへ連れて後方支援に回る。
奇襲攻撃の後は、サリーと紅子を最前線にして、日暮は後ろに下がって援護射撃を担う。
悟とゆとりは、状況に臨機応変に対応しつつ、攻撃を仕掛けていく。悟がゆとりに指示を出すが、ゆとりは一人でも作戦を立てられるとへそを曲げていた。
でも、従ってくれるのが、疾風怒濤神猫戦隊の強みだ。
南美の口元に自然と笑みが滲む。
悟が右手を振りかざし、決まった顔で決然と声を張る。
「みんな、作戦通りで!!」
「「「「応!!」」」」
掛け声を合わせて、みんなは宣言する。
「「「「「疾風怒濤神猫戦隊! 推参!!」」」」」
初めて揃った。これが、真の結成の瞬間――。
南美は拳を握り締め、まじまじとみんなの戦いを見守る。
悟の指示通り、ゆとりが猫型の可愛らしい爆弾を五つも投げた。可愛らしいが、途轍もない攻撃力だ。大規模な爆発が起き、噛み犬たちは爆死していく。
爆発に巻き込まれないよう、サリーが一瞬だけ結界を解放する。
「いけ!!」
サリーが結界を解くと同時、みんなが一斉に駆ける。
悟はみんなより早く、速く走り抜ける。ゆとりが腕を胸の前で交差して自衛していた。
煙は未だ立ち上り、だが噛み犬の群れが見える。気配を感じる。あれだけの大規模爆撃でも、全部を一掃できなかった。数が多すぎるのだ。
悟がゆとりを守る体勢に入ると、紅子と日暮の攻撃が襲う。
紅子の匕首と日暮の弾丸が飛来する。信頼しているからこその、全力の攻撃。
「悟!! 死なないで!!」
「さとるん!!」
悟は二人の攻撃を見切って、勢いよくしゃがんでゆとりを抱き込んだ。
悟たちが二人の攻撃を避けると、二人の攻撃が噛み犬の肉体に突き刺さった。たちまち噛み犬の数十匹は禍々しい二人の刃と弾に斃れた。
紅子と日暮が悟たちと入れ替わり、二人は最前線にいく。
そして、次に跳んでくるのは……。
「くるぞ、悟……きみにとっての、最強の敵が」
「ああ……」
猫槍を頭上で振り回している、サリーだ。酷薄で獰猛な笑みを浮かべている。
「ここで死ぬがいい」
仲間に殺されそうになる絶体絶命のピンチ。紙一重で、悟は攻撃を見切った。
頬を、猫槍の切っ先が掠る。
サリーの突きを猫キックで受け流し、悟はゆとりを抱えて背を向ける。
「敵に背を向けるとは、いい度胸だな、上長!!」
攻撃を受け流されて、サリーは怒り心頭に発している様子。悟に怒りの矛先を向けているものの、噛み犬を薙いで斃していく。
サリーも跳び回り、暴れ回り、鬼神のような強さで敵を斃しまくっている。
抱えられているゆとりが、悟に憐みの視線を送る。
「悟、きみは一体、どんな怨みを買ったんだ……?」
「昨日色々とあってな……細かいことは気にしないでくれると助かる」
悟は苦笑いして、誤魔化した。
(ここまでは作戦通り……)
噛み犬はこちらを狙っているようだが、強すぎるサリーに敵わず足止めを食らっている。しかも仲間を次々に葬り去られていて、噛み犬は怒髪天を衝かれている。
紅子と日暮のコンビネーションも中々のものだった。紅子はスピード、日暮はパワー。
サリーはパワーとスピードとガードそしてスタミナに特化している。
悟が最前線で戦うより、サリーに頑張ってもらう方がよさそうだ。
悟は走りながら、そんなことを思っていた。
紅子は噛み犬を猫刀で一閃して葬りつつ、願い事のように独り言を呟く。
「もう一発くらい、爆弾が欲しいな……」
紅子の独り言に答えたのは、最前線で舞うサリーだった。
サリーが紅子の倍以上のスピードで敵を斃していく。噛み犬が反撃する隙を与えない。
「馬鹿を言うな。如何に私といえど、あいつの爆弾を直撃で食らえば、一溜りもないぞ」
喋っていると噛んだりはしないのだろうかと紅子は思ったが、野暮だったようだ。
サリーは、強く気高い女王気質の神猫だ。
日暮も銃を乱射して、敵を一遍に葬っている。紅子も負けじと刀を振るう。
「攻撃力の面でも、ゆとりの方が勝るんですか?」
「ゆーかりはてんさいだから……」
射撃の腕が上がっている日暮は、二丁拳銃をぶっ放していても喋る余裕もあるらしい。
みんなで力を合わせて、噛み犬の数を当初より半減させた。それでもまだ多い。
「ゆとりが最前線だと強いんじゃない……?」
瞬間移動しているかのような速さでサリーは跳躍し、刺し、刺し、刺しを繰り返す。
「しかしあの上長の采配だ……。これといった弱点のないゆとりにも、弱点があることはわかっているのだろう。あいつが死んだら、誰もあいつを助けられまいことのようにな」
猫銃を装填しつつ、日暮が不安げな面持ちで呟く。
「……なにがあるの……?」
それは、ゆとりだけが知っている。
みんなからある程度の距離を離れると、悟は体勢を変える。
ゆとりの頭を守るようにして後方へと匍匐前進する。
ひとまず安全を確保すると、悟は冷や汗を滝のように流し、安堵の息を長く吐いた。
「危うく仲間に殺されかけるところだったぜ……」
「きみの作戦もまだまだだな」
「確かに……」
悟は言い返すことができず、ゆとりの言葉に力なく頷く。
ゆとりは神妙な面持ちで、大事なことを話すような声音で悟を見つめた。
重苦しい雰囲気に、思わず悟は手をどけた。
「きみになら、ぼくのことを話せるな」
「……何の……」
「ぼくに弱点があるとすれば、それは寿命だ」
「寿命……? もしかして、力を使えば命を削るのか……?」
悟が訊き返すと、ゆとりはフッと笑った。
「当たらずとも遠からずだな。ぼくの力は強すぎるゆえ、神猫の寿命を縮めてしまう。神猫自体が不安定な存在だからな。ぼくの力は使えば使うほど、急速に自らの戦士生命を絶つものだ。南美司令官にも、伝えていない。ここからならば、聞こえないだろう」
「……」
神猫になった人間が神猫でなくなればどうなるのか、悟は知らされていない。
ふつうの人間に戻るのかもしれないし、神猫と共に命を落とすのかもしれない。
南美には、まだ教えてもらっていないことがたくさんある。神猫については、未だ謎だらけ。神猫との対話も、そんなに多くはない。普段はあまり出てこないのだ。
でも、ゆとりは神猫と話をしたようだし、ゆとりの命だけは助かるのだろうか。
(どっちにしろ、ゆとりが抜けたら……)
今でも辛いくらいなのに、この先どう戦っていけばいいのか。
今まで生きてこられたのは、ラッキーと言える。
いつか自分は命を落とすかもしれない。
みんなを置いて、遠い世界へ旅立つかもしれない。
紅子たちと別れる日がくるかもしれない。
神猫になるまで死を考えたことなんて、数えるほどしかなかったのに。神猫になってから、南美と出会ってから、死について深く思案するようになった。
いつ死ぬかわからないと、思うようになった。
それは、今までもそうだったのに。でも、今までとは明らかに違う。
戦って死ぬかもしれない可能性が高確率なのだ。病気ではなく、事故に遭うでもなく、敵と戦って死ぬ。そんな人生、夢にも思わなかった。
(……死んだら……どうなるんだろうな……)
遊びみたいに、復活できる保証はない。死んだら全てが終わる。
ゆとりの顔を、まともに直視できない。
「せっかく仲間になれたのに、すぐにぼくは戦力外通告を受けることになるだろうな。だが、ぼくの力を温存してくれるのなら、ぼくらは長生きできる。きみの作戦には、感謝している。ありがとう、悟」
「そうか……。いや、俺は礼を言われることはしてない。俺みたいに弱いやつが護衛に回ると、お前を酷使することになるかもしれないんだぞ」
「いいさ。ぼくの使い方は、きみが決めるんだ。リーダーなんだろう?」
「ありがとな」
悟は礼を言い、ゆとりと二人、チャンスを窺う。
紅子たちの奮戦で噛み犬たちは悟たちの元にはいけず、作戦は大成功を収めている。
ただ、ずっと全力で戦っているサリーの体力が最後まで持つのかどうか、不安ではあった。体力は確かに戦士の中で一番あるが、彼女だって満身創痍にはなる。彼女の体力が無尽蔵だったら、あんなことは起きなかった。
己の命を投げ打とうなんて愚かな考えは、ちらつかなかっただろう。
今日の戦況はどうだ。今は比較的余裕に立ち回っているみたいだが、あれだけ全力で戦っていたらラストスパートを切れるのか。
サリーは最前線で未だに猫槍をぶんぶん振り回しているし、紅子も最前線で猫刀を振るっている。日暮は彼女たちより少し離れた場所から狙撃している。
敵から反撃されることなく、忙しく動き回っている。休む暇がない。でも、このペースをいつまでも保ち続けられるはずがない。
南美は目線だけを川辺の方にやりつつ、唇に指を当てた。
「……」
女の子は食べ物を完食間際で食べられなくなることも多い。限界ではないが、限界だと感じるらしい。それは恐らく、男女の脳の違いによるものだと思う。
とどのつまり、もしかしたら限界だと感じていても、実際には限界ではないかもしれないということ。神猫に男女差があるかどうかまでは不明だ。
彼女が感じる限界が、死を覚悟するほどでもないかもしれないということだ。
(でもこれは……あくまでも憶測にすぎない……)
人間と神猫が大分違うのは、わかっている。だが、人間と共生するからには、人間の部分も少なからずあるのではないかと推測している。でなければ、人間の言葉を解する必要がない。
人間が猫寄りになり、猫が人間寄りになる。そして、己の身体に満ちたオーラを使って武器を創り出す。これが神猫。と南美は分析している。
(限界ではないと思いたい……)
でも、頑張り続けて疲れた相手に、頑張れとは言えない。
頑張っている者に、頑張れなんて言いたくはない。
けれど、どうすれば最良なのか、わからない。
南美は戦っているみんなを眺めつつ、考えを巡らせる。
(私にできることは、みんなを応援すること……みんなを見ていること……みんなを助けること……)
後方から様子を窺っている悟の真剣な顔に目を向ける。
(悟君がすべきことは、メンバーの疲労具合を見極めて、ゆとりちゃんをうまく使いこなすこと……。ゆとりちゃんの戦力は超大。でも、一人だけの力に頼りすぎると……)
失った時の重さが計り知れない。
南美は神猫の寿命の件を知らない。しかしながら、南美は一度人の死を見ている。だからどうしても死は頭から離れないのだ。
南美はそれを克服したと自分では思っているものの、できてはいない。何度も何度も同じことを考える。
頭のいい人ほど、自分のことは、わからない。自分のことは蔑ろにする。
自分の苦しみを、わからない。他者に理解してもらうしか、救いの道はないのだ。
南美はぎゅっと両手を握り締める。
「悟君、紅子ちゃん、日暮ちゃん、サリーちゃん、ゆとりちゃん……。私はいつでも、あなたたちの帰りを待っていますよ……。だから、無事に帰ってきなさい。怪我をしたなら手当をします。でも、できれば怪我もなく、疲れもないままだと私は嬉しいです」
激戦している三人に目をやり、南美は呟く。
「サリーちゃんに悟君を取られて、紅子ちゃんは凄く怒っていましたね。紅子ちゃんは悟君と両想いのはずなのに、いつも空回りばかりでもどかしいですよ。いつかは、私が邪魔してしまいましたよね、ごめんなさい。あなたの恋は、陰ながら応援しています。いつか気持ちを真正面から伝えられる日がくるといいですね」
一呼吸置いて、メンバーへの言を続ける。
「日暮ちゃんは、私によく懐いてくれましたね。あなたのことは存分に可愛がりますよ。いつでも私の胸に飛び込んできなさい。……サリーちゃんとは初めの頃、仲が悪かったですね。サリーちゃんはわかりにくいかもしれませんが、いい子なんですよ。わかり合えて、本当によかったです。日暮ちゃんは、これからもサリーちゃんと仲良くして欲しいですね」
南美はニコニコと朗らかに笑う。
「サリーちゃんとは、私は最初会えませんでした。サリーちゃんの暴れっぷりも見てみたかったですが、今のサリーちゃんはとても可愛いですね。少し丸くなってくれたようで安心しました。調教はほどほどにしてあげてくださいね。ちゃんと仲間になってくれて、よかったです。一年生ばかりのメンバーで大変でしょうけど、先輩らしく、あってください」
再び、視線を待機している悟たちの方に移す。
「ゆとりちゃんは人とお話をするようになってよかったです。捻くれていた頃のあなたは、見ていて心苦しいものがありました。あなたが悪いわけではないのに、周りが悪いわけではないのに、どうしても人間の汚さは拭えませんよね。人間は業の深い生き物です。嫌いになるのも無理はありません。でも、信じる心が少しでもあって、よかった」
目を閉じ、祈るように胸に交差させた両手を当てる。
「最後に……悟君。あなたで遊んだ時もありましたけれど、あなたは最も私との付き合いが長いですね。私もあなたを最も好いています。あなたの言葉は、いつも私を勇気づけてくれます。私があなたの母親になってもいいと思っていました。……あなたは最弱だと私は言いましたけれど、精神面ではあなたが最強です。あなたの屈強な心は、誰にも侵せない。とても強い、唯一無二の……戦士です」
力強く、目を開く。
「あなたには勲章を与えます」
彼は疾風怒濤神猫戦隊の英雄。その名に相応しい功績を残してくれる。
後ろから見ていると、俯瞰しているような心地だ。全体図がよく見える。
サリーの動きは鈍っていない。けれど、紅子と日暮の動きが次第に悪くなってきた。ゆとりを除けば最強のサリー。運動量が最も多いのに、二人は敵わない。
かく汗の量も見るからに多い。紅子は瞬発力、日暮は集中力を必要とするだろう。
神猫のキャリアも、サリーの方が長いことは明白。結界による力で、気配を消すことができるのだから。
悟は頃合を見計らい、ゆとりに合図を送る。
「みんな! 撤退だ!!」
ゆとりにやらせたのには、意味がある。ゆとりはこの中で最強の神猫だからだ。
ゆえに、他の神猫はどうしても従わざるを得ない。
三人は攻撃をやめ、じりじりと後退する。敵と目を合わせながらゆっくりと後ろに下がっていく。町中で熊に遭遇した時と同じように、敵に背は向けない。
文字通り『撤退』させるのではない。
噛み犬が一斉に襲いかかってくると、三人は一目散に逃げ出す。三方向に散り散りになって、敵を分断させる作戦だ。サリーだけを追っていると他の二人が逃げ延びてしまうから、噛み犬は紅子や日暮も追いかける。見事に三つのグループに分かれた。
それが狙い。
数が減れば、攻撃する回数も減る。
紅子はザッと砂を蹴り、腰を屈めて脚を広げる。猫刀を納刀し、瞬時に抜刀した。
紫電一閃。美しい刃の光が、尾を引くように余韻を齎す。達人のような太刀筋。
居合抜きによる神速の一太刀で、敵を一刀両断。綺麗に真っ二つに裂けた。
鮮やかな血が舞い散り、紅子はニヤと妖しい笑みを浮かべる。
「……銀燐一閃は昼夜閃く」
紅子は脚を揃えて姿勢を正す。そしてズバズバと猫刀で進撃を繰り出す。
噛み犬の反撃を華麗に避ける。決して速くはないが、それでも見入ってしまう。
刃の煌めきは、彼女の美しさによって磨き抜かれたものだとさえ、感じてしまう。
踊るように舞い、敵を蹴散らしていく。
紅い雪の中で妖艶に笑う彼女は、その名の通り紅き乙女――。
光る汗も、風の中に溶けゆく。
日暮は振り返りざまに猫銃を乱射し、悟の待つ先まで走り続ける。
何匹かは斃せたが、走りながら撃つとどうしても銃撃の精度が下がる。なので、数匹になるまで『数撃ちゃ当たる』の方式で、少しずつ数を減らしていく。
まぐれも実力のうちだ。
それに、威力は結構あるので、的に当たらなくても周囲を巻き込める。近くに紅子やサリーもいないので、二人に怪我を負わせる心配もない。
日暮の纏う空気が、ちょっとだけ変わった。
――思いっ切りやれる。
日暮は悟たちと五メートルくらいの近さまで辿り着いた。
二丁拳銃をぶっ放し、耳を劈くような音と共に敵に銃弾を注ぐ。
凶弾に溺れた敵は、その場で血を噴き出して倒れ伏す。
日暮は感情を押し殺して、猫銃を撃ち続けた。
死を最も怖がっていた彼女が、敵といえども生き物の命を奪うのだ。
彼女が、最も敵の死を悼んでいるかもしれない。心優しい彼女のことだから、きっと心の中では謝り続けているだろう。
生きるということは、命を奪うということだと。
死ぬということは、命を奪われるということだと。
彼女の中であの話に決着が着いただろうか。これが答えだ。
日暮を追ってきた最後の一匹を難なく斃すと、日暮は手の力を抜いた。
ぽとりと猫銃が日暮の足元に落ちる。もう一つ、地面にぽとりと何かが落ちた。
「……う……っ」
日暮の……目から落ちたものだ。
死んだら、こうなるのだ。これは幾度となく見てきた光景だったはずだ。だが、彼女は今まで我慢していたのかもしれない。ここが戦場だから、泣いてはいけないと。
サリーを失いかけたあの時も、すぐには泣かなかった。実感が湧かなかったのとは違うだろう。泣きたいのを我慢していたのかもしれない。
泣いたら、辛い現実を認めることになるから。辛い現実から目を背けていたのだ。
彼女は精神的に最も幼い。だから、守ってあげなくちゃいけない。
(俺が、しっかりしていなくちゃな……)
「……やっぱり、しぬのは……いや……」
日暮は握った拳の掌底で、自身の目を擦った。
いつもよりも、背中が寂しそうだった。
サリーは戦わず、指示通り撤退していた。真面目すぎるのも考え物だ。
噛み犬の群れを引きつけて、悟たちの元までやってきた。
最後はおまえが何とかしろと言いたげな顔で、サリーは不敵に笑う。
「頼んだぞ、リーダー」
「……戦えますよね……?」
悟は苦笑いしつつ、確認する。すると、サリーはムッとして、猫槍を突き出した。
「花を持たせてやろうとしているのだ。ありがたく受け取れ、プチクズが」
咄嗟に悟は避けた。が、敵よりも仲間が怖いと悟は改めて思った。
サリーは跳んで悟の後ろに立つと、悟の尻を蹴って前に押し出した。
「いってっ!」
「さっさとしろ、グズ! うすのろ! へたれ! ブサイク!」
後ろからの悪口雑言の攻撃に打ちひしがれる悟。
「ぐ……。プチクズの方がまだ可愛げがある……」
噛み犬と対峙する。噛み犬は襲ってくる様子ではない。こちらの出方を窺っていた。
「はは、悟は苦労人だな」
「私が上長を苦労させているとでも言いたいのか?」
「きみが一番悟を困らせているとぼくは思うが」
悟が噛み犬と暫時睨み合っていると、二人がこちらに駆け寄ってきた。
悟に弾が当たるので、日暮は手を出せない。かと言って、紅子が猫刀を振るえば、せっかく見せ場を譲ってくれたサリーに申し訳ない。
ここは、一人で何とかするしかない。
「悟頑張って!」
「ふぁいおー」
「頑張れ悟」
「精々励むがいい」
悟は頷いて礼を言う。
「ありがとう、みんな」
悟が猫パンチを突き出せば、敵は避ける。悟の攻撃なんて他のみんなに比べれば屁も同然のように軽々と。
しゃがんで足を引っかけるように回し蹴りをすれば、敵は避けられずにつんのめる。そうしてバランスを崩した噛み犬を、次々と猫キックで粉砕していく。
(……まあまあだな……)
猫キックが当たらなかった噛み犬は、悟に反撃を仕掛けてくる。長い爪が眼前に迫る。
頭を使って敵の動きを予測し、反撃をのらりくらりと躱していく。
酔拳のような動きだ。一見何も考えずに動いているように見えるが、そうではない。鈍重そうに見えるこの動きでも、計算されている。敵の攻撃を躱す、無駄のない動きだ。
反撃してきた噛み犬を、飛び蹴りで返り討ちにする。
悟と噛み犬の戦いは、あまり血が舞わない。悟は刃物を持たないからだ。
相手がボコボコになるか、自分が傷だらけになるかのどちらかだ。
斃された噛み犬の影に隠れていた噛み犬が、グワッと爪を伸ばす。
死角から現れた魔の手を、悟は間一髪で避けた。髪の毛が犠牲になる。
「ち……!」
噛み犬の前脚を掴んで、前に向かって放り投げた。
残り三匹。悟は最後まで肉弾戦で戦い抜く。
その後も何度か攻撃を食らいかけたが、何とか無傷で生還した。
「「「「「疾風怒濤神猫戦隊! 討伐完了!」」」」」
全部を斃し終わった後にみんなで宣言したら、五人が悟に向かって走ってくる。
「悟君!! 見ていましたよ!!」
一番乗りはゆとりだった。紅子はまたも一番を取り損なって、ゆとりに代わってと大声で懇願していた。でも、ゆとりは勝ち誇った笑みを浮かべて、悟の首に抱きついていた。
膨らみがないせいか、悟の胸はあまりときめかなかった。
「断る。今日はずっとぼくが悟のものだから、紅子はまた今度」
「何でいつもわたしだけ……!」
紅子がめそめそと泣いていると、その隙に日暮が乱入する。
二人して悟の頬に口づけをした。両側から天使のような容貌の甘いキスが贈られる。
「「ちゅっ」」
「……!」
身体的接触による喜悦はない。でも、これは別だ。
可愛い女の子たちにキスされて、喜ばない男はいない。自分に好意的な人物なら、尚更のこと、嬉しくなるに決まっている。
こんな幸せなことがあって、いいのだろうか? 今日が命日とか、悲しいことにはならないだろうかと悟は内心焦っている。
モテなかったのが嘘のようだ。最近、モテすぎている。
「悟。ご褒美だ」
「ごほーび。さとるんからも……。ん」
日暮が目を閉じる。頬にキスを返すはずなのに、何故目を閉じるのかは謎だ。
しかし、キスを強請られても、悟にキスを返せるような甲斐性はない。
「あああああああ!! 日暮!! ゆとりぃ! 裏切り者ぉおおお!」
静かだった紅子が突然、頭を抱えて絶叫する。
サリーは紅子を押し退けて悟の前に立った。顎に手を当てて、男前に命令する。
「ふん。私からも何かやらねばならんのか。仕方あるまい。目を閉じろ」
「ぅえ……」
サリーのことは嫌いではないが、強引で束縛する女子は苦手だ。全てが可愛くても。
更に、後ろから抱き締められ、たわわな胸を押しつけられる。この大きさ、この弾力、この温もりは、どう考えても南美だ。
ほんのりと香水も香ってきて、大人の色香に惑わされる。脳が麻痺してしまいそうだ。
「悟君……」
「は、はい……」
「上長。早く目を閉じろ。女を待たせるな。据え膳食わぬは男の恥だぞ」
「いいですか……? 流れに身を任せるんです……」
耳元で心地のよい声で囁かれ、悟の羞恥心は頂点に達している。
背伸びをして目を閉じたサリーの、麗しい唇が迫ってくる。
(うぉぉ、逃げられない……!)
心臓がバクバクと張り裂けそうになる。硬直してしまって、悟は動けない。
「さとるん、ちゅっちゅ」
「悟、ぼくたちのこと忘れてないかい?」
「……甘噛みは、好きですか?」
前門の虎、横門の天使、後門の狼。
どう足掻いても勝ち目のない戦いが、ここにはあった。
「待てーい!!」
紅子の滑稽な制止の声がかかる。両手を広げ、血走った眼で息を荒げていた。
「何だよ。何か文句あるのか?」
それには、ゆとりが答えた。
紅子はうがーっと感情を爆発させてから、地団駄を踏んで暴れる。
「わたしを置いて、悟に悪戯すんなっ!! ずるい、わたしも混ぜてよー! わたしがやりたかったことを、何で、わたし抜きでやるかなぁ!? 何でかなぁ!? 何がしたいの、ねえ!! わたしいじめて楽しい? 鹿野紅子はいじめられっ子じゃありませんよーっだ!!」
紅子の本音は、悟に思いっ切り聞こえている。仲間外れにされて拗ねている。
紅子が何だか日暮たちよりもこどもみたいで、悟は失笑した。
「そんな笑わないでよ!」
「や、だって……。紅子が……。あの紅子がさ……」
サリーはわなわなと震えていた。静かに怒っている様子だ。
「おまえの唾が私の顔にかかったんだが。どうしてくれる?」
「あ、すみません……」
「許さん。調教してやる」
「ぐぇえ」
ぶち切れたサリーに首を絞められ、悟は息が止まりかける。
悟の服の上を南美の手が這い、腹の辺りに触れる。悟の中の何かがズグンときた。
こそばゆいような、気持ちいいような……何とも言い難い衝動が悟の中を駆け巡る。
「駄目ですよ、サリーちゃん。悟君が死んでしまいます」
「知るか。こんなやつ、死ねばいいのだ」
サリーは頬を膨らませて、犯罪的な行為を続ける。可愛いのに怖い。
蛙の鳴き声のような声で、悟は抗議した。顔が青ざめる。
「ごろざぬぁいで……ぐだざぃ……」
「悟ぅ」
理不尽にもサリーにビンタされて、腹を蹴られて解放された。
相変わらず暴力的で唯我独尊な女王様だ。気まぐれなところも猫っぽい。サリーは紅いツインテールを揺らして去っていった。悟はサリーを嫌いになりそうだ。
紅子が悟の元に寄った。悟は平静を装って、返事をする。
「ゲホッ、何だよ……」
紅子は困ったような顔で、頬を染める。目線が左右へ動く。
「大きい方が、好きなの?」
「ぶほっ!!」
何のことかと聞くまでもなく、紅子の問いが何を示しているのかわかった。
天使、もとい日暮とゆとりの二人はがっかりしている。
「そうなのか?」
「だから、ひーたんたちをいろめがねでみない……」
悟は後頭部を押さえて、目を泳がせた。
「いや、そうだったっけ……? 日暮にはちょっとやられた記憶が……」
「でも、ないよりある方がいいですよね、悟君」
「あったらいいよね、悟」
再び、前門の虎、後門の狼。悟は焦りに焦った。答えられるはずがない。
言い淀んで誤魔化し切ろうと思って、苦笑する。
「俺に振られてもな……」
(第一、女子の前でそんなこと……)
女子が、おまえはどっちが好きなのと訊いてきて、どう答えるのが正解だろうか。
そもそも、正解はあるのだろうか。
どう答えても、どう転がっても、展開は決まっているではないか。
となると……
「逃げるが勝ち、だな」
強烈な誘惑の世界から飛び立つことを決意した。真に遺憾ながらも、この世界に居続けるのは、精神的にも衛生的にもよろしくない。さっさと翼を広げて飛び立とう。
悟は甘い香りの漂う桃源郷から全力疾走し、逃れた。
紅子たちが何事かを叫びつつ追ってくるが、振り向いたら二度と戻れない。
度胸を試されている。
リーダーとしてどうあるべきか、メンバーとどう接すべきか試されている。
これからもやっていきたければ、そういう色事は避けなくてはいけないだろう。
そんなことに現を抜かしていいのか。これは夢だ。そうに違いない。
悟は涙を呑む思いで、みんなからの積極的なアプローチを振り切った。
悶々と考え込み、そうこうしているうちに、自宅まで逃げ延びた。
インターホンを押したら、間もなく父がドアを開けてくれた。
父は、穏やかな笑みを浮かべている。
「おかえり悟」
「ただいま……」
父の顔を見ると、悟は安心する。日常に戻った気分だ。
父は不審げに悟を見つめた。
「そんなに汗をかいて、どうかしたのか?」
「……追っかけられてた」
追いかけられていたというより、迫られていた。
追いかけられたのは、その後。追っ手もうまい具合に撒けた。
父は顎に手を当てて、ニヤリと笑んで勘繰る。
「高校生になって、ファンでもできたのか。お前は、いい子に育ったからな」
「父さんのおかげだな。でもあれは違うな……」
父の嬉しい考えを、悟はやんわりと否定する。
「何なんだ?」
悟は白い歯を零す。
「切磋琢磨し合える、いい友達……かな」