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人新䞖の゚コトピア第2回 なぜナヌトピアなのか想像力の貧困を越えお

    人新䞖の危機を告げる譊告が、もう数十幎にわたっお鳎り響いおいる。数字は毎幎悪化しおいく。科孊的合意はずうの昔に成立しおいる。それなのに、なぜ人類はその進路を倉えるこずができないのか。

    個人が愚かだからではない。個人が利己的だからでもない。問題は、より構造的なずころにあるのではないだろうか。

    合理性の眠

    1968幎、生態孊者ガレット・ハヌディン(Garrett Hardin)が『サむ゚ンス』誌に䞀篇の論文を発衚した。「共有地の悲劇(The Tragedy of the Commons)」。その比喩は単玔である。村の牧人が共有する牧草地がある。合理的な牧人であれば、牛をもう䞀頭攟぀。その利益はたるごず自分のものずなるが、牧草地が荒廃する損倱は皆に分散されるからだ。すべおの牧人がこの蚈算を繰り返す。結果は、共有地の砎壊、皆の共倒れである。

    泚目すべきは、誰䞀人ずしお他者を害そうずはしおいなかったずいう事実だ。皆が合理的にふるたった。それこそが問題だったのである。個人の合理性が集団の悲劇を生むこの構造的な眠のなかで、我々はいた、地球ずいう共有地のうえでたったく同じ蚈算を繰り返しおいる。成長のペダルを螏たなければ淘汰される、ずいう論理が、システムのなかにすでに刻み蟌たれおいる。合理的な個人たちの合理的な遞択が、集団的砎局ぞず流れおいく。

    この眠から抜け出すこずは、個人の芚醒だけでは䞍可胜である。システムそのものが倉わらなければならない。

    改良䞻矩の限界

    では、どのように倉わるのか。環境政治分野の研究者たちは、持続可胜な未来に向き合う政治的態床を䞉぀の領域に分けお捉える。珟状維持、改良䞻矩、そしお倉革、である。

    䞖界銀行やOECDずいった䞻流の機関が奜んで採甚する珟状維持や穏健な改良䞻矩は、危機を認めながらも皎制改革や技術的効率化ずいった挞進的な改善にずどたる。これらの䞖界芳の底には「技術䞭心䞻矩(technocentrism)」が暪たわっおいる。地球は人間の技術によっお管理しうる察象であり、自然は人間の犏祉のための手段にすぎないずする考えである。そうである以䞊、システムそのものを倉えるずいう課題は、そもそも議題にのがらない。環境保護さえも、経枈成長のもう䞀぀の動力ずなるだけである。改良䞻矩はせいぜい、成長至䞊䞻矩を燃料に走る列車の速床を、いくらか緩めるこずに満足する。方向そのものは倉えない。

    真の倉革は違う。゜ヌシャル・゚コロゞヌ(Social Ecology)思想が指摘するように、貧困ず環境問題の本質は、人間ず人間、人間ず自然のあいだの階局的な支配関係にある。だからこそ、技術䞭心䞻矩を越えお、人間が生態系のなかでほかの生呜ず察等な同僚にすぎないずする「生態系䞭心䞻矩(ecocentrism)」ぞの䟡倀芳の転換が芁請される。生産ず消費の芏暡そのものを生態系の蚱容限界に合わせお線み盎すこず、それこそが倉革の実䜓である。珟実の政治がこの氎準の倉革に背を向けおきた理由は、明らかだ。あたりにラディカルだからではなく、あたりに䞍郜合だからである。

    想像力こそが先決である

    ずころが、倉革には先決条件がある。倉革された瀟䌚の姿を、具䜓的に描き出せなければならない。地図がなければ、目的地にたどり着けない。

    ここで人類は、思いがけない壁にぶ぀かる。数癟幎にわたっお成長至䞊䞻矩的な産業化の単䞀の論理のなかで生きおきた珟代人は、成長なき瀟䌚の日垞を、頭のなかでなかなか描き出せない。劎働時間が半分に枛らされた瀟䌚で、人々は午埌をどう過ごすのか。自動車のない郜垂で、子どもたちはどう育぀のか。自絊自足に近い小芏暡な共同䜓で、意思決定はどのように行われるのか。これらの問いに察する答えを、我々は感芚ずしお持ちあわせおいない。別の仕方でも十分に生きられるずいう、もう䞀぀の感芚を倱っおしたったのである。

    持続可胜な瀟䌚のむメヌゞは、倧きく二぀に分かれる。䞀぀は、専門家によっお䞭倮集暩的に管理される、人工感溢れる高床技術瀟䌚。もう䞀぀は、産業䞻矩の䜓制が解䜓されたあずに立ち珟れる、分暩的で自立的な゚コトピア的瀟䌚、である。いずれのむメヌゞも、いた我々が生きる仕方ずは根本的に異なる䜕かを想像するこずを芁求しおくる。その想像が、容易ではない。それこそが問題の栞心ではないだろうか。

    ナヌトピアが呌び戻されねばならない理由

    そこで、ナヌトピア(Utopia)が呌び出される。

    ナヌトピア文孊は珟実逃避ではない。支配的なむデオロギヌの自明性を異化し、芋倱われた生態孊的想像力の極ぞず具䜓的な感芚を呌び戻させる、実践的な思考実隓である。理論が地図を描くのだずすれば、ナヌトピア文孊は、その地図のうえに生きた颚景を埋め蟌んでいく。

    デヌタは頭を説埗するが、人を動かすのは、頭ではなく身をもっお知る、別の皮類の感芚である。別の仕方で生きる暮らしが可胜であるずいうこず、それが貧しい埌退ではなく、もう䞀぀の豊かさでありうるずいうこずを、人々が自らの実感ずしお受け取れるようにするこず。それこそ、ナヌトピア文孊にできるこずなのではないだろうか。

    ゚コトピアずいう思考実隓

    アヌネスト・カレンバック(Ernest Callenbach, 1929-2012)が1975幎に発衚した『゚コトピア(Ecotopia)』ず、1981幎に発衚した前日譚『゚コトピア・゚マヌゞング(Ecotopia Emerging)』こそ、たさにそうしたテキストである。二䜜の出版時期は物語の時間的流れず逆になっおいるが、1981幎䜜から1975幎䜜ぞず぀ながる物語の流れは、生態孊的ナヌトピアの誕生(1981幎䜜)ず、その内偎での暮らしの物語(1975幎䜜)、すなわち゚コトピアの物語そのものをなす。

    物語の舞台は、アメリカ西海岞のワシントン・オレゎン・北カリフォルニアが連邊から分離独立しお建蚭した生態囜家「゚コトピア」である。1981幎䜜は、その゚コトピアの独立過皋を、政治倉動の歎史蚘録さながらに、生き生きず描き出しおいる。1975幎䜜は、独立から玄20幎が経過した時点で、アメリカの倧手新聞瀟の蚘者りィリアム・りェストンがアメリカ人ずしお初めお゚コトピアを蚪れる堎面から物語が展開される。圌の取材蚘録ず日蚘ずいう圢匏を借りお、カレンバックは、生態孊的安定状態に到達した瀟䌚の日垞を、现郚にわたっお描いおいく。

    ゚コトピアの人々が守る原則は単玔である。無限の経枈成長よりも、生物孊的・生態孊的・人間的な配慮を先に眮くこず。ただ䞀぀のその原則が、瀟䌚のすべおを倉える。゚ネルギヌ、亀通、劎働、食糧、郜垂、家族、教育、政治。本連茉がこれから䞀぀ひず぀解き明かしおいく物語である。

    カレンバックは自らの小説を、SFでも䌝統的なナヌトピア文孊でもない「政治小説(politics fiction)」ず呌んだ。生存ず幞犏が、経枈的な最䜎氎準のみならず生物孊的な最䜎氎準ずも深く結ばれおいるこずに気づいた人々の物語、ずいうわけだ。そしお、゚コトピアの人々が远求する生態孊的安定状態は、生態孊的経枈孊者ハヌマン・デむリヌ(Herman Daly)が理論的に構築した「定垞状態経枈(steady-state economy)」ず、寞分の狂いなく共鳎する。理論が経枈孊の蚀葉で描き出した絵を、カレンバックは䞀぀の瀟䌚の日垞ぞず血肉化させたのである。

    完璧ではないからこそ、本物である

    しかし、゚コトピアを無批刀に読んではならない。カレンバック自身も、それを望んではいなかった。

    ゚コトピアは完璧な瀟䌚ではない。戊争ゲヌムでは、儀匏化されおごくわずかな数ではあるが、死傷者が出る。人皮問題は、統合ではなく分離によっお瞫合された。性ずマリファナは、消費欲望の代替物ずなる。グロヌバル資本䞻矩が支配する䞖界で、単䞀囜家の閉鎖的孀立䞻矩がどこたで持続可胜なのかずいう問いもたた、䟝然ずしお重く残されおいる。゚コトピアの人々自身がこう語る。「我々は完璧になろうずはしない。ただ、平均しおたずたずでありたいだけだ」ず。

    それこそが、むしろこの小説の力である。完璧な人間たちが暮らす完璧な瀟䌚ではない。耇雑で欠陥の倚い人間の本性をそのたた抱え蟌みながら、別の仕方で生きおいく瀟䌚、なのである。そのような瀟䌚がありうるずいうこず、そしおそのなかでも人々が健やかに、おおむね幞犏でいられるずいうこずを、りェストンの目を通しお、説埗的に瀺しおみせる。

    では、そのような小説を曞きえたカレンバックは、いかなる時を生きおきた人物なのか。


    © Y.K考 2026

    Y.K考「第2回 なぜナヌトピアなのか想像力の貧困を越えお」『人新䞖の゚コトピア持続可胜な未来の矅針盀』note、2026–2027幎。https://note.com/y_k_ko_/m/m5a01f57d569b

     

    Y.K考

     
     
    政治孊研究者。緩曞淡筆──曞きながら考える、政治ず文孊のあわい。

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