
私はあの頃、確かに愛されていた
夫が、突然「幼稚園のアルバムが見たい」と言い出した夜がありました。
その日、夫は地元の友人たちと会って帰ってきたばかりでした。懐かしい話でもしたのでしょう。押し入れの奥からアルバムを引っ張り出してきて、「あの頃はさ」と笑っていました。
その流れで、私も自分のアルバムを探しました。
結婚するときに整理した、小さなアルバムが数冊。
「こんな感じのアルバムだったっけ」と思いながら開くと、そこには2、3歳頃の私がいました。
小さな遊園地のような場所で撮られた写真でした。
祖父母に叔父叔母。みんな若くて、楽しそうに笑っている。そして、どの写真を見ても、大人たちが私を見つめていました。
その目が、とてもやさしかったのです。
特に祖父の表情から、目が離せませんでした。
私は祖父のことを、「いつもお酒を飲んでいた人」として記憶しています。
晩酌が進むと、「あとちょっと入れて」と何度も言う人でした。
子どもの頃は、その姿が少し苦手でした。
でも、写真の中の祖父は、静かに私を見つめていました。
まるで宝物を見るみたいな顔で。
その瞬間、胸の奥が急に苦しくなって、泣き出しそうになりました。
ああ、この頃の私は、ちゃんと愛されていたんだなと思ったのです。
もちろん、当たり前に愛されて育ったはずです。
でも、大人になると、それを“事実”として実感する機会は意外と少ないのかもしれません。
家族にもいろいろなことがあります。
時間が経てば、関係も変わります。
あの頃のように、みんなで集まることはもうありません。
祖父も、もう会えない場所へ行ってしまいました。
だからこそ、写真の中に残っていた「まなざし」が、こんなにも胸に鷲掴みにしたのだと思います。
祖父は、お酒を飲んでいないと、ほとんど喋らない人でした。
でも私は、酔っていない時の祖父が好きでした。
隣に座って、一緒にテレビを見る。
折り紙を折る。
お絵描きをする。
会話はほとんどありません。
それでも、不思議と安心感のある時間でした。
そして祖父は、必ず絨毯の裏から千円札を取り出して、私にこっそり渡してくれるのです。
「いいの?」
「ありがとう」
そう言うと、祖父は「おお」とか「うん」とか、それくらいしか返しません。
でも、あれはきっと祖父なりの愛情表現だったのでしょう。
今ならわかります。
帰り際は、必ず握手でした。
しかも大抵、祖父はかなり酔っています。
思春期の頃の私は、それが本当に恥ずかしくて、顔も見ずに握手していました。
早く帰りたいと思っていた日もあります。
でも今振り返ると、祖父はずっと同じように、私との別れを惜しんでくれていたのかもしれません。
人は、失ってから気づくことがあります。
もっと話しておけばよかった。
もっと優しくできたかもしれない。
あの時間は、思っていたよりずっと特別だった。
そんな後悔にも似た感情は、きっと誰の中にもあるのだと思います。
でも同時に、写真というのは不思議です。
忘れていた愛情まで、一緒に残してくれている。
アルバムを開いたあの夜、ひとつだけ確かに思えたことがありました。
私は、たくさんの人に囲まれて、愛されながら笑っていた瞬間があったということです。
あの頃の家族の形はもう戻らないけれど、それでも特別で尊かったあの時間は私を形成するひとつとなっていたのです。
写真は、忘れていた記憶より先に、愛情のほうを思い出させることがあるのかもしれません。
今は、その思い出した愛情と記憶をもう忘れたくないと思うのです。