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俺、何やってんだ?

    あらすじ


    2022年11月16日。
    建築士・桐山和也は末期肝硬変で緊急入院する。

    仕事と酒|ワーカーホリックにアルコール依存症
    白い天井を見上げながら「俺、何やってんだ?」と呟いた夜。
    三ヶ月前に癌で逝った親友・河野聡への想いが溢れた。
    死の淵から生還した桐山が向き合ったのは、自分が失ってきたものだった。

    「本当のお前の人生を生きているか?」
    二人の合言葉は「ニヤリだ!」
    窮地こそ転機の兆候。
    50代の男が、本心に辿り着くまでの物語。【全六話】

    第一話「既読」


    「このままだと、死にますよ」

    その言葉だけが、俺のこの靄がかった脳にハッキリ残っていた。

    ただベッドに横たわっている俺は、天井を見上げるしかなかった。
    俺の視界が白い。
    いや、そうじゃない。
    見上げていた天井が、ただ白く俺の目に写っていただけだ。

    なんだろう、意識が戻ってくる感覚ってやつは ・・・・
    水の底から、ゆっくりと浮かび上がるような、そんな感覚なのだろうか。
    別に俺は、気を失っていたわけでもなくて。

    ただ、俺の目はいま開いているのか?
    それとも思考と共に閉じてしまっているのか?
    ボーっとした俺の意識は、いつからこんなに霧がかかっていたのだろうか?
    よく覚えていない。
    そんな茹でガエルみたいな俺は、無抵抗なまま視点を天井に置いている。
     
    左腕に点滴が刺さってる。
    ポタっ、ポタっと、、、
    細いチューブが伸びて、透明な液体が心地よい訳でもなくリズムを刻んで落ちてる。

    俺は今日、緊急入院した。
    そしていま、病院のベッドで寝てる。

    医療機器とか、なんやらの音が、病室や廊下に鳴り響いていた。
    誰かの命を繋ぎ止めるために、
    俺の命を、繋ぎ止めるために?
    俺は天井を、見上げていた。
    その天井が、ただやたらと白く見えていた。
    気のせいだろう、なんとなく冷たくて、無機質にただ、視界がぼんやり白かった。
     
    俺はゆっくりと、昨日の記憶を思い出していた ・・・・・
     

    ・・・・・ 近所の胃腸科クリニックの検査台の上から、そこからの急転直下の出来事だった。

    薄手のガウンで一枚。
    カーテンで仕切られた狭い空間の中、横たわっていた。
    体調に異変を感じておよそ四ヶ月もの間、医者を転々として、「いよいよ残すは大腸検査」という話になったのが先週のこと。
     
    看護師が「では始めますね〜」と言った。
    点滴から麻酔が入ってくる感覚は気のせいだ。
    温かい液体が血管の中を流れていくような妄想と共に眠っていた ・・・・・
     
    ・・・・・ しばらくして
    「桐山さん、終わりましたよ。桐山さんっ」
    トントンっと軽く肩を叩かれて、
    看護師の声が、暗闇の遠くから届いた。意識が戻ってきた。
    回復室のリクライニングチェアに横たわる。
    カーテン越しに別の患者の気配がした。
    とりあえず無事検査が終わった、、、そう思った瞬間だった。
     
    頭がぐらぐらとまわり、冷や汗とともに吐き気のような気持ち悪さが、せり上がってきた。

    「桐山さん、大丈夫ですかっ?」と看護師の声がする。
    大丈夫じゃなかった。「いや、ダメかも、、、」
    その途中で、うっすら聞こえた。「先生っ、黄疸……」看護師の声だ。
    一気に周りの音も声も遠くなって、そのまま意識が飛んだ。
    俺の視界は暗くなった。
     
    次に気づいたとき、脇腹に冷たいものが触れていた。
    ゆっくりと、静かに動いている。遅れて理解が追いつく。
    超音波エコーのジェル、だった。
     
    「あっ!起きた?」クリニックの先生の声だ。
    「う〜ん、肝臓だね、、、かなりヤバいと思うよ」と続けた。
    その先生の専門外だからか、断定は避けていたようだったが、肝臓がヤバい事は理解できた。
    四ヶ月間、分からなかった答えが、ほぼここでハッキリした。
     
    「詳細の採血結果を今日中に出すよう手配して紹介状を書くから、明日朝一番でココに寄って、この総合病院にそのまま行ってください。あと——入院する準備もね」
     
    「あ、はい……」

    帰り道、妻のゆり子に電話した。
    「明日、入院になるかもしれない」

    受話器の向こうで、一瞬、沈黙があった。
    「うん……分かった」

    それだけだった。
    ゆり子はいつもそうだ。
    「えっ!」とも「なんで?」とも言わない。
    ただ「分かった」と言って、受け止める。
    その「分かった」の重さを、俺はいつも後になってから気づく。
     

    ・・・・・ 翌朝、総合病院の消化器科。
    診察室に、俺とゆり子と医師の三人が座っていた。
    白衣の医師、木村先生は、おそらく一回り以上も若い。
    淡々としていたが、丁寧で感じのいい先生だった。
    机の上のカルテをしばらく見て、それから俺の顔を、まっすぐに見た。
     
    「非代償期の肝硬変です。お酒、結構飲まれます?」
    その問いに夫婦で「はい」と医師の問いに被せるように深くうなづいた。
    紛れもなく、アホみたいに飲む飲兵衛だったから。
    「アルコール性ですね。非代償期と言って、いま肝臓の機能が止まっていて、かなり悪化している危険な状況です。今の黄疸も浮腫もそのせいです。」
     
    酒が原因なのは明白だったが、説明された内容の詳細までは、半分も頭に入らなかった。理解が追いつかない。それでもヤバさは十分に伝わっていた。
     
    そして、
    「このままだと、死にますよ···」
    医師の言葉は、淡々としていた。

    一瞬、診察室の時間が止まった。

    医師も、ゆり子も、沈黙の間というのだろうか。

    そして医師が、「入院する準備って、、、」
    「できてます」と俺は、答えた。

    そして医師が、もう一言
    「よくここまで頑張りましたね」

    そのとき俺の目から、涙が溢れていた。
    止まらなかった。
    死が怖かったわけではない。
    悲しかったわけでもなく、泣いていた。

    倒れない建物を設計してきたはずの一人の建築士が、
    自分の身体に、全壊判定を受けた瞬間だった。
     
    ・・・・・ 入院の手続きを終えたゆり子は、病室のドア口で振り返った。
    「じゃあね、頑張ってね!」
    笑顔だった。

    でも、その目の奥に、ぎゅっと押し込んだ何かがあるのを、俺は見た。
    不安げな、それでいて優しい、あの顔。長い付き合いだから分かる。
    あの笑顔の裏側に何かゆり子なりの覚悟を感じた瞬間だった。
    でも今の俺には、何も言葉が出なかった。出せないでいた。

    「ああ」
    それだけ答えた。
     
    ゆり子は、病室を後にした。
    足音が遠ざかって ・・・・・
     
    代わりに、病室のカーテンが何度も開いた。
    消化器科の主治医、精神科医、薬剤師、看護師 ・・・・・ シャー、シャーっとカーテンが鳴り、入れ替わり立ち替わり、やってくる。
    俺ひとりの命を繋ぎ止めるために。
    モヤのかかった頭に、次々と問診が続いて、治療方針やスケジュールが叩き込まれていく。
    覚えられるはずもなく、ただただ頷くだけだった。
     
    静かになった。
    一人になった。
    天井が、白かった。
     
    γ-GTP値は、1000を超えていた・・・
    後で看護師からもらった採血結果の数字が、たくさんのNGを示していた。
    数字に強いはずの俺が、その数字と判定だけは受け取れなかった。

    ・・・・・ 昨日の夜も、飲んでいた。
    酒が原因だって分かっていたにも関わらず、冷蔵庫にあったハイボール缶を全部飲んだ。
    「明日こそ最後にしよう」
    何度、そう言ってきただろうか。
    そして、こんな事態になってもまだ飲んでいた。
    一滴残らず、飲み干した俺は本当に馬鹿だ。
     
    ポタ、ポタ、ポタ、と。
    点滴が、一滴一滴落ちていた。
    俺は天井を見上げたまま、動けなかった。
     
    「俺、何やってんだ?」
     
    最初に浮かんだのは、仕事のことだった。
    死ぬかもしれない。
    そう言われたばかりなのに、真っ先に思い出したのは、来週月曜の定例会議だった。
    我ながら、終わっていると思った。
    でも、もうここまで来たら降参するしかない。
    俺は取り敢えず、自分の命と向き合うこととし、仕事のことは諦め切った。
     
    そういえば、部下に「桐山さんって、オフってあるんですか?」と笑われたことがある。
    笑って誤魔化していた。
    仕事のやりがいそのものが全てだと思っていたから。
    休日、朝から酒を飲みながら仕事をすることに清々しさを感じていたから。だから俺にとってはオンとオフとかなんて定義はとっくの昔に崩壊していた。
    設計士として、部長として、それだけでいれば、何も考えなくてよかった。
     

    ・・・・・ 次に浮かんだもの。
    それは、仕事のことでも部下のことでもなかった。
    同僚の「聡(さとし)」のことだ。
    同い年の親友でもあった。
    あいつが死んだのは、8月16日だった。
    でもって、今日は、 11月16日だった。
    不思議なものだ。
    ちょうどピッタリ3ヶ月後の、同じ16日だなんて。
     
    聡は、食道癌だった。

    今年の二月に発覚して、半年で旅立った。
    ステージ3だった。
    癒着がひどくて手術ができなかったらしい。
    それでも、アイツは抗癌剤治療で頑張っていた。

    闘病中なのに、チャラけたあいつは、頭を丸めてLINEで写メを送ってきた。
    そのとき、俺は、ちょっと前にバリカンで丸坊主にした時の写メを送り返した。
    あいつは「ああ、これか笑、人相が俺と一緒じゃねーか笑!」と返してきた。
    頭じゃなくて人相かよ、、、と思いつつ、あいつなら大丈夫って信じていた。
     
    聡の闘病が始まって3ヶ月くらい経った頃、今度は俺の体調がおかしくなっていた。
    なんとなくの倦怠感、翌日の酒抜けも極端に悪くなっていた。
    毎日酒で寝落ちしていたのに、眠れなくなった。
    酒も不味く感じ始めてたのに、毎日飲んでいた。
    さすがにこの睡眠障害は、仕事の支障をきたした。
    寝るためにさらに酒量が増えた。
    それでも朝早くに覚醒してしまっていた。
    とは言っても聡の闘病と比べたら、こんなの弱者の戯言だと気張っていた。
    いま思えば、その頃の俺は俺を全く労わってなんていなかった。

    俺は、闘病中の聡に事実を伝えた。
    「ちょっと最近体調イマイチなんだよなー」とさらっとLINEを送った。
     
    聡のレスポンスは早かった。
    流石、やり手の営業マン!いや、でもごめんな、と思いつつ、メッセージを読んだ。
     
    「酒はやめろ、オレになる」
    「仕事忘れてあっつい風呂入って寝ろ」
    「あんな奴らの事で体調崩すな、頼む」
     
    自分が死にかけているのに。
    髪が全部抜けて、食えなくなって、それでも俺のことを心配して、送ってきた。
    まさか大酒飲みの聡からの「酒やめろ」だった。
    命がけのアラートだった。

    俺はそれを、受け流してしまった。
     
    そう言えば入院当初「来るな」とも書いてあった。
    「見舞いに来るな。絶対治して戻るからこなくていい」と。

    いつもアイツは、アイツらしかった。
     
    河野聡と出会ったのは、およそ15年前。
    中途採用の同期として、同じ会社に入った。
    お互いに36歳。
    二人とも活力でみなぎっていた。
    ギラついていて、当初なんとなくお互いに牽制しあっていた感はあった。
    きっとあいつもそう感じていたはずだ。
    そんなまだ面識が浅い時期、廊下ですれ違いざまに、俺は少しイキったトーンで声をかけた。
     
    「今度行きましょうよ」
    手をクイっとやって、

    そして、追い討ちをかけた。
    「基本、ジブン断らないんで」
     
    すると聡は・・・・・
    ニヤリ、と笑った。
    望むところだとばかりに。
    「おぉ、だったらお前、今日付き合えんのか?」
     
    その晩に行った。そこからだった。
     
    俺は設計。
    あいつは営業。

    部署は違えど、理不尽なプレッシャーが飛び交う修羅場で、お互いの背中を預け合える唯一無二の戦友だった。

    「オレはたかが一兵卒だけどさ」
    それが聡の口癖だった。

    そう言いながら、誰よりも熱く、誰よりも重い責任を一人で背負っていた。
    「よ〜兄弟っ!」と言って、俺のことをいつしか兄弟としか呼ばなくなっていた。
    そうやって愚痴を溶かし合いながら、俺たちはあの会社を生き抜いてきた。
    ここまで深く語り合える同僚は、聡だけだった。
     
    死の淵に立って、最初に浮かんだのが聡の顔だということに、俺は少し遅れて気づいた。

    「聡、迎えにきたのか?」

    冗談ではなく、一瞬そう思ってしまった。
    あいつが逝って3ヶ月後の同じ16日。
    あまりにも出来すぎている。
     
    いいや、でも・・・・・違う。
    それなら、それは逆だ。

    聡は「こっちに来るな」と言っている、と悟った。

    酒で誤魔化して逃げ続けて、ボロボロになってここまで歩いてきた俺を、ギリギリで突き飛ばして強制終了させたんだ。
    「オレになるなと言っただろ」と都合よく勝手に解釈していた。
     
    「 河野 聡 」

    無意識に、LINEで聡の名前をタップしていた。
    そして、あいつとのトーク画面を開いている。
    涙を拭いながら懐かしさに遡ってスクロールしていた。

    今朝、診察室で泣いたばかりじゃないか。
    と、思いながら、、、
     
    あいつの最後のメッセージは、梅雨明けすぐのやたら暑い7月末だった。
     
    「・・・待ってろ!」
     
    それが、最後の言葉だった。
    無事に復帰したら渡したいものがある、そんなことも言っていた。
    だから待ってろ、と。ただ、このメッセージの2週間後、聡は旅立った。
    その「渡したいもの?」を聡は天国へ持っていってしまった。
    しばらく、その画面を見つめていた。「河野聡」という名前と、「待ってろ」という文字を。
     
    聡が逝ってからも、俺は一方通行のLINEを送っていた。

    既読になる訳でもなく、我ながら、可笑しなことをやっている事は自負していた。
    でも、なんとなく、いつもどこかで見てくれているんじゃないかって、既読にならないLINEに3ヶ月送り続けていた。
    もし、聡の家族が見ていたら恥ずい···なんて思いつつも、近況を送っていたのだ。
    当然、既読にはならない。
    そんな習慣がまるで俺のメモの日記帳のように、儚くもつらつらと綴られていた。
     
    虚ろな目線が、無意識にスマホを這う。
    何かを探すように、生気が抜けた俺の魚のような目が文字を追っていた。
    俺はいま何にビビっている?
    何にそんなに縋ろうとしているんだ?
    俺は無意識に、聡の鼓舞を待っていたのかもしれない。
    あいつが生きていれば、必ず言う。
    絶対に。
    呆れたような、でも笑いを堪えているような、酒やけしたあの「オラオラ声」で鼓舞してくれただろう。
     
    そして、俺の手持ち無沙汰な右手の指が、スマホの画面を這っていた。
    「俺、何やってんだ?」と一人呟きながら、そのまま
    「俺、何やってんだ?」と聡のLINEトークに入力した。
    そして送信ボタンを
    ・・・・・ 押した。
     
    当然、既読になる訳もなく、また俺の日記が、更新された。
    「今回は、かなり大きなイベントだな」
    聡がいなくなって3ヶ月、既読にならないLINEに俺は俺の近況をずっと送ってきた。
     
    既読にならなくてもいい。
    それでも聡に届いている気がしていた。

    スマホをボーっと見ていた。
    抜け殻のような体でスマホを持っていた。
     
    「えっ!?」
    弱々しい右手に突然、力が入った。

    な・・・なんとっ、一瞬にして俺の送った過去のメッセージが
    まるでオセロのように、
     
    既読になっていった。
    パッ、パッ、パッと既読がついていく。
     
    心臓が、バクった。
    もう一度、見た。
    既読になってる。
    今まで聡に送ったメッセージが——全部一気に、既読になった。
    モヤがかかったような俺の脳に一瞬閃光が走った。
     
    「いやいや違う、誰かが、聡のスマホを使っているんだ。
    あっ!真由子さんか!?」——真由子さんは聡の奥さんだ。
    でも、なぜ今、こんな時間に。
    スマホを握る手が、震えていた。
    この震えは病気のせいなんかじゃない。
     
    ポタ、ポタ、ポタと、
    点滴が、落ちていた。

    天井は、白かった。

    俺は震える手でスマホを握ったまま、その既読をただ見ていた。
     
    (第一話「既読」終)
     

    第二話「声」


    翌朝、目が覚めると、天井が白かった。
     
    ・・・・・ ああ、そうだ、入院したんだ。
     
    病室の窓から朝の光が差し込んでいた。
    曇りだったのか、カーテンの隙間から見える空は、少し薄い灰色だった。
    左腕には点滴が刺さっている。
    動かさないでくださいね、と昨夜の看護師が言っていたのを思い出した。
     
    昨夜の「既読」のことは、もう考えないようにした。
     
    おそらく家族が誤ってタップしたのだ。
    聡の奥さんか、子供かな、、、きっとスマホはまだ生きていて、誰かが触ったんだろう。
    そういうことにした。
    そういうことにしなければ、朝を始められなかった。
     
    7時になって、回診が始まった。
    木村先生がカルテを手に入ってきた。
     
    「おしっこは・・・?結構でましたね!いい感じです。でも、これからですからね。昨日は死ぬと言われてびっくりされたと思いますが、本当のことですからね。いまここが大切ですからね」
     
    先生の声は昨日よりもさらにあたたかく穏やかだった。
    それでも冷静で淡々としていた。
    昨日「死にます」と言ったのと同じトーンで「いまここが大切」と言う。
    それが正しい医者の姿なのだろう、と思った。
     
    先生が出ていくと、病室にまた静寂が戻ってきた。
     
    四人部屋だった。

    右隣のカーテンの向こうに山田さんがいる。
    六十二歳だと、みのりさん|新人の看護師が、コッソリ教えてくれた。
    アルコール性肝硬変。
    俺と、同じ病気だ。

    窓際に坂本さんがいる。
    五十二歳、食道癌。関西弁で、よく喋る。
    そして廊下側のベッドは、昨日から空いていた。 
     
    ・・・・・ 午前中に、見知らぬ医者が来た。

     「桐山さ〜ん」
    シャーっとカーテンが開いた。

    「精神科の田村と申します。少しお時間よろしいでしょうか」
    これまた穏やかな声だった。ん?精神科?
    椅子を引いてベッドの横に座り、手帳を開いた。
     
    「桐山さん。正式に診断をお伝えします。アルコール依存症です。」
    「えっ!?」と俺はハッとした。

    一瞬ハッとしたが、驚きはなかった。
    俺がアル中なのかもしれないと言うのは、なんとなく「かもしれない」が俺の中で勘づいていたから。
    それでも、わかっていたはずなのに、、、
    「依存症」という言葉を正式に口にされると、どこか何かがぐらついた。
     
    「飲み続けてきた期間、飲む量、生活への影響、全て総合して判断しています。今後は断酒を前提に、専門的なサポートを受けていただくことになります。」
     
    先生が何かを続けていた。
    でも俺の耳には、あまり入ってこなかった。
     
    アルコール依存症 ・・・・・
    アル中か?
    そう、昔で言ういわゆる、その「アル中」だ。
     
    この言葉一つが、それまでの自分の「少し飲みすぎていただけだ」という言い訳を、完全に消した。
    仕事が忙しかった。
    眠れなかった。
    それだけだと、自分に言い続けてきた。
    それでも医師の「依存症」という診断は、理由など関係なく、飲み続けた事実にについて、医師の判断は変わるわけなどない。
    確かに俺は飲まずにいられなかった。
    ただ、そこまで深刻な状況だ、と言うことをすぐには受け入れられなかった。
     
    精神科医が去った後、しばらく天井を見ていた。
     
    なんだろう、この感覚。
    泣きたいわけでもない。
    腹がたつわけでもない。
    ただ、何か大きなものが崩れた感じだった。
    ずっと積み上げてきた「これは病気じゃない」という砦が、たった一言で瓦礫になった。
     
    そのとき廊下から大きな声が、聞こえてきた。
    病室のカーテンが、またシャーっと開いた。
     
    「桐山さ〜ん、検査結果見たわよ!」
     
    元気な女性が入ってきた。
    ナース服を着ているが、その存在感は普通の看護師よりも圧倒的だった。
    胸のネームプレートに「小川ハナ」とあった。
    看護師長だった。
    その圧倒的にすんなり納得した。
     
    「γ(ガンマ)四桁って、あんた、馬鹿なの?」
     
    「えっ!?」
    と俺は一瞬、耳を疑った。
    あまりにも言い方が、ぶっきら棒でキツかったのだ。。。
     
    「えっ、あ——」と俺は、言葉が出ない。
    「四桁よ、四桁。普通の人よりも2桁も違うのよ!どんだけ飲んだらここまでいくのよ?」
     
    看護師が、患者にそれを言うのか、という驚きが先に来た。
    でも小川さんの目は、怒っているのではなかった。
    真剣に、俺のことを見ていた。
     
    「ワーカーホリックにアル中。どっちがどっちを呼んだかわかる?」
    「……仕事が忙しくて、それでも飲んでいて、眠れなくなって、それで、、、」
    「だからもっと飲んだ。飲んだから余計眠れなくなった。また飲んだ。そういうことでしょ!」
     
    図星だった。
    一言も反論できなかった。
     
    「私ね、30年この仕事してるけど、あなたみたいな人、何人も見てきたわよ。真面目で、頑張り屋で、誰にも弱音吐けなくて、、、負けず嫌いな人ほど、こうなるの」
     
    小川さんが大きな手で窓のカーテンをさっと開けた。
    朝の光が差し込んだ。
    眩しく、そのシルエットと聡が重なった瞬間だった。
     
    「それでもね、まだ生きてるんだからいいじゃない?生きてれば、なんとかなるわよ、頑張ってね」
     
    そう言って、大きな足音はテンポ良く去っていった。
     
    廊下に消える背中を見ながら、なぜか聡のことを思った。
    あの口の悪さ、あの遠慮のなさ、あの奥にあるなんとなく直感的に感じる愛の温度・・・・・
    どこか似ていた。
    「馬鹿なの?」と言いながら、ちゃんとわかってくれている感じが、聡そのものだった。
     
    そして、入院とは本気で自分と向き合う時間な訳で、検査と治療の連続で、もともと自分が思っていた時間がゆっくり進むような入院とは全然違った。

    ・・・・・ 昼すぎ、点滴スタンドを引いてデイルームに出ると、坂本さんがいた。
     
    「あ、桐山さん言うたな!?ちょうどよかった。一人でテレビ見てもおもんないんでわ〜」
     
    関西弁で、よく喋る人だった。
    俺が椅子に座ると、すぐに話し始めた。
     
    「私な、食道癌やねん。去年の夏に見つかって、もう一年やわ。ステージ3やったんやけどな、今は落ち着いてて、幸せにも暇やねん」と笑って言った。
     
    食道癌。
    ステージ3。
     
    聡も、食道癌だった。
    ステージ3で、わずか半年でアイツは逝っちまった。
     
    「あ、桐山さんは何で入院しはったん?」
    「肝硬変です。アルコール性の」
    「あ〜、お酒飲みすぎたんやね。私もしこたま飲んだで〜、まあ、なんやかんや言うて、ここまで来たら後は回復するだけやで!木村先生の言うちゃんと聞いとったら必ず良くなるさかいに、ちゃんと養生し〜や!」
     
    坂本さんが笑った。
    からっとした、明るい笑いだった。
     
    また俺は、聡と重ね合わせていた。
    ましてや同じ病気。
    陽気さも坂本さんと同じ。
    それでもスイッチが入った時の人間の真剣さは別格で、入院してからの聡のLINEのメッセージはいつも真剣だった。
    時折り笑いを入れながらも真剣に闘う。
    それが聡らしかった。
     
    坂本さんの「なんやかんや言うて」というその一言の中に、聡のニヤリとしながら「なんとかなるよ」という声が聞こえた気がした。
     
    気がした、だけだ。
     
    夕方、ゆり子が面会に来た。
     
    「どう?ちゃんと食べてる?」
    「まあ、なんとか」
    「そう?よかった!はいっ、これ、お守り!」
     
    ゆり子は俺のベッドの横の椅子に座って、窓の外を見ていた。
    泣かない。
    何も言わない。
    でもここにいる。
    それがゆり子だった。
     
    「心配かけて悪かった」
    「ううん」
     
    ゆり子はそれ以上は言わなかった。
    30分ほどいて、「じゃあ、また明日」と帰っていった。
    廊下に消える背中がなんとなく逞しく見えた。
     
    あいつも、しんどかっただろうな。
    ずっと。
    俺が気づかないところで、ずっと。
     
    その夜、夜中の2時を過ぎたころ、廊下から騒がしい音がした。
    ストレッチャーが走る音。
    看護師の足音。
    それまで静かだった廊下に、複数の人間の気配が一気に増えた。
     
    廊下側のカーテンが開いて、空いていたベッドに人が運ばれてきた。
     
    のちに知ったのだが、タイ語だ。
    何かを叫んでいる。
    日本語ではなかった。
     
    まだ新人の看護師のみのりさんが「大丈夫っ、大丈夫ですよ!」と繰り返しながら対応していた。
    でも「大丈夫ですよ」以外の言葉は通じなかった。
    タイ語がわからない。
    患者も日本語がわからない。
     
    「お腹、痛いですか?痛い?」みのりさんが腹部を指さしながら言った。
    「ウー、ウー」と患者が答えた。
    「痛い、ですね、そうですよね」
    「ウー……ウー……」
     
    それが夜明けまで続いた。
    うとうとしては「ウーウー」という声で目が覚め、また眠りかけてはまた目が覚めた。
    ほとんど眠れないまま朝が来た。
     
    翌日の昼、廊下側のカーテンが開いて、点滴を繋いだまま、その患者が周囲を見渡していた。
    俺は軽く会釈をしたが無視された。
    会釈は世界共通ではないのかな・・・人見知りなのか。
     
    まだ20代くらいだろう。
    細身のタイ人男性だった。
    ベッドのネームプレートに「ソムチャイ」とあった。
     
    俺は、昨夜、看護師のみのりさんが苦労して看護していたのを思い出しながら、窓の外を見ていた。

    そのとき、声がした。
     
    「よ〜兄弟っ、充電器貸してくれ」
     
    (えっ!?聡っ?)振り向いた。
    ソムチャイさんが、俺を見ていた。
     
    「……え?」
    「充電器。スマホの……」
     
    完璧な日本語だった。
    しかも、聡の声に聞こえた。 

    あんなに看護師のみのりさんが、会話に苦戦してたのに。
    「お腹、痛いですか?」「痛い?」って必死に指さしながら苦労して聞いてたのに。
    なんでそれは、言えるんだ。
    流暢すぎた……
    しかも「よ〜兄弟っ」って、聡かよ!
    と心の中で突っ込みを入れていた。
    タイ語がそう聞こえただけなのだろうか?
     
    「……どうぞ」
     
    充電器を貸したが、さっき無視されたので、なんとも言えない微妙な気持ちだった。
    ソムチャイさんは「サンキュ」とだけ言って、スマホを繋いだ。
     
    それ以降、日本語は出てこなかった。
     
    消灯後、病室が静まり返った。
     
    どこかの部屋の心電図モニターなのか、規則正しいピー音だけが鳴っていた。
     
    山田さんが独り言を言っていた。
    夜中の寝言の声がえげつなくデカい、そしてよく言う。
    カーテン越しだから顔は見えない。
    でも「声」は聞こえた。
     
    「まったく……何やってんだか……」
     
    その声までもが、聡に似ていた。
    入院してからずっと俺の先入観が、まさに先走っているようだ。

    聡がよく言っていた言葉だった。会社の方針に呆れたときに、ため息と一緒に出てくる「まったく、何やってんだか・・・・・ 」俺に向かって言うこともあったし、自分に向かって言うこともあった。
     
    山田さんは六十二歳で俺と同じアルコール性肝硬変だった。
    今の俺の数年後の姿が、あのカーテンの向こうにいる。
    そう思うと、背筋が少しゾッとした。
    別に悪口を言っているわけではなくて、敢えて見せつけられているような錯覚を起こしていた。
    あの人は今、何を思いながらその言葉を吐いているのだろう。
    自分に言い聞かせているのだろうか?
    誰かに言っているのだろうか?
     
    目を閉じると、聡の顔が浮かんだ。
     
    うとうとしはじめた、そのとき、、、
     
    違うカーテンの向こうから、声がした。
     
    「・・・ お前、何やってんだ?」
     
    今度はソムチャイさんだ。
    ん?えっ!?また日本語?
     
    いや、聞き間違いか。
    そうだ、そういえば、「アルコールの離脱症状で幻聴が出る」と、木村先生が言っていた。
    きっとそういうことだ。
    自分に言い聞かせる。
    それでも気になってソムチャイさんのところのカーテンをそっと開けて覗いてみた。
     
    規則正しい医療機器の音とソムチャイさんの寝息。
    やはり気のせいだ。
     
    そして自分のベッドに戻って俺も眠った。
    そしてしばらくしてまた、
     
    「・・・ おいっ!聞こえねーのか?」
     
    ハッとした瞬間・・・・・ 
    目が覚めた。
    ・・・・・ 白い天井。
    心臓がバクバクしていた。
    夢だった。
    ただの夢だ。
     
    でも夢の中でのソムチャイさんの日本語は、絶妙にリアルだった。
     
    時計を見るとまだ午前三時過ぎだった。
    そして、眠れないまま、スマホを手に取った。

    眠れないときは、どうしても習慣でスマホを見てしまう。
    ニュースでも、SNSでも、、、ただ今夜は、無意識に聡とのLINEトークの画面を開いていた。
     
    一方通行の、俺だけのログ。
    「俺、何やってんだ?」と送った最後のメッセージ。

    既読はしっかりついている。
    俺の幻覚ではない……
    既読が昨夜の謎、とは言っても「家族の誤タップ」と決着をつけたことだ。
     
    画面をスクロールしようとして、その手が止まった。
     
    「何っ!?」と静かな病室で、思わず声を漏らした。

    へ、返事が来ている・・・!?
     
    昨夜の「既読」の下に。
    一行だけ。
     
    「お前、何やってんだ?」
     
    思わず、大きな「声」を出してしまった。
     
    「さっ、聡っ……」
     
    夜の静かな病室に、心電図モニターの音だけが、規則正しく鳴り続けていた。
     
    (第二話「声」終)

    第三話「ニヤリ」

    「お前、何やってんだ?」
     
    スマホを胸の上に置いた。天井が、白かった。
     
    「 聡 … 」
     
    送り主は、もうこの世にいない。
    でも返信が来た。
    一行だけ。
    そっけなく、でも的を射た、アイツらしい一言で。
     
    眠れないまま、俺はあいつのことを考えていた。
    俺たちが「兄弟」になった夜のことを。
     

    ・・・・・ あの「二人酒場」が始まった夜。
    俺たちが向かったのは、駅から五分ほど歩いた路地の中華料理屋だった。
    餃子がうまい店で、夜になると賑やかな常連客達がいて、煙草の煙が充満していた。
    でも、なぜかあの空間が俺は好きだった。
     
    はじめての夜、俺たちは、餃子を山盛り頼んで、ハイボールを空けながら話した。
     
    聡は、飲み方が豪快だった。
    ただそこは、俺も負けてはいなかった。
    グラスを一気に傾けて、酒豪二人でしこたま飲んだ。
    酒が入ると少し声が大きくなって、でも話の中身は、より濃く、そして鋭くなっていった。
     
    「お前、なんで中途でここに来たんだ?」
     
    単刀直入だった。
    俺も正直に答えた。
     
    「前の会社、仕事は楽しかったけど、もう少しやりがいに欲張りたかったんだよな」
    「同じだわ。オレ、営業でどこ行っても数字は出してきたんだけどな、なんかな」
    「なんかな、ってなんだ?」
    「なんか違えな、って感じ?かな、数字は出る。でも何か違う、やっぱ、やりがいなんかな・・・」
     
    そこから話が、止まらなくなった。
    元の会社のこと、業界のこと、この会社での違和感も、今後のことも、気づいたら二人で好きだった銘柄のウイスキーボトルは余裕で空になっていた。
     
    俺たちはお互いに、「この職場でギラついているのが自分だけじゃなかった」ことに、安堵していた。
     
    「設計部は、この会社の屋台骨だ。頼むぜ!」
    「ああ、どんどん営業して売ってくれよ。設計は、俺に任せろ!」
     
    そう言い合って、また飲んだ。
     
    どれだけ飲んだかなんて覚えていない。
    でも、その夜に交わした言葉は、今でもはっきり覚えている。
     
    「お前ってさ」と聡が言い始めた。
    「窮地に立ったとき、どうなるタイプ?」
    「火がつく、何クソ精神は人一倍かもな」俺は答えた。
    「だろうな、顔でわかる」
    「お前は?」と俺は聞いた。
    「オレも同じだ、買う」
    「だろうな、顔でわかる」と俺は言った。
     
    聡が、ニヤリと笑った。
     
    「窮地は、転機の兆候」
     それが俺たち二人の哲学だった。

    追い詰められたとき、それを「ピンチ」と見るか「転機」と見るか、俺らは迷いなく後者を選んだ。
    その確信が、二人の目の光に宿っていた。
     
    「酒強えな!」ニヤリ。
    「負けず嫌いで、勝負好きだろ?」ニヤリ。
    「窮地は転機の兆候だ!」ニヤリ。
     
    「ニヤリだな!」
    「あ〜、ニヤリだ!」

     
    その夜から、「ニヤリ」は俺たちの合言葉になった。
    言葉にしなくても、廊下であの顔を見れば分かった。
    どんな修羅場でも、そいつとすれ違ってニヤリとやれば、「やってやろうじゃないか」という気持ちが湧いてきた。
     
    それから俺たちは、よく飲みに行った。中華料理屋が定番だったが、飲む前に会社のグラウンドでキャッチボールをすることもあった。
     
    定時を過ぎると、どちらともなく「行くか?」と誘い合う。
    グラウンドに出て、汗をかいて、そのまま飲みに行く。
    そういう夜が、何度あっただろう。
     
    聡は元高校球児だ。
    あいつのボールは伸びがあって、キレがあってグローブ越しで痛かった。
    いつも魂が乗っていた。
    俺が「痛ってぇ〜!」と言うと、アイツはニヤリとした。
     
    ある夜のキャッチボールのとき、聡が言った。
     
    「何のために建築してる?」
     
    俺は、球を受けてから、少し考えた。
     
    「建物が、人の生活を変えると思ってる」
    「それだよ」と聡が言った。
    「オレも同じだ。売るのは商品じゃなくて、その先にある誰かの生活だ。だから売れる」
     
    あいつは、いつもそうだった。
    問いかけが鋭くて、答えが早くて、本質をついてくる。
    「オレはたかが一兵卒だけどさ」という口癖があったが、あいつは一兵卒の中でも誰より深く考えていた。
     
    さらに俺らのギヤが上がったのは、この会社に転職して三年目のことだった。
     
    設計部の体制に大きな変更があった。
    費用削減が目的だった。
    若手の教育プログラムが廃止され、ベテランの専任チームが解体されることになった。
    合理的に見えて、でもそれは完全に「明らかにヒトのやる気を削ぐ」無謀な変更だった。

    俺は最初、誰かが正しく判断して止めるだろうと思っていた。
    でも通達は覆らなかった。
     
    たまらなくなって、上司に意見をぶつけた。
     
    一蹴された。
     
    「桐山、課長の私だって聞いてもらえない。だから君の立場でそういうことを言うのはちょっとね」
     
    一兵卒の戯言は何も変えられなかった。
    それは知っていた。
    でも実際に一蹴されると、何か燃えるものがあった。

    そう、ニヤリだ。
     
    その夜、いつもの中華料理屋で聡と話した。
     
    「変えたいなら、変えられる立場になるしかないな」と俺は言った。
     
    聡が、ニヤリと笑った。
     
    「そうだよ。だからお前はのし上がれ」
    「そう言えば、出世欲なんて今までなかったなぁ、興味がない」
    「知ってる」と聡が言った。「でもお前は、正義感から動いてる。それは出世欲より強い。本物だ」
     
    グラスを傾けながら、聡が続けた。
     
    「オレは一匹狼だ。一兵卒のまま、自分のやり方でやる。それがオレだ」
    「わかってる」
    「でもお前は違う」
     
    聡がまっすぐ俺を見た。
     
    「若手からの信頼がある。現場を知ってる。その上で、正しいことをしようとしてる。そういう奴が上にいなきゃ、組織は腐る。お前、のし上がれ。そういう奴が上にいるべきだ」
     
    俺は何も言えなかった。
     
    「なぁ〜兄弟っ!」
     
    聡がそう言って、グラスを傾けた。
     
    その夜から、俺の中の何かが変わった。
    変えられる立場になるしかない。
    その言葉が、俺を突き動かした。
     
    後になって思う。
    あの日から俺は少しずつ、この企と引き換えに元々の自分を失いはじめていた。
    今までプライベート優先で、会社を俯瞰して生きていた男が、「組織を変えるために上を目指す」男に変わっていった。
    決して悪いことではなかったと思っているし、そう走り続けてきて設計部も理想の形になって嬉しかった。
    でも、いつから「仕事のために全てを捧げる」になっていたのか・・・・・
    気づいたときには、分からなくなっていた。
     
    茹でガエルというやつだ。
    水が温まっていく感覚が、わからなかった。
     
    「お前、何やってんだ?」
     
    生前の聡から何度も聞いていた言葉が、今夜は別の重さで胸に響いていた。
    病室の天井が、白かった。
     
    聡が俺に「のし上がれ」と言った夜から、もう15年近くが経っていた。
    俺は上に行った。
    それは、良かった。
    でも、何かを失った。
    失ったものに気づいたのは今更、この白い天井の下だった。
     
    「俺、何やってんだ?」
      
    窓の外に、まだ夜明けの兆候を感じてはいなかった。
     
    (第三話「ニヤリ」終)

     

    第四話「来るな」


    今日も病院の夜が、明けようとしている。
     
    白い天井に、朝の光が静かに差し込んでいた。
    また病棟のどこかで、看護師の足音がする。
    規則正しい医療機器の音。
    まだソムチャイさんの寝息は続いていた。
     
    結局、俺は、眠れていなかった。
     
    スマホを握ったまま、聡とのトーク画面を見つめていた。
    最後のメッセージは、2022年7月末のものだった。
     

    ・・・・・ 病床の聡が、自分の方がよほどしんどいはずなのに、俺のために命がけで打ってきた言葉だった。
     
    俺はその言葉を、ちゃんと受け取れなかった。
     
    電話がかかってきたのは、2022年2月の終わり頃だった。
     
    「よ〜兄弟!ちょっと、、、聞いてくれ」と聡は言った。珍しく声が低かった。
    「どうした?」
    「ちょっと入院してくる・・・」
    「・・・えっ!?」
    「食道癌だ」俺の反応に被せるように聡は言った。
     
    俺は、一瞬、言葉が出なかった。
     
    「それ、ちょっと入院って……ステージは?」
    「3だ。でも大丈夫だ。今の医療は凄ぇからな、ニヤリだ!な〜兄弟!!」
    「ニヤリって……」
     
    奥さんの真由子さんと二人で病院に行ってきた、と言った。
    声は落ち着いていたが、どこか乾いていたように感じた。
     
    「見舞いは、来るな!」
     
    続けざまに、そう言った。
     
    「ああ」
    「どうせすぐ治る。ただそれだけだ!」
    「ああ」
    「電話はいいぞ、声は聞いてやる!」と少し照れながら聡は言った。
    「ああ、そうだな」
     
    聡の「来るな」を俺は、理解していた。
    俺らはそれぞれのやるべき事で互いを尊重しあうという、「二人だけの阿吽(あうん)」を持っていた。
    これをニュートラルに確認し合うために、いつも「ニヤリ」があった。
    だから俺は、聡が必ず闘い抜いて、戻ってくるという確信を疑っていなかったから、たとえ不安であろうとも俺は冷静を保っていた。
    お互いに不安だった事なんて、そんなことは分かっていた。
     
    電話を切った後、しばらく動けなかった。
    「ニヤリだ」と笑えるような話じゃなかった。
    それでも、聡の「またな」の言葉に弱さはなかった。
    いつもと同じ、しゃがれた声で力強かった。
     
    それからは、しばらくLINEだけでお互いを鼓舞するような日が続いた。
     
    「今日は抗癌剤だった。なかなかの難敵だ、しんどい」
    「そりゃしんどいな。飯食えてるか?」
    「ギリ食えてる。真由子が怒る。しっかり喰えって」
    「真由子さん強えな笑」
    「お前、何やってんだ? 仕事は?」
    「忙しいよ。クレーム案件5本並走してる」
    「ニヤリだな」
    「ああ、ニヤリだ」
     
    日によって返信のテンポが遅い日が出てきた。
    既読が半日つかないこともあった。
    無理もない、あいつはいま大勝負にかかっているのだから。
    それでも必ず返信はあった。
     
    「今日は調子いいぞ」
    「キャッチボールできそうか?」
    「バカ。できるわけねーだろ笑」
    「じゃあ早く治せ」
    「ああ、待ってろ!」
     
    そんなやりとりを繰り返した。
     
    梅雨に入った頃、LINEの文章が短くなってきた。
     
    7月に入って、聡からの連絡が数日空くようになった。
     
    心配だった。
     
    ただ、その頃から今度は俺の体調に異変が起き始めていた。
    主治医の木村先生が言うには、この頃の採血結果からでも、すでに肝硬変の初期段階と判断できたそうだ。
    専門医だからこそ判断できる細部の領域なのだろう。
    皮肉にもこの診断を受けるまで、俺は、四ヶ月も浴びるように飲み続けていたのだ。
    そりゃ死を目の前にしてもおかしくない話だ。
     
    でも、その時は、俺よりもずっとずっと聡の方が、辛かっただろう。
    だから俺は、聡のペースに合わせるように、あいつからのLINEを待った。
     
    7月末頃の梅雨明け、
    「よ〜兄弟!調子どうだ?」と聡からのLINEがきた。
    「それは俺のセリフだ笑」と待っていました!かのように返信したが、立て続けに俺は、
    「ちょっと最近調子悪くてな、眠れなくて目眩と倦怠感がある(汗)」と送った。
     
    そんな俺の泣き言に聡は、
     
    「酒はやめろオレになる」
    「仕事忘れてあっつい風呂入って寝ろ」
    「あんな奴らの事で体調崩すな、頼む」
     
    画面を見て、息が止まった。
     
    自らの身体が崩れかけている人間が、本人の方がよほどしんどいはずなのに、俺の体を案じて送ってきた本気のメッセージだった。
     
    俺はこう返した。
     
    「ああ、そうだな、たまには、休肝日でも作るか〜、ありがとう!もうちっと頑張る」
     
    でも、
    あの時の俺に「アルコール依存症」という自覚は1ミリもなかった。
    単なる働きすぎかな、まだ原因不明の体調不良だから、そう思っての、その場しのぎで返した言葉だった。
     
    このときの俺は、聡の本気を受け流してしまった。

    そして俺は、もう「アルコール依存」のアリ地獄から脱げ出せなくなっていた。
     
    会社の屋台骨だった設計部の責任とか、理不尽な会社への憤りとか、そんな困難を麻痺させるために、俺は聡の忠告を背いて「麻酔」代わりに酒を飲み続けた。
     
    それから連絡が途絶えた。
     
    8月16日の朝、真由子さんから電話がかかってきた。
     
    「聡が、今朝——」
     
    それ以上は聞けなかった。
     
    真由子さんの声が震えていた。
    俺も声が出なかった。
    電話を持ったまま、立ち尽くしていた。
     
    窓の外は、梅雨明けの猛暑でやたらギラギラしていた。
     
    その日の午後、
    俺は一人でウイスキーをボトルのまんま、生(き)で飲んだ。
    あの「頼む」の一言を何度も読み返した。
     
    あいつが、そんな言葉を使ったのは、あれが最初で最後だった。
     

    病室に、朝の光が満ちていた。
     
    「来るな」——あの二月の電話口での言葉。絶対に戻ってくると言う信念とともに最後まで俺に会わせなかった。
     
    でも今夜・・・・・
     
    俺の方から送ったLINEに、「お前、何やってんだ?」と返信が来た。
     
    「来るな」と言ったのはお前だろ、聡。
     
    お前の後を追ってここに来た訳じゃないぞ。
     
    俺は少し笑った。眠れない夜明けに、久しぶりに笑った気がした。
     
    「 俺、何やってんだ?」
     
    医療機器の音だけが、規則正しく鳴り続けていた。
     
    (第四話「来るな」終)

     

    第五話「一方通行」


    入院して、およそ3週間。
    退院の朝、ゆり子は病室まで迎えに来てくれた。

    「お疲れさま」
    「ああ」

    荷物をまとめて、ナースステーションで挨拶を済ませて、廊下を歩いた。
    あの白い天井の下を、今度は自分の足で歩いて出てい行った。
    病院の自動ドアをくぐった瞬間、十二月の風が頰を叩いた。
     
    タクシーに乗り込んで、俺はぼんやりと窓の外を眺めた。
    冬の街路樹が、ゆっくりと後ろに流れていく。
    葉を落とした木々が、それでも力強く真っすぐに立っていた。
     
    俺もこれから、断酒との闘いだ。
     
    主治医の木村先生が、退院のときに言っていた。
    「桐山さん、正直ここまで回復されるとは思っていませんでした」——先生も驚く回復だった。
    きっと聡とゆり子のお守りの力だ、と俺は思った。
    聡に関しては、アルコール障害の馬鹿げた妄想だとわかっていた。
    でも、そう思わずにはいられなかった。
     
    先生との約束は、たったひとつだった。
     
    酒を断つこと。
     
    それだけだった。
     
    家に着いた。
     
    「おかえり」
     
    後ろから、ゆり子が、笑顔で言った。
    玄関に入ると、続けて言った。
     
    「ボトルのお酒は、全部捨てちゃったからね〜あ・し・か・ら・ずっ!」
    「ああ」
     
    想定内だった。
    それでいい。
     
    ゆり子が食事の支度をしている間、俺はスマホを握ったまま、ソファに座っていた。
    聡とのトーク画面を開いた。
     
    「退院したぞ」
     
    聡にLINEを送った。
    既読はつかない。
     
    退院の翌日、俺は聡の家に向かった。
     
    真由子さんが、玄関に出てきた。
     
    「桐山くん……大変だったわね」
    「うん、俺は生かされて戻ってきた。って聡に報告にきた。ご無沙汰だったけど、どお?少しは整理ついた?」

    なんだ?この俺のセリフ・・・
    本当は、整理がついていないのは、俺の方だ。
    報告だけなら、墓参りでも良い。
    聡の家に来たのは、どうしても確認したいことがあったから。

    真由子さんはそれ以上何も詮索せずに、俺を家に上げてくれた。
     
    仏壇は、居間の端にあった。
    写真の中の聡が「ニヤリ」としている。
    いつもの、あの顔で。
     
    線香に火をつけて、手を合わせた。
     
    目を閉じると、色々なことが浮かんできた。
    初めて飲みに行った夜。
    中華料理屋。
    キャッチボール。
    「ニヤリだな」「ああ、ニヤリだ」
    あの声が、耳の奥に残っていた。
    聡がダイニングの椅子から、俺を見ているような気がした。
     
    どれくらいだろう。
    気づいたら、真由子さんがお茶を出してくれていた。
     
    「 実は、少し、奇妙?な、こと?が、あってさ……」
     
    俺は切り出した。
    入院中の夜、聡にLINEを送ったら既読がついて、返信が来たこと。
    「お前、何やってんだ?」と。
     
    真由子さんは、ポカンとしながら黙って聞いていた。
     
    「聡のスマホ……まだとってある?よね?」
    「ええ。仏壇のそこ!ほら、そこに、でも充電もしていないから……」
    「見せて、、、もらえるかな?」
    「いいわよ、でもそ〜んな摩訶不思議なんて無いと思うよ〜」と、はなから信じてくれなかった。

    真由子さんが充電ケーブルを繋いだ。しばらくして、電源が入った。
     
    俺のトーク画面を開いた見た。
    ・・・・ 俺は固まった。
     
    「ない……」

    聡のスマホには、俺からのメッセージだけが並んでいた。
    入院中に送ったもの。
    退院してから送ったもの。
    過去3ヶ月も全部、未読のままだった。

    返信の送信記録は——どこにもなかった。
     
    「……はっ!」
    俺は、自分のスマホをすぐ取り出した。
    聡とのトーク画面を開く。
     
    「 ……あれ?」
    消えていた。
     
    「お前、何やってんだ?」
    入院中に届いていたあの一言が、どこにもなかった。
    俺からのメッセージだけが、ずらりと並んでいた。
    まさに聡への一方通行の報告日記状態だ。
     
    二つのスマホを並べた。
     
    聡のスマホ・・・・ 俺からの一方通行。
    俺のスマホ・・・・ 俺からの一方通行。
     
    まさか、ず〜っと俺の幻覚だったのか?
    真由子さんも横から覗く。
     
    「桐山くん、大丈夫?ま〜さか、お酒飲んでないわよね?ん?もう酔っ払ってるのかな〜?」
    と、俺を疑うようなの眼差しを宛てきた。

    「いやっ、飲んでないって、本当に、マジで!」と真剣に俺は答えた。

    真由子さんは、笑っていた。
    「……大丈夫〜?まだ退院したばかりなんだから、ゆっくり休んで」

    「くぅ〜なんでだ……ごめん、ごめん、俺の勘違いだ」 
    俺は曖昧に笑って、スマホをポケットに戻した。
     
    真由子さんが「でも、聡がね」と静かに話はじめた。
    「入院中も、あなたのことをよく話していたのよ。桐山くんのことが、本当に心配だったみたい。「俺は兄弟に、偉くなれ!って大役を押し付けてしまった」って少し責任感じてたみたいよ。桐山くん、ごめんね、主人の代わりに私が謝ります」
    真由子さんは、ぺこりとした。
     
    「……いや、それは違うよ、あれは俺は自分で望んだことだから、聡のせいじゃない」
    「ふふっ!ほんっと仲いいんだね!「アイツはそう答える」って聡、予言してたよっ」
    「聡……そっか、まあ証拠もなくなっちゃったしな〜。俺の妄想癖が豊かになったつ〜ことで」
    と言いつつも、心の中で、
    ( 聡、お前、何やってんだよ!)と、俺は呟いていた。

    そして真由子さんが、ふと思い出すように言った。
    「『ぜっって〜治す!』って言ってたの。『治してまた兄弟と、うんめぇウィスキー飲むんだ!』って。病室に置いてあって、看護師さんにめっちゃ怒られたんだから(笑)」
    「あの酒か・・・あれは俺らにとって特別の酒だな・・・」俺は思い出すかのように言った。
    「持ってく?あそこにあるよっ」真由子さんは仏壇の方に指を差してニヤリと見ながらそう言った。

    仏壇に2人が好きだった銘柄のウィスキーがお供えとして、「あれ」が置いてあった。
    「やめてくれ、マジで飲んじまいそうだ」と俺は笑いながら言った。
    「じょ〜だんっ!、私は大丈夫よっ、いつも一緒にいる感じしてるから、ただちょっと静かなだけ・・・」と満面の笑みで言ってくれた。
    そして俺は、聡の仏壇に向かって言った。
    「聡っ、そっちで、存分に飲んでくれっ!俺の分はボトルキープな!」

    聡の家を後にした。
    真由子さんの話を聞いて少し整理がついたような気がした。
     
    駅に向かう道を歩きながら、何度もスマホを確認したが、既読も返信もない。
    確認するたびに、同じ画面が返ってくる。俺からの一方通行のメッセージだけ。聡からの返信は——ない。
     
    聡の家に行かなければ、真由子さんと話さなかったら「お前、何やってんだ?」は、まだ残っていたのかな?なんて考えながら、もう画面に跡形もない。
     
    俺の幻覚だったのか。
    肝性脳症のダメージで、脳がそういう幻を見せたのか。
     
    寒空の中缶コーヒーを買って公園で一休みした。
    そう言えば、この数年、こんな感じでのんびり缶コーヒー飲むような時間なかったな〜なんて思いながら、ベンチに腰を下ろした。
     
    冬の公園は、がらんとしていた。
    遠くでカラスが鳴いている。
    俺はベンチに座ったまま、もう一度スマホを開いて、また閉じた。
    俺はベンチに座ったまま、ボーっとしてみた。
    俺はベンチに座ったまま、そっと目を閉じてみた。

    するとコロンっ、と 足元に何かが当たった。
    軟式野球のボールだ。
     
    「んっ?」
    顔を上げると、野球グローブを持った小学生くらいの少年が走ってきた。
    ひとりでボールを投げて壁当てをしていたようだ。
     
    「すみませ——あっ!」
     
    少年が止まった。
    じっと俺を見た。そして、 
    「おじさん、キャッチボールできる?」
     
    俺は苦笑した。「……一応、できるけど」
    「一緒にやろうよ!」
    「おお、いいねぇ〜」
     
    断る理由なんて無かった。
    逆に少し嬉しかったくらい。
    軟式なら素手でも大丈夫だ。

    と思ったが、最初の球を受けた瞬間、手がじんとした。
     
    「キミ、うまいな〜!」
    「ありがとっ!もっと強く投げていいよ!」
     
    投げ返す。
    受ける。
    投げ返す。
    キャッチボールだ。
     
    しばらく無言でやっていた。
     
    「友達とはやらないのか?」と俺は聞いた。
     
    少年が少し間を置いて言った。
    「俺は一匹狼だから・・・」
     
    球が、俺の手の中に収まった。
    俺は、動けなかった。
     
    「一匹狼だから」それは聡の言葉だ。
    「オレは一匹狼だ。一兵卒のまま、自分のやり方でやる。それがオレだ。」
     
    こいつ、いま聡だ。
    また流行りの妄想列車が暴走し始めた。 

    投げる手が、少し震えた。
    受ける。
    また投げる。
    魂のキャッチボールだ。
     
    気がつくと、俺の目の前が涙で滲んでいた。
    定時後のグラウンド。
    聡の球は速かった。
    グローブ越しに痛かった。「痛ってぇ〜!」と言うと聡はニヤリとした。
    あの球の重さが、今も手の中に残っている気がした。
     
    少年は何も言わなかった。
    ただ、投げ続けた。
     
    俺は、少年にバレないように泣いていた。
    ただ、泣きながら投げた。
    受けた。
    投げた。
    永遠のキャッチボールだ。
     
    どれくらい経っただろう。
    少年が「そろそろ帰らなきゃ」と言った。
     
    「そうか」と俺は言った。
    「おじちゃん、ありがとっ。楽しかった!」
     
    少年がボールを受け取りながら、ふと俺を見た。
     
    「ね、おじさん。一匹狼って、寂しくないのかな?」
     
    「寂しいよ」と俺は言った。

    「でもな ・・・ 」 
    少し考えてから、続けた。
    「うんっ!」少年は興味津々で前のめりだ。
    「大丈夫だよ。きみはきみらしく生きろ。そしたらな、ニヤリだ!」
    「ニヤリ?」
    「そうニヤリ!そしたらな、ニヤリとするようなでっけ〜転機がくる!それを絶対に逃すな!」
     
    少し自慢げに、胸を張った。
    少年が笑った。「おじさん、そういうの経験あるの?」
    「ある」
     
    少年は、ありがとうと、背を向けて走って行った。
    俺は駅の逆方向に歩き出した、その時——
     
    「よ〜兄弟っ! お前は本当に優しいな!」

    でも振り向かなかった。
    俺は片手だけ、上げた。
    ニヤリと笑いながら。
     
    ゆり子の待つ家への帰り道。
    少年の「よ〜兄弟っ!」がまだ耳に残っていた。
    あの声。
    あの間。
    あの笑い方。
    あれは、間違いなく聡の声だ 。
     
    なんとなく、スマホを取り出した。
     
    聡とのトーク画面を開く。

    ・・・・止まった。
     
    また復活してる。
    やりとりの記録が、戻っていた。
    そして画面の一番下に、新しいメッセージがあった。
     
    「よ〜兄弟っ!お前は本当に優しいな」
     
    さっき少年が言った言葉と、まったく同じ言葉が、聡のアイコンとともに、そこにあった。
    俺は、立ち止まった。
     
    これは、聡本人だ。
     
    幻覚じゃない。
    肝性脳症の後遺症でも、思い込みでもない。
     
    聡が、送ってきている。
    行き交う人が俺の横を通り過ぎていく。
    信号が変わる。
    それでも動けなかった。
     
    「聡、お前……」
     
    声が掠れた。
     
    「お前、何やってんだ…」
     
    夕方の空が、少しだけ赤るんでいた。
     
    (第五話「一方通行」終)

     

    最終話「よ〜兄弟」


    あの少年との不思議な出来事で聡をより近くに感じていた。
    夕暮れと共に帰宅しての束の間、テレビをつけた。
     
    ゆり子が台所で夕食の支度をしている。
    俺はソファに座ったまま、何を観たいわけでもなく、ただぼんやりと画面を眺めていた。
     
    画面が切り替わった。
    流れたのは「酒のCM」だった。
    琥珀色のウイスキーが、グラスの中でゆっくりと揺れている。
     
    ・・・・ ああ、辛いかもな。
     
    こうなることは、覚悟はしていた。
    退院すれば、コンビニには誘惑の棚、街に出れば酒場の宴迎、そしてテレビをつけたら、こういう場面が来ると。それで飲みたくなるのは当然だと。
     
    それでも、大丈夫だった。
    不思議なくらいに、余裕で大丈夫だった。
    まだ、気が張っていたからかもしれない。
    けれども、体調が悪かった時期のあの時の自分。
    酒がどんなに不味く感じていても、酒を煽るあの時の自分を思うと恐ろしかったから、飲みたいよりも、あの気だるいモヤの中に戻りたくない思いの方がず〜っと強かった。
    思考がぼやけたような状態はもう懲り懲りだと。
    酒の節度がなかった俺は、「きっと死ぬまでアルコール依存症だ」
    そう受け入れて自分と向き合っていこうと覚悟を決めていたから。
     
    チャンネルを変えた。
    変える必要もなかったかもしれないが、変えた。
    もう俺には関係ない話題だから、興味がないを装った。
    ただそれだけだった。
     
    そのとき、
    「そうか!聡……」
    心の中で呼びかけた。
     
    「ようやくわかったぞ。俺は飲まない。大丈夫だ!お前が心配してたのは、そこだろ?ちゃんと受け取ったぞ兄弟っ、ありがとうな!」
     
    今夜、眠りにつく前に、スマホを確認した。聡とのトーク画面——
    「よ〜兄弟っ!お前は本当に優しいな」
    そんなあいつの摩訶不思議なサインは、まだそこに残っていた。
     
    名残惜しいと思いつつも、もう答えが出たからには、
    きっと明日の朝、消えているだろう。
    そう思いながら、柔らかくて温かいベッドライトに黄昏ながら目をスッと閉じた。もう酒瓶は枕元に必要ない。
     
    朝、目が覚めた。
    死に損なったあの日から、およそ1ヶ月、酒を飲まない体内時計は日の出と共に心地よく起きられるようになっていた。
    生きてるって、本当にありがたいのだ。
     
    寝起きとともに、スマホを手に取る癖も徐々に無くなっていた。
    それでも、なんとなく気になった俺は、聡とのLINEを開いた。
     
    「あれ?まだ、残ってる」
    聡のメッセージは、消えていなかった。
     
    「よ〜兄弟っ! お前は本当に優しいな」
    が、まだある。
     
    なぜだ?
    とは言え、こんな不思議な現象が日常になった今は、それが残っていること自体に聡がずっと見張っている(笑)というか、守られている気がして安心していたかもしれない。
     
    翌日も酒のCMは大丈夫だった。
    木村先生との約束も果たす覚悟はある。
    聡の「酒はやめろ」という言葉は、ちゃんと届いていた。
     
    朝食を終えて、テレビをつけた。
     
    とあるハウスメーカーのCMが流れていた。
    新築の家。広いリビング。家族の笑顔。
    俺の仕事に関わるあの世界が、画面の中にある。
     
    なんとなく、見ていられなかった。 

    チャンネルを変えた。

    すると、そこにも別の家のCMが流れていた。
    少しイラっとした。
     
    ・・・えっ!?
    ちょっと待てよ。
     
    なんで俺、今、仕事のCMでチャンネル変えた?
     
    「えっ!? マジか……」
     
    思わず声が出た。
     
    入院する前の俺を思い返した。
    朝、目が覚めたらパソコンを開いた。
    週末も、朝からパソコンを開いた。
    朝から酒を飲みながら仕事をしていた。
    忙しくも、むしろそれを堪能していた。
    設計図・仕様書・メール・プロジェクト・若手育成・勤怠管理、、、。
    夜中でも休日でも手が動いた。
    それがやりがいだと思っていた。
    いつの頃からか仕事こそが、俺だと思っていた。
    仕事を酒のアテにしていたようなものだった。
     
    そんな俺は退院してから、会社のノートパソコンを一度も開けてない。
    開こうという気が、起きない。
    いや、開けられない?ようだ。
    あんな無謀はもう絶対にできない。
     
    「ヤバい……俺はこれで復帰できるのか?この状態のまま復職するのか?いや、それ無理だろっ!」
     
    どうしたらいいんだ?
    定年まで残りあと10年くらい。
    52歳の男が、仕事に戻れなくてどうする?
     
    確かに50代になった頃からこの思いは密かに抱き始めてはいた。
    本当の人生ってなんだ?
    いい年こいて、今更こんなこと考えるのか?と不思議と不安で混沌としていたのは事実だった。
    その思いは、入院前も酒断ちした今も、一緒だった。
     
    俺はいま、めちゃくちゃ不安に駆られている。
     
    ただ、俺は何をそんなに焦っているんだ。
    そんな思いをよそに、無くしものを探すかのように、俺は外に出た。
     
    川沿いをボーッと歩いた。
    寒い。。。
    年末のこの時期、肌を刺すように風が吹く。
    俺は、そのまま入院していた病棟に行った。
     
    看護師長が笑顔で出てきた。
    「あれ?桐山さ〜ん、戻ってくるには早すぎないっ?でも、顔色いいね!嬉しいわ」同室だった患者たちも、皆それぞれ元気そうだった。
    ソムチャイさんは元気になってタイに帰国したらしい。
    そんな雑談をして、手を振って病院をあとにした。
     
    答えは何もなかった。
     
    聡からのサインも、メッセージも、何も。
     
    そして次に、聡の墓に行った。
     
    「聡、来たぞ、教えてくれ、俺はどうしたらいいんだ?」
     
    線香に火をつけて、手を合わせた。目を閉じて、あいつを待った。
     
    ・・・・・ 聡は来なかった。
    「んだよっ、降臨しろよ(笑)」なんてあり得ない無理を墓の前で言った。
     
    LINEも来なかった。
    スマホを何度確認しても、「よ〜兄弟っ! お前は本当に優しいな」のまま。
    新しいメッセージはもう来なかった。
     
    「ん〜なんで、何も言わないんだ……」
    いや、返事がないのが普通だから。
    それが、当たり前だ。
     
    でも、それでも俺は、聡を?サインを?メッセージを?探していた。
    どうしても、これからのことを知りたかった。
    俺はこれからどうしたらいいんだ。
    その答えを出したかった。

    なんせ、生き甲斐だと思っていた「酒と仕事」両方一緒にNG宣告を受けたようなものだ。だから、今までの俺からしたら、まるっと全て取り上げられた赤ん坊のようなものだ。赤ん坊は言いすぎだ。

    そして墓参りの後、
    あの公園に、また来ていた。
    少年とキャッチボールをした公園だ。
     
    「おっ!」少年がいた。
     
    あの少年だ。
    でも今日は違った。
    ベンチに座ったまま、グローブを持ってうつむいていた。
    少し寂しそうに見えた。
     
    「よ〜少年、キャッチボールするか?」
    俺は声をかけた。
     
    少年は首を横に振った。
    「んっ!?どうした?」
    「……ボール、ボール無くした」
     
    たった一言。
    でも、それだけで伝わった。
    彼にとって大切な、たった一つのボールだと知っていたから。
     
    俺は、少年が座るベンチの隣に腰を下ろした。
     
    「そっか。そのうち見つかるよ」
     
    俺は、少し他人事のように、空を見上げながら言った。
     
    その時——
     
    「馬鹿野郎! それはこっちのセリフだ!」
     
    俺は、一瞬固まった。
     
    それは、明らかに少年の声じゃなかった。
     
    「……聡」
     
    俺はあえて横を見なかった。
     
    見たら——いなくなってしまう気がしたから。
     
    二人、ベンチに並んで、遠くを見ていた。冬の公園の向こう、枯れた木々が風に揺れている。
     
    「よ〜兄弟、大丈夫だ」
    「……ああ」

     
    胸の奥で、何かがほどけた。
     
    「お前はお前らしく生きろ。そしたらな、、、」
    一瞬の間があった。
    ほんの、一瞬。
    そして、
     
    「「ニヤリだ!」」
    二人の声が、重なった。
     
     「ニヤリだな」俺は繰り返した。
     「ああ、ニヤリだ」聡は答えた。

     
    しばらく、沈黙が続いた。
     
    木の葉が一枚、ゆっくりと落ちていった。
     
    「お前らしく生きろ」——その言葉が、じわりと体に染みてきた。
     
    「酒をやめろ!」それだけじゃなかった。
    そうだ。聡も、ワーカーホリックだったんだ。
    酒も、俺と同じくらい飲んでいた。
    闘病しながら、気づいたのだろう。
    自分が本当にやりたかったことを、やり切れていなかったことに。
    「このままだとあいつも同じ道を辿る」そう思ったのだろうと。
    でも時間が足りなかった。
    だから「お前、何やってんだ?」と、聡の命懸けのメッセージだった。
    あれは「酒やめろ」じゃなかった。
    本当のお前の人生を、生きろ・・・・そういうことか。
     
    そういうことだったのか、聡。
    俺は、泣いていた。
    大の大人が、どれくらい泣いただろうか?
    それでも、緊急入院のとき、あの診察室で泣いたときの気持ちとは違った。
    俺は聡がいない寂しさと反面「生きてる」という幸せの余韻に浸っていた。
     
    「……あっ、そういえば」
    俺は、ふと思い出した。

    「お前、言ってたよな?入院中に。渡したいものがあるって——なんだったんだ?」

    返事が、なかった。
     
    沈黙。
     
    「 ・・・聡?」

    その時、
    「あっ! あった! あそこだ!」
    少年の声。
     
    ベンチから飛び上がって、公園の隅に向かって走っていく。
    フェンスの際の垣根の下に、白いボールが転がっていた。
     
    少年がボールを拾い上げて、ぐるりと振り返った。
     
    「おじちゃん!おじちゃんは、もしかして神様?おじちゃんと会うと良いことがあるんだ。だからこの間、おじちゃんが言ってくれたこと信じるよ!」

    「ボクはボクらしく生きるっ!ありがとう!じゃあね!」

    俺が返事をする間もなく、ありがとうを言って走っていった。
    ずいぶん遠くから、振り返って両手を大きく振っていた。
     
    俺は立ち上がった。
    そして俺は、また泣いていた。
    「さとし……」俺の声は力無くて、
    それでも、ただ大きく、大きく、手を振り返した。
     
    少年が走り去っていく。
     
    「俺の方こそ、ありがとうな」
     
    俺は、空を見上げて覚悟した。
    桐山和也らしく、俺を生きる。と。
     
    スマホを取り出して、聡とのトーク画面を開いた。
     
    「よ〜兄弟っ!お前は本当に優しいな」
    あの言葉が、目の前で、消えていった。
     
    既読も、記憶を辿るように、一つずつゆっくり消えていった。
    最後は、俺からの一方通行のメッセージだけが、静かに残った。
     
    それだけでよかった。 
    それだけで、十分だった。
     

    ・・・・・あれから半年以上が経った。
     
    翌年の夏、俺は退職届を出した。
     
    2023年8月15日 —— 俺の終戦の日。 
    そして今日—— 8月16日、建築士事務所として独立した。
    聡の命日は、俺の再誕(リバース)になった。
     
    バルコニーに出た。
    酒と仕事から抜け出した清々しい俺の朝だ!
    あの白い天井の朝を思い出す。
    入院した夜、天井を見上げながら、死にたくないと思った。あの白い天井の下から、全てが始まった。
    夏の空が、どこまでも青かった。
     
    あの白い天井は、この青い空のために、、、なんて辻褄を合わせた。
     
    「 聡…… 俺、独立したぞ! 」
     
    お約束の俺だけのLINE報告日記だ。
    当然、既読にはならない。
    それでいいんだ。
     
    セミが鳴いている。
    この一瞬を生きるために必死で鳴いている。
    そして、家のチャイムが鳴った。
    スマホをダイニングテーブルに置いて玄関を出た。
     
    宅配業者が立っていた。
     
    「桐山和也様にお届け物です」
     
    受け取ろうとして、伝票の送り主の目を疑い、止まる。
     
    送り主「河野 聡」
    内容物「ウイスキーボトル」
    箱の外に「飲むな厳禁」と聡の乱暴な字が書いてあった。

     
    「ふっ、飲まねーよ!」と鼻で笑いながら伝票にサインした。
    聡が渡したかったものは、皮肉にも2人が好きだったウイスキーだったようだ。
     
    俺は「ニヤリ」と笑みを浮かべていた。
    伝票を受け取った宅配業者の口元がニヤリとしていたのは気のせいだろうか?

    俺は、聡が渡したかったものを見ながら言った。 
    「ふっ、お前、何やってんだよ……笑」
     
    俺はドアを閉めた。
     
    (最終話「よ〜兄弟」終)

    俺、何やってんだ?【完】

     
     
    一級建築士|55歳で脱サラ独立|断酒1300日超で継続中。アルコール依存症、末期肝硬変で緊急入院し死と向き合う、部下の自死、親友の死——それでも「人生は旨い」と言える男でありたい。50代はまだ最強だ。本心で生きることを、書き続けます。

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