
噓をつくのはもうやめて 第1話 崩れたケーキ
『嘘をつくのはもうやめて』
第1話「崩れたケーキ」
結婚すると思っていた恋人に振られた日。
わたしは、自分がずっと見ないふりをしていたものと向き合うことになる。
本音を言えない女性が、自分の人生を取り戻していく物語。
第1話 崩れたケーキ
わたしの彼は優しい。
一度も怒ったところを見たことがないし、責められたこともない。
体調を崩してデートを延期しても「ゆっくり休んでね」と言ってくれるし、仕事が忙しくて会えなくても「頑張っていてえらいね」と言ってくれる。
取りたい資格の勉強を優先したいと伝えたときも、「杏沙はえらいね」と笑ってくれた。
たぶん、これだけ聞いたら、いい恋人だと思う。
わたしも、そう思っていた。
——あの日までは。
「杏沙って、意外とかまってちゃんだよね」
ケーキを食べようとしていた手が、止まった。
「意外」ってなんだよ、と思う。
でも、その言葉は口に出さない。
フォークに刺していたケーキが、ぼとりと落ちて、かたちを崩した。
「俺、ドライな人が好きなんだよね」
なんで急にそんな話になるのか、わからなかった。
わからないまま、崩れたケーキを見つめている。
「……ごめん、杏沙」
彼が、ゆっくりと頭を下げた。
「俺と、別れてほしい」
頭の中に、うまく言葉が入ってこない。
わたし、なにかした?
最近、会えてなかったから?
ちゃんとした“彼女”になれてなかった?
あ、そっか。
——わたし、彼に依存してたのかもしれない。
そう思った瞬間、急に自分が嫌になった。
「……ごめん」
彼はまた謝る。
「謝らないで」
わたしは、笑ってみせる。
うまく笑えているかは、わからない。
「わたしたち、別れよう」
言葉にした瞬間、少しだけ現実味を帯びた。
なのに、わたしたちはその場を離れなかった。
いつもみたいに、どうでもいい話をして、笑っていた。
別れたはずなのに。
店を出たあとも、彼は最後までそばにいてくれた。
「慌てなくていいよ」
「ゆっくりでいい」
そう言って、いつもみたいに優しく笑う。
その優しさが、どうしようもなく、苦しかった。
ひとりになった帰り道。
急に、胸の奥がざわついた。
さみしい。
人恋しい。
ああ、そっか。
わたし。
彼がいなくなることよりも、
「ひとりになること」の方が、怖いんだ。
そう気づいたとき、ふと思った。
——いつから、こうなったんだろう。
ショルダーバッグからスマートフォンを取り出す。
彼と会っているときは、なるべく見ないようにしていた。
着信が一件。凪からだった。
電話をかけると、すぐに出た。
「——もしもし?」
*
「彼氏と別れました」
そう言うと、凪は目をまんまるにしてこちらを見る。
「え、別れたの?」
「別れた、というか、振られたというか」
まだ、うまく実感がない。
「結婚すると思ってたよ」
「わたしも、そう思ってた」
「ですよね」
凪は、ふっと息を吐く。
「俺は来週から映画の現場に入るよ」
「よかったね、おめでとう」
「そうだといいんだけど」
「少なくとも、夢に近づいてるよ」
言いながら、少しだけ胸がざわつく。
「杏沙は諦めたの?」
一瞬、言葉が止まる。
「その質問、きょう彼にも言われた」
「あ、ごめん……」
「ううん、大丈夫」
少しだけ、沈黙が落ちる。
「杏沙って、今でも澪と連絡とってる?」
「年に一回とるかとらないかって感じかな」
「こないだ偶然会ったんだよ。イラストレーターやってるって」
澪。
「今度、個展やるみたいだよ」
個展。
「……すごい」
そう言いながら、胸の奥がざわつく。
「ねえ凪」
「ん?」
「わたし、澪に会いたい」
凪は少しだけ笑った。
「……そう言うと思った」
*
数日後、凪と一緒に会場へ向かった。
「杏沙さ、澪に会うの怖い?」
「……ちょっとだけ」
それ以上は聞いてこない。
凪は、そういう人だ。
ギャラリーは、静かな空間だった。
白い壁に、いくつかの絵が並んでいる。
一歩、足を踏み入れる。
呼吸が、少しだけ浅くなる。
「いらっしゃいませ」
聞き覚えのある声に、顔を上げる。
「……杏沙?」
澪だった。
「ひさしぶり」
それだけ言うのに、少し時間がかかる。
「来てくれてありがとう」
澪は、まっすぐこちらを見る。
絵を見る。
静かで、呼吸しているみたいだった。
「……すごいね」
やっと出た言葉が、それだった。
「ありがとう。やっとここまで来た、って感じ」
“やっと”。
その言葉が、胸に引っかかる。
「杏沙は、最近どう?」
「……ふつうかな」
また、嘘が出る。
「そっか」
それだけ。
奥の小さな作品の前で、足が止まる。
白い紙に、かすかに震える線。
『まだ、言えていないこと』
心臓が、大きく鳴る。
「それ、いちばん新しいやつ」
「完成してるの?」
「してない。たぶん、ずっと途中」
少しだけ、間があく。
「言えなかったことって、
言おうとすると、崩れる気がするんだよね」
崩れる。
さっきのケーキが浮かぶ。
「でも、言わないままでも、残るでしょ」
喉が、きゅっと締まる。
「どっちも苦しいなら、
少しだけ崩してでも言う方を選びたい」
「……杏沙」
澪が、少しだけ強く名前を呼ぶ。
「いま、何から逃げてる?」
逃げてる。
口を開く。
閉じる。
また、開く。
「……わたし、」
声が震える。
「描きたかったの。
ほんとは、ずっと」
涙が、落ちる。
澪は何も言わない。
ただ、そこにいる。
——逃げなかった。
はじめて、少しだけ。
胸の奥で、何かがほどける音がした。