潮の味
車の窓を開けると潮の匂いが一気に鼻に入り込んできた。
冬の海沿いの道を走るのは真白が楽しみにしていたことだった。
日に照らされた海はキラキラしていてレースカーテンみたい。
窓から顔を出して冷たい潮風を頬に当ててみた。髪が不規則に揺れて顔がくすぐったい。
まっすぐ伸びた道を振り返りたくなったけれど止めた。
運転している田代さんは、ハンドルを両手で強く握りしめている。
窓を少し閉めて、シートに座りなおした。
目を閉じて、微かな海の匂いを感じながら、砂浜のざらつきや海水の冷たさを想像した。
瞼の裏の白い光の中から、小さいころ、海辺のクラゲに刺されたことを思い出した。
片手で数えられるほど少なくて珍しい、父と二人で出かけた日のことだった。
痛みと気持ち悪さで大泣きしている私を抱えて、父は慌てて病院に連れて行った。髪も体も濡れたままで車に乗ることが不快だったのを思い出す。
先生は泣きべそかいている私にカエルの指人形をくれた。
病院からの帰り道に二人でレストランに寄った。
一人ずつ、一人前を注文した父に、幼ない自分はうれしい気持ちになった。
その翌年父はいなくなった。
目を閉じていても、視界が暗転してトンネルに入ったのが分かった。
海の底はどのくらいの暗さなのだろうか。きっと光も暖かさもない漆黒の世界なのだろう。
もし田代さんとこのまま海の底まで歩いて、海底の砂の一部になれたらどうだろうと考えていたら、うとうとしだして眠ってしまった。
「何か食べようか」という声が聞こえたが、すぐ返事ができなかった。
「眠ってたの?」彼は微笑した。
「はい、お腹すきましたね」道路沿いには飲食店が点在している。
シャッターが閉まっているものもあったが、『旬の盛り合わせ 海鮮丼780円』と書かれた旗が掲げられた、年季の入った店に入った。
古い店独特の匂いがした。それは良い匂いとも言い難いが、すぐに鼻が慣れて違和感がなくなった。
テレビからの程よい音量のニュースアナウンスが心を落ち着かせた。
椅子とソファ席はどちらも同じ素材で、柔らかな座り心地だった。
カバーには濃い紫の花の模様が描かれている。
席に着くなり提供されたお茶を飲むと、やけどする熱さで目に涙がにじみ、急いで水を口に含んだ。
涙目の真白を見て彼は笑った。
「前も一度、二人で海鮮を食べたよね」
「そうだったかも…。いつでしたっけ」
「江の島で。初めて遠出した時だよ」
「すごく暑かった日のことですね。懐かしいです」
潮のしょっぱさが、緑茶と水と一緒に体に溶け込んで、心臓を温かくしてくれる気がした。
間もなく大きなどんぶりが二つ、お盆に載せられて運ばれてきた。
お盆を持ったお爺さんの腕が震えているのが分かり、2人とも慌てて自分から手を伸ばした。
車に戻りヒーターをつけると一気に眠気が二人を襲った。
ラジカセから聴こえる音楽がどんどん小さくなっていく。
知らない田舎街の広い駐車場の真ん中で、二人きりで眠りにつくことの幸福を感じた。
周りとの温度差で、温かい車体だけがどんどん空に浮かんでいくような感じがした。
優しいブレーキで目が覚めた。窓から見上げた空は既に真っ暗で、星が煌めいている。
「ついた。少し歩こう。」
車を出て彼の背中について歩いた。いつもより体が小さく見えるのは都会より空が暗いからだろうか。
少し歩くと、見たことない名前のコンビニが、暗闇の中で蛍のように発光していた。
「少し待っててください」真白はコンビニへ走った。
蛍光灯の眩しさで一瞬目が眩んだ。中年の男性店員は真白を一瞥し小声で「いらっしゃいませ」と言った。
暖かいお茶とブラックコーヒーを買った。
「ありがとう」コンビニの前で待っていた彼はコーヒーを選んだ。
もう夜なのに、コーヒーは違ったかなと、手渡すときに思った。
そこから5分ほどでついたのは、木々や植物に囲まれた小さな宿だった。
敷地内に大きく咲いている椿が連なっていて、宿まで案内してくれているようだった。苔に囲まれた石のステップを踏み進め、かすかな光が漏れている戸を開けた。
受付をしてくれたのは真白と同い年くらいの女性だった。
はっきりとした口調で説明をしている。大浴場の湯は腰痛に効くらしい。
制服である浴衣が似合ってない人だと感じた。
この人には黒いタートルネックが似合う。
なぜここで働いているのだろうと、ぼんやり答えのないことを考えていたら、一通りの案内が終わった。
階段に向かう角を曲がるときに、真白がふと振り返ると、案内をしてくれた彼女がじっとこちらを見ていたようで目が合った。
彼女は慌てて一礼をした。
部屋には身長より高い窓がついていて、そこから湖が見えた。
暗くてよく見えないが、深い緑色の澱んだ湖だと思った。
じっくり見ようとして窓に手を当てると氷のように冷たく、身震いした。
「明日どこか行こうか」田代さんがグレーのジャケットを脱ぎながら聞いた。
「おいしいうどんが食べたいです」
「ここはうどんが有名だったね」
「近くにあれば、神社にも行きたい」
「…分かった。あると思う。調べてみよう」
「そういえばさっき、昔教えてくれたCがラジオから流れてきたよ。
気持ちよさそうに眠っていたから起こさなかったけど」
「へぇー!ラジオだとなぜかラッキーって思いますね」
「そうだね。その曲を教えてくれた日のことを思い出したよ」
「そういえば、家に十数万で買ったレコードを残してきたなぁ」
「ふーん。帰って持ってくれば?」
「ごめん、ふと思い出しただけだよ」 田代さんは笑った。
「田代さん」
「うん?」
「ここまで来てくれてありがとう」
「そんな改まって、いつもと変わらないよ」
「そうですね」
今日、田代さんとここに来るために、真白は髪を黒く染めた。
名前の通り、生まれたときから肌が白かった。
日本人形みたいで気味が悪いと母に言われてから、髪を染めても問題ない高校生の時からずっと茶髪か明るい髪色にしていた。
いつも些細な変化にも気づいてくれる田代さんが髪について何も言わないので、やっぱり良くなかったのかもしれないと後悔した。
夕食にも海鮮が出てきた。
お腹が空いてなかった二人は、デザートのメロンだけを食べて、ティッシュに刺身を包んで外へ出た。
パーカーのチャックを閉めながら田代さんに言った。
「いけないことをしてるみたいね」
「いけないことをしてるんだよ」
田代さんの息が白く漏れて、真白もつられて笑った。
昔から動物に好かれやすいとは思っていたが、姿を現した黒猫はすぐにすり寄ってきて数切れの刺身を平らげた。
掌をぺろぺろ舐めている子猫を田代さんは優しく撫でた。手の甲を久しぶりによくみた気がして、細くなっていく繊細な指先に触れたくなった。
宿に戻る道で田代さんは手を繋いできた。
田代さんの手はぬるい暖かさがあった。
氷のように冷たかった真白の手に、徐々に血液が巡って、溶け合っているようだった。
街灯の少ないこの道を歩くには満ち足りすぎていた。
~~~~~~~~~~~~
助手席では気持ちよさそうに真白が目を瞑っている。
口角が上がっているように見えるのはそう思いたいからだろうか。
彼女の下ろした黒髪は、今までのどんな髪型よりも、その絹のような白い肌を際立たせていて美しかった。
行き道この海沿いを通ったとき、彼女が窓を開けていたのを思い出した。
車を脇に止め、体を伸ばし彼女側の窓を開けた。
潮風は、ここへ来た昨日のそれよりも暖かい。
もうすぐ春が来るんだ。
田代は地図を探しても見つからない道へ車を発進させた。