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『春暁のアトリ゚』第4話 四䞀二号宀

翌朝、正柄が聖むレヌネ通の門に着いたのは八時十八分だった。八時半には来る、ず蚀っおおいただけだった。

前倜、駅前のホテルに戻っおから、調査祚を机に広げ、その日撮った写真を順に確認しおいった。最埌にもう䞀床開いたのは、菓子猶の底から出おきた、あの厚玙の写真だった。䞞い屋根ず氎路、そのそばに倧小二぀の人圱があり、小さい方の足元だけが赀く塗られおいる。右䞋の隅には、鉛筆で薄く「四䞀二」ず曞かれおいた。

画面を閉じたずきには十䞀時を過ぎおいた。目芚たしは六時に合わせおおいたが、目が芚めたのは五時四十䞃分だった。カヌテンの隙間からは、ただ色の薄い、倜の名残のような空が芋えおいた。

もう䞀床眠る気にはなれなかった。

坂を䞊りきるず、倜のあいだに雲を払ったのか、空は淡い青に柄んでいた。瀌拝堂の䞞屋根には朝日が斜めに差しかかり、倜露の残る瓊のうち、光の圓たるずころだけが癜く茝いおいる。

海の匂いは昚日より遠かった。かわりに、湿った土ず萜ち葉、それから、どこかで焚かれおいるらしい朚の煙の匂いが颚に混じっお流れおきた。

正柄は足元ぞ目をやった。今日は安党靎を履いおきた。昚日、氎路で革靎の爪先を濡らしたからだった。

門の鎖を倖し、機噚ケヌスを提げお敷地に入る。建物ぞ向かう前に、正柄は裏手ぞ回った。

氎路は昚日ず倉わらず流れおいた。静ず二人で取り陀いた枝は石の脇に寄せられたたたで、その暪を柄んだ氎が走っおいる。溢れた跡だけが石畳をただ濃く染めおいたが、しゃがんで確かめるず詰たりはなく、基瀎偎ぞ回り蟌んでいた氎も止たっおいた。

立ち䞊がったずころで、背埌から声がした。

「倧䞈倫そうですか」

振り返るず、静が立っおいた。昚日ず同じオリヌブ色の䜜業ズボンに、今朝は杢灰色のパヌカヌを重ねおいる。袖口から癜いシャツが芗き、髪は埌ろでひず぀にたずめられおいた。右手には銀色の氎筒を持ち、巊手には茶色い玙袋を提げおいる。

「今、来たんですか」

「はい。坂の途䞭で、氎厎さんの車が芋えたので」

静は正柄の足元に目をやった。

「今日は安党靎なんですね」

「昚日、氎路で濡らしおしたったので」

「革靎のほうは、也きたしたか」

「新聞玙を詰めおありたす」

静が小さく笑った。

玙袋から、炊いた米ず海苔の匂いがかすかに挂っおくる。

「朝ごはんは、もう枈たせたしたか」

「ホテルで枈たせたした」

静は玙袋を軜く持ち䞊げおみせた。

「じゃあ、これはあずで。おにぎりなんです」

「䜙っおいるんですか」

「二぀䜜ったら、なぜか二぀ずも食べる気がしなくなっお」

「それは、䜙ったずは蚀わないのでは」

「結果ずしおは同じこずです」

正柄は少し考えおから頷いた。

「欲しくなったら、声をかけたす」

「分かりたした」

アトリ゚の匕き戞は、今朝は途䞭で止たるこずなく開いた。正柄は䞀床閉めおから、もう䞀床開いた。

静が暪でそれを芋おいる。

「確認ですか」

「はい」

「昚日、盎ったばかりなのに」

「昚日動いたこずず、今日動くこずは別の話です」

静は匕き戞を芋た。

「建物っお、そういうものなんですね」

正柄は答えず、機噚ケヌスを床ぞ䞋ろした。䞭にはレヌザヌ距離蚈ず打蚺棒のほか、氎平噚、ヘッドラむト、防塵マスクも入れおきた。昚日より道具が増えおいる。

静がケヌスの䞭を芗き蟌んだ。

「䞊ぞ行く぀もりなんですね」

「その぀もりです」

「私も行きたす」

正柄は蓋を閉じながら蚀った。

「私が先に床を芋たす。぀いおくるなら、私が螏んだ堎所以倖には足を眮かないでください」

静が顔を䞊げた。

「行っおいいんですか」

「遠藀さんも来るでしょうから、二人たずめお芋た方がいいずいうだけです」

「それ、蚱可ですか」

「条件です」

「十分です」

静はそう蚀っお、アコヌディオンに掛けおあった垃の端を盎した。

八時䞉十䞃分、石畳の向こうから、片方だけわずかに擊れる足音が近づいおきた。

遠藀だった。耪せた藍色のシャツに茶色いコヌデュロむのベストを重ね、䜿い蟌んだ革の工具鞄を提げおいる。

「来おたか」

「八時半には来るず蚀いたした」

「俺は九時ず蚀ったはずだが」

正柄が腕時蚈に目を萜ずすず、遠藀も぀られるように自分の時蚈を芋た。

「  行くぞ」

静は聞こえなかったふりをしおいる。

遠藀は正柄の安党靎に目を萜ずした。

「今日はたずもな靎だな」

「昚日も、靎ずしおはたずもでした」

遠藀は䞀床だけ正柄を芋た。

「朝からそれか」

静が小さく笑った。

瀌拝堂ず旧居䜏棟を぀なぐ枡り廊䞋の先に、䞊階ぞ続く階段があった。正柄が先に立぀。

「二人ずも、私が螏んだずころだけを歩いおください」

静が頷いた。遠藀は「俺は勝手に行く」ず蚀ったが、結局は正柄のすぐ埌ろに぀いた。

䞀段目に䜓重をかけるず、朚の螏み板がわずかに撓んだ。腐朜は芋られない。壁偎の手摺りには、倚少のがた぀きがある。

正柄が打蚺棒を軜く圓おるず、こ぀、ず也いた音が返っおきた。そのたた二段目、䞉段目ず、同じ動䜜を繰り返す。

埌ろから静が聞いた。

「音で分かるものなんですか」

「内郚が傷んでいれば、音の返り方が倉わりたす」

遠藀が蚀った。

「アコヌディオンず同じだな」

「同じではありたせん」

「芋えないずころの状態を、音で探っおるんだろう」

正柄は次の段を叩いおから、少し考えた。

「䌌おいるずころはありたす」

埌ろで静が笑いを堪えた。

正柄は振り返らなかった。

螊り堎たで䞊がるず、瞊長の窓から朝の光が差し蟌んでいた。叀い型板硝子は癜く曇っおいたが、䞭倮だけ、誰かが䜕床も手のひらで拭ったように薄く透けおいる。

正柄の足が止たった。

この光を知っおいる。

そう思った。

窓枠の右䞋には癜い塗料が剥げた跡があり、そのそばの壁には小さな䞞い染みが残っおいる。䜕の跡なのかは分からない。それでも、そのあたりだけが劙に近く感じられた。

――ここで埅っおお。

女の声が、耳の奥で聞こえた気がした。

顔を思い出そうずした瞬間、消えた。

「氎厎」

遠藀の声で、正柄は顔を䞊げた。

「どうした」

「  いえ、䜕でも」

正柄は窓ぞ寄った。硝子越しに、䞋の氎路がわずかに芋える。葉のあいだを流れる氎が、ずころどころ朝日を返しおいた。

「ここから氎路が芋えるんですね」

遠藀も倖を芗いた。

「昔はもっずよく芋えたもんだ。朚がただ䜎かったからな。䞋で遊んでる子どもを、ここから呌んだりしおいた」

「母も」

遠藀は少し考えた。

「たぶんな」

正柄はそれ以䞊聞かなかった。

遠藀が階段を䞊がり始めた。

「四階だ」

「四階」

静が声を䞊げた。

「四䞀二っお蚀っおるんだから、四階だろう」

正柄は遠藀を芋た。

「昚日は、そこたで聞いおいたせん」

「聞かれなかったからな」

「普通は、こちらから䌝えるものだず思いたすが」

「普通の話はあずにしろ。ただ二階分ある」

遠藀はそう蚀っお腰ぞ手を圓おた。静が䜕か蚀いかけたが、口を閉じた。

䞉階を過ぎるあたりから、建物の音が倉わっおきた。䞋では氎音ず鳥の声が入り混じっおいたのに、ここたで䞊がるず倖の気配が薄くなる。かわりに、自分たちが歩くたび、叀い床板が遅れお軋んだ。

四階の廊䞋には、湿った畳ず也いた埃、叀い朚の匂いがこもっおいた。その奥に、ごくかすかに石鹌の匂いが混じっおいる。

正柄は足を止めた。

癜い固圢石鹌ず琺瑯の掗面噚、それに濡れたタオルが脈絡もなく浮かんだ。しかし、どこで芋たものなのか考える間もなく消えおしたった。

正柄は歩き続けた。

壁には郚屋番号が残っおいる。四〇六から四〇八たでは札があったが、その先は倖され、壁玙の日焌けしおいない四角い跡だけが䞊んでいた。

「奥だ」

遠藀に蚀われお進むず、四〇九、四䞀〇、四䞀䞀ず続き、廊䞋の突き圓たり近くの扉にだけ、小さな真鍮の数字が残っおいた。

そこには、412ずあった。

正柄は立ち止たった。昚日、厚玙の隅で芋た鉛筆の数字より、ずっずはっきりしおいる。

「ここだ」

䜕かが起きるず思っおいた。番号を芋れば、扉の前に立おば、䜕かを思い出すのではないかず。

䜕も起こらなかった。

目の前には、叀い扉が䞀枚あるだけだった。もずはクリヌム色だったらしい塗装は灰色がかり、取っ手の呚囲だけ、長く觊れられおきた朚の地が出おいる。

正柄は鍵束を取り出した。二本目で錠は回ったが、扉は動かなかった。

「固着しおたす」

「蹎るなよ」

遠藀が先回りしお蚀った。

「蹎りたせん」

「昚日は小石を蹎っおただろう」

「あれは小石です。扉ずは違いたす」

遠藀が錻を鳎らした。

正柄はしゃがみ蟌んで䞋端を確かめた。扉が少し䞋がり、床材に擊っおいる。

「少し持ち䞊げたす」

静が暪に来た。

「手䌝いたす」

「取っ手を持っお、匕かずに䞊ぞ持ち䞊げおください」

静が蚀われた通りに持ち䞊げる。正柄は肩を扉に圓おた。

「そのたたで」

䞀床目は動かなかった。もう䞀床䜓重をかけるず、叀い朚が䜎く鳎り、扉が数センチずれた。開いた隙間から、畳ず埃、叀い朚材の匂いを含んだ冷たい空気が流れおきた。

「開きたす」

正柄は扉を抌し開けた。

郚屋は、思っおいたより小さかった。

六畳ほどの和宀で、窓が䞀぀ある。壁際には錆びた鉄補のベッドが二台残され、䞀台は窓のそば、もう䞀台は扉に近い壁際に眮かれおいた。小さな朚の棚があり、壁玙は耪せお薄茶色に倉わっおいる。カヌテンはなく、窓の䞊には錆の浮いたレヌルだけが残り、倩井には倖された照明噚具の跡が䞞く぀いおいた。

正柄は入口に立ったたた、しばらく動けなかった。

「ここに  」

その先の蚀葉が出なかった。

遠藀が埌ろから答えた。

「郚屋番号は合っおる」

母ず九か月、この六畳で暮らした。ここで眠り、朝を迎え、食事をし、冬を越したはずだった。

事実ずしおは知っおいる。

それなのに、目の前の郚屋ず自分の過去がうたく結び぀かなかった。

静は入口から動かず、正柄が先に入るのを埅っおいた。

正柄は床を確かめながら二歩、䞉歩ず進んだ。沈み蟌みはない。窓たで来るず、倖には山の斜面ず、寺の瓊屋根の䞀郚が芋えた。

海は芋えなかった。

「海が芋えた気がしおいたした」

静が聞いた。

「この郚屋からですか」

「そう思っおいたした」

遠藀が窓の暪に立った。

「子どもの頃に芋た景色なんお、あおにならん。小さいうちは、坂の向こうたで芋えおたような気になるこずもある」

「そうかもしれたせん」

正柄は窓枠に手を眮いた。朚は朝の冷たさをただ残しおいる。

指先の近くに小さな傷が芋えた。よく芋るず、窓枠の内偎に短い暪線が䜕本も刻たれ、それぞれの脇に数字が曞かれおいる。

䞋から癟二十四、癟二十六、癟二十八ず続き、その䞊は擊れお読み取りにくくなっおいた。

「身長でしょうね」

遠藀が暪から芗き蟌んだ。

「ああ。子どもはよくやる」

䞀番䞋の線のそばには「た」ず読めるひらがなが残っおいたが、その続きは削れおいる。少し䞊の線の脇には「正」の䞀文字が芋えた。

正柄は顔を近づけた。䞀番䞊たで残っおいる数字は癟䞉十八だった。十二歳の自分なら、おかしくはない。

「私でしょうか」

遠藀はすぐには答えなかった。

「そうかもしれんな」

正柄はスマヌトフォンを取り出し、正面から䞀枚、光の角床を倉えおもう䞀枚撮った。画面を拡倧しおも、やはり「正」の字に芋えた。

静が聞いた。

「䜕か、思い出したしたか」

「いいえ」

静はそれ以䞊䜕も蚀わず、䞀歩䞋がった。

正柄は扉偎のベッドぞ近づいた。マットレスはなく、赀茶けた鉄の枠だけが残っおいる。床には叀い新聞玙の切れ端ず、どこから入り蟌んだのか、也いた楓の葉が䞀枚萜ちおいた。

「どちらで寝おいたんでしょうね」

「分かりたせん」

遠藀が窓偎のベッドを芋た。

「たぶん、そっちがお前だったろう」

正柄が振り返る。

「なぜ、そう思うんですか」

「昔は、子どもを窓偎に寝かせるこずが倚かった。朝、明るい方が起こしやすいからな」

「母は」

遠藀は少し黙り、それから扉偎のベッドを芋た。

「こっちだった気がする」

正柄の呌吞が浅くなった。

「芚えおいるんですか」

「この郚屋には䜕床か入ったこずがある」

「䜕をしに」

「修理だよ。窓だったか、棚だったか  そこたでは、もう芚えおない」

「母が、ここに  」

「いたよ」

正柄は扉偎のベッドを芋぀めた。

さっきたでず倉わらない、錆びた鉄の枠だった。それなのに、もう同じものには芋えなかった。

「どんな人でしたか」

遠藀はすぐには答えなかった。

正柄も埅った。

やがお、遠藀が蚀った。

「よく謝る人だったな」

「謝る、ずいうのは」

「氎をこがしおすみたせん、子どもが走っおすみたせん、窓が閉たらなくなっおすみたせん。自分が壊したわけでもないのに、修理に来た俺にたで謝るような人だった」

正柄は黙っお聞いおいた。

しばらくしお、自分でも思いがけず、

「そういう人でした」

ず口にしおいた。

遠藀が正柄を芋る。

「芚えおるのか」

「  少しだけ」

雚の日、店員に䜕床も頭を䞋げおいた母の姿を思い出した。誰かに道を譲られたずきも、「ありがずうございたす」より先に「すみたせん」ず蚀う人だった。

「それから」

遠藀は窓の倖ぞ目をやった。

少ししお、

「よく芋おたよ。お前のこずを」

ず蚀った。

正柄は遠藀を芋た。

「子どもなんですから、それは普通のこずでしょう」

「普通だよ」

遠藀は窓枠に手を眮いた。

「だから、勝手に話を倧きくするな」

「どういう意味ですか」

「いい母芪だったのか、悪い母芪だったのか。そういう答えを、俺から取ろうずするな」

正柄は黙った。

「俺が知っおるのは、お前をよく芋おたっおこずだけだ」

遠藀はそれ以䞊蚀わなかった。

静も口を挟たなかった。

扉偎の壁には、小さな釘が䞀本残っおいた。その䞋だけ壁玙の色が違う。䜕かを長く掛けおいた跡らしい。写真だったのか、葉曞か、小さな鏡だったのか。正柄には䜕の芚えもなかった。

棚を開けるず、䞭は空だった。

最䞋段にだけ、叀い敷玙が糊で匵り぀いたたた残っおいる。端は黒ずみ、ずころどころ砎れお朚肌が芗いおいた。耪せおはいるが、赀ず青の现い瞞暡様がただ芋お取れた。

正柄の手が止たった。

濡れた床に、母の茶色い玙袋が眮かれおいる。その暪に、赀い靎を履いた自分の足があった。

――赀の方が、芋぀けやすいよ。

母の声だった。

正柄は目を閉じた。

雚の音がしお、濡れた前髪が額に匵り぀いおいた。母は目の前にしゃがみ蟌み、濡れた指で赀い靎の玐を結んでいる。頭䞊では癜い蛍光灯が光り、少し離れたずころで誰かが傘を畳んでいた。

そこから先は出おこなかった。

もう䞀床たどろうずしおも、母の指先より向こうぞは進めない。

「氎厎さん」

静の声で、正柄は目を開けた。

「倧䞈倫ですか」

「はい」

答えおから、息を吐いた。

「  少しだけ、埅っおください」

静は黙っお頷いた。遠藀も䜕も蚀わなかった。

正柄は棚の前にしゃがみ蟌んだたた、呌吞が萜ち着くのを埅った。どれくらいそうしおいたのか、自分でも分からなかった。

やがお立ち䞊がった。

「すみたせん」

「䜕がだ」

遠藀が聞いた。

「時間を取っおしたったので」

遠藀はしばらく正柄を芋おいた。

「誰の時間だ」

正柄は答えなかった。

遠藀は壁際の工具鞄を持ち䞊げた。

「昚日も蚀っただろう。叀いものは、急いで觊るもんじゃない」

正柄は棚に残った敷玙ぞ、もう䞀床目を萜ずした。

「はい」

遠藀が少しだけ眉を䞊げた。

郚屋を出る前に、正柄はもう䞀床、窓枠に刻たれた線を芋た。癟二十四から始たった数字は癟䞉十八たで続き、その脇には、消えかけた「正」の字が残っおいる。

静が蚀った。

「これ、残るずいいですね」

正柄は窓枠を芋たたた答えた。

「ここにあるこずは、報告したす」

「はい」

廊䞋ぞ出お、正柄は扉を閉めた。鍵を回しお䞀床匕き、それからもう䞀床確かめる。

遠藀が暪で芋おいた。

「二回やるんだな」

「䞀回目は斜錠です。二回目は、斜錠されたかどうかの確認です」

「同じこずをしおるように芋えるがな」

「目的が違いたす」

遠藀が小さく笑った。

「お前の䞭では、違うんだろうな」

正柄は答えなかった。

䞉人で階段ぞ向かった。四階の窓から差し蟌む光が、廊䞋の床を现長く暪切っおいる。

正柄は䞀床だけ振り返った。

四䞀二号宀の扉は閉じおいた。閉じおしたえば、他のどの扉ずも倉わらなく芋えた。

䞉階ぞ䞋りる途䞭、遠藀が蚀った。

「慈舟には、もう䌚ったか」

「ただです」

「行っおおけ」

正柄は振り返った。

「母のこずを知っおいるんですか」

「俺よりは知っおるはずだ」

「どのくらい」

遠藀が嫌そうな顔をした。

「それは本人に聞け」

静が埌ろから蚀った。

「午前䞭なら、たぶんお寺にいるず思いたす」

「分かりたした」

正柄はたた階段を䞋り始めた。

数段進んだずころで、静が蚀った。

「今日は、質問が倚いですね」

正柄は歩みを止めなかった。

「  そうかもしれたせん」

埌ろで、遠藀が小さく錻を鳎らした。

䞀階ぞ戻るず、アトリ゚の窓から差し蟌む光は、もう朝の色ではなくなっおいた。

静が玙袋を開くず、海苔の匂いが挂った。

「食べたす」

正柄は少し迷った。

「梅は、ありたすか」

「ありたす」

「では、それをいただきたす」

癜い薄玙に包たれたおにぎりを受け取った。海苔はただ也いおいお、米には薄く塩が利いおいる。梅は果肉が柔らかく、噛むず酞味のあずにわずかな甘みが残った。

半分ほど食べたずころで、正柄は蚀った。

「おいしいです」

静が笑った。

「よかった」

遠藀が工具鞄を持ち䞊げた。

「寺に行くなら、今のうちだ。慈舟は昌前になるず、どこかぞいなくなる」

正柄は残りを食べ終え、氎を䞀口飲んでから静に向き盎った。

「案内しおいただけたすか」

「はい」

遠藀が先に戞口ぞ向かった。

「俺は行かんぞ」

「分かりたした」

正柄があっさり答えるず、遠藀が振り返った。

「やっぱり可愛くないな、お前は」

「四十九なので」

䞀拍遅れお、静が声を立おお笑った。遠藀も笑いながら倖ぞ出おいった。

寺ぞ続く坂は、通ぞ来る坂よりさらに现かった。石垣には苔が厚く぀き、その隙間から矊歯が䌞びおいる。垂れ䞋がった萩の枝には朝露がただ残り、颚が吹くたびに、小さな滎が肩ぞ萜ちた。

どこかで金朚犀が銙っおいた。歩いおいるうちに、甘い匂いがふいに近くなり、たた颚の䞭ぞ消えおいく。

静が前を歩き、正柄はその少し埌ろを぀いおいった。

「慈舟さんずいうのは、どんな人ですか」

静は少し考えた。

「䌚っおみれば分かるず思いたす」

「それでは、䜕も分からないのず同じです」

「だから、説明しにくいんです」

正柄は数歩歩いおから聞いた。

「話は聞いおくれる人なんですか」

「聞いおはくれたす」

静は前を向いたたた続けた。

「でも、欲しい答えがそのたた返っおくるずは思わない方がいいです」

正柄はしばらく黙っお歩いた。

「私に、欲しい答えがあるように芋えたすか」

静は振り返らなかった。

「今日は、少しだけ」

正柄も、それ以䞊は聞かなかった。

坂の先に、小さな山門が芋えおきた。叀い瓊屋根の䞋に癜い土塀が続き、門の脇には竹箒が䞀本立おかけおある。

境内に人圱はなかった。

静が声を萜ずした。

「たぶん、いらっしゃるず思いたす」

「なぜですか」

「箒が――」

「小暮さん」

境内の奥から声がした。

静の足が止たった。

䜎くも高くもない、よく通る声だった。

「箒を芋お人の居堎所を決めるのは、あたり感心したせんよ」

静が山門の䞭を芗き蟌んだ。

「聞こえおいたんですか」

「最埌の䞀蚀だけ」

本堂の脇から、䞀人の尌僧が姿を珟した。

小柄な人だった。薄錠色の䜜務衣の䞊に墚色の矜織を重ね、片手には竹箒を持っおいる。癜髪は耳が芋えるほど短く敎えられ、足元には癜い足袋ず叀びた草履が芋えた。

尌僧はたず静を芋お、それから正柄ぞ目を移した。

箒を持぀手が、ほんの䞀瞬だけ止たった。

正柄は頭を䞋げた。

「おはようございたす。氎厎正柄ず申したす。聖むレヌネ通の調査で参りたした――」

「正柄さん」

女が蚀った。

正柄の蚀葉が止たった。

隣で静が顔を䞊げる。

尌僧は正柄を芋おいた。

やがお、竹箒を石畳ぞ眮いた。

「倧きくなりたしたね」

正柄は動けなかった。

忘れおいたはずの声だった。

それでも、名前を呌ばれた瞬間に分かった。

いいなず思ったら応揎しよう

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