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金曜日まで、めぐちゃんは元気だった。

    金曜日まで、めぐちゃんは元気だった。

    私は、八歳で「人は突然いなくなる」と知った。

    それは、どの教科書にも書いていなかった。

    私は人口数百人ほどの小さな村で生まれ、両親と祖父母に囲まれて、たっぷりの愛情を注がれて育った。

    車で四十分走らなければ、スーパーも病院もコンビニもない山奥だった。家の前を通るのは、人よりもタヌキや猿や鹿。今になって思えば贅沢な環境だったのかもしれない。でも、あの頃の私は、ただ「不便」だと思っていた。

    春になると、村は桜一色に染まる。七夕が近づくと、祖父が山から笹を切ってくる。家族みんなで飾りをつけて、願い事を書く。
    秋には裏山でアケビを採り、祖母が大学芋を作る。正月には餅をつき、出来立ての餅に黄な粉をまぶすのが私の役目だった。

    本当に、絵に描いたような田舎だった。

    そんな場所で迎えた小学校入学。
    全校生徒は二十人にも満たない、小さな学校だった。
    一年生は、私ともう一人の女の子だけ。
    体が弱く、よく休んでいたその子は、澪という。

    「今日は澪ちゃん、お休みだね」

    先生がそう言うと、教室は一層静まり返った。
    机が二つある教室で、片方だけが埋まっている。
    チャイムが鳴るたび、先生はまだ来ないかな、と何度も振り返った。
    授業が終われば、また一人。
    次のチャイムが鳴るまで、ただ座っている。
    それを五限目まで繰り返す。

    先生を独り占めできて羨ましい、と言われたこともある。

    人は本当に勝手だ。

    休み時間、ほかの教室から笑い声が聞こえるたびに、窓の外の運動場を眺めた。

    鬼ごっこも、ドッジボールもできない。

    運動場の風だけが遊んでいた。

    そんな私を、雨の日も台風の日も、祖母は毎朝玄関先で見送ってくれた。

    「いってらっしゃい」

    振り返ると、まだ手を振っている祖母がいる。

    祖母は、心配していたのだろう。俯いたまま学校へ向かう私の姿を。

    私はただ、寂しかった。

    今日も一人ぼっちかもしれない。

    そんなことを考えながら、小さな声で「いってきます」と言って、家を出た。

    残念なくらい風邪をひかない私は、毎日学校へ行った。
    季節がめぐり、少し寒くなっても、半袖のままだった。

    そんなある日、母が言った。

    「葵に話したいことがあるんやけど」

    「なあに?」

    「まだ噂やけどね、隣町の小学校と合併するかもしれんの」

    「がっぺいって何?」

    「小さな学校がくっついて、大きな学校になること。春からは、お友達が増えるかもしれんよ」

    お友達が増える。
    その言葉通りの未来を想像するだけで、世界が少し明るくなった気がした。まるで夢のような出来事だ。

    鬼ごっこができるかもしれない。
    ドッジボールもできるかもしれない。

    窓の外で遊んでいた“風”の中に、私も入れるかもしれない。

    そして、噂は現実になった。

    二年生の春。

    私は新しい校舎へ通うことになった。

    毎朝、大きなバスが迎えに来る。
    「おはようございまーす!」と元気な声が飛び交う。

    木のぬくもりが残る校舎には、百人以上の児童がいた。
    見たことのない数の下駄箱に、思わず足が止まった。

    それでも、二年生は八人だけのクラスだった。
    女子三人、男子五人。

    でも私にとっては、“たくさん”だった。

    八人もいる。

    それだけで、胸が高鳴った。

    一番うれしかったのは、女の子がもう一人いることだった。

    その子の名前は、めぐみ。

    みんなから「めぐちゃん」と呼ばれていた。

    明るくて、しっかり者で、気づけば男子に注意しているような子だった。

    女子は三人になった。
    私と、澪と、めぐちゃん。

    けれど澪は、相変わらずよく学校を休んだ。
    だから、めぐちゃんと二人でいる時間のほうが多かった。

    「ねえ、一緒にドッジボールしよ!」

    初めて誘われた放課後、私は運動場まで全力で走った。
    ボールの弾む音。
    砂の匂い。
    重なり合う笑い声。
    頬が痛くなるほど笑ったのは、その日が初めてだった。

    「ただいま!」
    玄関を開けると、祖父母が笑顔で迎えてくれる。

    それからというもの、学校と友達は私のすべてになった。

    「また明日もやろうね!」

    そう言われて、大きくうなずいた。

    “また明日”があることが、ただうれしかった。

    特に、めぐちゃんとはいつも一緒にいた。

    図書館の小さなテーブルで、本を読み合った。
    ある日、『ウォーリーをさがせ!』を広げて、顔を寄せ合って探していたら、下校時間を過ぎていた。

    探しに来た先生に笑われて、私たちは顔を見合わせて、また笑った。

    そんな些細な出来事が、宝物みたいに増えていった。

    気づけば、あれほど感じていた寂しさは、どこかへ消えていた。

    二学期が始まり九月最初の金曜日の放課後。
    めぐちゃんと歩いているうちに、運動場の奥にある倉庫の裏へと行き着いた。職員室からも校庭からも見えない、小さな草むらの空間。風に揺れる草の匂いがして、そこだけ世界の音が小さくなった気がした。

    「ここ、だれにも見つからないね」

    私がそう言うと、めぐちゃんは目を輝かせた。

    「ひみつきちにしようよ」

    「いいね!」

    「みおちゃんにはナイショね」

    その一言が、少しだけ特別で、うれしかった。
    そこに立っているだけで、私たちは“親友”になれた気がした。

    秘密基地で何をするか、どんな宝物を隠そうか。
    話題はあちこちへ飛び、笑いが何度もこぼれた。
    時間は驚くほどゆっくり流れ、放課後の校庭は少しずつ赤く染まっていった。
    ふと、いつもは聞かないことを聞いてみたくなった。

    「ねえ、めぐちゃんは大きくなったら何になりたい?」

    「うーん……」

    少し考えたあと、めぐちゃんは好きなキャラクターの話をしはじめた。

    答えになっていないのに、それがおかしくて、私は笑った。

    「あおいちゃんは?」

    そう聞かれて、少し照れながら答えた。

    「アイドルかな。とうきょうドームでコンサートしたいの」

    テレビの中のきらきらした世界を、そのまま口にした。

    「じゃあ、コンサートすることになったら行くね。やくそく!」

    めぐちゃんは、真顔でそう言った。

    なりたいと思ったものは、きっと全部かなう。
    あの頃の私は、疑いもなくそう信じていた。

    下校の時間になると、別々のバスへ向かった。窓越しに、お互いが座って居る席を探し、何度も手を振り合う。
    夕暮れの光の中で見ためぐちゃんの笑顔は、いつだってまぶしかった。

    「また月曜日ね!バイバーイ!」

    そう言って、手を振った。

    それが、最後だった。

    土曜日。

    九月だというのに、真夏みたいに暑い日だった。

    母と祖母と三人で、隣町へ買い物に出かけた。
    箱のアイスクリームとジュースを買ってもらい、母はいつも「氷もらってきてね」と言うから、私は言われる前に、お会計のあいだにビニール袋三つ分の氷を用意した。
    ツルツルしてうまく開かない袋に何度も苦戦しながら、氷を入れる。口をまとめて、ぎゅっと縛るのは苦手で、最後は祖母にバトンタッチするのがお決まりだった。
    家に着くと、アイスを急いで冷凍庫に入れるのが私の役目だ。溶かすまいと走るけれど、いつも全部は入りきらない。そんなときは、母の許可をもらって一つだけ食べる。それが、買い物に行った日の小さな贅沢だった。

    夕方、なんとなくテレビをつけていた。

    フライパンの上でお肉と焼き肉のタレが混ざり合う匂いが、部屋中に広がる。母が夕食の支度をしていて、祖母が「お味噌汁でも作ろうか」と声をかける。
    二人が並んで料理をする後ろ姿を見るのが、昔から好きだ。

    そんな、いつも通りの土曜日の夕方。

    祖母に「あおちゃん、ニュース始まるからチャンネル変えて」と頼まれ、リモコンを手に取った、そのときだった。

    家の電話が鳴った。

    母は手を拭いて、急いで受話器を取る。

    「あー、こんにちは」

    いつも通りの声。

    でも、少しずつ表情が変わっていく。

    「うん、うん」

    それだけが聞こえた。

    電話を切ったあと、母は少し間を置いてから、私を見た。

    「葵……めぐちゃんが」

    言葉が、途中で止まる。

    「川で溺れて、救急車で運ばれたって」

    何を言われているのか、よく分からなかった。

    「……意識が、ないって」

    お味噌汁を作っていた祖母が、火を止めてこちらに向かってきた。
    ——そこまでは、はっきり覚えている。

    その日の夕食は、いつも通りお腹いっぱい食べた。
    味は、覚えていない。

    「大丈夫だよ」
    「きっと助かるよ」

    母や祖母の声が、遠くで聞こえていた。

    何を言われているのか、うまく頭に入ってこなかった。

    涙も出なかった。

    そのまま、眠った。

    日曜日。

    朝、また家の電話が鳴った。

    母が出て、少し話して、すぐに切った。

    それから、母が私を呼んだ。

    「めぐちゃんが、亡くなったって……」

    隣で聞いていた祖母が、「え……」と小さな声を漏らした。

    私は、そのときどんな顔をしていたのだろう。

    どこを見ていたのだろう。

    ——何が起きているのか、わからなかった。

    時間だけが無遠慮に流れていく。

    母に告げられたときも、私は泣かなかった。
    この日も、いつも通りごはんを食べた。

    家の電話は何度も鳴り、母は同級生のお母さんたちと話していた。
    受話器の向こうと母の口から聞こえてくる言葉。

    「おそうしき」
    「おつや」

    聞いたことのない、楽しそうではない単語たち。

    精いっぱい、聞こえていないふりをした。布団に入ってから目を閉じて、いろんなことを思い出した。
    毎日、私たちは一緒に勉強して、遊んで、笑っていた。秘密基地を作って、将来の夢を話して、約束事もした。あの日が、最後の日だったなんて。どうして、誰も教えてくれなかったの。

    めぐちゃんは、てんごくへ行ったって言う。
    てんごくって、どこ?
    もう会えないの?
    信じられなかった。
    信じたくなかった。

    だって金曜日、元気だったもん。

    月曜日。
    クラス全員で、お葬式に出席することになった。
    全身、黒い服を着せられた。家の前には黒い服の大人たちが大勢いて、ついこの前まで隣にいためぐちゃんが、大きな写真になって飾られていた。
    お葬式の途中、クラスみんなで手紙を読んだ。
    誰が書いたのかもわからない、別れの手紙。
    「最後のお別れだから」と言われ、棺の中のめぐちゃんに会わせてもらった。

    その瞬間、足がすくんだ。
    まるでお人形のように、きれいな顔で眠っている。
    でも、ぴくりとも動かない。
    本当に、死んでしまったんだ…。
    初めて、生きている人と死んでいる人の境を目の当たりにし、体が震えた。
    どこからか、声が出た。
    わんわん泣いた。

    小さな鼻、耳、口に、白い綿が詰められていた。

    「お母さん、どうして鼻や耳に、わたがつめてあるの?くるしいでしょ?めぐちゃん、くるしくないの?」

    母は静かに教えてくれたけれど、私は心の中で叫んでいた。

    はずしてあげて。
    くるしいから。
    いきができないから。

    でも、めぐちゃんの顔は苦しそうじゃなかった。
    その静けさが、こわかった。
    狭い箱の中で、きれいな花に囲まれて眠っているのは、間違いなく、毎日一緒にいた大好きな友だちだった。

    棺が運ばれるとき、
    「いやだ! いや、いやだぁっ」
    声が勝手に飛び出した。
    体中で泣いた。
    母は泣きながら、私を抱きしめた。

    おばさん(めぐちゃんのお母さん)は、「火葬はかわいそうだから」と言って、埋葬を選んだ。その意味も、その優しさも、あの頃の私にはわからなかった。

    ただ、もう戻らない何かが、確かに失われたことだけはわかった。

    火曜日。
    気がついたら、私は学校にいた。
    朝一番に全校集会が開かれ、体育館に響く校長先生の声が、やけに遠く聞こえた。
    あの日のことが説明される。
    暑いからと、兄妹で家の前の川へ行ったこと。
    膝までの水位で遊んでいたこと。
    雨のあとで川底の土がゆるみ、足を取られたのではないかということ。
    近所の人が心肺蘇生をしてくれたこと。
    それでも、意識は戻らなかったこと。
    言葉は耳に入ってくるのに、意味にならなかった。
    説明が終わると、全校生徒で黙とうをした。

    体育館が、しんと静まり返った。その静けさの中で、胸の奥の何かが、ゆっくり崩れていった。
    黙とうが終わると、大好きな校長先生が、そっと私の頭に手を置いた。
    そのとき、視界がにじんだ。ハンカチで抑えても、涙が止まらなかった。

    けれど、五分後には授業が始まった。

    黒板にチョークの音が響く。明るすぎる音だった。
    大好きな人がいなくなったのに、どうして授業をするの。どうして、みんな普通なの。
    私だけ、取り残されたみたいだった。机に座っているのに、体が少し浮いているような感覚だった。

    家に帰ると、ランドセルを玄関に投げた。

    祖母の「おかえり」にも返事をせず、自分の部屋に閉じこもった。
    体育座りのまま、声があふれた。泣きたいだけ泣いた。
    泣けば少しは楽になると思っていたのに、涙が枯れても、ちっとも楽にならなかった。
    「かなしい」という気持ちは、まだ形を持たず、ただ、泣くことしかできなかった。

    水曜日。
    担任の先生から、厚みのある封筒を渡された。
    八月生まれの生徒を祝う誕生日会でクッキーを作ったときの写真が、ぎっしり入っていた。
    その中に、めぐちゃんが写っていたのは、たった二枚だけだった。一枚は、私とめぐちゃんと男子一人が並んで座っている写真。
    もう一枚は、青い三角巾とエプロンをつけて、ひとりでぽつんと座っている写真。
    どちらも、笑っていなかった。カメラすら見ていなかった。
    大量の写真の中に、ほとんど存在していないめぐちゃん。その不自然さが、どこかおかしかった。
    まるで、最初からいなかったみたいで。
    そう考えてしまったのが怖くて、先生に「持って帰る?」と聞かれた瞬間、反射的に「いらない」と答えていた。

    そして、追い打ちをかけるように、大人たちはそれぞれの言葉を口にしていく。
    聞こえないふりをしていたのかもしれない。
    でも、耳に入るものは、入ってしまう。

    「めぐちゃん、気の毒ね」
    「親御さんがかわいそう」
    「運が悪かったとしか言えないわね」
    「転校生が、めぐちゃんの“入れ替わり”みたいだね」
    「あの事故のあと、救急車の設備が改善されたんだって。それだけは良かったよね」

    なにが「良かった」の。
    めぐちゃんは、そのために死んだんじゃない。
    入れ替わり?
    そんなの、いらない。
    どうして、そんなふうに言えるの。
    声にはならなかった。
    息が詰まるようだった。
    そのとき、はじめて思った。

    大人なんか、きらい。

    でも、そんな私に構わず、次の出来事はやってきた。
    めぐちゃんが亡くなって間もなく、彼女の祖父が体調を崩し、後を追うように亡くなった。
    その知らせを聞いたとき、私はどう思えばいいのか分からなかった。
    悲しいのか、驚いているのか、自分の気持ちに名前がつけられなかった。
    ただ、ひとつだけ思った。

    「おじいちゃんは、ほんとうにめぐちゃんが大好きなんだね。これからは、そばにいられるね」
    なぜか、その言葉だけは、いまも覚えている。
    それが、八歳の私なりの答えだったのかもしれない。

    事故のあとも、私は教室の扉を見ていた。

    「おはよう!」と元気に入ってくるのを、どこかで待っていた。
    入ってくるはずがないのに。
    男子を楽しそうに叱る声も、もう聞こえない。

    めぐちゃんのいない教室は、ただチャイムだけが鳴る場所になった。

    小学校二年生。

    学校に行くのが楽しみだった日々を、私は今でも思い出す。

    友達が増えることを、ただうれしいと思えていたこと。
    顔を合わせれば、「おはよう!」と笑い合っていたこと。

    でも、あの夏の日から、私の中の「子どもらしい世界」は、少しだけ崩れた。

    それでも、めぐちゃんと過ごした時間は、確かにそこにあった。

    それだけは、ずっと消えていない。

    私は、八歳で初めて「しあわせ」と「死」を知った。

    どの教科書にも書いていないことだった。

     
     
    はじめまして。 自分の記憶を、言葉にしています。

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