
おじいちゃんが死んだ。
おじいちゃんが死んだ。
アラフォーの私が”おじいちゃん”なんて文章で書いているのもどうかと思うが、まあそこは披露宴の友人代表スピーチでお決まりの「今日はいつも通り〇〇ちゃんって呼ばせてください」的なものだと思って許してほしい。
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命日2026年6月30日
享年88歳
男性の平均寿命は81歳らしいので、大往生と言っていいくらいだ。
当然のことながら、突然の死というわけではない。5年くらい前から少しずつ、でも確実におじいちゃんが死に向かっているという意識はあった。
ここ1、2年は特に、会う度、できることが1つずつ少なくなっていた。
トイレに1人で行くことができなくなり、歩行器がないと歩けなくなり、右手が動かなくなり。
ついに立ち上がることもできなくなったとき、それまでどうにかこうにか老々介護をしていたおばあちゃんの手に負えなくなり、施設に入った。先月(5月)のことだ。
元々、施設を断固拒否していたおじいちゃん。デイサービスすら行きたくないと言って休んでしまい、おばあちゃんを困らせることも度々あったらしい。介護施設で働いている知人いわく、男性は施設に入るのを嫌がる人が多いのだそうだ。
私の中のおじいちゃんは、いつも姿勢がよかった。頑固で、ユーモアがあって、優しくて、釣りと野球とゴルフが好き。子どもの頃、家に遊びに行くと、夕飯のときにいつも野球中継のラジオが流れていた。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を書き写した紙を冷蔵庫に貼り、「こういう人になりたいんや」と言って、私たち孫にも覚えさせた。素直な私は、一生懸命覚えたが、暗唱できるようになってもなお、あんな人生を送りたいと思ったことは一度もない。
母方の祖父なので、子どもの頃は長期休みになると母に連れられて、おじいちゃんの家に長いこと泊まっていた。
おじいちゃんは、バイクの荷台に取り付けた木の箱の中へ、私と弟を乗せて(というか入れて)、よく走っていた。箱に入るくらいなので、まだ小学校にも上がっていないくらいの年齢だったと思うが、行き交うドライバーからやたら見られていたような記憶はうっすらとある。令和だったら炎上していることだろう。
ある夏は、自ら木を切って枠を作り、その上に大きなビニールシートをかぶせて、子どもが10人くらいは優に入れるくらいの大きなプールを作ってくれたこともあった。
志ん生の落語が好きで、寝るときによく話してくれた。弟はいつも落ちの前に眠ってしまうのだが、寝つきの悪い私は、1話だけでは眠れず何回も繰り返し聞くので、小学生のときは『黄金餅(こがねもち)』や『火焔太鼓(かえんだいこ)』をそらで話せるようになりおじいちゃんを喜ばせた。
絵も上手だったおじいちゃんは、私たちが東京に帰ると、しょっちゅう手描きの絵葉書を送ってくれた。家の周りの季節の花が描かれていたり、落語のワンシーンが描かれていたこともある。
何でもできるかっこいいおじいちゃんだった。
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6月末、2つの台風が日本列島を横断するという予報があった土曜の朝、危篤の連絡があった。ここ数年は会うたびにこれが最後かもしれないと思っていたので、心はわりとおだやかだった。それでも、最後に一目会えるのならと新幹線に飛び乗った。
夕方病院に着くと、おじいちゃんはまだ「あー」とか「うー」のような声をギリギリ発することができ、表情も少しあって、目を見開いたり、口をパクパクしたり、頷いたりもできた。
私が顔を見せて「あやをだよ!」と言うと、うんうんと頷いて少し目を細めたので、嬉しそうにしていることが伝わった。
血が止まらないのか、口の中に血が溜まっているのに驚く。
鼻にも腕にも足にもチューブがつながっていて、呼吸器もつけていた。痰がすぐに絡み息がしづらいようだったが、看護師による痰の吸引もそれはそれで苦しそうで、見ているのが辛かった。
その日一度だけ、息をするみたいに私の名を呼んだ。息子(私の伯父)の名も呼んだ。娘(私の母)の名は、2回呼んだ。2回目は、一文字ずつしっかり発音していたが、苦しそうだった。
その後もしゃべろうとする様子はあるのだけれど、何と言っているかまでは分からない。こちらがどうにか聞き取ろうと聞こえた言葉を繰り返すが、首を横に振る。
「はああ....て、...んから。」のような、消えそうな声で発したのを、伯父がどうにか聞き取り「"なにをきいてもわからん”やな?」と聞いたら頷いた。私たちが、おじいちゃんの言葉をなかなか聞き取れないので、呆れていたようだ。それが、聞き取れた最後の言葉だった。
一瞬だけ病室で2人きりになったとき、昔話をした。
私と弟が小学校低学年の頃だったか、おじいちゃんに連れられて遠くの駅まで歩いたことがある。おじいちゃんの家からその駅までは15kmほどあるというのは、つい最近知った。
よく歩いたなと思う。途中、喉が渇いたからみんなで飲み物を買おうと、何かの施設に立ち寄った時、はじめて紙パックの自動販売機を見た。
そこでおじいちゃんが押すボタンを間違えてしまい「いちごオレ」という、喉が渇いた時に全然飲みたくないものを買ってしまって、それでももったいないからこれでいいと言って飲み干していたことだけを、なぜか鮮明に覚えている。結局何時間かかったのかは知らないが、おじいちゃんと私たちは、目的地まで歩ききった。さすがに帰りは電車で帰って来たらしい。
そんな話をしていても、表情は変わらない。時々、モロー反射みたいに左手が動くが、腕は赤くバンバンに腫れて、黒い大きな斑点がいくつもあった。
その日は18時ごろ病院を出て、母と祖母と3人でトンカツを食べた。誰も暗くはなかったが、ひどく疲れてはいた。
翌日の日曜は、病院には行かず帰るつもりだった。きっと、もう1日、2日で亡くなるのだろうが、昨日会えたし、顔を見て名前を呼んでもらえただけで十分だと思った。
その日は久しぶりに会う友人たちとの約束もあったので、朝早くから帰る準備をしていたところ、付き添っていた伯父から「血圧が下がっている。もう今にも…」という旨の連絡が入った。迷ったが、もう亡くなるのだと思い、友人との約束を急遽キャンセルしてそのまま病院に駆けつけた。
病室に着くと、おじいちゃんはまだギリギリ生きていたが、昨日とは違い、もう意識は完全になかった。顔を覗き込むと、目が白く濁っている。当然、もう目が合うことはない。からだも全く動かず、表情も、もう全くなかった。
口の中には相変わらず血が溜まっていて、顔も心なしか歪んでいる。腕は昨日さらに赤く腫れ上がっているのに、足だけはなぜか真っ白で、そのコントラストが奇妙だった。
人のからだの最期ってこういうことなんだ、と思った。老衰ってもっと穏やかに死んでいくイメージだったが、現実は違っていた。ボロボロのからだで、色んな管に繋がれ、もうどの管から何の薬が入れられているのかも分からない。腕は、もう点滴がもう入っていかないので、足から入れているといったようなことを看護師が説明していた。
そんな状態でただ息だけをするおじいちゃんを見て、ここまでからだが限界になるまで生きなきゃいけなかったのか?と何度も喉まで出かかった。
「耳は聞こえているので、話しかけてあげてください」看護師から言われたが、白濁している目を見ていたら、何も言葉が出てこなかった。もう話しかけても意味がないとどこかで思っていた。
いろんな人たちが代わる代わる来て、同窓会のようになる。みんなが穏やかに別れを惜しんでいるところを少しはじの方から眺めながら、この人たちが遺産でもめたりしませんように、と小さく願う。
いつ死ぬかいつ死ぬかと思いながらそばにいることに疲弊する。
病室に1人になった時、ふいにiPhoneのシャッターを押した。でも、写っていたおじいちゃんの変わり果てた姿にドキッとして、これはきっと残してほしくないだろうと思い、すぐに消した。それに、私が思い出すおじいちゃんは、この顔じゃない方がいい。
朝連絡をもらったときは、病院に到着する頃にはもう亡くなっているかもしれないと思っていたのに、おじいちゃんはしぶとかった。夕刻、翌日から仕事なのでさすがに東京へ帰らなければいけない時間になっても、まだ息だけを続けていた。
夜、新幹線で東京に帰り、久しぶりに子どもたちの元気な姿を見てホッとする。
翌日、月曜日。朝からずっと携帯を気にするが何も連絡がない。小康状態が続いているという。あの状態で1日以上生きていることにただただビックリして。人の体って結構もつんだなと冷静に思う。
でも、もう絶対に意識が戻ってくることはないと分かっている人の延命を続ける意味ってあるんだろうかと考えていた。これは私が孫だからそんな冷たいことが思えるのだろうか。もし自分の夫だったら?親だったら?それでも、少しでも長く生きて欲しいと思うんだろうか。
月曜の夜、主治医が来て話したという内容が伯父からLINEで送られてきた。
「数値的に言えば、身体はもう十分に寿命を全うする時を迎えている。<中略> 本人が苦しまぬようにする処置が必要な段階も過ぎており、痰が絡みながら息をする状況や、またそれを吸引するときに、こちらが思うような苦痛や痛みなど、本人はもう感じていないだろう。本人の生きようとする力とそれを支える家族の思いだけなので、痰の吸引等は、その時の状況を見て判断してもらえれば差支えない。痰による窒息死になったとしても寿命と捉えてください。」
身体が寿命を全うするというフレーズがすごくしっくりきた。身体が寿命を全うする前に、病気や事故で亡くなる人もいる。でもおじいちゃんのからだは、寿命を全うしたのだと思ったら、気持ちが少し軽くなった。また、もう苦しんでいないのだということに安堵した。
この連絡をもらったおよそ6時間後、おじいちゃんは死んだ。
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葬儀は自宅で執り行われた。今どき家でやるなんて、いくら田舎とは言え、やはり珍しいらしい。気温も上がっていたので、本当に家でやるの?と驚いたのだが、それは生前、おばあちゃんが家から出す、とおじいちゃんと約束をしていたのだそうだ。
約束通り、お寺さんに来ていただいて、おじいちゃんが大好きな家で、家族だけで葬儀を行った。
今年は梅雨らしい天気が続いていたにも関わらず葬儀の日は晴天で、いかにもおじいちゃんらしい。雨女の私にはうらやましくもあった。
火葬はおよそ1時間半。収骨のときに大腿骨がしっかり太く残っていて驚いた。イラストでよく見る「骨」そのものだった。そういえば、子どもの頃おじいちゃんから骨を丈夫にするために牛乳を噛んで飲めと言われ、意味が分からないと思っていたが、あれはあながち間違いではなかったのかもしれない。
おじいちゃんが、亡くなる1か月ほど前、まだ普通に話せた頃、おばあちゃんと私の母に向かって、突然昔話をはじめたらしい。スポーツ万能だったおじいちゃんは、学生の頃、陸上の大会に出た。レースの前、ライバルだった学生から、何秒で走るのかと聞かれ、いつものタイムを答えたが、実際にはその日伝えたタイムを上回る形でおじいちゃんが勝った。
そのことに腹を立てたそいつが、仲間を集めておじいちゃんに暴行を加えた。そのことがその後大問題になり、暴行した奴らが退学処分になりかけたのを、おじいちゃんが、そんなことはしなくて良いと言って、止めた。そのおかげで、暴行したそいつらは退学を免れた。もし退学になっていたら、その後の就職など含め、そいつらの人生は大きく変わっていただろう。
その一件があってから、村でばったり会うと、そいつらはおじいちゃんに向かって深々と頭を下げたそうだ。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
おじいちゃんは、やっぱりそういう者になりたかったんだろうか。
今でも空で言える雨ニモマケズを反芻しながらそんなことを思った。