
【掌編】春雷は腹から鳴る
春の雷と書いて春雷と読む。言葉の意味は知らないが、言葉の響きはなぜか好き。
そんな音とリズムが私を私たらしめていると知ったのはつい最近のことだ。
都会なんて知らない。住んだこともなければ行ったことも数回あるかないか。コンクリートと鉄筋、排ガスに雑音、たくさんの匂いにかこまれたジャングルに夢見たことはあれど、ついぞ足が向かうことはなかった。
人込みが世話しなく犇めく様は、木の皮の裏にいる昆虫みたいだなと思う。どうしてそこにたくさん住み着く必要があるんだろうと思えば、それがコミュニティであり、社会であるのだと、痛感もしている。
アスファルトはどこにだってある。私の暮らす田舎にだってそれぐらいはある。だが喧噪とは無縁だ。鳥の声や虫の声の喧騒ならば負けないが。人の声なんて鬱蒼とした木々に遮られて掻き消える。それぐらいには人間の方が無力かもしれない。
春一番が吹き終わったというのに、やたらと風が強い。せっかく咲いた桜の花はきっとがんばって木にしがみ付いているだろうが、ピカピカの一年生たちが学校に行くころまで保つだろうか。そんな自分とは縁遠いことを考える余裕を歳のせいにすることもできるが、最近のジェネレーションとのギャップには驚くばかりなのであまり見ないことにしている。
「たまごの賞味期限、切れてるや」
たかだが1週間の賞味期限。加熱すればまだ大丈夫だと何かのメディアで見た気がする。あるいはインターネットのエビデンスのない記事だったかもしれない。衛生面がしっかりしているこの国で、冷蔵保存もしているのだ。最終的には自己責任だけど、おそらくそんなに軟な作りではないので、大丈夫だろう。無菌室とは無縁の育ちだ。山に生ってる実だとか、葉っぱだとか、いろんなものを食べてきた。ここでくたばるより前に死んでないのだからどうということはない。
パチパチとフライパンが熱を持つ音がする。春の朝は底冷えがひどい。古い木造家屋の台所は残念ながら温もりのぬの字もない。スリッパでパタパタと足を動かしながら動いて暖をとっていれば、収納の取っ手に脛をぶつけた。慣れないことなどするもんじゃない。
ぱちぱち。たまごは贅沢に2個使おう。それぐらいは許容範囲だ。目玉焼きの目玉は1つより2つの方がグロテスクじゃなくていいだろう。ついでにベーコンも欲しいがそんな贅沢は冷蔵庫様が許さないからシンプルに。
誰にだってできると思うだろう、目玉焼きなんて。ところがどっこい、ただ「焼く」ことが難しい人種も世の中には存在する。少なくともここに1人はいる。水を入れるだのなんだのと昔習ったこともあったが。とりあえず焼けていればいいだろうとひっくり返して両面焼き。本当は半熟がいいけれど、期限を無視したのはこちらなので妥協の固焼き。その代わりマヨネーズでコーティングしてギルティ飯にしよう。それでお相子にしてやろう。しょうがない。
どんぶりにご飯を1盛り2盛り、軽い山を形成したらそこに焼き立て目玉焼き。上からマヨネーズを軽くトッピング。一味もかけてスパイシー。
コーヒーを飲みたいところをぐっと我慢して暖かいお茶を入れれば、朝飯なんてこんなもん。野菜だのなんだのは心に余裕があるときで十分。とにかく食う。
ぎぎぃと古びた椅子が悲鳴を上げても気にしない。この家のものは年々劣化をしているが、それは私も一緒だから問題ない。一緒に年が取れることを喜ぼう。
「いただきます」
1人の飯は味気ない?こんなにマヨネーズがかかっていて味がしないというのなら病院にかかるべきだ。心が味気ないと言っているなら心にも食わせてやるといい。マヨネーズは万能調味料だからきっと救ってくれるぞ。
それこそ春の訪れを告げる雷みたいにね。