メインコンテンツへスキップ
見出し画像

天使の声を聴いていた、夢のような日々のこと

    ~あらすじ~
    「一瞬は、永遠を映す鏡」と、その人は言った。
    私立ルミナス女子高校の、軽音部のバンドメンバーのその人は、ドラマーでMC。最初は憧れて遠くから眺めるだけだった一学年下のわたしは、その人と思いがけず知り合いになり、仲良くなった。
    その人と過ごした時、話したこと、笑顔。そしてその人の声。少しずつ思いは深まり、わたしはその人に恋をした...
    その人が卒業する日、卒業式の間にわたしが思い出した、それらの日々。

    1.プロローグ

     3月1日木曜日。
     私立ルミナス女子高等学校の卒業式。

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     その人は、中音域の低めの声で穏やかに話す。
     わたしは、そのゆったりとした話し声が好きだ。

     その人は、丸顔のショートボブ。
          身長160cmのスラっとした体形。
     わたしは、彼女より身長が5cm低い。
          向き合うと少し見上げる形になる

     その人は、突然しがみついたわたしのことを、
          全身で受け止めてくれた。
     わたしは、その胸で感じた温もりと柔らかさを、
          一生忘れないだろう。

     その人は、聴かせてくれた。
          ドビュッシーのピアノ曲「夢」。

     その人は、今日、母校を巣立っていく...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     卒業生入場。
     並べられたパイプ椅子の島と島の間を通って、冬服姿の238人が3列に分かれて入ってくる。
     吹奏楽部が演奏するのは、エルガーの「威風堂々 第4番」。

     舞台に向かって右側の列が1組から3組。
     左側の列が6組から8組。
     そして真ん中の列が4組と5組。

     3年5組の彼女は、真ん中の列の後ろのほうから入ってくる。
     2年3組のわたしは、真ん中の列の通路のすぐ横の椅子に座っている。

     彼女がわたしの横を通った。
     一瞬、わたしのほうを向いて、微笑んだ。

     講堂の前から順に、卒業生の島、保護者の島、そしてわたしたち2年生の島。
     後方の2階席に、吹奏楽部と合唱部のメンバー。
     右手の横に並ぶのが、ご来賓や先生方など。

     卒業生の入場が終わり、全員が講堂の前方に並べられたパイプ椅子に着席した。
     それまで、次々と埋まっていく卒業生の席のほうに向いていた意識が、正面の舞台のほうに向く。

     思い出す。わたしが初めて彼女を見たときも、こうして講堂のパイプ椅子に座って、舞台のほうを向いていた...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

    ...

    「どうしたの? そういえば、電気つけないでもいいの?」
     夕暮れ時。消灯したままの音楽室の中は、かなり薄暗くなっていた。
    「そのまま、で...」

     彼女は、わたしの正面に立って、わたしが何か言うのを待っている。
     なにも言い出さないわたしに、彼女の顔から笑みが消えていく。

    ...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

    2.ガール・ミーツ・ガール

     ルミナス女子高校、通称「ルミ女」には、受験して高校から入学した。
    「ルミッコ」というバンドのことを教えてくれたのは、系列のルミナス中学から進学したクラスメイト。
     ルミ女軽音部の創設以来続く伝統のバンドで、「ルミ中」の軽音部の子たちの憧れなのだという。

     5月の第2土曜日。ルミ女の文化祭の1日目が開催された。
     ルミッコのことが気になって、講堂で2時から始まる軽音部のステージを観た。
     T市の市立中学のときからの親友で、ルミ女に一緒に入学した子が隣の席にいた。

     軽音部のステージに上ったバンドは4つ。
     ルミッコが最後のバンドだった。
     ギター2本にベース、ドラムス、キーボードの5人組。

     最初の曲が始まってすぐ、素人のわたしでも、他のバンドと格が違うことがわかった。
     サイドギターの人がボーカル。張りのある声で、パンチの効いたフレーズと繊細なフレーズを綺麗に歌い分けている。
     躍動感あふれるリードギター。安定感のあるベース。2台を器用に弾きこなすキーボード。

     そして、ドラムス。

     曲の世界に身を委ねた恍惚とした表情と、リズムを正確に刻む精悍な表情。
     ときどき浮かぶ「してやったり」という笑顔。
     激しいアクションが要求されるフレーズで微かに揺れる、ショートボブの髪。

     わたしは、たちまちファンになった。ルミッコの、そしてドラムスの彼女の...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     司会の先生が、開式の辞を述べ、吹奏楽部の演奏で「君が代」。
     それが終わると、卒業証書の授与が始まる。

     1組の担任の先生が名前を呼び、呼ばれた卒業生が「はい」と答えて、舞台の中央の演壇の前に進む。
     校長先生が卒業証書の全文を読み上げ、最初の卒業生に手渡す。
     一礼して卒業生が演壇を離れる。
     二人目以降は「以下同文」となって繰り返す。

     5組の彼女までは、かなり時間がかかる...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     ルミ女の軽音部は、毎年7月にルミ中の軽音部と合同で、学内ライブを行う。会場はルミ女の講堂。
     夏休み前の土曜日、文化祭のときと同じく、中学からの親友と一緒に聴きに行った。

     1時開演。学校法人の理事長と校長のご挨拶に続いて、ルミ中のバンドの演奏。
     休憩を挟んで、高校のバンドの演奏。文化祭のときと同じ4つで、トリはもちろんルミッコ。

     ルミッコは、毎年引退する3年生のメンバーのパートに1年生のメンバーが加わる形で、続いてきたという。
     演奏した4曲のうち1曲、1年生の練習生が3年生と代わって演奏する。
     その曲だけ、MCも2年生の次期リーダーが担当する。

    「こんにちは。次期リーダーをさせていただくことになりました、早川 纏衣(はやかわ まとい)です。『マーちゃん』と呼ばれてます」
     丸顔でショートボブの彼女に、場内から暖かい拍手が送られる。
    「同学年のボーカルのナッチと、フレッシュな1年生のメンバーで、がんばります...」

     ドラムスの彼女の名前は、誰かに聞けばわかったかもしれない。
     でもわたしは、そうしなかった。
     このとき初めて、彼女の名前と、彼女がルミッコの次期リーダーになることを知った。

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     夏休みが終わって、9月最初の月曜日の放課後。
     わたしは、緊張と「なんでわたしが」という気分が入り混じった状態で、第2会議室へと向かっていた。
     職員室の前を通って階段を1階上がり、左手に向かうとすぐ、目的の部屋の前に出る。

     小さな声で「失礼します」と言って、部屋の中に入る。
     二人掛けのテーブルが10台並び、席は半分くらい埋まっている。
     1年生はわたしだけだろう。
    「上級生オーラ」が一番弱そうな人を見つけて、その隣の席へ行く。

    「こちら、よろしいですか?」
    「どうぞ」と言って、わたしに向けたその笑顔...

     第1回文化部部長会は、4時ちょうどに始まった。
     今回だけ、前年度の部長会で議長をしていた3年生が、司会進行役となった。

     まずは自己紹介。席の並び順に立ち上がって、所属の部と名前、クラスを言う。
     わたし以外はみんな2年生。クラスは「何組」とだけ言う。

     11番目に、わたしの隣の人が立ち上がって言った。
    「軽音部の早川 纏衣です。3組です。よろしくお願いします」

     やはり、そうだったんだ。

     ステージのときとは、全然感じが違う。
     全身から醸し出されるやわらかな雰囲気。
     中音域の低めの声。穏やかな口調... 

    「...次の人」と司会進行役の3年生に促されて、わたしは慌てて立ち上がった。
    「はい、あ、あの、文芸部の羽根田 空良(はねだ そら)です。ええと...」
     いったん息を吐いて吸い込むと続ける。
    「名前は『空』に『良い』と書きます。3組です...1年の」

     その日は自己紹介の後、議長と副議長を選び、1年間の予定を確認して終わりとなった。

    「へええ。そうか。羽根田さんは1年生なんだ」
     他の人たちが部屋から出て行く中、わたしたちは向き合って話していた。
    「はい。その、なんというか...」
    「事情はなんとなくわかるよ。クラスメイトに文芸部の子がいるから」
     彼女はそういうと、「ククク」と笑った。
     声の高さが1オクターブくらい上がった。
     可愛い...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     卒業証書の授与は2組まで終わり、3組に入るところだった。
     名前を呼ばれて、卒業生はみんな「はい」と答える。
     高い声。低めの声。大きな声。囁くような声...

     彼女はどんな声で「はい」と答えるんだろう。

     ふだんの声?
     バンドのときの声?
    「ククク」と笑うときの声?...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     部長会が終わって、学校の最寄りの天歌(あまうた)駅へと向かう道すがら。
     彼女もわたしと同じく、県庁所在地のT市から電車通学している。
     並んで歩きながら彼女と話をする。

    「3組ということは、わたしと同じで特進コースだね」と彼女。
    「はい。でも補欠の繰り上がりなんです」
    「ということは、高校から?」
    「国立・特進コース試験を受けて、最初は『一般コース入学資格付与』だったんです」
    「高校入試をクリアして特進はすごいな」
    「そんなことないです。補欠ですし」
    「ルミ中からだと、ちょっと真面目に勉強すれば特進に進学できるからね」

    「わたしのステージは見てくれたかな?」
    「はい。文化祭と、校内ライブで」
    「7月末に、ライブカフェでワンマンライブやったんだけれど」
    「『エンジェル』ですね。チケットが取れなくて...」
    「そうか。それは残念」

     ライブカフェ「エンジェル」は、ルミ女のある天歌市でトップクラスのお店。
     プロやセミプロのミュージシャンが出演する。
     天歌市や近辺で活動するアマチュアバンドにとって夢の舞台。

     ルミッコは、その「エンジェル」で毎年2回ワンマンライブを演る。
     大人気で、チケットはなかなか取れない。

    「あなたは友達から、なんて呼ばれているの?」と彼女。
    「『クーちゃん』と呼ばれることが多いです」
    「『空』でクーちゃん?」
    「はい」
    「可愛くていいな」
    「そんな、『マーちゃん』も素敵です」
    「知っててくれたんだ。うれしい」
     そう言うと、彼女は「ククク」と笑った。

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     学校最寄りの天歌駅から、二人が降りるT駅までは30分くらい電車に乗る。
     電車の中でも話が続いた。
     ほどんと彼女が質問して、わたしが答えるパターンだった。

     中学時代は陸上部だった。文章が上手になりたくて文芸部に入った。
     文芸部には文学班と哲学班がある。
     入部のときの面接で「好きな作品を3つあげること」と言われて、マンガ2つしかあげられなかった。
    「思考力さえあれば哲学はできる」と、半ば無理やり哲学班に入れられた。

    「それが先輩たちの策略だったんだよね」と彼女。
    「はい。文芸部の部長は文学班と哲学班の交替が慣例で、今期は哲学班の順番だったんです」
    「哲学班の部員は卒業しちゃって、クーちゃんが入るまで一人もいなかった」
    「夏休み前に部長のことを言われて、『1年だから』とお断りしたんですけど...」

    「哲学班は今でも一人?」
    「同じ中学から進学した一般コースの親友に頼み込んで入ってもらったのと、あと、一人」
    「勧誘したの?」
    「副顧問の先生に相談したら、ルミ中からきた国立コースの子を紹介してくださいました」
    「へえ。どんな子?」
    「寡黙で、ものすごい読書量。まさに哲学少女なんです」

     電車の中では大きな声は禁物。
     だからわたしは、ふだんより少し小さめの声で話した。
     彼女は、ふだん通りの声でなんの問題もなかった...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     卒業証書の授与は5組に入っていた。
     舞台上で緊張して、歩き方がぎこちなくなる人もいる。

     彼女が、舞台の右下の列に並んでいるのが見えた。

    「ハマダ ミサキ」という名前の卒業生が呼ばれた。次は...

    「早川 纏衣さん」

    「はい」

     彼女は、ふだん話すときと同じ高さの、少し大きめの声で答えた。

     ライブステージで慣れているからだろう。彼女は自然な身のこなしで演壇に向かう。
     校長先生から卒業証書を受け取って、一礼すると、さらに歩いて壇上から下りる。
     終始背筋をピンと伸ばした、すがすがしい晴れ姿だった...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     第1回部長会の翌朝。
     前の日からわたしは、なんか夢の中にいるような気持ちだった。
     遠くから憧れるだけだった先輩が、突然近くにやってきて、お話ししてくれる。

     T駅の1番線のホームには、天歌方面に向かう7時25分発の電車を待つ人の列。
     2両目の真ん中のドアのところに、彼女はいた。

    「おはようございます」とわたし。
    「おはよう、クーちゃん」
     けさ一緒の電車で登校することは、きのう別れ際に約束していた。
     空いていた彼女の隣の列に並ぶ。

     セミロングの髪を、ふだんはストレートにしている。
     その日、わたしは少し早起きして、ポニテにした。
    「お、今日はポニテなんだ」と彼女。

     入ってきた電車に乗り込む。扉の横に並んで立つ。
     混んだ車内。ルミ女の他に、ルミ中、そしてルミ女のお隣の県立天歌高校の制服の生徒もいる。

    「行き帰りの電車は、いつも一人で乗っているんだよ」
     ドアの外に目をやって彼女は続ける。
    「バンドメンバーも、仲のいい子も、みんな天歌市に住んでるんだ。クーちゃんは?」
    「夏休み前はアッキーと生き帰りとも、一緒に乗ってました」
     アッキーは、同じ中学から入学した親友で哲学班の、瀬戸口 陽奈(せとぐち あきな)。
     ルミッコのライブを一緒に聴いた。
    「でも、夏休みに一家で天歌に引っ越しちゃって。いまは一人です」
    「じゃあ、これから朝は一緒に行くことにしようか」

     連絡用に、彼女とLINEでつながった。
     彼女のアイコンは、ドラムスを叩く姿を斜め後ろから撮った写真。
     見ていると、自然に笑みが浮かんでくる...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

    ...

    「...ジュ、ジュ・テーム」
     考えてもいなかったフレーズが、わたしの口から出てきた 。
    「ジュ・テーム...わたしは、先輩を、愛しています!」

     体を預けるようにして、彼女にしがみついた。
     そして、彼女の胸に顔を埋めた。

    ...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

    3.キミとボク

     教室に着くと、さっそく彼女からのLINEが着信した。
    「今日、よろしければお昼一緒にしませんか?」
    「はい。よろこんで!」と返信。
    「よろしく」のスタンプが返ってくる。

     哲学班のLINEにメッセージを入れる。
     事情を話して、今日はお昼を一緒にできないことを告げる。
     アッキーから「ENJOY!」のスタンプ。
     少し遅れて「委細承知」のメッセージ。送り主は、ユイこと「哲学少女」の祖父江 結唯(そふえ ゆい)。

     カフェテリアの入口で待ち合わせ。
     二人ともランチセットを選んで、トレーを持ってカフェテリアの真ん中あたりに向かう。
     向かい合わせの席に落ち着くと、揃って「いただきます」。

     一口、二口、食事が進んだところで、わたしが彼女に聞く。
    「早川先輩のことを、どうお呼びすればいいですか?」
    「先輩や友達は『マーちゃん』だし、軽音の1年生の子らは「纏衣先輩」だよ」
    「じゃあ、わたしも『纏衣先輩』とお呼びします」

     スマホを出して、さっそくLINEの表示名を変更する。
     あわてて入力したので、「マトイ先輩」になってしまった。
     それを見た彼女は「ククク」と笑うと、「羊のお肉みたい~。でも可愛い」と言った。

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

    「ドラムスを始めたきっかけは何ですか?」
    「そうねえ。やはりあのときかな」と言って彼女は話し始める。

     マトイ先輩には1歳年下の妹さんがいた。いつも一緒の、仲のよい姉妹だった。
     先輩が小学6年生になったばかりの春、妹さんは突然病気で亡くなった。

     深い喪失感を抱えながら中学受験の勉強をしていたある日、楽器店の横を通った。
     ショーケースから覗くと、店内にドラムセットが置かれていた。
     そこだけ周囲から独立した、ひとつの「宇宙」が存在するように思えた。

     ルミ中に入って、とにかくドラムスがやりたくて軽音部に入った。
     練習に励んで、実力が認められるようになった。
     ルミ女に進学し、誘われてルミッコのオーディションを受け、合格した。

    「妹と二人きりのときはね、わたしは自分のことを「ボク」、妹のことを「キミ」と呼んでいたんだよ」
    「へええ。でも、どうしてですか?」

     妹さんが5歳になったとき、「プレゼントに何が欲しい」と尋ねた。
    「お兄ちゃんが欲しい」と妹さんが答えた。
     弟ならともかく...
     そのとき、6歳だったマトイ先輩は言った。
    「じゃあこれから、わたしがお兄ちゃんになってあげる」

    「生きてたら、ちょうどクーちゃんと同学年だね」
    「そうですか」
    「そうだ、クーちゃんにお願い...でも、ちょっと恥ずかしいかな」
     はにかむように、マトイ先輩が一瞬言い淀む。

    「...あの、あくまでクーちゃんがよければ、の話だけれど」
    「なんでしょうか」
    「二人きりのときには、クーちゃんのことを『キミ』って呼んでもいいかな?」
    「わたしは、全然構いません」
    「そして、わたしが自分のことを『ボク』って呼んでも、笑わない?」
    「おかしくないです。『きみ』と『ぼく』って、なんかギリシャ哲学の対話篇みたいで、カッコいいです」
    「じゃあ、そうさせてもらうね」...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     8組の最後の卒業生に卒業証書が渡され、卒業証書授与は終わった。
     卒業生は前列のパイプ椅子に、再び全員着席した。

     これから、校長、学校法人の理事長、来賓とご挨拶が続く。
     本当はしっかりと聞かなければいけない、のだろう。
     けれどわたしは、式の進行にだけ注意しながら、自分の思いにふける。

     マトイ先輩と交わした言葉のこと。
     マトイ先輩のステージを観たこと。
     マトイ先輩と過ごした時間のこと...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     朝の電車。T駅から天歌(あまうた)駅までの30分。
     10分から15分くらい、マトイ先輩と話をする。
     残りの時間はそれぞれ教科書を読んだり、本を読んだりして過ごす。

     それくらいの比率が、わたしにはちょうどよかった。
     ずっと話していると、わたしの話題が尽きてしまう。
     ヘッドフォンで音楽を聴きながら本を読んでいる、彼女の横顔を眺めるのも好きだ。

     軽音部だからロックやポップスを聴いているのかと思って、聞いてみた。
    「そうだねえ。でも結構クラシックも聴くんだよ」
     主にピアノ曲、ショパンやドビュッシー、ラベルやサティが好きらしい。

     わたしもスマホ用のヘッドフォンを買って、音楽を聴くことにした。
     USBでマトイ先輩から音源をもらう。
     ルミッコの音源はもちろん、ミクッツや他の軽音のバンドの音源。好きなアーティストの音源。

    「これはキミへのおすすめだよ」と言いながら、お気に入りのナンバーをくれる。
     そのたびに、マトイ先輩のUSBが、わたしのスマホに挿入される。
     彼女の体温が、USBコネクタを通じて入ってくるような気がした。

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     11月に入ってすぐ、ルミッコのステージを観る機会があった。
     最初の土曜日。ルミナス女子大学、通称「ルミ大」の学園祭。
     大学軽音部のステージに、ルミッコは毎年ゲスト出演する。

     軽音部の舞台。全部で6つのバンドの3番目にルミッコが登場した。
     3曲演奏。大学生のバンドと同じ舞台で、まったく遜色なかったと思う。
     マトイ先輩のパフォーマンスは、ひたすらカッコよかった。
     そしてふだんより高く大きな声の、初めてのMCも素敵だった。

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     ルミ大文化祭の次の月曜日は、放課後に第2回文化部部長会。
     並んで出席したマトイ先輩とわたしは、並んで校門をくぐり、天歌駅まで並んで歩いて帰った。
     電車の中で彼女に、T駅前のファミレスで話をしていかないかと誘われた。

     日が短くなって、午後6時のT駅前はとっぷりと暮れていた。
     店に入ると、スマホのクーポンでポテトとドリンクバーを2人分注文。
     暖かいドリンクをとってきて、改めて席に着く。

    「ルミ大のステージ、聴きに来てくれてありがとう」
    「楽しかったです。やっぱりルミッコ、すごいですね」
    「外部初MC。ボクは緊張してたんだけど、どうだった?」
    「素敵でした。バンドのときは、トーンが上がって大きな声になるんですね」
    「なんか、スイッチがはいっちゃうんだよね、ドラムスティックを握ると」

    「哲学班の3人で来てくれたのが嬉しかったな」
     ポテトにケチャップを絡めながらマトイ先輩。
    「アッキーは、志望校のルミ大の見学も兼ねてでした」
     わたしはホットココアを一口含んで続ける。
    「ユイは、志望の国立天歌大学の文化祭を一緒に見に行く、という交換条件で来たんです」

    「1年なのに、みんなしっかりと志望があるんだね」
     マトイ先輩もカフェラテを口に含み、続ける。
    「キミはどうなのかな?」
    「わたしは全然まだです。そもそも文系か理系かも決めていません」
    「まあ、それで普通だよね」

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

    「マトイ先輩はどうですか」
    「ボクは、物理を勉強して、高校の先生になりたいと思っている」
     そういえば朝の電車の中で、彼女が「量子力学」の本を読んでいたのを思い出した。
    「大学を卒業するタイミングに、ルミ女で教員の空きができるといいんだけどね」
     そう言うとマトイ先輩は「ククク」と笑った。

    「ドラムス始めるきっかけのこと話したよね。ボクは、宇宙について興味がある」
    「哲学の本を読んでいると、宇宙についての議論がでてきます」
    「『世界の探求』ということでは、物理学は元は哲学だからね。ボクも哲学に興味がある。倫理の教科書のレベルだけれど」

    「物理学者にはならないのですか?」
    「それはボクには無理。世界でもトップクラスの頭脳を持っていないと。一般の研究職という道もあるけれど、どちらかというと、ボクは物理の楽しさを伝える仕事に就きたい」

     マトイ先輩が、高校の物理の授業で教壇に立つ姿を想像した。
     背筋を伸ばして、どんな声で生徒に話しかけるんだろう。
     面白いことがあると、「ククク」と笑うのだろうか...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     卒業式のご挨拶は、校長先生が終わって、学校法人の理事長になっていた。
     ルミナスの校名の由来になっている、校是の「一隅を照らす一条の光たれ」のお話。

     わたしにとってのマトイ先輩は、「一隅を照らす」どころか、燦々と降り注ぐ太陽のようだった...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

    ...

     彼女は最初、しがみつくわたしから逃れるような体の動きをした。
     すぐにベクトルは反転した。彼女は両腕をわたしの背中に回した。

     彼女の制服の下に、これだけ豊かな膨らみがあるのに、今まで気づかなかった。
     埋めた顔に感じる柔らかい感触の中から、彼女の体温と息遣いが伝わってきた。

     しばらくすると、彼女の右手がわたしの背中の上でビートを刻み始めた。
     ゆったりとした、やさしいリズム。

    ...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

    4.エンジェル

     年が明けた。

     成人の日の三連休明けの火曜日。第3回文化部部長会があった。
     5月の文化祭のことが議題に上がる、もうそんな時期になっていた。

    「キミは、今度のボクたちのライブ、来てくれるかな?」
     部長会が終わって、先に席から立ち上がったマトイ先輩が、見下ろすような形でわたしに聞いた。
    「『エンジェル』ですね。残念ですけどチケットが...」
    「1枚なら、ボクの割り当て分から差し上げるよ」
     そう言うと彼女は、「エンジェル」のライブのチケットを渡してくれた。

     わたしは、パッと立ち上がって言った。
    「え?! いいんですか、わたしなんかに」
    「友達の分まで都合できなくて、ごめんね。ほんと、よかったら」
    「そんな、もったいないって言うか、行きます。必ず行きます!」

     会議室を出て、廊下を並んで歩く。
    「今日はこれから、ライブに向けたリハーサルをスタジオでやるんだ」
     歩みを止めてマトイ先輩が言う。
    「そうだ。時間があれば、リハーサル見ていかない?」

     天歌駅の駅前通りにある、スタジオ「ソヌス」。
     その一室でわたしは、ルミッコのリハーサルを見学させてもらった。
     マトイ先輩のパフォーマンスを至近距離で観ることができるなんて、思ってもいなかった。

     最初は大音響にびっくりした。けれどすぐに慣れた。
     マトイ先輩の恍惚とした、それでいてキリッとした表情に、うっとり。
     夢のような1時間は、あっという間に過ぎた。

     スタジオの事務室にある応接セットで、演奏を終えたメンバーとお話をした。
     マトイ先輩がわたしのことをメンバーに紹介。
     感想を聞かれたわたしは「すごかった」としか答えられなかった。

     わたしの名前が話題になった。
    「『はねだ そら』って、羽田空港じゃん」とボーカルのナッチ先輩。
    「中学のとき、男子によくそう言っていじられました」
    「『そら』なら、『奥の細道』とか」と1年生の子。
    「それも言われました」
    「じゃあ、これからクーちゃんじゃなくて、『ホソミチくん』って呼ぼうか」と言って「ククク」と笑うマトイ先輩。
    「さすがに、それは...」
    「冗談だよ。もちろん」

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     1月の第三土曜日。
     マトイ先輩に貰ったチケットを握りしめて「エンジェル」のワンマンライブに行った。
     こぢんまりとした場内は、立ち見が出る盛況。
     わたしはステージに向かって右側の席に座った。

     全部で6曲。
     MCも入れて1時間弱のステージ。

     スタジオリハーサルで今日のプログラムはひととおり聴いていた。
     けれどライブは全然違う。
     照明や音響もあるけれど、メンバーの熱量が段違いだ。

     わたしはずっと、マトイ先輩を見ていた。
    「バンドモード」の表情、話し方。
     ふだんの彼女とのギャップに接するたび、わたしの思いは深くなる。

     ステージが終わって、少しだけマトイ先輩と話ができた。
    「来てくれてほんとにありがとう。楽しんでくれた?」
     ドラムスティックを握ったままの彼女の話しぶりは、ステージ上と同じだった。
    「よかったです!」としか言えないわたし。
    「じゃあ、また月曜の朝にね」
     そう言うと彼女は、他の人のところに挨拶に向かった。

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     2月最後の土曜日は、天歌市民文化祭。
     市内のいろいろなサークルや学校の部活に混じって、軽音部のバンドも出演する。
     哲学班の3人で聴きに行った。

     マトイ先輩と同学年の4人組「ミクッツ」の舞台のあとにルミッコ。ともに2曲。
     ミクッツのボーカルの人が、校内ライブのときから交代していた。
     そして、演奏のレベルが格段に上がっていた。

     アッキーは、実は年末のミクッツのステージを、一人で聴きに行ったのだと話した。
    「恥ずかしながら、ギターのマイ先輩のファンになっちゃったんだ」
     そう言うと、彼女はミクッツのことをいろいろと教えてくれた...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     卒業式のご挨拶は、学校法人の理事長が終わって、来賓の方になっていた。学校の活動に支援をしてくださっている、天歌市内の大きな会社の会長さんだという。

    「...皆さんは、ルミナスで学んだ知識、そしてそれぞれにいろいろな才能をお持ちのことと思います。それらを生かして、いずれ社会の様々な分野で活躍されることを願っています...」

     思い出した。「才能」についてマトイ先輩が話してくれたことを...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     T駅前のファミレス。3月の最初の月曜日。
     その日の部長会は、文化祭実行委員会との合同ミーティングだった。
     文化祭のことを具体的に話し合う時期になっていた。

     わたしは文化祭で配る、文芸部の部誌の取りまとめ役。
     なのに肝心な自分の投稿作品が、いつまでたっても形にならない。

    「わたしって、ほんとに文章の才能がないんです」
     テーブルに置いた、ジンジャーエールのグラスをいじりながらわたしがそうぼやくと、マトイ先輩が言った。
    「ボクはね、才能って、誰にでも最低一つはあるものだと思うんだ」

    「マトイ先輩の『才能』という言葉の定義は、なんですか」
    「お、さすがは哲学班...そうだねえ」
     マトイ先輩は少し遠くに視線をやった。

    「誰の言葉かは、忘れちゃったんだけれど」
     わたしのほうに視線を戻して続ける。
    「他の人より少しだけ多くの努力を、苦痛を感じないで続けられる何かがあれば、それがその人の才能」

     コーヒーを一口含んで、飲み込むとマトイ先輩が話し続ける。
    「ドラムスは、ボクにとっての才能。人並み以上の努力を楽しみながらしていると思う。そして、たぶん物理学も」

    「でも、わたしは...」
    「部誌の文章、考えるのは苦痛?」
    「苦痛ではないです」
    「じゃあ、諦めずに頑張れば、きっとキミにとっての才能になるよ」
    「そうでしょうか?」
    「神様はね、誰にでも最低一つの才能を与えているはず。そういう意味では、神様は平等だよ」
     そう言うとマトイ先輩は、わたしに微笑みかけた。

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

    「市民文化祭でミクッツの演奏、聴いたよね」
    「はい。校内ライブのときから、びっくりするほど上手くなっていたと思います」
    「神様はね、平等なんだけど、時々、クスリの配合を間違えるのさ」
    「...クスリの、配合ですか?」
    「うん。その結果、他の人には絶対に真似できないことができる人が生まれる。そんな4人が集まったのが、ミクッツなんだと思う」

     マトイ先輩は続けた。

     ギターでリーダーのマイ。楽器だけでなく、読書、勉強すべてで超人的な努力ができる人。成績はずっと学年トップクラス。
     ドラムスのタエコ。時々揺らぐビートが、絶妙なニュアンスを醸し出す。自分が真似しても、テンポの乱れにしかならない。
     ボーカルのミカ。二学期に急遽加入するまで、ボーカルはまったくの未経験。ずば抜けた素質で、うちのボーカルのナッチがしきりと羨ましがる。
     キーボードのヨッシー。一本指での演奏から始めて、2年間でここまで弾けるように努力した。その「ひたむきさ」が、ミクッツの魅力になっている。

    「ボクたちルミッコの演奏は、真似しようと思えば真似することができる。もちろん、ボクらのレベルになるには、猛練習が必要だけだね」
     マトイ先輩は、しみじみと言う。
    「けれどミクッツの演奏は、誰にも真似することができない。そもそも神様のクスリの配合が違うから」
    「『天才』ってことですか?」
    「うーん...ちょっと違うかな」

     彼女は少し考えてから言った。
    「そうだね。ミクッツの4人は『天使』なんだと思う」
    「天使」
    「そしてボクたちは、たぶんただの『人間』。天使だって努力するんだから、なおさらボクたちは...」
     そう言うとマトイ先輩は、少しだけ顔を斜めに傾けて、微笑んだ。

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     3月20日の春分の日。ミクッツの出るライブに哲学班3人で行った。
     天歌大学付属病院のホールで開催される、スプリングコンサート。
     いろいろな音楽のグループに混じって、ミクッツが3曲演奏した。

     マトイ先輩から聞いたお話を意識して、ミクッツの演奏を聴いてみた。
     彼女の言っていたことが、実感を伴ってわかった。
     テクはルミッコにかなわないけれど、ミクッツ以外のなにものでもない、魅力的なパフォーマンス。

     聴きに来ていたマトイ先輩が、アッキーをギターのマイ先輩に紹介した。
    「ありがとう。6月に『エンジェル』でワンマンライブをできることになったんで、ぜひ聴きにきてね」とマイ先輩は言った。
     アッキーは、はにかみながら、それでも喜びを隠さなかった...

     
    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     卒業式は、来賓の方のご挨拶が終わった。
     ご挨拶された方以外の、来賓の方の紹介。
     それが終わると、祝電の披露。

     その後、卒業生から学校への記念品の贈呈が行われた。
     今年の記念品は、スタンド型スポットライト1台。
     すでにある1台と合わせて、講堂のステージを左右から照らすことができるようになる。
     卒業生である前生徒会長から、校長に目録が渡された。

     そろそろ大詰めが近い。在校生からの送辞。
     2年生の生徒会長が、舞台のすぐ下に向かう。
     据え付けられたマイクに向かって、卒業生に贈る言葉を述べる...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

    ...

     どれくらい経っただろう。
     彼女が、ビートを刻んでいた手を止めて言った。
    「そろそろ、大丈夫かな?」

     わたしは彼女の胸から顔を上げると、しがみついていた腕をほどいた。
     彼女も腕をほどいた。

     夕日が空を染めていた。
     オレンジ色の光が、薄暗い音楽室の中に滲み込んでくるようだった。

    ...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

    5.オムライス

     4月になって、マトイ先輩は3年5組になった。
     3年になると国立コースと特進コースの定員が大きく増える。
     国立コースは1クラスから2クラス、特進コースは2クラスから3クラスになる。

     マトイ先輩の3年5組は、特進の理系クラス。
     そして、わたしと、一般コースから特進コースに編入されたアッキーとは、2年3組でクラスメイトになった。

     本来なら奇数月である5月に開催される、第5回文化部部長会は、4月の連休前の月曜日に開催された。
     連休明けの5月第2土曜・日曜に開催される、文化祭の準備を考えてのことだ。

     マトイ先輩はリハーサルがあり、わたしも文芸部の部誌制作の最後の追い込みがあった。
     二人は部長会が終わると、すぐにさよならして、それぞれの準備に取り掛かった。

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     5月の第2土曜日。軽音部の文化祭ライブ。
     哲学班3人で一緒に聴いた。

     ミクッツ、ルミッコとも2曲のパフォーマンス。
     さらに上手くなっているミクッツ。
     ハイレベルをキープしているルミッコ。

     そして6月の第2土曜日。ミクッツの「エンジェル」 でのワンマンライブ。
     哲学班3人で聴きに行った。

     6曲+ソロ弾き語り1曲。
     前のステージから1ヶ月とは思えないほど、格段にパフォーマンスのレベルが上がった。
     アッキーは、マイ先輩のギター弾き語りにメロメロ。

     ライブに一緒に行くようになった「哲学少女」ユイ。
     最初はほとんど興味を見せなかった彼女。
     最近は、かすかに足でビートを取るようになってきた

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     ミクッツのワンマンライブの翌日。
     マトイ先輩に日曜のランチに誘われた。
     T駅駅ビルの中にあるオムライスの店。
     マトイ先輩はプレーン、わたしはデミソースを選ぶ。

    「キミのポニテ姿、久しぶりのような気がする」
    「去年の9月、初めてお話しした日の次の日以来だと思います」
    「そうか。もうそんなになるんだ」
    「やっぱり、おかしいですよね」
    「そんなことないよ。とても似合っている」
     彼女はそう言って、ニッコリと笑った。
     恥ずかしいような、それでいて嬉しいような気持ち。

    「キミは朝ごはん、食べた?」とマトイ先輩。
    「はい、いつも通り。どうしてですか?」
    「昨日言っとくんだったなあ。ここのお店、ボリューム半端ないんだ。男子でも食の細い子だと残しちゃうくらいらしい」
    「じゃあ、マトイ先輩、朝ごはんは?」
    「ボクは抜いてきたよ」

     注文の品が来るまで、昨日のミクッツのライブについて。
     ライブのたびに前回より格段によくなっていること。
     マイ先輩の弾き語りに、アッキーが帰り道ずっと大騒ぎだったこと。

    「やはり、天使ですね」
    「テクではまだルミッコが上だけれど、ライブパフォーマンスとしては、肩を並べられたかもしれない」
    「マイ先輩は、初めての弾き語りだったのですね」
    「うん。ボクもあそこまでやれるとは思わなかった」

     やって来たオムライスのプレートを見て、わたしは息を呑んだ。
     普通のお店だったら、大盛、いや『特盛』くらいあるかもしれない。
    「大丈夫?」とマトイ先輩。
    「なんとか...行けると思います」

     しばらく黙々と食べる。
     オムライスの固まりを崩すにつれて、少しずつ会話が復活する。

    「大学に行くと、第二外国語を選択するんですね」とわたし。
    「最近は中国語が人気らしい」
    「わたしはたぶん、ドイツ語にすると思います。『推し哲』が、ドイツ人のライプニッツなので」

    「ボクはフランス語かな?」
     フランス人と結婚した叔母さんが、ときどき里帰りすると訪ねてきて、いろいろと教えてくれるらしい。
    「『メルシー』と『メルシー・ボクー』はわかるよね?」
    「『ありがとう』と『どうもありがとう』ですね。『ボクー』が英語の『ベリー・マッチ』」

    「じゃあ、『ジュ・テーム』の場合は?」とマトイ先輩。
    「同じことじゃないんですか?」
    「字面はそうなんだけれども、注意しなきゃいけないことがある」
     唇の端に笑みを浮かべながら、マトイ先輩が言う。
    「愛する人に告白するときに『ジュ・テーム・ボクー』と言ったら、台無しなんだって」
    「...そうか。単なる『大好きだよ』になっちゃうんですね」

     オムライスの固まりを、二人はどうにか全部片付けた。
     メニューにはデザートもあるけれど、さすがに無理。
     セットのコーヒーを飲みながら、話を続ける。

    「マトイ先輩の第一志望は、やはり県立T大ですか?」
    「うん。理工学部。結構厳しいけどね」
     地方の公立大学としては、県立T大は偏差値が高い。

    「あとは、たぶんルミ大の外部入試と私立T学院大を受けると思う」
    「教育学部ですね。東京や関西の大学は受けないんですか?」
    「たぶん受けないと思う。生き帰りの移動やら、宿泊やらめんどくさいし。ボク、地元志向が強いんだ」

     そろそろ帰ろうか、という時間になった。
    「受験勉強で忙しいのに、ありがとうございました」
    「ボクのほうこそ、ありがとう」

     マトイ先輩は、視線を少し遠くに向ける。
    「受験生って、非日常が日常になってしまう面があるんだよね」
     視線をわたしのほうに戻す。
    「だから、キミとこうやって話ができるこの日常が、とても愛おしいんだ」
     彼女はそういうと、ニッコリと笑った。

     マトイ先輩の、この笑顔を、わたしだけのものにできたら...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     在校生の送辞が終わった。
     卒業生の答辞が始まる。

     司会の先生が卒業生代表の名前を呼び上げる。

    「3年1組 坂上 麻衣(さかうえ まい)」
    「はい」と言って、マイ先輩が立ち上がる。

    「3年5組 早川 纏衣」
    「はい」と言って、マトイ先輩が立ち上がる。

    「3年7組 若生 美咲(わこう みさき)」
    「はい」と言って、若生先輩が立ち上がる」

     ルミ女の卒業式では。卒業生3人で答辞を行うことになっている。
     国立コース、特進コース、一般コースの代表。

     学校生活の思い出やらお世話になった方への感謝など、3人で分担して話す。
     そのあと、3人がそれぞれ、著名人や好きな作品などの言葉を紹介して、将来への決意を述べる。

     マイ先輩は、ミュージシャンの忌野清志郎さんの言葉。
    「どんなえらい奴が来ても君は君の夢を主張できるかい? 俺は主張できるよ。だって俺は最高のダイヤモンドなんだからね」

     漫画研究会部長の若生先輩は、荒木飛呂彦さんの「ジョジョの奇妙な冒険」シリーズに登場する、ジョニィ(ジョーキッド)・ジョースターの言葉。
    「この『物語』はぼくが歩き出す物語だ 肉体が、という意味ではなく青春から大人という意味で」

     そしてマトイ先輩。

    「わたしは、大学で物理を学ぼうと思っています。歴史上最も傑出した人物のひとりである、物理学者のアルベルト・アインシュタインの言葉を紹介します」

     ふだんと同じ高さの穏やかな、それでいて芯の通った声。

    「想像力は知識よりも重要だ。知識には限界があるが、想像力は世界を包み込む」

    「相対性理論を打ち立てたアインシュタインのような天才のイマジネーションが、どれだけ凄いものかはまさに想像もつきません。わたしのような者のイマジネーションなんて、比較したらたぶんマイクロレベル、いや、ナノレベルのちっぽけなものなのでしょう」

    「それでもわたしが、ほんのわずかであっても、この世界に何らかの意味を付け加えることができるようになるには、イマジネーションの力が必要なのだと考えます」

    「わたしたちは、先生方のおかげで、かけがえのない知識をこのルミナスで身に付けることができました。どの先生の授業も、知識のその先に広がる世界へのイマジネーションを、広げてくださるものでした」

    「自分の夢をかなえるため、大事な誰かのために何かをするため、この世界に自分が生きた痕跡を残すため、イマジネーションの翼を広げて、このルミナスから飛び立っていきたいと思います」...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     7月の第二月曜日、第6回の、今期最後の文化部部長会。
     いろいろと報告事項の後、メンバーがひとことずつ挨拶をして解散となった。
     マトイ先輩は、校内ライブとエンジェルのフェアウェルライブを控えて、リハーサルへと向かった。

     7月の第三土曜日に、ルミ中との合同の校内ライブ。
     今年はルミッコとミクッツ共同で趣向があった。

     ミクッツの4曲の最後の曲。
     そのあとマイ先輩の弾き語り。
     その次に、ルミッコにマイ先輩以外のミクッツメンバーが加わったコラボの曲。

     3曲とも同じアーティストの曲のメドレー。
     来賓としてご臨席の、いつもお世話になっているスタジオのオーナーへの、感謝を込めてのステージとのこと。

     マイ先輩の一人舞台をまた見ることができて、アッキーはうるうるとしていた。
     コラボステージ。ルミッコの演奏をベースに、色彩感が増したパフォーマンス。圧倒された。
     ふだんは無表情の「哲学少女」にも、思わず笑みがこぼれていた...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

    ...

    「一緒に音楽を聴いてくれるかな?」とマトイ先輩。
     わたしは、黙ってコクリとうなずく。
     彼女は、音楽室のスピーカーのアンプの電源を入れて、ワイヤレスモードにした。

     わたしのところに戻ってきて、彼女は椅子に腰かけた。
     わたしを促して、並べた椅子に座らせた。
     スマホを操作して、音源をスピーカーで鳴らす。

    ...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

    6.フェアウェルライブ

     7月末のルミッコのフェアウェルライブ。
     発売初日の朝に哲学班3人分のチケットを押さえた。
     マトイ先輩に報告する。
    「よかったー。みんなで来てくれるの嬉しい」

     マトイ先輩は、朝の電車の中、ふだんは教科書や参考書を読みながら音楽を聴いている。
     集大成のライブを控えてだろう、今は音楽に集中している。
     いつも以上に真剣なその横顔。引きずり込まれてしまう。

     ミクッツのメンバーがゲスト出演することが決まった。
     校内ライブのコラボステージの編成にマイ先輩がギターで加わって、特別プログラムとして演奏する。
     アッキーの楽しみが増えた。

     当日は3時半開場、4時開演。
     朝からカンカン照りの暑い日。

     開場前から行列に並んで、前のほうの席を確保した。
     3時45分には、立ち見も含めて場内はほぼ一杯になった。
     空調が効いて外の暑さとは無縁なはずの室内が、観客の熱気でムンムンとしている。

     4時少し前、メンバーがステージに出てくる。
     ギターとベースは直前チューニング。
     マトイ先輩は、ドラムストールの高さを最終調整して腰かける。

     4時ちょうどに開演。
     ステージがライトアップして、メンバーの姿がはっきりと見えるようになる。
     マトイ先輩の「ワン・トゥー・スリー・フォー」で1曲目が始まる。

     きょうのプログラムは、ルミッコ定番曲3曲+3曲。うち1曲はマトイ先輩のオリジナル曲。
     それに特別プログラムでミクッツとのコラボ曲が、4曲目と5曲目の間に入る。

     マトイ先輩の恍惚とした表情と精悍な表情のミックスもいつも通り。
     笑顔が多い。会心のパフォーマンスなんだろう。
     そして今までより、ショートボブがよく揺れる。

     MCもこれまで以上に、軽快でリズミカルなロックンローラーっぽい乗り。
     声はふだんよりさらに一音くらい高いだろうか。
     会場の熱気もますます高まってきた。

     入学してからルミッコのステージは、1回を除いてすべて見てきた。
     今日を最後にもう見ることのできない、マトイ先輩のルミッコでのパフォーマンス。
     わたしは、そのすべてを五感に焼き付けようとしていた。

     マイ先輩のギターが1本追加になって、サウンドの分厚さが増したコラボ曲。
     ミカ先輩のボーカル。ヨッシー先輩のサイドボーカル。タエコ先輩のタンバリン。
     ルミ女軽音部としては奇跡のコラボなのだろう。

     コラボ曲の後、メインプログラムの5曲目が終わって、引退する3年生メンバーのあいさつ。
     最初はナッチ先輩。卒業後は東京の音楽の専門学校に行き、プロのミュージシャンを目指すという。

     そしてマトイ先輩。
     MCよりも少し落ち着いた口調。

    「...中学の頃からルミッコに憧れて、オーディション受けて入れてもらって、2年半...いろんな方々のおかげで、音楽とともに歩んだ楽しい高校生活を送ることができました。本当に、感謝の言葉しかありません」

    「これからも音楽を続けたいな、と思っています。どこかでわたしのライブをお見せできたら、と思います。ありがとうございました!」

     マトイ先輩がMCに戻り、メンバー紹介。そして最後の曲を紹介。
     会場と一体になって盛り上がる定番曲。
     前奏が始まるやいなや、会場は総立ち。
     跳び上がったり、体を揺らしたり、拍手をしたり、思い思いの方法でバンドとの一体感に浸る。

     こうして、ルミナス女子高校軽音部伝統のバンド、「ルミッコ」第21代メンバーのフェアウェルライブは終わった。
     

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     ミクッツは8月のお盆前の祝日に、フェアウェルライブをすることになっていた。
     会場は、3月に聴きに行ったスプリングコンサートの天大付属病院のホール。
     アッキーは、マイ先輩の舞台がもう1回見れる。

     わたしは、夏期講習のあるときは、マトイ先輩と一緒に登校した。
     ミクッツライブの会場でも、彼女と会ってお話ができた。

     けれど、彼女のドラムスを聴くことはできない。
     MCを聴くこともできない。
     ルミッコでのライブパフォーマンスを見ることはできない。

     そんな大げさなことではないのかもしれない。
     でも、わたしはたしかに喪失感を味わっていた。

     ミクッツのライブ会場で会ったあと、夏期講習の後期が始まるまでの間、マトイ先輩に会うことはなかった。
     やりとりはLINEだけ。

     喪失感が触媒となって、わたしのマトイ先輩への気持ちに化学反応が起こっていた。

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

    「おはよう。おひさしぶり」と明るくマトイ先輩。
     8月下旬の朝。T駅のホーム。
     夏期講習期間中は、始業が30分遅くなる。

    「お、おはようございます」
     ぎこちなくなってしまうわたし。
     マトイ先輩の視線を真正面から受けるのが、眩しくて、恥ずかしい。

     彼女の言葉にも、ふだん通りスムースに反応できない。
    「どうした? さては夏休みボケかな?」

     わたしにとってのマトイ先輩は、もう、ただの「憧れの先輩」ではなくなっていた...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     卒業式は、保護者代表の謝辞が終わり、合唱部による「旅立ちの日」の合唱。
     いよいよ大詰めとなった。

     全員起立して、吹奏楽部の伴奏で校歌斉唱...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     9月後半、哲学班のミーティングで、わたしは二人にカミングアウトした。
    「そっか。いつから?」とアッキー。
    「少しずつ気持ちが深まって、夏休みに一気に...」

    「変かな?」
    「変じゃないよ。小説とかコミックスとか、そういう題材の作品はいっぱいある」とアッキー。
    「歴史上も変わったことではない」とユイ。

    「どうすればいいんだろう」
     少し考えて、アッキーが言う。
    「はっきりと気持ちを伝えるべきだと思う」
    「でも、先輩は受験生だよ」
    「受験生だからこそ、じゃないかな。今のような中途半端なままでクーちゃんがいると、マトイ先輩も気になると思う。そんな状態を入試の追い込みの時期まで続けないほうがいい」

     その晩、二人からLINEが届いた。
    「しっかり!」とアッキー。
     ユイがめずらしくスタンプを送ってきた。
    「武運長久」...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     司会の先生が、閉式の辞を述べる。

     吹奏楽部の演奏が始まる。エルガーの「威風堂々 第1番」。
     優美で厳かな第二旋律をバックに、卒業生が入場のときと同じ通路を退場する。

     こんどはマトイ先輩の顔を正面に見る。
     わたしに視線を送り、すれ違いざまに微笑みかけた。
     わたしも精一杯の微笑みを返した...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     10月の第二週に、二学期の中間試験がある。
     試験前一週間の部活停止期間の初日、月曜日のこと。

     朝の電車で、マトイ先輩に「今日の放課後、二人きりで話しがしたい」と告げた。
    「じゃあ、少し遅めの時間がいいね。5時に、音楽室でどう?」とマトイ先輩。
    「お願いします」
    「わかった。ボクはそれまでカフェテリアで勉強することにする」

     マトイ先輩と顔を合わせないように、わたしは放課後を図書室で過ごした。
     ちょうど5時。わたしは音楽室に入った。真ん中あたりで立ったまま待っていた。
     マトイ先輩は5分くらい遅れてきた。

    「ごめん、ごめん、難問解くのに夢中になっちゃって」と言いながら入ってきた彼女。
    「それで、何のお話しかな? 進路のお悩み相談とか?」
     わたしは、考えていた言葉を切り出せずにいた。

    「どうしたの? そういえば、電気つけないでもいいの?」
     夕暮れ時。消灯したままの音楽室の中は、かなり薄暗くなっていた。
    「そのまま、で...」

     マトイ先輩は、わたしの正面に立って、わたしが何か言うのを待っている。
     なにも言い出さないわたしに、彼女の顔から笑みが消えていく。

    「...ジュ、ジュ・テーム」
     考えてもいなかったフレーズが、わたしの口から出てきた 。
    「ジュ・テーム...わたしは、マトイ先輩を、愛しています!」

     体を預けるようにして、マトイ先輩にしがみついた。
     そして、彼女の胸に顔を埋めた。

     彼女は最初、しがみつくわたしから逃れるような体の動きをした。
     すぐにベクトルは反転した。彼女は両腕をわたしの背中に回した。

     彼女の制服の下に、これだけ豊かな膨らみがあるのに、今まで気づかなかった。
     埋めた顔に感じる柔らかい感触の中から、彼女の体温と息遣いが伝わってきた。

     しばらくすると、彼女の右手がわたしの背中の上でビートを刻み始めた。
     ゆったりとした、優しいリズム。

     彼女にあんなことを言ってしまった、という恥ずかしさ。
     彼女がどう思うだろうか、という不安。
     放課後の学校でこんなことしてる、という罪悪感。

     いまこうして彼女の腕に抱かれている、という喜び。
     こんなわたしを彼女が全身で受けとめてくれている、という幸福感。

     様々な感情が次から次へと込み上げてきて、胸が張り裂けそうになっていた。
     そんなわたしを落ち着かせるのは、背中に感じる、彼女が右手で刻むビート。
     ゆったりとした優しいリズムで、少しずつ、少しずつ...

     どれくらい経っただろう。
     マトイ先輩が、ビートを刻んでいた手を止めて言った。
    「そろそろ、大丈夫かな?」

     わたしは彼女の胸から顔を上げると、しがみついていた腕をほどいた。
     彼女も腕をほどいた。

     夕日が空を染めていた。
     オレンジ色の光が、薄暗い音楽室の中に滲み込んでくるようだった。

    「一緒に音楽を聴いてくれるかな?」とマトイ先輩。
     わたしは、黙ってコクリとうなずく。
     彼女は、音楽室のスピーカーのアンプの電源を入れて、ワイヤレスモードにした。

     わたしのところに戻ってきて、彼女は椅子に腰かけた。
     わたしを促して、並べた椅子に座らせた。
     スマホを操作して、音源をスピーカーで鳴らす。

     ピアノ曲が始まった。
     左手がアルペジオで奏でる、切ない響きのコードの繰り返し。
     右手が穏やかなメロディーを歌う。

    「大好きなんだ。ドビュッシーの『夢』」
     そう言うと彼女は、左腕をわたしの肩に乗せて、ぐっと自分の方へと引き寄せた。
     二人は横に並んで、ぴったりと引っ付く形になった。
     黙って目を瞑って、スピーカーから流れてくる音の響きに身を任せていた...

     ...5分ほどの短い曲が終わった。

    「一瞬は、永遠を映す鏡」
     同じ姿勢のまま、マトイ先輩が囁くように言った。
    「だから、ずっと忘れないでいてね。今日のこのひとときを...」

     肩に乗せた腕をそのまま顔に回して、彼女は左手でわたしの頬を撫でた。
     そうして彼女は椅子から立ち上がった。

     視線を外した状態で、彼女はわたしに言った。
    「今日は、別々に帰ることにしようね」
    「はい」
    「先に出てくれる? 少し部室でドラムス叩いていくから」

     わたしはバックパックを持って、音楽室を出て行こうとした。
    「また、明日。朝の電車で」とマトイ先輩。
    「はい。また明日」...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

    7.エピローグ

     卒業式のあと、卒業生はいったんそれぞれのクラスへ向かった。
     参列した2年生は、手分けしてパイプ椅子などの片づけをした。
     終わると、2年生は校庭に出て、卒業生が出てくるのを待つ...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     放課後を音楽室で過ごした翌日の火曜日。

     T駅の1番線のホームには、天歌方面に向かう7時25分発の電車を待つ人の列。
     2両目の真ん中のドアのところに、やはりマトイ先輩はいた。
     少し様子を窺うように、わたしは彼女に近づいた。

    「おはよう。クーちゃん」気付いた彼女が言った。
     いつも通りの笑顔だ。

     今日は髪をポニテにしたわたし。
    「...おはようございます。マトイ先輩」

     電車が入ってきた。乗り込むといつも通り、扉の横に向かう。
    「クーちゃんは、昨日は眠れた?」
    「...あんまり」
    「わたしもなかなか眠れなくってさ。おかげで、勉強がはかどっちゃったかな?」
     そう言うと彼女は「ククク」と笑った。

     いつもと変わらない。
    「ボク」が「わたし」に、「キミ」が「クーちゃん」に変わったことを除けば。

    「クーちゃんのポニテ姿、やっぱり可愛いよ」
     わたしに向けていた視線を電車の外に向けると、マトイ先輩が言う。
    「もう1年以上になるんだね。初めてお話ししてから」

    「そうだ。今日の夕飯ご一緒しない?」と視線をわたしに戻してマトイ先輩。
    「...いいんですか?」
    「いいよ。今日は寝不足でどうせ勉強にならないから」
    「わたしは大丈夫です」
    「じゃあ、天歌駅の改札前で6時に待ち合わせ。いいかな?」
    「はい」
    「そうそう、お昼は控えめにしといてね」

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     マトイ先輩が連れて行ってくれたのは、天歌駅前商店街の中にある、ハンバーガーショップ「JUJU」。

    「ここのクラシックバーガーセットに挑戦するために、わたしはお昼を抜いてきたよ」
     マトイ先輩がニコニコしながら言う。
    「クーちゃんは?」
    「菓子パンひとつだけにしました」
    「じゃあ、大丈夫だね」

     カウンターでクラシックバーガーセットを2人前注文し、テーブル席に向かい合わせに座る。
    「ミクッツのヨッシーがバイトしているお店でね」
     店内を見まわしながらマトイ先輩。
    「今日はいないみたい」

    「ここはミクッツの御用達。反省会とかいつもここでやっていた」
     スタッフの女性が、注文したセットを運んできた。
    「この前の校内ライブの打ち上げは、ここを貸切でやったんだよ」

     改めてクラシックバーガーのセットを眺める。
     たしかに相当なボリューム感。
    「バーガーもさることながら、ポテトも絶品だよ」

    「いただきます」

     バーガーもポテトも美味しくて、夢中になって食べる。
     そんなわたしを、マトイ先輩は慈しむような笑顔で見つめる。

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

    「昨日のこと、だけど」
     半分くらい食べたところでマトイ先輩が切り出した。
    「ごめんね。昨日はちゃんとお話しできなかった」
    「わたしこそ...ごめんなさい」
    「謝らないで。クーちゃんの素直な気持ちを聞かせてもらえて、本当に嬉しかった」

    「正直な話、わたしにはわからないんだ」
    「...」
    「恋愛については、音楽やら小説で頭では理解している。恋愛についての曲だって演奏してたんだからね。けれど...」
     そう言うとマトイ先輩は、アイスコーヒーを口にした。
    「けれど、自分自身の問題としては、わからない。恋愛をするとどういう気持ちになるのか。相手に何を求めるのか」

    「無理もないよね。小学生のときはいつも妹と一緒。中学からは女子校でドラムス一筋。だから男子は言うまでもなく、女子に対しても恋愛感情を抱いたことがなかった」
     マトイ先輩が申し訳なさそうな顔になった。
    「クーちゃんの『ジュ・テーム』に対して、わたしは『ジュ・テーム・ボクー』でしか応えられない」

    「じゃあ...」
    「もしも、お互いの気持ちの食い違いにクーちゃんが耐えられないなら、関係を解消するしかないね」
     彼女は目を伏せるようにして言った。
    「だから、『キミ』と『ボク』っていう呼び方を今朝からしなかった」

     しばらく黙々と、残りのバーガーとポテトを食べた。
     ほとんど片付いた頃に、再びマトイ先輩が切り出した。
    「時間を、貰えないかな?」
    「時間...ですか?」

    「卒業して、より広い世界でいろんな人と知り合って、いろいろな関係性を経験して、そして恋愛ということが自分の問題として理解できるようになったときに、そのときまだ、クーちゃんの気持ちが変わってなければ、ちゃんとした答えをしたい」

    「わたし...待ちます。待たせてください」

     わたしの一方的な思いに、彼女は真っ正面から向き合おうとしてくれている。
     そのことが、ただ、嬉しかった。

    「あともうひとつ、勝手を言わせてもらってもいいかな?」
    「はい」
    「これからも『キミ』と『ボク』の関係でいたい」

     今までのような関係を続けるのは、もう無理かもしれない。
    「今日で最後」かもしれない。
     そう覚悟していた。

     だから彼女のこの言葉を聞いて、喜びがこみ上げてきた。

    「マトイ先輩への思いは、胸の奥に大事にしまっておきます。だから」
     彼女を真っすぐに見てわたしは言った。
    「だから、いままで通り仲良くしてください」
    「ありがとう、本当に」

     マトイ先輩は嬉しそうに微笑んで言った。
    「ボクはキミが大好きだよ」...

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     三々五々と卒業生が校庭に出てきた。
     わたしは哲学班の3人で、まずは文芸部の先輩を待った。
     文学班の在校生と合流して、卒業生と集団になる。

     後期日程の試験が終わった後のタイミングで、1年生も一緒にお別れ会をやることになっている。
     だから今日は、話も短かめ。

     わたしが入部したときに面接した先輩が言った。
    「クーちゃん。策略みたいに入部させちゃって、ごめんなさいね」
    「はい。今でも恨んでます...なんて、ウソです。本当に感謝してます」

     そう。文芸部哲学班に入って、哲学の面白さを知った。世界が広がった。
     アッキーとたくさん同じ時を過ごせた。ユイとも一緒になれた。
     そしてなによりも...1年生で部長になったおかげで、マトイ先輩と知り合えた。

     最初に全員で、それからいろいろなグループで写真を撮った。
    「じゃあ、お別れ会で」と言って、文芸部の集団から哲学班3人で一緒に離れる。

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

     20mくらい先に、20人くらいの集団がいた。
     ナッチ先輩、マイ先輩、ミカ先輩、ヨッシー先輩、タエコ先輩...
     そしてマトイ先輩。軽音部前部長だけあって、彼女は輪の中心にいる。

     少し離れたところでマトイ先輩の方に視線を送りながら、気づいてくれるのを待つ。
     2、3分くらいたった頃、彼女の視界にわたしたちが入ったようだ。
     マイ先輩を連れてやってくる。

    「ありがとう。3人でお見送りしてくれて」とマトイ先輩。
     アッキーがマイ先輩とユイを連れて、少し離れたところに行ってくれる。
     一連の顛末を、二人には報告していた。

    「答辞、カッコよかったです」
    「ライブとはまた雰囲気が違うからさ。緊張して、心臓バッコンバッコンだったんだよ」
    「とてもそんな感じ、なかったです。お話の内容も面白くて」
    「そう言ってくれると、とても嬉しい」

    「そうだ。キミに記念品」
     そう言うと、マトイ先輩はバックパックから布地の細長いケースを取り出した。
     中からドラムスティックが2本。
    「ボクがドラムスを始めて、最初に使ったスティック。ケースはお手製だよ」
     まとめてわたしに差し出す。

    「そんな大事なもの、わたしがいただいていいんですか?」
    「だから、大事なキミに持っていて欲しいんだ。『2本一緒』にね」
    「ありがとうございます。宝物にします」
     受け取ってみると、思ったよりも軽かった。

    「そうだ。1本ずつ持って、記念写真を撮ろうか」
     そう言うとマトイ先輩は、アッキーとユイと話をしていたマイ先輩に声をかけた。
    「マイ、写真撮ってくれない?」
    「私が撮ります」と言ってアッキーがやってきた。

     マトイ先輩がわたしの右側。
     ドラムスティックを1本ずつ右手に縦に持つ。
     最初にマトイ先輩のスマホ。
     アッキーがスマホを横にして、数歩前に出てくる。
    「スティックのもう少し下を持って、少し斜めにしてくれませんか。そう、外向きに」
     マトイ先輩とわたしは、横目で目線を交しながら、バランスをとる。
    「じゃあ、行きます。はい、チーズ」
     カシャッ。

     アッキーが歩いてきて、撮ったばかりの画像をわたしたちに見せる。
    「どうですか?」
     マトイ先輩とわたしが画面をのぞき込む。

    「天使の杖みたいで、可愛いでしょう?」とアッキー。
    「ほんとだ。天使の杖だ。素敵」とマトイ先輩がニッコリする。
    「じゃあこんどは、クーちゃんの分」
     アッキーは同じアングルで、わたしのスマホで撮ってくれた。

    --------- ◇ ------------------ ◇ ---------

    「前期試験の発表、5日ですよね」とわたし。
    「うん。落ち着かないし、落ちたら中期と後期があるから勉強やめられないし。あと4日で受験から解放されればいいんだけれど」とマトイ先輩
    「WEB掲示は朝10時ですか?」
    「確認できたら、LINEするね」

    「マーちゃん、そろそろ行くよ」と、先に軽音部の集団に戻っていたマイ先輩が声をかける。
    「軽音部でお昼に行くから。今日はこれで」とマトイ先輩。
    「お疲れさまでした。LINE待ってます」とわたし。

     よく晴れて暖かい初春の日。マトイ先輩の後姿を見送る。

     校門に向かう軽音部の集団が100mくらいに離れたところで、わたしは呼びかけた。

    「マトイせんぱーい!」

     振り向いたマトイ先輩。

    「センパイは、わたしにとって...」

    「え、なに!? 聞こえない!」

    「天使です!」

     わたしは大きく手を振った。
     彼女が大きく手を振り返した。

    <完>

     
     

    WK2013

     
     
    ボカロ楽曲制作を6年ほどやって挫折。3年ほどまえからいくつかの小説投稿サイトで作品を公表しています。このたびNOTEで公表させていただくこととしました。よろしくどうぞ、お願いします。

    あなたへのおすすめ