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二月一日─不合格のその先、息子の場合



    夜20時。

    最寄り駅にあるそのビルの照明のおかげで、周囲は昼間のような明るさだ。

    ガラスドアを見ると、この1年貼られ続けていた掲示物が消えていた。

    テープの痕跡に浮かび上がるのは「2025年度の合格者実績」

    2026年度の入試が始まったのだ。

    数日前まで並べられていたのは、大きな飾り文字の眩しすぎる学校たち。
    そして、その下に少し小さく印刷された学校群の合格者数。

    そのなかの「1」という存在が、現在中学1年生の息子だった。


    息子は今、かつて第二志望だった学校に通っている。



    中学受験は、まるで機(はた)を織るような毎日だった。これは、ばらばらの色に染め上げた糸を、一本ずつ、祈るように編んでいった息子と私の静かな記憶である。



    息子の通う学校の見学会に連れ立って参加したのは、いつのころだっただろう。
    そのころはまだ、未来はぼんやりと、やわらかな光を放っていた。

    見学会での息子の態度は、どの学校に行っても同じだった。分け隔てなく、さっさと見て回り、すぐに帰りたそうにする。

    その横で私は「この学校ならうちから通いやすいね!」とか、「この部活めっちゃ好きそう!」など、努めて明るい声で話しかけるのだ。

    例のごとくその日も、早足の息子に声をかけながら、ふと展示されている制服が目に入った。


    (あ、似合いそう)


    そう思った。
    しかし息子の足のスピードは緩まない。あきらめて、校門から出ながら「ねえ、どうだった?」と尋ねる。
    「なんか、かっこいい」
    彼が言った。


    思えばこれが兆しと呼ぶものだったのかもしれない。


    その後、塾のスケジュールは過酷を極めていった。

    志望校対策講座に通うため、所属校舎とは違う校舎に向かう日々。授業終了時刻前になると校舎の周りを取り囲むように迎えの保護者であふれている。通行人が怪訝そうに目を向けた。

    話したことはないけれど、もう見慣れた親子たちが駅の入り口に吸い込まれていく。

    みんな、叶うといいなと思う。一点でも多く手に入れるために、みんなここにいる。
    テストによって組み直されるクラス。昨日まで隣に座っていた子が、今日は教室からいなくなる。小さな体が背負っている重圧に、身がすくむ思いがした。



    子どもたちが寝静まった夜、本格的に受験校を絞り込むため、偏差値一覧表と入試日程を照らし合わせた。

    分厚い受験資料から何枚もの付箋がとび出している。
    いくつかの学校は乗換案内アプリで調べたあと、一覧表に二重線を引き、付箋を外した。

    第一志望は変わらない。

    憧れの校舎に通う息子の姿を強く思い描く。電車に乗って、制服を着て、文化祭で肩を組みながら楽しそうに歩く在校生たちの姿に、息子の顔を当てはめる。きっとそんな未来が訪れるはずだ。

    ふと、あの見学会で見た制服が頭に浮かんだ。
    資料とアプリをもう一度開く。
    学校名をボールペンで丸く囲んだ。


    息子の部屋をのぞく。布団を掛け直しながら、右手のペンだこに触れた。机の上には開きっぱなしのテキストとノート。シャープペンと消しゴムは筆箱にしまう。
    部屋を出て、替え芯を注文するためにスマホを探した。


    二学期に入ってからはとにかく過去問の連続だった。コピーするのにもずいぶん慣れた。効率よく、実寸大に拡大する技は、数年後また重宝するだろう。
    スティックのりを片付けるのも煩わしくて、コピー機の横に置きっぱなしのままだ。



    あの制服の学校の過去問で、合格最低点を超えたとき、これまで目の前に立ちはだかっていた高くて分厚い壁の頂に、息子のその細い指先がようやくかかった気がした。

    「ま、ここに合格できなかったら、第一志望なんて絶対無理だしな!」

    採点し終えた解答用紙は、強く握りしめたであろう拳の跡で、少しよれていた。



    このころの私は、ふとしたときに志望校の制服を着た息子の姿を念じるようになっていた。

    (今日もあの子は頑張っています。お願いします。どうか入学させてください。)

    だれに願っているのかもわからない。なんとか少しでも手繰り寄せたい気持ちからだったのだろう。

    そんな私の念の最後はいつも、第一志望校の制服ではなく、あの見学会で見た制服を着た息子の姿で終わる。

    頭の中の着せ替えは、なかなかうまくいかない。

    「その制服じゃないよ、こっちだよ」と着せ替えようとするのに、頭の中の息子がなぜかいつも着てしまうのだ。頭の上を手で払い、念を消す。


    これは私の願望では決してない。予言でもない。不合格のための保険などであってたまるか。
    なぜなら息子は今まさに、憧れの学校に近づくために、過去問と奮闘しているのだから。

    「なんでこんな問題間違えちゃったんだろう」と流した悔し涙も、「やっとクラスが上がる!」と流した嬉し涙も、ぜんぶ覚えている。

    孤独な午後、コピー機の前でプリントを整理した時間。空になったお弁当箱の蓋をあける、あの瞬間。眠りについた子どもの前髪を漉きながら、そのしっかりとした呼吸に安心を覚えた夜。
    なにもかもぜんぶ。

    この念のことは絶対に誰にも話さないと心に決めた。そしてそのまま入試を迎えることになる。





    「え、そんなにたくさんの学校受けるの?」

    スマホのスピーカーから夫の裏返った声が響く。

    夫の情報は、数十年前に、地方でのんびりと経験した中学受験でストップしているのだ。

    単身赴任先のリビングで、ひとりビールを喉に流し込んでいたであろう時間に、妻によって落とされた爆弾。

    「そうなの。受験校とかスケジュールとか、表にしたからあとでデータで送るね。
    ……あと、念のためクレジットカードの限度額、上げておいてね」と私が言うと、

    「まじかあ」と夫が呟いた。

    「それで、その一月に受けるとこって、合格したら…」

    「入学金、払うことになると思う」

    「まじかあ」

    さっきより小さな声で夫が呟く。

    そして、気を取り直したように、

    「まあ、あいつならどこでだってやっていけるだろ」

    と明るい声を出す。


    ぷしゅう。
    スピーカーから二本目の缶を開ける音がした。


    「飲み過ぎ」
    「バレたか」

    笑いながら電話を切ると、リビングには静寂が戻る。



    年が明けると受験生の周囲は急に慌ただしくなる。入試本番を迎える子たちが増え、志望校対策講座の空席が目立つ日が続いた。みな、拮抗しているのだ。


    息子もついに初戦を迎えた。
    彼のリュックのポケットには、六つのお守りが入っている。前日に渡した私の手作りお守りが、立派な神さまたちに囲まれて、異才を放っていた。中には、下の子たちと一緒に書いたメッセージを、小さく折りたたんで入れた。



    会場への道中、息子はなんだか浮ついているように見えた。
    「いよいよオレも受験かあ」「模試とは違うなあ」「めっちゃ人いるじゃん」と妙に口数が多い。

    受験票を手に列に並ぶ。息子の後ろにもすぐに長い列ができた。

    「行っておいで」
    「うん」

    もう一度息子の顔を見て、私は流れに逆らうように会場を離れた。見上げた空は、吸い込まれてしまいそうなほど透明で静か。どこかで鳥がチチッと鳴いた。


    初戦を終えてからは、怒涛のように入試日が続いた。合間には志望校対策講座。


    未来の姿を念じる。
    着せ替えて、また、念じる。


    いくつかの学校を経て、あの制服の学校を明日に控えた夜、「志望校を目指すうえで、ここは絶対に勝ってこい」という塾の先生からの激励の声が、息子に渡したスマホから漏れ聞こえた。
    「あ、はい。わかりました」と拍子抜けするほど軽い返事ののち、電話を切る。

    「わかりました、ってさあ……」と私が言うと、彼は「電話って、なんて話したらいいかわからん」と苦笑いした。


    翌朝、息子は見学会以来の校門をくぐりながら「やっぱり、なんかかっこいいんだよな、ここ」とつぶやいて、受験番号順に指定された教室へと向かっていった。

    あの制服を着た在校生が、軽やかに受験生に近づき、校舎の入り口まで案内する姿が目に入った。



    そしていよいよ二月一日の朝。
    電車のなかは驚くほど静かだった。

    つり革を掴む大人の目の前に、防寒着でもこもこになった子どもが座っている。そんな親子が何組もいた。主要な駅に停まるたび、数組ずつ静かに席を立ってホームに降りていく。
    戦いが始まったのだ、と思った。
    一月の受験のときとは明らかに違う、呼吸が苦しくなるような緊張感。

    駅の階段をあがると、そこにはあふれるほどの受験生がいた。

    そして息子も、まぎれもなくそのなかのひとりだった。
    世界にどれほどの受験生がいようとも、私にとっては、たったひとりの。

    歩く子どもたちの吐く息はどれも白くて、カイロを握りしめている子の指先は、少しだけ赤いようだった。

    横を歩く息子の顔を盗み見る。
    想像より強張っていたその横顔は、いつの間にか幼さを脱ぎ捨てていて、私は言葉をかけるのをやめた。

    校門が見えてきたとき、「じゃあ、行ってくる」と一言だけ言い、彼は一度も振り返ることなく、しっかりとした足取りで校舎へ向かった。

    この三年間、何度も何度も見送った、見慣れたはずの背中。その背中が、私の涙でぼんやりと滲み始めた、そのときだった。

    「おはようございます! お疲れさまです!」

    快活な声とともに、透明なビニール袋に入った薄い冊子が差し出された。受け取った指先に、冷たくて硬いビニールの感触が伝わる。

    パリリ、という小さな乾いた音が、湿っぽくなりかけた私の意識を現実に引き戻した。

    (私が泣いてどうするというのか。いまから必死で戦うのは、あの子じゃないか)

    私は「ありがとうございます」と、その学習塾の冊子をカバンに仕舞った。
    心の中で「神さま、どうか、あの子が報われますように」と、一度だけ、祈るように呟いた。

    保護者控え室は、めいめいの沈黙で満たされていた。本を読む人、スマホを見つめる人、イヤホンをつけながら目を瞑る人。

    私は家から持参したタンブラーの蓋を開け、デカフェをひとくち飲んだ。立ち上がる柔らかな香りが、強張っていた喉の奥をゆっくりとほぐして、そして、ゆるめた。

    さっき祈った言葉を思い出す。
    「どうかこの子が報われますように」
    喉の奥に苦い味がひろがった。

    私はあの子の笑顔を守るふりをして、願うふりをして、本当は、自分のこれまでの数年間を正当化するための「証拠」が欲しいだけではないのか。

    すべては間違いではなかったと、優しいあの子の合格で証明してほしかった。そんな浅ましいエゴを、私は祈りという綺麗な言葉ですり替えていたのではないだろうか。

    「お母さん」

    息子の声が聞こえた気がした。空耳だとわかっているのに、聞こえた気がした。

    ふいに息子の顔が浮かぶ。
    その顔は、いつも笑顔だ。

    模試の結果を受け止め、一喜一憂する日々は間違いなく苦しくて。もうやめてしまえばいい、と何度思ったことか。
    選ぶ理由。選ばない理由。続ける理由。辞める理由。私の持ちうるすべての言葉を尽くして説得を試みたこともあるけれど、結局、彼の言った言葉は「オレ、挑戦してみたい。そしてお母さんに喜んで欲しいのもちょっとある」だった。

    その言葉さえも、私のエゴが言わせたものだったのだろうか。

    タンブラーから漂う湯気に息を吹きかけながら、またひとくち、口に含む。

    答えは出ない。
    けれど私とあの子、ここまで歩いてきてしまったことだけはたしかだ。
    醜い私と美しいあの子。
    私たちの日々は私たちが知っている。

    喉の奥の苦さはもうない。
    心は、おどろくほど凪いでいた。


    やがて試験終了の時刻が近づき、待機場所へと移動する。

    受験番号順に、保護者と合流していく子どもたち。笑顔もあれば、泣きそうな顔もあり、午後の受験のために先を急ぐ背中も多かった。

    人混みの向こうからあらわれた息子は、私を見つけると、なんだかすっきりとした顔で言った。

    「これでダメなら、後悔はないな」

    そう言って笑った彼の顔には、もうどこにも強張りはなかった。

    その瞬間、私はようやく本当の意味で、この数年間のすべてを肯定できたような気がした。

    泣きそうな気持ちを隠しながら、「やるじゃん」って笑った。




    合格発表は翌日だった。

    画面をタップする指の先、あらわれたのは「残念ながら」という、丁寧で、それでいて冷たい拒絶だった。

    深い息を吐いた口のまま、息子がパソコンを凝視している。

    ぐぐぐと腹の底から生まれた塊が、喉の辺りまで込み上げ、次第に熱を帯びていく。苦しいほど強い鼓動が、突き上げるように響いた。

    息子の進学先が決定した瞬間だった。

    深くて、暗くて、寂しい穴の中に引きずり込まれるような感覚にとらわれ、情けない声が漏れそうになる。

    踏みとどめたのは、背中を向ける息子のつむじ。

    だめだ。私は目を逸らしてはならない。自分たちで始めた物語を、私は見届けなければならない。今まさに、その結末に直面している彼の、一挙手一投足を、余すところなく。

    重い沈黙がリビングを支配しようとしていた、そのとき。

    「あー、ダメだったかあ」

    パソコンの前に座っていた息子が、伸びをしながら、天を仰いだ。
    私はただ彼のつむじを見つめていた。



    ずっと黙ってみていた末子の「どうだった?ごうかく?」という声には、口角だけぐいと上げ、首を振ることで答えた。

    結果を心待ちにしていた夫には、LINEで伝える。すぐに既読になったあと「そうか」とひとこと。
    そして「泣いてなかった? 大丈夫?」と返信が来た。


    そういえば、息子の泣いている姿を見たのは、1年前の模試での嬉し涙が最後だった。

    幼いころを思い出す。ものすごい勢いで玄関のドアを開け、今にも泣きそうな顔で帰ってきた息子は、大抵、私の顔を見ると涙を流し始める。

    「外では我慢してたの?」と聞くと「うん」と言ってわんわん泣いた。

    「偉かったね」
    「強かったね」
    抱きしめて何度も何度も背中を撫でた。



    今も我慢しているのだろうか。それとも、他に泣ける場所を見つけたのだろうか。


    夜、寝室で横になる息子の隣に寝転がる。

    「明日からもう受験生じゃないのかあ」

    そう口にした私に、息子が言った。

    「オレ、中学受験やってよかった。楽しかったわ」

    驚いて顔を上げた私に、彼はいたずらっぽく笑ってみせた。


    「どうしてそう思うの?」
    「だって、一緒にやり切ったじゃん。結構、楽しかったよ」


    その一言が、私のなかで千切れかけていた糸を、もう一度ぎゅっと結び直してくれた気がした。


    「私も楽しかった。私たち、ほんとにやり切ったよね!」そう言うと、
    「色んなとこで模試受けたから、その帰りに美味しいお店たくさん行けたよね」と息子が笑った。


    私たちの中学受験は決して華々しいものではなかったかもしれないけれど、息子は元気に今日も眠る。

    トントントンとリズミカルな音を刻みながら、私の記憶が機を織り上げる。

    完成まではもう少し。

    広げた模様は、絣のようで、不揃いなのが美しい。

    未完成で不揃いなこの布よ。
    お願いだから、今夜だけは、そのしなやかな強さで、泣き顔を見せないこの子を、温めて欲しい。

    眠る息子の顔を見ながら、切にそう願った。




    すべての入試日程が終わったころ、制服の採寸に行く道で、何組もの親子が目的地へ歩く姿を見かけた。

    あの凍えるような入試の朝のことを思い出す。

    隣を歩く誰かは、息子の居場所を奪い去るかもしれない存在だった。
    息子がつかみ取った一点が誰かの椅子を奪い、息子からこぼれ落ちた一点で誰かが椅子に座る。
    椅子は、決められた数しかないのだ。

    横を見ると、いつもの息子がいる。つい数日前まで、熾烈な場所にいたはずの。

    「もしかして、ここ歩いてるの全員同じ学校?」

    少しおどけて彼が言った。
    冷たい風が頬にあたる。笑っていると寒さって和らぐんだな、と初めて知った。



    会場の中は、順番待ちの親子たちで賑やかだった。つい数日前まで、それぞれの場所で孤独に戦っていたはずの人たち。交差することなく、ただ一本の細い筋として伸びていた糸が、今、この場所でしなやかに束ねられていく。

    そこに生まれていたのは、壊れやすい宝物を持ち寄って、ようやく安全な場所に辿り着いたような連帯感だった。
    くすぐったくて、泣きたくなるような、奇妙で尊いもの。

    採寸スタッフの動かすメジャーが、息子の肩の上で軽やかに踊り、床の上で金属的な音を立てる。氷をゆっくり溶かすような、やわらかであたたかい陽の光が窓から差し込み、息子の横顔を透かしていた。

    その瞬間が妙に綺麗で、ずっと覚えていたいな、そう思いながら見ていた。




    宅配便は春休みに届いた。
    ダンボールを開けると、そこには、ビニール袋に包まれた制服。


    念じては払い、念じては払いしていた、あの。


    しかし、もう、着せ替えはしない。


    袋から取り出すと、新品の匂いがツンと鼻に届き、硬い生地のザラつきをしっかりととらえる、指先。

    息子の部屋に急に現れた、この、異質物のような存在は、私に感情に浸る隙など与えず、あっという間に我が家に馴染んでいく。

    そして、我が家の日常もまた、この異質物をまるで、何事もなかったかのように飲み込み、溶かしていった。




    四月、入学式の日は、世界が祝福だけでできているのではないかと疑うほどだった。

    単身赴任先からこの日のために戻ってきた夫は、クローゼットの奥からスーツを引っ張り出しながら「ネクタイ、これでいいかな」とのんびりとした声を出す。

    「ママ、きれいな格好」

    末子の手が私の腰を抱きしめた。

    「小学校に行くときは鍵をしっかりかけるんだよ?」と言いながら、その頭を撫でる。

    今日は下の子たちより早く家を出なければならない。不安を感じやすい末子を安心させるため、「ひみつだよ」とランドセルの小さなポケットに、子ども用のスマホを忍ばせる。

    「ねえ、おかあさん。今日何時に帰ってくる?」

    トーストをかじっていた次子が私に視線をよこす。

    「お昼過ぎには戻るよ。今日塾だよね? 準備しておいてね」
    「はああい」

    眠そうな声がリビングに溶けた。


    中学校の体育館に到着して、夫と保護者席につく。

    後方の扉が開くと、真新しい上履きが床と擦れて、キュッと小気味よい音を立てた。

    その音がたくさんの拍手にかき消され、徐々に大きくなっていく足音と振動。

    そして、潮が引くように、消えた。


    思えば嵐の中にいるような数年だった。

    もがいて、もがいて、流されないように。

    ゆっくりと見え始めた足元には、何が残っているのだろうか。
    結局、流されたものなどあるのだろうか。

    いや、流されたと思っていたものさえも、
    この世界は、きっと。
    糧としてしまうのかもしれない。



    名前を呼ばれ、頼もしく返事をする息子を見ながら、彼の中学受験が、たしかに終わったのだと悟った。


    ホームルームを終え、照れくさそうに歩いてくる息子の姿は、一年前には想像もできなかったほど大人びて見えた。

    「腹減ったあ」と駆け寄ってくるその声は、最近また一段と低くなっている。

    満開の桜の下、私はスマホを構えた。
    ファインダー越しに、息子を見下ろす夫と、眩しそうに目を細める息子の姿を捉えた、その瞬間。

    液晶画面の上部に、一筋の影が落ちるように、塾のアプリからの通知が現れた。
    新学年に向けた個人面談のお知らせ。

    意識が一瞬、別の場所へ飛ぶ。

    自分の背中よりも大きなリュックを背負い、パスケースを手で探りながら玄関を飛び出していく次子の姿。
    あの子は今日もまた、小さな背中を揺らしながら塾へ向かうのだろう。
    そして私もまた、偏差値一覧表を前に頭を抱えるのだろう。


    スマホをバッグの奥に押し込む。


    「お母さん! 帰りにラーメン食べて帰ろう!」


    息子の呼ぶ声がする。


    季節が繰り返していく。長い冬も、また。


    桜の花びらが風に煽られ、渦を巻きながら空高くのぼって、舞った。



    五月。冬服をクローゼットにしまい、半袖姿も見慣れてきたころ、あの、母の秘密の脳内着せ替えについて息子に話してみた。


    「お母さんのせいじゃん」息子が笑った。

    「ちなみにみんな、制服ダサいって言ってる」


    かつて渇望していた、何度も念じた、憧れの制服が、彼の肌に触れることはついになかった。

    これが縁というものなのだろうか。

    夫の言葉を思い出す。
    「あいつならどこでだってやっていける」
    確かにそうかもしれない。
    どこの学校に入学しても楽しく過ごせたかもしれないし、また、どこの学校へ入学しても通学につらさを感じていたかもしれない。

    もう知る術はない。

    どこで、どんな人たちと出会っていくのか、これもまた縁なのだから。



    あの日、初めて訪れた校門で、息子が漏らした「かっこいい」という言葉。
    兆しはたしかにあったのだ。


    あの制服を着て、現実の息子が今日も、あくびをしながら駅に向かう。









    ※この作品は、マガジンで連載していた内容を「#創作大賞2026」応募のために一本の長編エッセイとして加筆・再構成した決定稿です。

     
     
    2025年、長男の中学受験終了。 ダイヤグラムの兄弟は止まらないし、 水溶液は薄くなったり、濃くなったりを繰り返す。 アイスのあとに煎餅を食べようとしたら、 末子に「マナー違反」と叱られた。 おやつは一日ひとつまで。

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