
100年前の世界旅行ー再⑤ 太平洋の船旅から見えてくるもの
1925年(大正14年)6月1日、家族や友人の見送りを受け、President Taft号で念願の世界旅行に出発した曽祖父・金谷眞一(1879-1967)。サンフランシスコまで16日間の船旅から、7か月に及ぶ旅が始まりました。
前回の船に続き、今回は船旅での過ごし方を、眞一初の海外旅行だった大正5年から6年(1916-17)にかけての弟・正造夫妻(箱根・富士屋ホテル)とのアメリカ旅行と比べてご紹介します。なぜ今、このアメリカ旅行を振り返るのか。それは昨年見つけたある資料により、このアメリカ旅行が眞一にとって初海外旅行という以上の意味があり、世界旅行への布石のように思えてきたからです。どうぞお付き合い下さい。
1925年の16日間のアメリカ行き船旅の様子は以前ご紹介しましたが、とにかく盛沢山。毎日パーティー、余興、運動会、乗客同士の演奏会、果ては裁判ごっこなど、客を飽きさせない工夫がいっぱいです。
これに先立つ大正5年から6年(1916-17)にかけてのアメリカ旅行の際の、横浜からカナダ・バンクーバー(ヴィクトリア港)への船旅は、なんというか、初々しい。
眞一37歳のアメリカ旅行
初めて海外へ出発する12月8日は満37歳の誕生日。眞一が横浜から乗り込んだのはEmpress of Asia号(カナダの船)の一等船室でしたが、1室に「大阪の商人」と「電気技師」と詰め込まれ、困惑します。眞一は「運航はカナダの会社だが、経営陣はアメリカ人が占め、トーマスクック(英国の会社)経由でチケットを買った客を冷遇する傾向がある」と日記に書きました。すでに巨大代理店だったトーマスクックに「足」として使われるだけで、米(カナダ)系旅行会社にはうまみのない状況が当時の業界にあったことがうかがわれます。
そして船酔いに苦しみます。二日目の夜は気合を入れてタキシードに着替え、食堂で何とかディナーを取りましたが、その後は同行の弟・正造も交えて日本人同士で互いの船室に集まって、運ばせたチャーハンと持参の佃煮を分け合い、明日は交渉して白米を手に入れよう、と少々情けない状況です。眞一、正造共に、それぞれのホテルで見知った外国人も同乗していたようですが、ディナーの際のフィリピン人楽団の演奏の感想以外には、船内の外国人乗客の様子や、交流の感想もありません。

航海5日目にようやく波が収まり、正造と一緒にチーフスチュワードに船内のパントリー、ベーカリー、冷蔵貯蔵庫や食料保管室を案内してもらいました。「リンゴ一個なりともスチュワードの証印なきものは倉庫を出でず」とその徹底した管理に驚きました。ほかにも食器保温機、パン焼き機(パンが乾燥しないよう、焼く直前に切る仕組み)、パン製造機、ホットケーキ専用ホットプレート、芋の自動皮むき機、自動ゆで卵製造機等々に興味津々です。兄弟それぞれ、金谷ホテル、富士屋ホテルに取り入れられるものがないか、貪欲に観察していた様子が目に浮かびます。
眞一46歳の世界旅行
一方その後の1925年の世界旅行で横浜からの船旅では、President Taft号の一等船室唯一の日本人だった眞一。日光金谷ホテルの顧客も乗船しており、当然素性は明らかです。そうなるとやはり、「日本人として」、「ホテルの主人として」を意識したでしょう。初日のディナーには勝負服の紋付羽織袴で臨み、にぎやかな外国人の中で多少気後れする自分を励ますように”Keep Smiling!”と日記に書き、その通りに毎日の催しや社交を積極的に楽しんだ様子が日記に残っています。視察も目的でしたが、米国旅行の時よりも経営者目線で、国際情勢にも広く目配りした感想を残しています。大人の余裕、感じます。
アメリカ行きの意味
そうした変化は、アメリカ旅行から帰った後に家督を相続し、父・善一郎から家と金谷ホテルを引き継いだことと関係がありそうです。
金谷家はもともと、代々日光山の社寺に仕えた雅楽奏者で善一郎は9代目。10代で家督相続した直後の明治維新で侍の身分も収入も失い、ひょんなことから外国人向けの宿を始めました。妻を失い、豊かではない暮らしの中から息子たちを東京の立教学校に送り英語を学ばせましたが、自分は生涯着物で通し、英語はほとんど話さなかったといいます。父の期待に応え英語を身に着けた長男眞一は、18歳で日光に戻り金谷ホテルで父と一緒に奮闘してきました。
冒頭に書いた「昨年見つけたある資料」というのは、眞一が米国旅行から帰った際に開かれた「若主人帰朝祝賀会」の記録です。金谷ホテルに日光の町の主だった人々120名ほどを招き、眞一のアメリカ視察を報告する晩餐会でした。招待客の名前と持参した祝いの品のリストや、出された料理のメニューなどの記録を眺めていると、もしかしたら善一郎は代替わりに向けた眞一お披露目の機会も見越して、眞一をアメリカに行かせたのではなかったかという気がしてきました。それは東京の学校に行かせた時からずっと善一郎が願ってきた跡取り育成計画の集大成だったのでは。
アメリカ旅行の船旅の際、眞一は「吾等兄弟は一等船客として乗客の多数よりは対当(原文ママ。対等、でしょうか。)尚且つ尊敬を受け無上の快楽なる航海をなしつつあるは心中感謝の至りに堪えず。永年苦き経験を嘗め吾等を薫陶せられし老父にこの快楽を分け得ざるは、実に申し訳なきことなり。」と書き残しました。満を持して出かけた世界旅行では、スイスで出会った老ホテリエに亡き父の面影を見出しています。
37歳のアメリカ旅行では、父の庇護のもと「息子」としての顔を覗かせ、「父上がここにいたら」と嘆息した眞一。その後父に代わり、その期待に応え着々とビジネスを拡大し経営者となった46歳の眞一。善一郎は、代替わりから6年後に71歳で波乱の生涯を終えました。自分をはぐくんでくれた父の思い出と共に、念願の世界旅行に出かけた眞一は何を感じ、何を得たのでしょう。旅はまだ、始まったばかりです。