
きっと、愛している 最終章 選択は、正しい
いよいよ最終章です。
「今日、どうだった?」
これまでなら、「普通だった」と答えていた。
佳乃の答えが、今日は違う。
全16章、最終章です。毎週金曜日20:30更新・完結。
カーテンが、自動でわずかに開いた。
外の光量に合わせて、室内の明るさが調整される。 薄い朝の光が、床の上に細長く伸びている。
私は、ベッドを出た。
洗面台の前に立つと、鏡の端にコンディションが表示された。 肌の水分量、睡眠の質、外気の乾燥指数。
私は確認して、画面を消した。
あの日から、何ヶ月も経っているのに。 何も、変わっていない。
——いや。
私は、鏡の中の自分を見た。
同じ顔だった。でも、見え方が違った。 鏡の中の自分が、知らない人みたいには見えなかった。
ちゃんと、自分の顔だった。
キッチンに行くと、夫がいた。
コーヒーメーカーの前に立って、カップを二つ用意している。 私が来たのに気づいて、振り返った。
「おはよう」
「おはよう」
夫は、カップを一つ、私に渡した。
それだけだった。 でも、それだけで十分だった。
二人でコーヒーを飲みながら、窓の外を見た。 冬の朝の光が、低く差している。
隣の部屋から、小さな声が聞こえた。
二人は、同時に顔を上げた。
視線を交わした。 夫が、少し笑った。私も、笑った。
私は、カップを置いて、隣の部屋へ向かった。
凪が、目を開けていた。
天井を見ながら、小さな手を動かしていた。 泣いているわけではない。ただ、起きていた。
私は、凪の隣にしゃがんだ。
「おはよう、凪」
凪が、私の方を向いた。
焦点が合っているのか、合っていないのか、まだよく分からない。
でも、確かにこちらを向いた。
私は、凪の小さな手に触れた。 凪の指が、私の指を握った。
反射だと分かっていた。でも、嬉しかった。
私は、凪の顔を見ながら、小さな声で話しかけた。
あのセンターの部屋で、私は凪に何を言ったのか、もう正確には覚えていない。 でも、言えたことだけは覚えている。
それで十分だと思った。
今日も、言葉は出てくる。
正確じゃなくていい。うまくなくていい。 ただ、声にすればいい。それだけのことが、あのころの私には、こんなに遠かった。
しばらくして、夫が部屋に入ってきた。
凪を見て、「起きてたのか」と言った。私は頷いた。
夫は、凪の隣にしゃがんだ。 「おはよう、凪」と言った。
凪が、今度は夫の方を向いた。
夫が笑った。
「こっちも見てくれた」
「ちゃんと分かってるんじゃないかな」
「そうかな」
「そうだよ、きっと」
根拠はなかった。でも、そう言えた。
その日の昼間、私は一人でソファに座っていた。
凪は眠っていた。夫は買い物に出ていた。 家の中が、静かだった。
私は、スマホを開いた。
あの夜に打ったまま、保存も削除もしていない言葉が、まだメモの中にあった。
《安全で、きちんと育つ方法だったから》
私は、その言葉を見た。消そうとして、やめた。
この言葉は、嘘じゃない。 あのとき、本当にそう思っていた。
でも、それだけじゃなかった。 それだけじゃないことを、今の私は知っている。
私は、その下に、続きを打った。
《怖かったから。失いたくなかったから。守りたかったから。——それでも、欲しかったから》
画面を見た。
整った言葉じゃない。きれいでもない。 でも、これが全部だった。
いつかこの子に聞かれたら、この言葉で答えようと思った。
うまく言えないかもしれない。 途中で詰まるかもしれない。
でも、言える気がした。
私は、メモを保存した。
初めて、保存した。
夕方、凪が泣いた。
私は、抱き上げた。 凪の泣き声は、小さくて、でも確かだった。
「大丈夫だよ」私は言った。
根拠はなかった。でも、言えた。
凪が、少し泣き止んだ。 泣き止んだのは、偶然かもしれない。
でも私には、届いた気がした。
窓の外に、夕方の光が広がっていた。 冬の光は低くて、部屋の中まで差し込んでくる。
凪の顔が、その光の中にあった。
私は、凪を見た。
どうして、揺り籠だったの?
その問いが、頭の中で浮かんだ。
今日の私には、答えがある。 完全じゃないけれど。うまくないけれど。
でも、確かにある。
怖かったから。 失いたくなかったから。 守りたかったから。 それでも、欲しかったから。
そして——
凪に会いたかったから。
最後の一行は、メモには書かなかった。 でも、今日初めて、思った。
あのとき私は、凪のことを知らなかった。 顔も、声も、名前も、何も知らなかった。
それでも、会いたかった。 その気持ちだけは、最初からあった。
選択は、正しかったのだろうか。
私には、まだ分からない。
でも、正しかったかどうかより、大切なことがある気がした。
選んだあとに、何をするか。
言葉を積み重ねること。 関係を作っていくこと。
それが、揺り籠が代替できなかった、私にしかできないことだ。
私は、凪を抱いたまま、夕方の光の中に立っていた。
——これでいい。
そう思った。
揺り籠に命を預けると決めた夜、背後の自動ドアが閉まる音がしたことを、ふと思い出した。
あのとき私は、小さな後ろめたさを耳の奥に押し込んで、駅へ向かった。
あの後ろめたさは、今もゼロじゃない。
でも今日は、その後ろめたさと一緒に立っていられる。
それが、今の私にはちょうどよかった。
夜、凪が眠ったあと、夫が言った。
「今日、どうだった?」
これまでなら、「普通だった」と答えていた。
「いろいろあった」
私は、そう答えた。
夫は、続きを待った。
「怖いこととか、うまくいかないこととか、たぶんこれからもある」
「うん」
「でも、今日は大丈夫だった」
夫は頷いた。「俺も」
二人は、しばらく黙っていた。 その沈録が、苦しくなかった。
窓の外に、夜が来ていた。
隣の部屋で、凪が眠っている。
私は、目を閉じた。
今夜は、すぐに眠れる気がした。
完
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「きっと、愛している」全16章、完結です。
長い間、一緒に歩いてくださった読者の皆さんへ。佳乃と凪の物語を読んでくださって、本当にありがとうございました。感想をいただけると、次の物語を書く力になります。
X:@hoshikuzu34