
光る掃除機(6) 創作大賞2026エンタメ原作部門
ー 現在
「ねー掃除機とどいた?」
前回から二週間半ぶりに、ミカとランチをしている。
コペンハーゲンにもじわじわと和食のレストランがオープンして、ミカと唐揚げ定食を食べながら日本語で話すのはとても気分転換になる。
「うん届いた。箱が二重で、パーツも全部個包装されてて、高級感あったね」
「あれさーリサイクルゴミがすごかったよね。もう使った?」
「うん。夫がすごいすごいって言いながら家中かけてくれて助かってる」
友達になって久しいミカに、実は二十五年掃除機をかけていないんだ。って言ったら驚くかな。
言ったら理由の説明が必要になる。
あんな話されてもミカだって困るに決まってる。
頭の中でひとり自問自答していたら、ミカの話題は年末の日本帰省の話に移ったので私も
「もう年か、早いねー」
と声に出した。
秋から冬への移り変わりは日没時間で実感する。
お昼が過ぎたと思ったら、もう日が暮れてすぐに真っ暗になり街灯がイルミネーションでキラキラ光り始める。
明後日は夫の誕生日だ。
今年の夫の誕生日は日曜日に当たってしまい、めぼしいレストランは閉まっているから家で美味しいものを食べることになっている。
そうだ。その話をした時に、私が作ったガトーショコラが食べたい。と夫からリクエストがあったんだ。
土曜日は買い物で忙しいから今から作ってしまおう。
二日置くとしっとりして美味しくなるし、ちょうど良い。
お菓子作りはこちらに住み始めてから始めた。
デンマークはベーキングをする人が多いな、と感じる。住み始めて夫の実家や親戚、友人のお宅にお邪魔すると、どの家にもオーブンが当たり前のようにあることにびっくりした。
今までお菓子作りなんてしたことないけど、うちにもオーブンがあるから何か作れるかなと思って有名なパティシエールのテレビ番組を観ているうちにまんまと影響された。
ゆくゆく仕事をしたいとは思っているが移住した当時は滞在許可の関係でできなかった。
その後結婚して就業許可も降りたけれど、移民が多いコペンハーゲンで外国人が職を得るのはなかなか苦難の道だ。
コペンハーゲンに住む日本人は留学がきっかけできた人が多い。
留学ができる環境で育ってきた人には自分の目標や人生設計が明確に見えているようだ。
留学することを視野に入れて学んできたから多少の苦労はあっても希望の職種に就職できている。生活しているうちに出会いがあり結婚をして機が熟せば家を買う話もでてくる。その際は実家から援助を受ける。とても地に足がついた堅実な人生を歩めているように思う。
そんな風に見えているけれど、よその家庭を羨ましいと思う気持ちは子供の頃にとっくに消えている。
とにかく親から離れたくて自立一択だった私は今まで「やりたい事」なんていう不確定な選択肢に進むことも考えられなかった。私はいつも考える間もなく全速力で走り、目の前に現れたドアを開けて進むしかなかった。
その道のりの中でも嬉しいことや楽しいことはあったけど、今大人になって本当はどうなりたかったのかとふと考えた時、何もない空間にポツンと居るような置いてけぼりになった気持ちになる。
たっぷり自由時間のある生活をしていると、そんな不安や何もしていない罪悪感に苛まれる事がある。
そんな時、お菓子を作る。
目に見える成果が得られて罪悪感が充実感に変換できることに気がついたからだ。
材料を揃えて、計って、レシピの手順を追っているうちに没頭して、出来上がった時の達成感が気持ちいい。
以前、夫の友達夫婦に招かれた時にいただいたガトーショコラが美味しかったのでレシピを教えてもらった。
そのガトーショコラは私の数少ない成功レパートリーの一つになった。
お菓子を自分で作るようになってびっくりしたのは、砂糖とバターの分量が想像を遥かに超えてくること。板チョコレートも贅沢に丸っと一枚使う。
なのになぜか小麦粉はティースプーンひと匙。
こんなちょっとの量だけど、入れ忘れたらそれなりに「これじゃない」仕上がりになるのが不思議。
お菓子作りは奥が深いな、もっと得意レシピを増やしたいな。
作業をしながらそんな事を考えていたら、小麦粉の袋を開けるとき力が強すぎたのか袋の底が抜けてしまった。
次の瞬間、真っ白な視界。
台所の作用台から床まで派手に小麦粉を撒いてしまった。
おぉ。やっちゃった。
日本に比べてこちらの食品パッケージは作りが甘くて、しょっちゅう袋は裂けるし箱はそこが抜ける。またはその逆で絶対開かないパッケージもある。
こんな時に日本の製品のよく考えられて保存に便利で丁寧なパッケージを思い出す。
足元にはまだ粉煙が上がっている。
なにごと?という顔をして飼い猫のキキが台所にやってきたので
「キキ動かないで。こっちに来ないでね」
とお願いする。
キキはじゃぁここから見るよ。と揃えた両前足に尻尾を巻きつけて座っている。
ふぅー・・・と一呼吸おく。
「失敗しないように気をつける所作」を身につけて生き延びてきた事を自覚しているから、このレベルのやらかしってなかなか起きないんだけど、やってしまったな。
どうせ自分で片付けるけど、その前にキキをフレームインした現場写真を撮って夫に送った。
すぐに驚いた顔の絵文字の返信が来た。
さて。これ以上撒き散らかさないように粉まみれのスリッパと靴下を脱いで、箒を取ってくる。
小麦粉はサラサラで簡単に塵取りに集められた。
ただ足の感触がスルスルしていてまだ床に残ってる。
水拭きしたらかえってベタベタになりそうだな。
フロアモップも全部は拭き取れなさそう。
掃除機?
台所から開けっぱなしの扉一枚で繋がっている納戸兼パントリーの壁に目をやると、充電スタンドでじっと出番待ちの掃除機がいる。
・・・・・・・・・・。
実家の鈍い灰色に光る掃除機のノズルが頭をよぎった。
子供の頃毎日学校から帰ってすぐ重くて思うように動かない掃除機を力一杯引っ張って転がし、長いノズルを掴んでよたよたと掃除機をかけた。
掃除機をかけても暖かい言葉はもらえないけど、うっかり忘れてしまった時のあの経験。
久しぶりに一気に記憶がよみがえり、足元から脳まで駆け抜けるような身震いをした。
もう一度、壁にかかった掃除機を見てみる。
玉虫色に光るパイプ、透明なダストボックス、コードレスですっきりとしたフォルム。
昔のあの掃除機の面影は全くない。
片手で軽々と持ち、ヘッドでするすると床をなで、あっという間に家中を綺麗にしてくれた夫の姿が浮かぶ。
軽いかな。
近寄って、そおっとダストボックスに手を触れてみる。
ダストボックスは空っぽで中のフィルターがよく見える。
ハンドルに手をかけて持ち上げてみると充電器から外れ、充電完了の表示が光る。
手がブルっとすることも、動悸が激しくもならなかった。
思い切って大きなスイッチを押してみたらヒューンと細く高い音が鳴り45:08、45:07と数字のカウントダウン表示が始まった。
これはもう私の記憶の掃除機ではないんだ。
キキがシュッと立ち上がって避難した。
ハンドルを持ってヘッドを床に滑らせてみると緑のライトが照らす。
小麦粉はあらかた取れたと思っていたけど、全くの思い違いで笑っちゃうくらい広い範囲の床が粉まみれなのだという現実を見せてくれた。
そこに掃除機をかけると面白いように小麦粉が掃除機に吸い込まれ、くすんでいた床からツルッとしたタイルに変わっていく。
「すごい」
試しがけを始めた夫が「すごい、すごい」と楽しそうに階段を降りてくる様子を思い出した。
「本当。すごいわ」
床はどんどん綺麗になってゆく。
緑の光はさらに私の先を照らす。
このまま進んでいきたい、とまた一歩踏み出した。
終わり
最後まで読んでくださってどうもありがとうございました。