クレンペラー/フィルハーモニア管弦楽団によるチャイコフスキー/交響曲第4番

オットー・クレンペラーが指揮したチャイコフスキー/交響曲第4番。1963年録音。いつものクレンペラー節というか、対向配置のオーケストラによって重量感たっぷりの、感傷に流されない硬派な音楽を繰り広げる-お国ものの演奏とも異なる、ドイツ風の造形美。帯にも「クレンペラー独特の構築感」と紹介されていた―。ちなみにチャイコフスキーのディスクが取り上げるのは実は今回が初めてとなる。
もちろん、これまでチャイコフスキーを全く聴いてこなかったわけではなかったが、心のどこかで「通俗名曲」の1つと捉えていたのだろう、次第に聞かなくなってしまったのが本音だ。素敵すぎるメロディとジェットコースターのように駆け巡るスリリングな経過句や紋切り型のコーダ、そして管弦楽の特質を知り尽くした見事で効果的な劇場型オーケストレーション。ジャンルを問わず「旋律主導」な彼の甘い音楽に辟易しまったのだろう。さらにどこかで読んだチェリビダッケの発言~チャイコフスキーの音楽を「接続詞 (手続き) が多い」と批判していたのにも同調する気持ちがあった―その割にはチェリビダッケ指揮による後期三大交響曲や第2番「小ロシア」の演奏が遺されている。中でもミュンヘンpoとの第5番は気に入ってよく聴いていた。それでも「転機」というものは然るべき時に訪れるらしく、久々にチャイコフスキーと僕との邂逅を果たしてくれたのが当盤であったわけだ。
今まで聴いたチャイコフスキー4番の演奏で、最も鮮烈で極めて深い印象を残したのはバーンスタイン盤だった。既に晩年様式に入っていたレニーがマーラーのような粘着質かつ、音楽の緩急の差を極端なまでに目立たせた凄演で、作品が持つ切迫した感情と見事にリンクし、何から何まで圧倒的であった。対照的にシャルル・デュトワ/N響の初CD盤は感情移入を極力避けたサッパリとした演奏だったが、カップリングの武満作品の方により惹かれたのだった。チェリビダッケ盤はいつもの微速前進で、かつデリケートにオーケストレーションを紐解く分析的な演奏 (デリケートな面を除けばクレンペラー盤に最も近いかもしれない)。ちなみにドヴォルザークなどと同様、チャイコフスキーでも所謂「ご当地もの」の演奏には興味が持てず、今でも未聴である〜唯一の例外はベルグルンドのシベリウスだろう。これほど自然体の演奏もあるまい。
初のピリオド演奏となったインマゼール盤より。総勢58人の古楽オーケストラ~アニマ・エテルナによる至極真っ当なチャイコフスキー。これに比べればクルレンツィスの方が遥かにあざとい。
テンポがフレーズごとに自由に伸縮する超個性的なストコフスキー盤より。シェルヘンのマーラーを思わせる弦の速弾きも。
そのシェルヘンによるチャイコフスキー。妥協なく荒れ狂うフィナーレ。オケはウィーン国立歌劇場管弦楽団~つまりウィーン・フィル。
フルトヴェングラーによるチャイコフスキーは珍しいレパートリーに入るだろうか。ウィーン・フィルとともに熱演を繰り広げている。コーダでの追い込みはレニーのそれに通じる。
チャイコフスキー自身「今まで書いた中で最高傑作」と語ったという交響曲第4番ヘ短調Op.36 (1887)。これまでの3曲の交響曲とは明らかに違うテイストが如何なるプロセスで生じたのか、Wikipedia英語版の中になかなか考えさせられる解説が載せられていた―。
アントニーナとの結婚騒動を含む私生活の激動は、チャイコフスキーを非常に個人的で表現力豊かな音楽へと導き、構造上の要素は以前のままではいられなくなった。第4交響曲以降、交響曲は人間の記録として機能し、心理的な事柄に焦点を合わせた作品となった。これは、チャイコフスキーの創作衝動がかつてないほど個人的で切迫したものとなり、途方もない表現力、ひいては暴力性さえも帯びるようになったためである。この感情的な切迫感とともに、前例のない旋律の流れが生まれた。チャイコフスキーはここで、メロディの豊かさという才能をこれまで以上に自由に展開した。逆説的に、この偉大な才能は形式面において最大の敵ともなった。旋律はそれ自体で完結する。この完結性ゆえに、旋律は他の主題とは一線を画し、対照的であるだけでなく、より重要なことに、互いに自然に相互作用し構築していく。一つの旋律の支配は、西洋古典派の作曲家がソナタ形式の本来の美しさと考えていたバランスとプロポーションを損なう可能性がある。感情の緊迫と過剰な旋律の組み合わせは音楽的展開を阻んでいた。残された唯一の道は、真の展開の代わりに反復を代用することだった。言い換えれば、既に述べたことを別の方法で再度述べ、ソナタ形式に求められる展開部の役割を、基本的に変奏であるものの美しさと意義に委ねることだった。
ここにチャイコフスキーの音楽の概念がはっきり現れていると思う―「接続詞」はポップスと同様、メロディ同士を繋げる役割を担い、音楽の展開は (彼が私淑していた) シューマンに似たフレーズの反復に委ねられる。例えばシューマン/交響曲第4番ではひたすら繰り返されるフレーズがあるが、それは絶え間ない反復により生じ蓄積されるエネルギーで音楽的素材をあたため、その成長を待っているかのようで、時が訪れると音楽は限りなく飛翔してゆくのである。チャイコフスキーの場合はそこまで詩的ではなく、あくまでもメロディの流れを保ち、音楽を先に進めるための「手続き」のように思える~その点では職人芸なのかもしれない―(他に上記の解説が当てはまりそうな) シューベルトの場合はどうだろう?特に「グレイト」ではパッセージの反復が目立つが、音楽のパーツ全てに歌心が宿っているかのようである。
この交響曲を語る上で欠かせないのは、13年もの間、チャイコフスキーのパトロンとなったフォン・メック夫人の存在であろう―事実、「最良の友人に」という献辞とともに夫人に捧げられた最初の作品となった。そして彼女からの要請で、作曲家自らが作品の詳細な解説を手紙にしたためている点にも注目できる。その冒頭でチャイコフスキーはこう書き綴っている。
われわれの交響曲には標題 (プログラム) があります。いやむしろ、作品の意味を言葉で記す可能性がある、といったほうがよいかも知れません。そしてあなたにだけは、この交響曲全体の意味と各楽章の意味をお伝えしておきたいと思います。もちろん、私とて、ただ一般的な特徴を示すことができるにすぎませんが…。
この後に楽章ごとの解説が続くわけだが、手紙の冒頭で示唆されているのは交響曲第4番が (タイトルこそ示されていないものの) 実質的に「交響曲」と「交響詩」のハイブリットである可能性だ。ただ、チャイコフスキー自身もそれが決定的な解釈ではなく「一般的な特徴」にすぎないことを述べ、手紙の終わり部分でも「明確ではないし、十分に言い尽くされてもいません」と強調している―この点は重要で、クレンペラー盤のような「純音楽」的なアプローチを容認する見解にも受け取れる。それでも各楽章のチャイコフスキーの説明を踏まえて聴くと、本当にそのように聞こえてくるのが面白い。
序奏部は交響曲全体の萌芽であり、根源です。それは運命であり、幸福を求めてゴールに到達しようとするのを妨げる悲劇的な力であり、あるいは、ダモクレスの剣のように、 絶えずわれわれの頭上に降りかかり、絶え間なく魂を毒するところのあの力なのです。 この力は圧倒的なもの、征服し得ないものです。それに屈服し、空しく嘆き悲しむよりほかありません。それが主部の第1主題で表現されます。悲痛と絶望の感じはいよいよ強まり、ますます激しくなります。現実から顔をそむけて、自ら夢のなかに眠った方が良くはないでしょうか?ああ、喜び!何と甘い幻影が現われることでしょうか!至福を約束された晴れやかな人が私を手招きします (第2主題)。何という美しい希望!アレグロの忘れがたい第1主題は、今では遠くから響いてきます。少しずつ魂は夢で包み込まれてしまいます。陰気なもの、悲しいもの、これらは全て忘れられてしまいます。歓喜!歓喜!ただ歓喜!!だがこれは夢にすぎません。運命はもう一度歓喜を追い散らしてしまいます (展開部)。かくてわれわれの人生は、重苦しい現実と幸福の儚い夢の交代にすぎません。安全な避難所というものはないのです。海がわれわれを吸い込んでしまうまで、われわれは波のまにまに漂うことでしょう。これが第1楽章のおよその標題です。
全曲の大半を占める第1楽章 (ピアノ協奏曲&ヴァイオリン協奏曲や「悲愴」もそうである) は、金管楽器による荒々しいファンファーレの序奏「Andante sostenuto」から始まる。作曲家自身の解説のように「運命の動機」として認識されることが多く、ベートーヴェンの「それ」との類似性を見出している識者もいる。楽章中でも何度も登場し、去ってはまた訪れるといった具合だ (フィナーレ楽章でも不意に姿を現わす。テューバが冒頭&終楽章のみ用いられているのは、このファンファーレのためかもしれない。戦後最多の豪雪に見舞われた僕の住む青森の状況によく合う音楽だ。この豪雪こそ「冬の日の幻想」であってほしい)。この攻撃的なファンファーレはポロネーズのリズムを伴っており、続く第1主題「Moderato con anima」でのメランコリックなワルツとのコントラストが狙われている。変イ短調の第2主題もワルツであるのが興味深く、やはりチャイコフスキーの本領はバレエ音楽にあるのかと思ってしまう。凄まじいのが展開部で、不穏な雰囲気を煽りつつ、最高潮で再びファンファーレを現出させ、手に汗握る極めてスリリングな音楽シーンを描き出す。その後も (運命の) ファンファーレは鳴りやまず、心理的極限まで追い込まれ、成すすべもないまま翻弄される。コーダではアッチェレランドしつつ、悲鳴のように第1主題が回帰し、さらにスピードを上げて悲劇の坂を転がり落ちてゆく―マーラーの交響曲よりも「悲劇的」に思える。そんなネガティヴで劇的な冒頭楽章をクレンペラーは衒いのないテンポで堂々と進めてゆく。フィルハーモニア管弦楽団の厚みのあるサウンドの中で、各楽器、各声部の描き分けがクリアで、ひたすら煽りまくる演奏とは好対照、聴いていて充実感が著しい。ティンパニのロールが続くコーダでの結尾部は、ティンパニの一撃で決然と楽章を終わらせている。
第2楽章は、また別の苦しみを示しています。それは、仕事に疲れてただひとり家で座っているとき、われわれの心に垂れこめるあのメランコリックな感情です。読もうとして取り上げた本は手からすべり落ち、様々な想い出がよみがえってきます。過ぎ去った多くのことを想い出すのはいかにも悲しいことですが、しかしそれでもなお、青春を思い出すのは楽しいものです。過去を悔やむけれども、しかし新しい生活をはじめる勇気も望みもありません。人生に疲れ、多くの想い出をたどりつつ、自らを元気づけ、 回顧することを好むものです。若い血潮がたぎり、愛に満足していた、喜びの時期もあったし、償いがたい損失の悲しみの多い時期もあった (中間部)。しかしそれらはすべて、遠い遠い過去のことです。過去に浸り切るのは、悲しいことですが、しかしまた甘美なものでもあります。
「Andantino in modo di canzona」変ロ短調の第2楽章は表記通り「歌」に満ち、深い孤独を感じさせるメランコリックな旋律をオーボエがリードしてゆく。諦観を滲ませた弦楽器の応答フレーズが葬送的な雰囲気を醸し出す。管楽器の扱いの素晴らしさはチャイコフスキーの他の作品でも実証されていると思う-ブラームス/ヴァイオリン協奏曲 (1878)~第2楽章でもオーボエに魅惑的な旋律が託されていた。同年作曲のチャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲 (1878)~第2楽章も管楽器が美しいが、両者の音楽の違いが興味深い-。ちなみに第2楽章ではトロンボーンが休みとなる―寒い冬の日に誤って暖炉の炎を消してしまわぬように。クレンペラーの演奏はしっとりとしながら決して感傷的にならない―楽想自体がそうであっても。彼の客観性は感情に溺れることなく音楽を隅々まで見通し、テクスチュアを明白に示す。中間部でヘ長調に転じた新たな楽想が始まるが、すぐに憂鬱に取り込まいそうになる。この楽想が後半楽章で重要な役割を果たすことになるのが面白い。三部形式の後半、フルートのオブリガートを伴いながら「歌」が引き続き奏でられる。最後は断片的に途切れて「歌」は消え去ってゆく。
第3楽章では、何か定まった感情は表現されておりません。これはただの陽気なアラベスクであって、ちょっとお酒を飲んだ場合などによく経験する、あのとりとめのない幻想です。この楽章の気分は悲しくもないが楽しくもない。何も考えることはいりません。 想像力の赴くままにまかせて下さい。するとファンタジーが最もすばらしい構図を描いてみせてくれます。突然、生酔いの農夫と彼の歌う唄の記憶が思い浮かんできます。…遠方では通りすぎる軍楽が聴こえます (トリオ)。これらは、眠りかけたときにわれわれの頭のなかに去来する、あの全くつじつまの合わない幻影と同じものです。これらは現実とは全く関係がなく、奇妙で、不思議で、とりとめのないものです。
スケルツォ楽章が「Pizzicato ostinato」であることは実に独創的。シュトラウス兄弟/ピツィカート・ポルカ (1869年ロシアで作曲) 以来のアイディアかもしれない。テーマは第2楽章中間部のフレーズに由来、2つの前半楽章のドン暗さは何処へやら、純粋に音の律動を楽しめる―「何も考えることは必要ない」らしいから。クレンペラーは弦楽器をたっぷり奏でる~ピツィカートになってもそれは変わらない。量感豊かに響く指弾きは静かな迫力に満ちている。中間部のトリオではピッコロを含む木管楽器による「農夫の歌」が賑やかに奏でられ、金管楽器による「軍楽」が「遠方」から聞こえるように弱音で奏でられる。三部形式の後半は再びピツィカートが戻ってくるが、そこにトリオのざわめきが絡み合い、小規模なクライマックスを築く-これはフィナーレ楽章の後半で回想される-。全体の曲想がブラームス/交響曲第2番 (1877)~第3楽章と何となく似ているように感じるのは僕だけだろうか。
第4楽章。もしあなたが自分自身の中に喜びを持てないのであれば、あなたの身の周りをご覧なさい。民衆のなかに入ってゆきなさい。彼らがいかに楽しむべきかをどんなによく心得ているかをご覧なさい。祭りの日のあの賑わい。やっと悲しみを忘れ、彼らの喜びをみることに心を惹かれ始めたとき、またしても、あの執念深い運命の動機が顔を出します。しかし他人はあなたのことなど構ってはくれない。彼らはふりむきもせず、あなたが孤独で悲しんでいることには気づきもしません。ああ、彼らはどうしてあんなに楽しいのでしょうか!あなたは世の中の全てが陰気で悲しいことを肯定されるでしょう。しかしまだ幸福というもの、単純で素朴な幸福は存在するのです。 他人の喜びを喜びなさい。そうすれば、まだ生きることができます。
フィナーレは「Allegro con fuoco」ヘ長調。やはり第3楽章と同じく、渦巻くような主要テーマは第2楽章中間部から派生~発展している (実は意外なところで使われていたり-僅か数秒だが)。さらにロシア民謡「白樺は野に立てり」が引用され、熱狂的なダンスの様相を呈してくる-バラキエフが同じ主題を用いて序曲を作曲していた-。まさに「祭りの日の賑わい」。多くの指揮者が畳み込むように高速で演奏する誘惑に抗えないでいる中、クレンペラーは悠然と構え、過度のスピードによってパッセージを弾き飛ばしたりはしない。テューバが再登場し、シンバル、トライアングル、バスドラムといった打楽器群も総動員されるという、全曲中最も派手に鳴り響く楽章だが、比較的ゆっくり目のテンポがかえって迫力を増す結果となっている。せっかくはしゃいでいた音楽にやがて不穏な陰りが差し、厭な予感が的中かの如く第1楽章の「運命」のファンファーレが高らかに鳴り響く。しかし第3楽章での小クライマックスが「運命」を追い越し、追いつかれないようデットヒートが始まる-音楽を聞く限りどうやら逃げ切ったようである-。クレンペラーは通常興奮を抑えきれないそんな場面でも、無闇にテンポを上げたりはしない。それでも満足できるのはクレンペラーの魔法なのか、音楽そのものの力なのか、その両方なのか。あるいはどちらでもないのか。第1楽章と同様、クレンペラーはティンパニの一撃で結尾部を決然と締めくくっている。その肯定性は、手紙に見られる「単純で素朴な」希望とリンクする。しかし晩年のフォン・メック夫人は精神を病み、チャイコフスキーとの交友を一方的に絶ってしまう〜まるで後に生じる精神的危機に備えるかのような手紙の一文にハッとさせられる。
最後にチャイコフスキーはこのように解説を終えている-。
以上が (第4交響曲について) あなたに言えることのすべてです。もちろん、私の言葉は明確ではないし、十分に言い尽くされてもいません。あなたがこの交響曲の意図を分析することができないとすれば、それは器楽曲の持っている特殊性のためです。
当盤同音源より、全楽章を―。
