
解像度が上がった、ということにしておく
私は小学生の頃から、ずっと大人しかった。
発言が苦手で、注目されることが嫌いで、できるだけ目立たずにいたかった。それは今も変わっていない。だから長い間、自分の性格についてあまり深く考えてこなかった。「大人しい人間」というのが、私の自己紹介のすべてだった気がする。
でも50代に入ったあたりから、何かが変わり始めた。正確には「変わった」というより、じわじわと、何かが見えるようになってきた、という感覚に近い。
それがなんなのかを、うまく説明できずにいた。
でも最近、ようやく言葉になってきた。
変わったのは私ではなく、解像度だったのだと思う。
見えていなかった仕事をしていた
以前の職場での話だ。
私はいつも、他の人より少し早く出勤していた。誰かに言われたわけではない。バタバタした状態で仕事を始めるのが苦手で、ある程度準備を整えてから一日をスタートしたかった。それだけのことだ。
次の業務がやりやすいように段取りをしておく。誰も気づかないような細かい準備を、毎日積み重ねていた。
たとえば、似たような商品が複数ある場合、バタバタした状態でスタッフ全員が一斉に商品を触ると、似たものを間違える。そういうミスが起きやすいポイントを、私はいつの間にか把握していた。だから出勤したらまず、間違えやすい商品を先に仕分けしておく。それだけで、その日のミスがぐっと減る。
ミスをした後は、同じことが二度起きないように準備する。それが私にとっての「当たり前」だった。
あるとき、同僚に「いつもミスがなくてすごいですね」と言われた。私はすごいわけではない。準備しているだけだ。だからそのたびに、どうやって準備しているかを話した。何度も、同じ話をした。
でも相手はメモを取らなかった。翌日には、また同じミスをしていた。
ミスは誰にでもある。それは責める気持ちにはならない。ただ、同じ失敗を繰り返さないために動こうとしない姿勢が、どうしても納得できなかった。「わかりにくい商品には触らない」「面倒なことはほったらかし」——そういう選択を、何の迷いもなくできる人間が、私には不思議だった。
ある日、休暇を取って翌日出勤すると、職場がほったらかし状態になっていた。誰も何もしていなかった。そのとき静かに気がついた。
——これ、私がしなければ誰もしないのだ、と。
驚きというより、確認だった。怒りとも少し違う。ただ、そういうことだったのか、と思った。
それでも私は、その仕事を続けた。誰かに認められたいわけではなかった。そうしないと、自分が落ち着かなかったから。
「まあそういうものか」が崩れてきた
社会に出てから、贔屓というものの存在を知った。上司に気に入られた人間が評価される。声が大きい人間の意見が通る。ゴマをすることが得意な人間が、楽をしながら先へ進む。
若い頃は、それほど気にならなかった。「世の中そういうものだ」と、どこかで納得していた部分もあった。
でも50代に入って、その「納得」が崩れてきた。
真面目にもくもくと積み重ねてきた。誰も見ていないところでも手を抜かなかった。それでも評価されるのは、うまく立ち回ることが得意な人間だったりする。昔から知っていたはずのことなのに、今は納得いかない。
なぜ今になって、と自分でも思う。
でも考えてみると、これは「怒りっぽくなった」のではないと思う。むしろ逆だ。見えていなかったものが、ただ見えるようになった。そういうことなのだと思う。
ストレスがかかると、私はこうなる
50代になってもうひとつ気づいたことがある。
環境が変わると、私のパフォーマンスが落ちる。
新しい職場、新しい人間関係、慣れない仕事。そういう変化が重なると、普段は当たり前にできていることが、急にできなくなる。ストレスが溜まると視野が狭くなる、というのを実感として知っている。頭でわかっていても、そのときはもう手遅れで、気づいたらミスをしている。
で、そのあとどうするかというと——正直に言うと、開き直るところがある。
「まあ仕方ない」「今日はそういう日だった」と、一度リセットする癖がついている。落ち込みはする。でも引きずらない。そういう自分を、悪いとも思っていない。立て直しが早いのも、ひとつの才能だろうと、最近は思えるようになった。
ただ、若い頃はその「開き直り」が単なる逃げだったかもしれない。今は少し違う。開き直る前に、「なぜこうなったのか」を一瞬だけ考えるようになった。
環境が変わったから。疲れていたから。あの場面でこう判断したから。それだけ確認したら、あとは手放す。その繰り返しだ。
体が、先に知っていた
心だけじゃない。体も、同じことをしていた。
ここ数年、いろいろな不調が重なった時期がある。なんとなくしんどい、疲れが抜けない、朝起きたときからすでにだるい。寝たはずなのに、なぜか回復していない。
病院をいくつか回った。でも特に異常なし、という答えが続いた。
そういうとき、若い頃の私なら「気のせいかな」で終わらせていたと思う。でも今は、違う問いが浮かぶ。原因なしに結果は起きない。何かがあるはずだ、と。
そこで一度、立ち止まって考えた。
朝、痛い。しんどい。寝たのにだるい。——この共通点はなんだろう。
睡眠だ、と直感した。
眠れていないのではなく、眠りの途中で何かに邪魔されている。そういう感覚が確かにあった。そして思い当たったのが、首だった。長年、首に痛みがある。その痛みが根っこにあって、そこから波紋のように広がって、体のあちこちに影響していたのではないか。
まだ証明できていない。今も向き合っている途中だ。
ただ、ひとつだけ動いた。枕を変えた。正確には、今も試行錯誤しながら改善している最中だ。首に合う枕を探している、というだけのことなのに、なぜかそれが「自分の体をちゃんと見ようとしている」という感覚につながっている。
でも「体が悪い」と落ち込むより、「体が何かを教えようとしている」と思えるようになったことで、少し気持ちが変わった。不調を責めるのではなく、観察する。そういう姿勢が、自分の体に対しても、ようやくできるようになってきた。
心に対してやっていたことと、同じことだった。
気づいて、観察して、書き留める
noteを書き始めてから、自分のことが少しずつ見えてきた。
日常の中で「あれ?」と感じる瞬間がある。誰かの言葉にざわっとしたり、自分の行動を後から振り返って首を傾けたり。そういう小さな引っかかりを、以前は流していた。
でも今は、止まる。
なぜそう感じたのか、と一度だけ問う。感情を観察する、というよりは、少し距離を置いてみる、という感じに近い。怒っているとき、不安なとき、じんわりと嬉しいとき。その感情の輪郭を、少しだけ眺めてみる。
それをnoteに書き留める。
書くことで、頭の中のもやもやが外に出る。外に出すと、形が見える。形が見えると、自分がどういうときにどうなるか、だんだんわかってくる。
「私はこういう状況でこうなりやすい」というパターンが、少しずつ手元に集まってきた。
次に似たような状況になったとき、少しだけ身構えられる。完全には防げないけれど、「あ、これかも」と気づくのが早くなった。それだけで、だいぶ楽になった。
完璧にできているわけではない。視野が狭くなって、ミスをして、開き直って、また繰り返す。でもその繰り返しの中に、少しずつ「学んでいる自分」が混ざり始めている。
終わりのない作業だと思っている。ゴールがない代わりに、ずっと続けられる。そういう成長のかたちが、50代の私には合っている気がする。
静かな内側に、ずっとあったもの
50年以上生きてきて、ようやくわかってきたことがある。
私の性格の核は、何も変わっていない。小学生の頃から大人しく、発言が苦手で、注目が嫌い——それは今も同じだ。
でも、その静かな内側に、ずっと一本の軸があった。
正義感、と呼んでいいと思う。
正しいと思えることは、たとえ誰も見ていなくても続ける。間違っていると感じることは、場の空気を読んでいても、最終的には言ってしまう。言った後は、すっきりする。後悔はない。
それが「大人しい私」と矛盾しているように見えて、実はずっとセットだった。
正義感があるから、普段は余計なことを言わない。自分が正しいと思えないことは、口にしたくない。でも、これは違うという場面では、静かな人間が動く。
若い頃はその軸がぼんやりしていて、不公平があっても「まあそういうものか」と流せた。50年かけて軸がはっきりしてきたから、見えなかったものが見えるようになった。納得できなかったものが、言語化できるようになった。
「変わった」のではなく、育ってきたものが見えてきただけだった。
解像度が上がった、ということにしておく。
同じように生きてきたあなたへ
真面目にやってきた。誰も見ていない仕事も、手を抜かなかった。派手さより、安定と継続を選んできた。それでも報われないと感じることがあった。
そういう50代の私たちに、伝えたいことがある。
変わったと感じているその感覚は、たぶん正しい。でも変わったのは、あなたの本質ではない。
ずっとそこにあった軸が、50年かけてようやく見えてきただけだ。
納得いかない気持ちは、弱さではない。それだけのものを、あなたはずっと持ち続けてきた証拠だ。
開き直れることも、ちゃんと才能だ。
日々の小さな「あれ?」を書き留めていくことも、立派な自己理解だ。
静かな人間の中にあるものは、派手ではないけれど、本物だと思う。
50代、今さらと思っていたけれど、どうやらこれは「今さら」ではなかったらしい。
育つのに、50年かかっただけだった。
了