
こゆきちゃんのいる古書店 #2
第2話 白い子猫
引き戸を開けると、朝の空気は思っていたよりも冷たかった。
春先の朝は、日差しだけ見ているともう十分にやわらかいのに、空気の底にはまだ冬の名残がある。修一は店先に立ち、商店街の端まで視線を走らせた。外はどこも半分眠っているみたいに静かで、通りを行く人影もまだまばらだった。
さっきの声は、どこから聞こえたのだろう。
もう一度、耳を澄ます。
遠くで車が走る音。
自転車のブレーキ音。
パン屋の裏口で何かを運ぶ音。
そういう朝の細かな音のあいだから、また、あの小さな声がした。
今度ははっきり、近い。
修一は店の外へ一歩出た。
声は店の表ではなく、横手の細い通路の方から聞こえているようだった。隣の店との境目にある、人ひとりがやっと通れるくらいの細い道は、店の裏口と古びた物置につながっている。日当たりが悪く、いつも少し湿っていて、朝のうちは特に冷える場所だった。
そこへ近づくと、声はやんだ。
修一は足を止めた。
息をひそめる。
するとまた、かすかな、絞り出すような鳴き声がする。
低い位置だ。
修一はしゃがみ込んだ。
物置の脇に積んである古い木箱の陰、掃除道具の入ったバケツの向こう、壁際に置かれた折り畳み椅子の足元。朝の光がうまく届かず、そこだけまだ夜の続きを引きずっているみたいに暗い。その暗がりをじっと見ていると、ようやく白いものが目に入った。
最初は、くしゃくしゃになった紙か、どこからか飛んできた布切れかと思った。
けれどそれは、ほんの少し動いた。
白い、小さな塊。
修一はゆっくり身をかがめた。
その瞬間、塊の端がぴくりと震え、細いしっぽだと分かった。そのしっぽの先にだけ、薄いキジトラの縞が入っている。
子猫だった。
全身はほとんど白い。
ただ、耳の根元としっぽの一部にだけ、淡くキジトラ柄が混じっている。雨に濡れたわけでもないのに毛並みは少し乱れていて、体はひどく小さかった。まだ自分の身体の扱い方にも慣れていないような頼りなさがある。
子猫は木箱の陰に身体を押しつけるようにして、じっと修一を見ていた。
丸い目だけがやけに大きく見える。怯えきっているのが、一目で分かった。
「そこにいたのか?」
口に出した途端、その声で子猫の耳がぴんと立った。
逃げるかと思ったが、逃げなかった。いや、逃げるだけの余裕がないのかもしれない。背を低くして、これ以上小さくなれないところまで縮こまり、ただ修一を見上げている。
修一は手を伸ばしかけて、やめた。
こういう時、下手に近づけば逆効果になる。
昔、父にそう言われたことがあった。相手が猫でも人でも、怖がっているものには、こちらが冷静にならなくてはいけないと。父は猫好きというほどではなかったが、古書店の裏手に迷い込んでくる野良猫には詳しかった。
修一は少しだけ距離をとり、その場にしゃがんだまま黙って子猫を見た。
子猫もまた、逃げも隠れもせずに修一を見ていた。
白い毛。
うっすらと汚れた足先。
耳の根元にだけある薄い縞。
それから、震えている体。
小さい。
想像していたより、ずっと小さい。
「どこから来た?」
問いかけても返事があるわけではない。
それでも修一はそう言った。
子猫はまばたきもせず、ただ大きな目でこちらを見つめている。怯えてはいる。けれど、完全にこちらを拒絶しているわけではないようにも見えた。その微妙な距離感が、修一には少し気になった。
本当に逃げる気なら、もっと早く逃げているはずだ。
声がした時点で人の気配は分かっていただろうし、今もこうして見つめられているのだから。なのに動かないのは、弱っているからか、怖くて動けないからか、そのどちらかだ。
修一は通路の先を振り返った。
親猫の姿はない。
近くに兄弟猫がいる様子もない。
ただ朝の冷えた空気と、店の壁に沿って落ちる影だけがある。
どこかの家で飼われていた猫には見えない。
首輪もないし、毛並みにも人の手で守られている感じはなかった。けれど、だからといって放っておくのが当然だとも思えなかった。
修一は困った顔で眉を寄せた。
子猫を拾うというのは簡単な話ではない。
店がある。
仕入れもある。
一日中店に張りついている日だってある。
それに、猫がどれほど手のかかる生き物か、知らないわけでもない。
修一はひとりで生きることに慣れている。
その生活は、誰かがいることを前提にできていない。
朝起きる時間も、飯を食う時間も、店を閉める時間も、自分ひとりの都合で形作られている。
そこへ、小さな命を入れる。
そう考えるだけで、急に現実の重みが増す。
この子が病気だったら。
人に慣れなかったら。
店の中で暴れて本を傷めたら。
あるいは、もっと単純に、自分がちゃんと世話をし続けられなかったら。
そういう考えは、次々浮かぶ。
けれどその一方で、目の前の小さな体は、今この瞬間にも震えていた。
「困ったな」
修一は小さくつぶやいた。
子猫がそれに反応したように、ほんのわずかに首をすくめる。
その様子があまりにも頼りなくて、修一は思わず目をそらした。
見なかったことには、できない。
たぶんその時点で、半分以上、答えは出ていた。
修一は立ち上がると、いったん店の中へ戻った。
レジ横の引き出しから、使い古しのフェイスタオルを一枚取り出す。ついでに、昨日の閉店前に買っておいた食パンの耳も思い出したが、いや、と首を振った。猫にパンをやっていいのか分からない。知識の曖昧なことはしない方がいい。
代わりに水だけを小さな器に入れて、もう一度通路へ戻る。
子猫はまだそこにいた。
さっきよりも少しだけ木箱の奥へ引っ込んでいたが、それでも逃げてはいない。修一はその前に器をそっと置き、さらに少し離れて見守った。
子猫はすぐには近づかなかった。
耳を伏せぎみにしながら、何度も水と修一を見比べる。やがて、少しだけ首を伸ばし、おそるおそる匂いを確かめた。けれど飲もうとはしない。
やはり弱っているのかもしれない。
あるいは、怖くて喉の渇きどころではないのか。
修一は通路の壁にもたれ、しばらく黙っていた。
朝の光は少しずつ角度を変え、通路の入り口近くまで明るくしている。けれど子猫のいる場所にはまだ届かない。そこだけ時間が遅れているみたいに薄暗く、白い体だけがぼんやり浮かんでいた。
その白さに、修一はふと雪を思い出した。
深く積もる雪ではなく、朝のうちだけ屋根の隅に残る、小さな名残のような雪。陽が高くなる頃には溶けてしまうかもしれない、頼りない白。目の前の子猫もどこか、そういう儚さをまとっていた。
「白いな」
独り言のように言うと、子猫の耳がまた小さく動いた。
修一は、名前のないものに話しかけるのが少し苦手だった。
本であれ、道具であれ、何かをちゃんと形のあるものとして扱うには、呼び名が必要だと思っているところがある。もっとも今は、まだそこまで考える段階ではない。
ないはずだった。
けれど、白い小さな体を見ていると、口の中にひとつの音が浮かびかけた。
雪。
いや、まだ早い、と修一は思い直す。
拾うと決めたわけでもない。
連れて帰ると決めたわけでもない。
名前をつけるのは、そのずっと先の話だ。
子猫はようやく、器に少しだけ鼻先を近づけた。
ほんのわずか、舌が動く。飲んだのかどうか分からないほど少ない量だったが、それでも何も口にしないよりはましだ。
修一はそこで、近くの動物病院のことを思い出した。
商店街を抜けた先に、小さな病院が一軒ある。店の客が犬や猫の話をしているのを何度か聞いたことがある。獣医の名は――そうだ、牧村だったか。
時間はまだ早いが、開院までそれほど長くはない。
ただ、それまでこの子をどうするか。
店を開ける時間は近づいている。
このまま裏の通路に置いておくわけにはいかない。客が来れば音も増える。何より、この子自身がもう限界に近いように見えた。
修一はタオルを手に取り、ゆっくりしゃがみこんだ。
「怖いだろうけど、少しだけ」
そう言いながら、タオルごと包める距離まで手を伸ばす。
子猫はびくっと身を縮め、かすかな声を上げた。その声は警戒というより、震えに近かった。
「大丈夫、とは言えないか」
修一は少し苦笑した。
大丈夫かどうかは、自分にも分からない。
それでもこのままにはしておけない。
タオルが毛先に触れた瞬間、子猫はほんの少しだけ身をよじった。
けれど逃げる力はほとんどなかった。修一はできるだけそっと、白い小さな体を包み込む。驚くほど軽い。何かの間違いみたいに軽い。
その軽さに、修一は胸の奥がひやりとした。
腕の中で、子猫はしばらく硬くなっていた。
耳を伏せ、目を見開き、細い呼吸を繰り返している。修一はタオルの上からその体を抱え直し、なるべく揺らさないように胸元へ寄せた。
体が、あまりにも小さい。
「まず、病院だな」
自分に言い聞かせるように呟く。
子猫は返事をしない。
当然だ。
けれどその沈黙が、今はかえってありがたかった。勝手に何かを期待せずに済むからかもしれない。人間相手だと、こういう時、とかく余計な言葉が増える。大丈夫だの、心配ないだの、根拠もないことを口にしてしまう。
修一は店の中へ戻り、急いで開店前の準備を最低限だけ片づけた。
表の札をまだ「準備中」のままにして、レジ横に一枚だけ紙を置く。
午前中、少し遅れて開けます。
簡素な字でそう書いて、引き戸の内側へ立てかける。
ほんの数時間店を開けるのが遅れたところで、大勢が困る店ではない。
それはそれで少し寂しい話だが、こういう朝には都合がいい。
子猫は、タオルにくるまれたまま修一の腕の中でじっとしていた。
怖がっているのは分かる。それでも、さっきより少しだけ震えが弱くなった気もした。あるいは、ただ修一の腕がそう思いたいだけなのかもしれない。
店の戸締まりをして表へ出る。
商店街は、さっきより少し動き始めていた。
八百屋の店先には野菜が並び、パン屋の窓には焼きたての湯気が白く曇っている。喫茶店の前を通ると、中で誰かがカップを並べる音がした。
そういういつもの朝の風景の中に、今日は小さな白い命がある。
修一はそれを不思議に思った。
今までだって、商店街に猫がいなかったわけではない。塀の上で寝ている猫も見たことがあるし、裏道をすばやく横切る影を見かけたこともある。けれど、こうして自分の腕の中に抱えて歩くことになるとは思っていなかった。
軽い。
あまりにも軽い。
それだけで、気が急く。
動物病院の看板が見えてきた時、子猫がようやく小さく鳴いた。
さっき通路で聞いたのと同じ、細くて頼りない声だった。
修一は思わず腕の中を見下ろした。
大きな目が、タオルの隙間からこちらを見ている。まだ怯えている。けれどその目の奥に、ほんのわずかだけ、さっきとは違う色が混じったような気がした。助けを求めている、というほどはっきりしたものではない。ただ、諦めきってはいない目だった。
「もう少しだ」
修一はそう言った。
今度は、自分でもそれが空約束ではないように思えた。
少なくとも、この子をひとりであの暗い通路に戻すつもりは、もうなかった。
そのことに気づいた瞬間、修一はほんの少しだけ息を吐いた。
古書店の朝は、いつも静かに始まる。
けれど今日の朝は、その静けさの中に、小さな白い声を連れていた。
まだ名前のない子猫。
怯えた目をした、小さな体。
けれど、腕の中には確かな重みがある。いや、重みというにはあまりに軽いのに、それでも何かが確かに変わり始めているのが分かった。
病院の扉の前で立ち止まり、修一はタオルの上からそっとその体を抱え直した。
白い子猫は、もう一度だけ小さく鳴いた。