
【エッセイ】 普通に接してあげてな
重度身体障がい者の姉について書いています。
この手の話が苦手な方はブラウザバックください。
私には10歳上の姉がいる。
お産の時にうまく母のお腹から出てこれなくて、医師が帝王切開した時には既に手遅れだったらしい。
脳に一定以上の時間、酸素が行き届かず麻痺が残ってしまった。
寝たきりで手足は自由に動かせない。常に過緊張で全身強ばっている。もちろん発語はできず、脳の発達も恐らく幼児くらいで止まっている。
出来ないことを挙げたらキリがない。
それでも姉は笑うことができる。
「あー」とか「うー」しか言えないけれど、目の動きで意志を伝えることができる。
頷くことと首を横に振ることはできるから、イエス・ノーも伝えられる。
この笑顔があるというのは、神様の最大のギフトだったのかもしれない。
養護学校や施設でも笑顔を振りまく姉は、いつでも職員さんやスタッフさん皆に可愛がってもらえたらしい。
家の中でも姉はいつも「わー」「きゃー」声を出して笑っていたし、明るく賑やかな姉は言葉は発せられずとも家族の中心だった。
そんな姉は私が小さい時から床に寝っ転がっていた。
「なんでおねえちゃん、いつもねてはるの?」
と幼い私が聞いた時、母は
「生まれる時にな、なかなかお腹から出てこれんくてな、こんな風になったんや。あんたも同じようになるかもしれんかったけど、なんとか無事に生まれたんやで」
と言って、私の骨盤の形が悪かったせいや、と自分を責めて涙を流した。
おねえちゃんは助からへんかったけど、ぼくは助けてもらった。
その事実を聞かされて、私は我慢ばかりする子になっていった。
パパとおかあさんが困ることをしちゃダメだ。
ふたりがよろこんでくれるような子供になろう。
そして母の涙を見て以来、なんでおねえちゃんは皆と違うのか、聞いちゃダメなんだと思った。
母はその上「おねえちゃんのこと、普通に接してあげてな」と何度も言った。
普通にしろと言われる度に、普通と違うことが強調される気がした。ほんとはそんな事言われなくても私の中では姉は「普通の姉」だったのに。
床に寝っ転がってるのも、夕飯の後に居間におまるを持ってきておしっこをするのも、顔を近付けたら反射で手が飛んできてパンチされるのも、全部私にとって普通の姉だった。
小学生の高学年くらいになると、車椅子を押すのは私の仕事になった。
押して歩いていると、通りすがりの人がみんな好奇の目でこっちを見るのを感じた。
中には「お父さんお母さんのお手伝いえらいね」なんて話しかけてくる人もいた。
姉は自分で歩けないから、一緒に移動する為に車椅子を押しているだけで、何故それが「偉いね」になるのかよく分からなかった。これがうちの家族の形なのに。
そんな時、母も「あんたも周りからジロジロ見られてごめんな」みたいなことを言うものだから、「別に大丈夫やで」と言いながらどんな顔をしていいのか分からなかった。
高校生くらいになると、体の大きさが中学生くらいで止まっている姉を見て、だんだんおねえちゃんという感覚が分からなくなっていった。
見た目じゃもう自分より幼いおねえちゃん。
テレビの下ネタが流れてくるとゲラゲラ笑って、両親が喧嘩をすると赤ん坊のように泣き喚く。
「おねえちゃんのこと、普通に接してあげて」と言われても、だんだん普通が何か分からなくなっていた。
友達がお姉さんと喧嘩した話を聞く。
──いや、うちは喧嘩とかできひんけど。
友達のお姉さんが結婚したらしい。
──いや、おねえちゃんは結婚とかしないやろ。
段々、今まで普通と思い込んでいた事が何なのか分からなくなってきた。
大学生になって、家にいる時間が一気に少なくなった。
友達と遊ぶのが楽しくて、バイトでお金をもらうのも嬉しくて、彼女と過ごす時間が人生で一番幸せな時間になっていた。
そんな時、姉が誤嚥性肺炎で入院した。姉のように重度障がい者さんが亡くなる原因となり得る怖い怖い誤嚥。幸い命に別状はなくて、1週間ほどで退院出来るとの事だった。
深刻な状態ではないと分かったらホッとして、両親がしばらく家に帰ってこないという事実だけが残った。今なら彼女とふたりきりになれる。
彼女には家族が留守の理由は何も言わず、誰もいない家にこっそり呼んだ。何食わぬ顔でシチューを作って振る舞い、何食わぬ顔で初めて体を重ねた。
その後罪滅ぼしのように病院に飛んで行ったけど、正直彼女のことで頭の中はいっぱいだった。
大学院からは一人暮らしを始めた。徹夜で研究することが増えたというのが表向きの理由だったけど、そろそろ実家から離れたかったのだ。
たまに実家に帰ると、「ぎゃー!!」と全身で喜びを表して盛大に出迎えてくれるおねえちゃん。
でも最早どう接していいのか分からなくなって「元気してた?」とか聞いて軽く手を握るくらいしかできなかった。
両親は嬉しそうに姉の話をする。
姉がいかに施設で可愛がって貰っているか。
いかに毎日楽しく過ごしているのか。
居間のガラス戸に貼られた家族の写真は、いつしか姉の写真でいっぱいになっていた。
どの写真の姉もいい笑顔で楽しそうだ。そして私の写真は増えないもんだから姉の写真に紛れて段々とどこにあるのか分からなくなっていった。
下宿先に帰る時には、姉の施設で作っているというマドレーヌをお土産にもたされた。
パサパサしてあまり美味しくなかったけど、姉も一緒に作っていると聞くと残す訳にはいかなかった。
30歳になって結婚することになった。
初めて会った姉の姿に妻は戸惑っていた。
「何かお手伝いできることはありますか?」と寄り添ってくれたけど、実際どうしていいのか分からないようだった。そこでも母は「普通に接してあげてな」と言っていた。
結婚式は京都の歴史ある神社で挙げることになった。式の準備をする中で妻は「お姉さんには結婚式に参加しないで欲しい」と言った。
厳かな雰囲気で式を挙げたい。披露宴はもちろんお姉さんも一緒に祝福してほしい。だけど、式だけは「あー」とか声を聞くのは勘弁して欲しい。
花嫁が主役の結婚式。その気持ちも分からなくはなかったけど、「なんで大事な家族やのにそんなこと言うの?」という悲しい気持ち、ショックな気持ちが大きくて受け止めきれなかった。
「そんな事、言えないよ。両親は姉も一緒に式に出ることをとても楽しみにしてるから」
そう押し切って姉を式に参加させた。
結局姉は、式の間、終始ご機嫌な様子で「あー」「うー」と声をだしていて、対照的に妻はとても複雑な顔をしていた。
母の言う「普通に接して」を私自身もとっくに分からなくなっていたのに、分かったふりで妻にも押し付けてしまった。
これがうちの実家の「普通」。家族のかたち。
それを新しい家族を作る妻に押し付けてしまった影響はそれからもずっとあとを引いている。
姉のお世話があるから、遠出はできない。
だから孫が生まれても会いに行けない。
両親がどんな状況でも姉を最優先する度に、実家との溝は大きくなっていく。
その間にいる姉にはなんの罪もない。
いつ見ても、ただただ笑っているおねえちゃん。
もう何年も会っていない。
会ったところで、どう接していいのかもう分からない。
こんなに身近にいたのに、ちゃんと向き合ってきた実感が全くないおねえちゃん。
きっと両親が思い描いていた姉弟像からは随分離れてしまった。その罪悪感でたまに胸がザワザワする。
もう姉も54歳。
元気なうちに会いに行かなきゃと思っている。
どんな顔をして、どんな風に接したらいいのか戸惑う私を見て、姉はどう思うのだろう。
