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木曜日と日曜日にマヨネーズを。

    「仕事はどうや? ちゃんとやってるか? あんな、この前のNHKでミトコンドリアの話やっててんけどな、ミトコンドリアってすごいんやな。ちょっと聞いてくれるか?」


    実家に電話をして20分くらい母と話をしていると、

    「ちょっとお父さんに代わるわ。話したいことあるって」

    の選手交代が必ずあり、(冒頭の)父からの、NHKで得た知の共有が始まる。これは、就職して実家を出て以来、15年続いている儀式だ。

    遺伝子やミトコンドリアのこと、教えてくれなくても大丈夫なんやで。もう僕な、20年くらいこっちの世界で研究やってんねん。

    と心の中で思っているが、基本的に「うんうん。ありがとう」と聞くようにしている。


    結婚してからほとんど実家に帰らず、親孝行をどこかに置いてきてしまった後ろめたさがあるのだろうと思う。電話くらい、父の気の済むようにしてあげたい。


    ◇◇◇


    43年前、わたしは決意の第2子として誕生した。
    決意の、とわざわざ書いたのは理由がある。


    姉は難産で、身体障害者として生まれた。自力で動くことも、話すこともできない。
    ずっと寝たきりなので、食事から排泄、全て介護が必要になる。
    両親、特に母は、姉がそんな風に生まれたことを、自分の体のせいだと責めた。本人からもそう聞いているし、それから50年以上経った今でも自分のことを責めているのが分かる。

    そんなわけで、両親が第二子を産むかどうかは相当悩んだらしい。母の骨格の問題で、次の子も難産となることは分かっていたから。

    10年かけてふたりは悩んだ。


    それでも、男の子が欲しい。

    ふたりは決意を固め、わたしが生まれた。

    実際、わたしも難産で姉と同じ状態になってもおかしくなかったらしい。
    後頭部と頭頂部には勲章の傷(ハゲ)が残っている。

    両親、お医者さん、助産師さん、その場にいた全ての人がわたしを生かしてくれた。生まれてこい! と必死で引っ張った結果の傷だから、間違いなく勲章なのだ。


    母はわたしを「ゆうくん」と呼びたかったらしい。父は賢い子になって欲しかったようで、(縁もゆかりも無い)高名な数学者の名前を文字って、わたしの名が決まった。


    ◇◇◇

    幼い頃の記憶は、いつも1人ぼっちだった。
    父は仕事、母は姉の介護に奔走していたので、遊び相手はいなかったからだ。
    モノポリーを1人三役でやったり、ノートにロールプレイングゲームを書いたり、キン消しの頂上決戦を開催したり、と1人遊びが得意な子供だった。寂しくないと言えば嘘だった。でも、親の事情を頭でわかってしまうくらいに物分りは良すぎる方だった。


    父は祖父と兄夫婦と一緒に、大阪の商店街で洋服屋を営んでいたので、土日は仕事で木曜日が唯一の休みだった。


    小さい頃の記憶は断片的だが、水曜日の夜にいつもちょっとしたおもちゃを買ってきてくれたことは覚えている。自分も父とよく似ているので、今ならわかる。普段は仕事のことで気持ちが張り詰めていたから、気を抜ける水曜の夜が、唯一息子とリラックスして向き合えたのだろう。


    そんな父はお好み焼きが大好きだった。

    木曜の晩御飯は毎週必ずお好み焼きだった。ホットプレートを出して、母が作った生地を父が焼いてひっくり返す。具材はキャベツに豚肉、イカ、天かす。そして紅しょうが。当時はお好み焼き粉なんてシャレた物はなくて、小麦粉で作った、うすべったくて粉っぽい生地だ。そこにたっぷりのオタフクソースとマヨネーズをかける。決して上等のお好み焼きではない。けれど家族がそろう週に1度の食事は、優しいソースとマヨの味だった。

    「最後、麺いるひとー?」と母が聞いて、父とわたしが「はーい」と言う。「どんだけや?」「2玉!」と父が言えば、ほんとはおなかいっぱいのわたしは「半玉」と答える。それを父は大阪人らしく、必ず白いご飯を片手に食べるのだった。


    日曜日の朝は、父が仕事前に朝ごはんを作ってくれることがあった。

    「いつものでええか?」と言って、こちらが答える前から準備が始まる。ポークウインナーを手でちぎって雑にフライパンへ投入する。少しあたためたら、そこへ卵をひとつ割り入れて、冷ご飯をドーンと入れる。

    適当に混ぜたら味付けはマヨネーズ。
    そこに、黒胡椒をガリガリ。

    野菜もないし、味の深みなんて、なーにもないけど、わたしは父のマヨご飯が好きだった。
    「いっぱい食べや」と皿に盛り付けてもらって、父と2人食べる。母はと言うと、「わたしは大丈夫や」と微妙な笑みを浮かべてトーストをかじっていた。それが、おだやかな休日の朝の記憶。


    ◇◇◇


    小学校も4年生になると、母の勧めで塾に行き始めた。父は休みの日になると、分からない問題を一緒に解いてくれたのを覚えている。

    テキスト後ろにある解答を見て教えるのではなくて、一緒に解くのだ。

    教えるにしても、自分が理解して腑に落ちないとできない、という考えだった。

    ダイニングテーブルで2人並んで、一緒に算数の問題を解く。立体の断面図を考える問題では、わざわざ発泡スチロールで立体を作って、針金で断面図を作って見せてくれた。当時はなかなか先に進まないし、鬱陶しいとさえ思っていたが、今思い返すと有難いとしか言えない。


    「上位一割に入れ」


    これは父からよく言われたことだ。
    どんな集団でも上位一割にいれば、より高い集団に入れる。その中でまた上位一割を目指していけと言うことだ。いきなり次のランクを目指すのではなく、目標を小さく区切る。理にかなっているな、と思う。

    大学に入るまではこれを忠実に守ったが、大人になると、ひとつの物差しで比べられない世界になってしまった。


    ◇◇◇


    無事に中学受験を終え、中学2年生になったころ、黒い靴が欲しくなった。それまでは学校指定のスポーツシューズで、当時のわたしからしたら、まっ白くてモサッとしていて、とにかく超絶ダサいと感じていた。


    校則は厳しかったが、黒1色なら好きな靴にしてもいいと言う抜け道(という程のものでもないが)を2年の時に見つけて小躍りした。


    早速、母に神戸の靴屋に連れて行ってもらい、黒くて重量感のあるスニーカーを買って帰った。


    家にいた父に伝えると「なんでおれに相談もなく靴買ったんや!」と激ギレされた。


    普段から温厚で、ほとんど怒ることはないものの、怒るとめちゃくちゃ怖い典型みたいな人だった。その父が、靴を買っただけで激ギレしている。


    結局、母と大喧嘩に発展し、次に買い換える時は父と行く、ということで示談が成立したらしい。その時は、なぜそんなに父がキレたのか全く分からず、とにかく怖かったのと、新しい靴の黒色が無性に嫌な物に見えて、結局履かなかったことを覚えている。


    それからしばらくして、木曜日恒例のお好み焼きの日になった。


    「うわ、どないしよ。天かす切らしてるわ」


    母がぼそっと言ったのを、父は聞き逃さなかった。


    「天かすが無いやと?! そんなもん、お好み焼きにならへんやろが! すぐ買ってこい!!」


    これまた激ギレする父。星一徹ばりにテーブルに怒りをぶつけている。
    そんなに天かすが大事なのか。愛する母より天かすかよ、おやじ。


    わけもわからず、すごく悲しくなっていたら、母が教えてくれた。



    「お父さんな、仕事クビにならはってん」


    実はその少し前に祖父が亡くなり、祖父から一番可愛がられていた父は、実の兄嫁によって店を追い出されたのだった。


    最愛の父を失い、身内に裏切られた。
    しかも、わたしは私立の中学に入ったばかりで、まだまだお金がかかる時期だ。

    父がぶっ壊れたのも無理はなかった。


    母はそれでも「天かすであんな怒るのどうかしてるわ」とプリプリしていたが、理由がわかってわたしは少し安心した。


    その後、父は何度も転職を重ね、家族のために一生懸命働いてくれた。



    父は酒も飲まないしタバコも吸わない。
    ギャンブルなんてもっての外だし、女性の話も聞いたことがない。唯一好きなのがコーヒーだけど、それも外で買うのは勿体ないからと、小さい袋にインスタントコーヒーを小分けにして持っていくようなひとだ。
    質素が真面目という服を着ているようなひとだ。


    どこに楽しみがあるのか。息が詰まらないのか。仕事と、終わらない姉の介護。
    自身も年齢を重ねて片耳は聴こえない。
    そんな父の小さくなった背中を思うと、胸が押しつぶされそうになる。


    ◇◇◇


    12年前、妻と結婚した。
    結婚までは大変で、義実家同士は価値観が違いすぎて関係は良くなく、突然息子が手元からいなくなったわたしの母はうつになり、親戚からは、お母さんを選ばないと縁を切るとまで言われた。
    それまで、のほほんと、いいこちゃんで生きてきたわたしは、結婚するということの重みに押しつぶされそうだった。

    その間、気が狂ったように攻撃的になった母のことを、横でなだめて、「こっちは大丈夫や。お前の方は?」と励ましてくれたのは、他でもない父だった。


    こっちの方は、もなにも、結婚する予定の妻も心身不安定だし、自分は体重が10キロ減って、毎日壁に頭を打ち付けるような状態だったけど、父の前ではちゃんとしていたくて「大丈夫や。心配しないで」と強がった。


    きっと、似たもの同士、父子で相当無理をしていたと思う。



    結婚式のことを考えている瞬間は幸せだったけど、ふと現実に戻ると絶望が襲ってくる。真夏にクーラーの効いた部屋と炎天下の外を出たり入ったりするような感覚。その落差にくらくらと倒れる寸前だった。


    それでも時間は過ぎて、結婚式当日。


    下鴨神社で式を挙げた。披露宴は京都の料亭で、親戚と一部の親しい人だけ集めてとりおこなった。


    母だけは終始表情が硬かったが、さすがに晴れの日だ。親戚も笑顔だったし、久しぶりに会った友人や、関東から駆けつけてくれた職場の同期たちに心の底から感謝した。妻も笑顔でほっとした。


    あっという間に時間はすぎて、新郎の父の挨拶になった。


    父は電話でも言葉がつっかえるくらい、緊張しぃ(緊張するタイプ)なので、正直息子としても心配だった。


    舞台を照らす照明を受けて、少し大きめの礼服を着た父がポケットからハンカチを出す。汗をぬぐいながら、父は切り出した。


    「本日はお忙しい中、2人のためにご来場くださり、ありがとうございました。



    こういう時、言葉が出てこなくなるタチなので、あらかじめ原稿を用意してきたのですが、今日の式と披露宴を通して、皆さんに囲まれて幸せそうな2人を見ていると、どうしても自分の言葉で話したくなったので、原稿を読むのはやめます。



    息子は……親の自分が言うのもなんですが、良くできた育てやすい子でした。


    昔から、上の子の世話にかかりっきりで、息子の方はほとんど見てやれませんでしたが、寂しいとも言わず、手をかけることなく大きくなりました。



    世間の常識や、社会に出るまでに学ばなければいけないことを、十分教えることができずに家をでてしまったので、人様に迷惑をかけているんじゃないかと心配していました。


    でも、今日こうして皆さんに笑顔で祝福される2人を見ると、杞憂だったなと思います。


    わたしたち親が、息子にしてやれなかった分、皆さんに助けてもらえるように育ったようで安心しました。


    これからも、皆さんのお力を借りる場面がたくさんあると思いますが、どうかふたりをあたたかく支えてやってください」



    父も悔いていたのだ。
    十分、息子の相手をできなかったと。
    本当はもっと自分たちが教えてやらねばならないと思っていたのだと。



    でもね、違うんよ、お父さん。


    一生懸命家族のために働いているその背中を見て、ぼくは育ってきた。


    お父さん、楽しいことあるんかな? って心配しながら、毎日まじめにコツコツやってるあなたの背中を見て育ってきた。


    でも今日、こうやって、ちゃんとぼくのこと見ててくれたってことが分かった。その震える手に持ったハンカチと、溢れるお父さんの涙をみて、そのことが今日十分に分かったから……ぼくは幸せです。


    今まで育ててくれてありがとう。





    ◇◇◇


    父は78歳になった。
    久しぶりに去年実家に帰ったら、随分と背中が小さくなっていて、やっぱり胸がギュッてなった。


    お父さん、ぼくにも家族ができて、守るべきものの為に、一生懸命やってるよ。


    それは間違いなく、お父さんの背中を見てきたから。


    今日ね、初めて自分の手で作ってみたんよ。


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    父のマヨご飯


    ポークウインナーがなかったから、普通のソーセージになったけど、めちゃくちゃ簡単で、口に入れたら、マヨネーズの味しかしなかった。

    なんやこれってなったけど、あぁ、やっぱりこの味やったな、って思うと涙が止まらんかった。


    忙しい中作ってくれたマヨご飯。
    きっと、うちのわがままな子供たちには不評だろうけど、「これがうちの伝統の味や!」って今度食べさせてみるよ。


    孫ふたり、今度連れて帰るから、身体だけは大事に、おかんと仲良くやってな。




     
     
    ティッシュ字検定TWE師範 | 岩男を笑わせろ杯特別賞 | モノカキングダム2024優勝 | 第六回灯火杯 変態道でも祝っちゃうで賞 | 京大薬博士の読むサプリ| #なんのはなしですかを文芸ジャンルにする |

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