
読書の本質について考えてみた話
その小説を読み終えたとき、私は「読書の本質」に立ち向かうことになった。
きっかけは、メリッサ・ダ・コスタ『空、はてしない青』だった。
2026年の本屋大賞翻訳小説部門第一位。帯には「ラスト100ページは涙で読めない」と書いてある。いわゆる感動系の本だ。
まずは簡単に、あらすじを説明する。
フランスとスペインの国境に連なるピレネー山脈が物語の舞台のロードノベル。
主人公のエミルは若年性アルツハイマーを患い、余命2年と診断された。それがきっかけとなり、人生最期の旅に出る決意をする。
出発前、とあるきっかけで最期の旅の同行者ジョアンヌと出会う。
2人はそれぞれの事情を抱えながら、人生を振り返る旅に出る。というあらすじだ。
途中までは心を動かされていた。
しかし物語の核心に触れる場面で、あまりにも話の都合が良すぎるシーンに出くわしてしまった。
これまで積み上げた感動の波が、音を失い、引いていくのを感じた。
そのシーンは二人の主人公が出会えた理由となる、物語の根本。とても重要な場面だった。
冷めてしまった。しかし、せっかく買った本だ。もったいない精神で必死に読み続けた。ご都合主義的なシーンは無かったと思い込むこちらの努力の末、無理矢理自分を感動させた。しかし本心で共感して感動できたわけではない。違う意味で泣きたかった。
この事がきっかけで、自分にとっての「感動する本」について考え始めた。そのきっかけとなっただけでも、読んだ価値は高かったともいえる。
あくまで私の結論だが、
感動する本は、本の内容で感動させるのではなく、読み手側の感情を呼び起こし共振させる力がある本なのではないか、と思う。つまり読中および読後の読み手の感情を、読み手本人が読むことで感動する本。これが私の思う感動する本の定義だ。
この感動する本の定義から派生して考えると、読書とは、「自分の感情を読む行為」と捉えることができる。
・感動は作品が直接的に与えるものではない。
・感動は読み手の内部で起こる「共振」である。
・読書とは、その共振(自分の感情)を読む行為である。
ということになる。
このように考えていくと、私はある結論に行き着く。
読書とは、本を読む行為ではない。
読書とは、自分を読む行為なのだ。
そして本質的に、読書に本は必要ない。
読書で読まなければならないものは、自分そのものである。
『空、はてしない青』で上手く感動できなかった問題は、決して本が悪いのではない。私がこの本と共振するだけの経験や感情を持てていなかっただけだ。
著者が本来意図するところではないと思うが、本著を通じて感動する本とはなにか?という問いから、自分の読書の本質に気付かせて、こんなに感動させられた本はこれまでなかったと言ってもいい。
つまりどんな本も読み手の経験とタイミング次第で、良くも悪くもなるということだ。
本を読めば読むほど、あらゆる感情の追体験をする事ができ、自分の内側に共振点が増えていく。
ある共振が別の共振を呼び起こし、連鎖反応がおこる。
やがて「共振のるつぼ」と化す。
私は今、その渦中を楽しんでいる。何者にも左右れない。自分を読んで楽しめる。そこにあるのは本と自分だけ。
中性子連鎖反応のようにいつか臨界点を超えないように注意が必要だが、今後の自分がどのような変化をするか、今から楽しみで仕方がない。
とりあえず明日も明後日も、愛おしい読書の世界に身を委ね、いけるところまでいってみようと思う。