半分ずつ
まひろは、店を閉めたあとの静けさが好きだった。
最後のお客を見送り、カップを洗う。シンクを流し、テーブルを拭き、椅子を戻す。
レジを締めて、最後にカウンターを布巾でゆっくりと拭き上げる。
「ふぅ」
カウンターの中の椅子に腰を下ろした。
窓の外はもう暗い。
店の中には、冷蔵庫の低い音だけが響いている。
今日もまた、頼まれごとを引き受けてしまった。
本当は断った方がよかったのかもしれない。
でも気づけば、
「大丈夫ですよ」
と言っていた。
昔からそうだった。
誰かが困っていると、つい動いてしまう。
それで損をしたこともある。
でも、その何倍も人に助けられてきた。
だから今でも分からない。
これは本当に優しさなのだろうか。
それとも私は、ただ「いい人」でいたいだけなのだろうか。
ぼんやりそんなことを考えながら顔を上げると、客席の一番奥が目に入った。
父が生前、よく座っていた席だ。
コーヒーを一杯だけ頼んで、本を少し読んで帰っていく。
長居はしない。
誰の手も煩わせない。
無口で、不器用で、静かな人だった。
父が亡くなって、何年か経つ。
店を始めると言ったとき、一番喜んでくれたのは父だった。
そして、母の兄である伯父も喜んでくれた。
店の棚やカウンターには、器用だった伯父の手が今も残っている。
身体が大きくて、手先が器用で、びっくりするくらい優しい人だった。
まひろの子どもたちのことも、本当の孫のように可愛がってくれた。
その伯父は今、遠く離れた施設で暮らしている。
まひろは、カウンターの棚にそっと手を触れた。
——
あれは、冬の朝だった。
まだ外が暗い時間に、枕元のスマートフォンが激しく震えた。
画面には、伯母の名前。
「まひろちゃん、どうしよう……」
伯父が倒れた。
助けようとした伯母も一緒に転んでしまい、二人とも起き上がれないという。
まひろは着替えながら電話を切った。
考えるより先に身体が動いていた。
車を走らせ、伯父の家へ向かった。
幸い大事には至らなかった。
けれど、その日から状況は大きく変わった。
二人だけで暮らすことは、もう難しい。
相談窓口へ行き、担当者と話し、施設を探した。
条件が合わない。
空きがない。
費用が合わない。
一つ進んでは、また止まる。
まひろにも家族がいる。
仕事もある。
それでも、誰にも「助けて」と言えなかった。
みんなそれぞれに生活がある。
迷惑はかけられない。
そう思って、声をかける前に諦めていた。
本当は誰か一人くらい、
「何か手伝える?」
と言ってくれるんじゃないか。
そんな期待も、心のどこかにはあった。
でも、みんな静かだった。
その頃、まひろは母の姉のことをよく思い出していた。
伯母は昔から少し苦手だった。
思ったことをはっきり言う。
強い人だった。
けれど、施設探しをしていたある日、その伯母がまひろに言った。
「私を緊急連絡先にしておきなさい」
まひろは驚いた。
「でも——」
「あなたには家族がいるでしょう」
それだけだった。
なぜそう言ってくれたのかは分からない。
でも一つだけ分かった。
伯母は、自分が矢面に立とうとしている。
まひろを守るために。
そのとき初めて、この人の強さを少し羨ましいと思った。
やがて、伯父の入る施設が決まった。
施設から、保証について相談された。
費用のかかるサービスを利用する方法もあるという。
「まひろちゃんが引き受けてくれれば、それが一番いいんだけどね」
伯母は申し訳なさそうに言った。
その言葉が痛いほど分かった。
子どもの頃から、どれだけ可愛がってもらっただろう。
店を始めると言ったときも、誰より喜んでくれた。
この店にも、伯父の手がたくさん残っている。
だからこそ、苦しかった。
「ごめんね。それだけは引き受けられない」
電話の向こうが静かになった。
「本当にごめんね」
もう一度だけ言って、電話を切った。
しばらく、その場から動けなかった。
母に話すと、困ったように眉を下げて呟いた。
「まひろが保証人になれたらよかったんだけどね」
責めているわけではない。
母はそういう人なのだ。
頼まれると、自分の限界を越えてでも背負わなければいけないと思ってしまう。
その言葉が、静かに胸に積もった。
——
入所の日が近づいた頃、今度は母が言った。
「一人で施設まで行くの、心細いから一緒に行ってくれない?」
往復すれば一日仕事になる距離だった。
まひろは一瞬迷った。
母ももう若くない。
一人で行かせるのは心配だ。
でも、その頃のまひろは仕事も立て込んでいた。
「それは無理だよ」
自分でも驚くほど、言葉がすっと出た。
「私が行ったら、お母さんまで倒れちゃうよ」
できるだけ明るく言った。
電話を切ってから母に話すと、
「あ、そうなの」
驚くほどあっさりしていた。
拍子抜けした。
以前のまひろなら、きっと迷った。
嫌われても構わないと思いながら、母を説得しただろう。
でも、その日は違った。
ずっと怖かったのだと思う。
「できない」と言うことが。
——
伯父の生活が落ち着いた頃、一本の電話がかかってきた。
「まひろちゃん、動いてくれて本当にありがとう」
伯母だった。
それだけだった。
まひろは受話器を持ったまま、何も言えなかった。
ほっとした。
そして、そのことに自分でも少し驚いた。
見返りなんて求めていない。
そう思っていた。
でも本当は、誰かに
「ありがとう」
と言ってほしかったのかもしれない。
そのことに気づくと、少し恥ずかしくて、少しだけ切なかった。
——
まひろはカウンターから出て、父がいつも座っていた席に腰を下ろした。
伯父が作ってくれた棚が、今日も変わらずそこにある。
今では伯母も定期的に伯父へ会いに行っている。
ほかの親戚たちも、それぞれの形で伯父を気にかけているらしい。
あのとき、何もしてくれなかったと思っていた人たちにも、それぞれに守らなければならないものがあった。
家族があって。
仕事があって。
生活があって。
きっと、それだけのことだった。
ふと、父のことを思った。
父なら、あの時なんて言っただろう。
少し考えて、思わず笑ってしまった。
あの人なら、きっと黙っていない。
「そんなもの、絶対に引き受けるな」
一方で母は、
「私が代われたらいいんだけどね」
と、本気で言う人だ。
二人とも、まひろを守ろうとしていた。
ただ、その守り方が違っただけだった。
その時、ようやく腑に落ちた。
誰も悪くない。
まひろは、母みたいな人になりたいと思っていた。
困っている人を放っておかない。
頼まれると「いいよ」と言ってしまう。
そんな優しさを、ずっと近くで見て育った。
でも同時に、父の娘でもある。
無理なものには線を引く。
守るべきものがあるときは、静かに「だめだ」と言う。
たぶん、どちらも必要なのだ。
まひろは、どうしていつも動いてしまうのだろう。
優しさなのかもしれない。
嫌われたくないだけなのかもしれない。
「いい人」でいたいだけなのかもしれない。
たぶん、その全部なのだと思う。
でも、一つだけ分かった。
これからも、きっと誰かが困っていたら手を差し伸べてしまう。
そして、その手では守れないものがある時は、勇気を出して線を引く。
壁のスイッチに手を伸ばす。
パチン。
小さな音とともに、店の灯りが消えた。
鍵をかけて外へ出ると、夜風が頬を撫でた。
明日もまた店を開けよう。
きっとまひろは、また誰かが困っていたら動いてしまう。
それでいい。
まひろはもう一度だけ店を振り返り、静かに歩き出した。