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吾輩は猫なのだろうか 第10話 底辺(前編)

    目を覚ますと、今日も吾輩はまだ猫のままだった。

    ラグの上に降り立つと、足の裏からじんと冷たさが上がってきた。窓の外、金木犀の香りがかすかに漂っている。猫の鼻は正直で、今日は慶子さんの残り香が薄い。それだけで、二人が早くに出掛けたことが分かった。

    慶子さんも旦那も既に会社に行っていた。猫になって三日目の朝だった。

    飲み会が水曜日でその日から猫になったのだから、今日は金曜日のはずだ。吾輩が本当に猫になっているとしたら、今日システムセンターで働いているセンター長は一体誰なのだろうか。妻の玲子と娘の美月はどうしているのだろうか。

    そんなことを考えつつ、水を飲みキャットフードを口にした。だが、自宅と会社のことが心配になったのと、昨日感じた腹部と背中の痛みが強くなっていたこともあり、食欲が沸かずにほとんど残してしまった。

    慶子さんの旦那が「明日土曜日、人事評価のため休日出勤する」と言っていたことを思い出した。吾輩は今でこそ人事評価をする側であるが、評価される側だった若い頃は、「こんなにやったのに、なぜ評価されないのか」といつも不満に思ってばかりいた。

    吾輩は一つ支店を経験した後、二十代後半でシステム部に配属となった。当時のシステム部はどちらかというと支店で評判が芳しくない者も多く、当然吾輩は後者だった。

    ある年の部長面談の時、こう言われた。

    「お前を担当から外して欲しいと、言ってきた部署がある。お前は使えないらしいんだよな」

    正直、相当へこんだ。今までほんの少しだけあった自信は、跡形もなく消え去った。自分のことばかり考え、相手のことなど全く考えていなかった。もっと早く伝えられたのに、それも怠っていた。結局、牧場でアルバイトをしていた大学生時代から、吾輩は何も成長していなかった。

    普段なら最寄り駅からバスに五分乗り徒歩十分で自宅に着くが、その日はバスに乗らず一時間半以上かけて歩いて帰った。蛍光灯の白い光と管理番号と承認フローの中で潰されていく日々が、足にまで染み込んでいるようだった。コンビニのガラス扉に映るヨレヨレになったグレーのスーツを着た吾輩は、まるでボロ布のように見えた。空には重たい雲がかかり、満月を覆い隠していた。毎日モニターの数字を追い続けていた目が、その夜初めて空を仰いだ。だが月は見えなかった。

    それからだった。帰り道、毎日俯いて歩くようになったのは。

    ガードレールに当たる風の音。遠くを走る終電の音。自分の革靴が濡れたアスファルトを踏む音だけが、妙にはっきりと聞こえた。

    振り返れば、この時期は人生の底辺だったように思う。毎日毎日、銀行を辞めることばかり考えていた。

    その夜、名古屋に住む兄から、突然電話があった。兄は自動車メーカーに勤めており、ちょうど東京モーターショーの出展準備で多忙な時期のはずだったが、吾輩の話を黙って最後まで聞いてくれた。

    「焦らずやれ。お前の良さが分かる上司が、そのうち必ず来る」

    兄はそれだけ言って電話を切った。電話越しに聞こえていた会社の喧騒が、まだ耳に残っていた。その低くて落ち着いた声は、あの夏の夜と何も変わっていなかった。

    ある日自宅に帰り塞ぎこんでいると、妻が「何かあったの?」と声をかけてくれた。会社で先日部長から言われたことを話すと、妻はすぐには何も言わなかった。しばらく黙って最後まで聞いてから、ゆっくりとこう言った。

    「部長から嫌味言われたって、いつかその部長は変わるんでしょ。……今の部長は気づいてくれていないかも知れないけど、もしかしたら次の部長はあなたの良さに気付いてくれるかも知れないわよ」

    と、優しい言葉をかけてくれた。もしも「情けないわね、もっと頑張りなさいよ」みたいな言葉をかけられていたら、とっくに銀行を辞めてしまっていたかも知れない。

    翌日の夕食に、妻は結婚したての頃によく作ってくれた「ポルチーニ茸のリゾット」を久しぶりに作ってくれた。玄関を開けた瞬間に、バターと茸の香りが廊下の奥から漂ってきた。食べる前は落ち込んでいたのだが、あまりの美味しさに、自然と笑顔になれた。その夜だけは、承認フローも管理番号も、何もかもが遠くに消えていった。

    娘の美月も高校に入学した頃、友達ができずに悩んでいた時期があった。それを知ったのは、入学した年の七月に担任の先生と面談した時だった。吾輩はそれまで、娘が悩んでいることに気付いていなかった。妻は「娘から、それとなく聞いていました」と言っていた。

    その週の土曜日、妻は娘が大好きなミートソースのスパゲッティと、生地からこねて作ったピザをオーブンで焼いてくれた。「ママ、超美味しい!」と言って、娘に少し笑顔が戻った。

    一か月ほど経って、娘が以前のように明るく元気になっていることに気が付いた。「なんかいいことあったの?」と聞くと、娘は嬉しそうにこう答えた。

    三週間くらい前、一人でお弁当を食べていたら、先生が

    「伊藤さんのお弁当って、色合いがとってもキレイで、いつも本当に美味しそうね」

    って声を掛けてくれたの。そしたら隣の子が見せてって言ってくれて、前の子も振り向いて話しかけてくれたの。

    ご飯にかかってたのが「ママが作ってくれた鯖のそぼろ」だって言ったら「今度の調理実習の時、作ってくれない?」ってなったの。

    娘の高校では二週に一度、木曜日の午前中に調理実習があった。

    調理実習では、決められた料理とその他に一品、グループで自由な料理を作ることになっていた。

    娘が中心になって鯖のそぼろを作ったところ、グループの友達から大好評で、他のグループの女の子からも「私も作りたい!」「そのレシピ、教えて!」と言われ、放課後に何人かの女の子に作り方を教えるようになった。

    その次の調理実習では、妻に作り方を習った「ポルチーニ茸のリゾット」に挑戦したらしい。

    すると、

    「こんな美味しいリゾット、今まで食べたことない!」

    「すっごく濃厚で、本物のレストランみたい!」

    「みっちゃんって、料理の腕プロ級ね!」

    と言われ、担任の先生も

    「このリゾット食べたら、白ワインが欲しくなったわ」

    と言って、褒めてくれたらしい。

    そしていつの間にか「みっちゃん」と呼ばれるようになり、沢山の友達もでき、学校に行くのが楽しみになったとのことだった。

    娘の高校生活が順調になり、少し涼しくなってきた頃「今から散歩に行かない?」と、ある日の夜娘に声をかけたことがあった。

    娘は

    「いいよ。パジャマだけど、着替えた方がいいかな?」

    と言うので

    「夜だし、ちょっと敷地内を散歩するだけだから、パジャマでいいんじゃない」

    と言って、二人で久しぶりに「夜の散歩」に出掛けた。

    マンションの敷地を二人で散歩していると、秋の夜空にはキレイな満月が輝いていた。

    「キレイな満月だね」と言うと、娘も「本当!すっごくキレイ。それに今日はいつもの満月より大きく見えるね」と言った。

    しばらく無言のまま、マンションの敷地を歩いた。それから娘にこう言った。

    「パパ、女の子が生まれたら、絶対に美月って名前にしようと思ってたんだ。ママから『赤ちゃん、女の子よ』って聞いた時、ママに『名前、美月がいいな』って言ったら、いいねって言ってくれた」

    娘の美月は中学生の頃「反抗期」があった。

    その間しばらく、吾輩とあまり口を聞いてくれなかった。

    どうやら吾輩が塾に迎えに行った際に、友達から「みっちゃんって、お父さんそっくりだね」と言われたことがきっかけだったようだ。

    やがて高校生になると、以前のように仲良くなった。

    そして、大学生になった娘は、段々妻に似てきた。

    もうすぐ、二人で缶チューハイが飲める日が来るだろう。娘が初めて口にするそれは、私がいつも飲んでいる濃いブルーのラインではなく、レモンスカッシュのような、ほんのり甘酸っぱいチューハイだろうか。

    ――――――――――

    長女との一番の想い出は、缶チューハイよりずっと前、小学生の頃のピアノの発表会にある。 (第11話「底辺(後編)」へつづく)

     
     
    50代の、出向を控えたサラリーマン。 母と妻の父の介護を終え、ふと振り返る。妻に任せきりだった子育てと介護、しっかり言えなかった「ありがとう」。猫の視点を借りて綴る『吾輩は猫なのだろうか』。猫になって振り返る吾輩の人生は、不器用で、だけど案外いい人生(猫生)だったのかもしれない。

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