
吾輩は猫なのだろうか 第11話 底辺(後編)
そんな美月との一番の想い出は、何と言っても小学校三年生の時の「ピアノの発表会」だ。
だがその時仕事が忙しかったため帰りも遅く、平日はほとんど練習が出来なかった。
そしてほとんど練習しないまま発表会前日の土曜日を迎え、一緒にピアノの先生のところへ練習に行った。
美月が一人で弾く曲を先に練習し「じゃあお父さん、こちらに座って下さい」と先生に促され、連弾曲を美月と弾いた。
だが吾輩がつっかえ過ぎて、連弾というにはほど遠い状況だった。
特に左手が全く動かなかった。
先生から「お父さん、練習してないんですか」と聞かれ「ええ、ちょっと仕事が忙しくて」と、恥ずかしいが娘の前で言い訳をしてしまった。
「お父さん、今日家に帰ったら頑張って練習して下さいね。美月さんの方はもう完璧でしたから」
最後に二人でお辞儀の練習をして、ピアノの先生の家を出た。
自宅への帰り道、美月はすごく不安そうな顔をしていた。
吾輩は「連弾するなんて、安請け合いしなければ良かった」と後悔していた。
夕食時、浮かない顔をしていると妻から「楽譜、ちょっと簡単にしておいたわよ」と言われた。
楽譜を見ると、左手の音符にところどころバツ印がしてあった。おかげで楽譜がだいぶ簡単になっていた。
その日はいつも飲むビールを飲まず、夜七時から美月と連弾の練習を始めた。
どうしてもつっかえて上手く弾けないところは、妻が「この音無くてもいいんじゃない?」と、音符にバツ印を付けて、さらに簡単してくれた。
十時近くになって、つっかえるとこがあと僅かというところになって、「パパ、私もう寝るね。明日頑張ろうね」と美月が言ったので、連弾の練習はそこで終わりにした。
その後も吾輩は一人で電子ピアノにヘッドフォンを付け、伴奏の練習を続けた。
ただ、あまりにも音符を削り過ぎたせいで、肝心な曲の優雅な感じが薄まってしまった。
このためバツ印を消して元に戻したりしたこともあり、いつの間にか楽譜が汚れ、見にくくなってしまっていた。
その日は深夜二時まで、リビングで電子ピアノの鍵盤を押す音だけが、カタカタと響き続けていた。
翌日、朝八時半に家族三人でクルマで家を出発した。
普段ならクルマの中で三人で色んな話をするのだが、緊張していた吾輩のせいで、ほとんど会話は無かった。
助手席の美月も、不安そうな表情をしていた。
発表会の会場に着くとそこは思ったよりも広く、ステージに置かれたスポットライトに照らされたグランドピアノを見て、ますます不安と緊張が高まった。
渡されたプログラムを見ると二十五人ほどが演奏することとなっていた。
順番は年齢順となっていて、小学校三年生の美月と吾輩は十番目の演奏だった。
十時になり、発表会が始まった。
演奏が上手くいって笑顔の子もいたが、ステージでお辞儀する時点から凄く緊張していることが伝わってくる子もおり、吾輩は緊張で手のひらの汗が止まらなかった。
余計に緊張してしまいそうだったので、楽譜は開かず、ずっと閉じたまま見ずにいた。
七番目の子の演奏が終わったところでステージ裏の控室に移った。
控室には娘のピアノの先生がおり「お父さん、頑張って下さいね」と言われ、不安と緊張がピークに達し、さらに手のひらの汗が止まらなくなった。
すると美月がハンカチを取り出し、笑顔でこう言ってくれた。
「これで手拭いて。パパ、昨日あんなに夜遅くまで頑張ったんだから、絶対に大丈夫だよ。ピアノの音はヘッドフォンしてたから全然聞こえなかったけど、鍵盤を叩く音がうるさくて、ママ中々寝られなかったって言ってたよ」
美月の言葉で少し緊張がほぐれた。
そして「続いてプログラムナンバー十番、伊藤美月さんと友明さん親子による演奏です」と発表され、ステージ中央で並んでお辞儀をした。
ステージから妻が座る方向を見たがスポットライトが眩しくて、それに緊張していたこともあり、妻を見付けることが出来なかった。
先に独りで演奏した美月は完璧だった。
会場からも大きな拍手があがった。
次の連弾のため、ピアノの鍵盤に両手を置いた瞬間、胸の鼓動が一気に高まり、一瞬頭の中が真っ白になりかけた。
だが、開いた楽譜を見て驚いた。
昨夜、バツ印が沢山書かれ、汚く見にくくなっていた楽譜が、白い修正ペンで「元からこういう楽譜だった」かのようにキレイに修正されていたのだ。
今朝妻が早く起きて、修正ペンで直してくれていたのだった。
キレイに修正され、音符も減って少し簡単になった楽譜を見ると「弾けそう」に思え、少し不安が和らいだ。
連弾の曲目は「花のワルツ」。
吾輩のパートから静かに演奏が始まった。
途中で美月の演奏が早くなりかけた。
吾輩が伴奏をややゆっくり弾くことで、落着きを取り戻せた。
逆に吾輩がゆっくり弾き過ぎた時は、娘が「パパ、ちょっと早く」と声をかけてくれ、本来のワルツのスピードに戻ることが出来た。
一度つっかえそうになったところがあったが何とかそこを乗り切り、最後まで二人とも間違えることなく、演奏しきることが出来た。
思わず二人で向き合い、互いにグッドサインを出し合った。
会場に大きな拍手とともに、大きな笑い声が響いた。
二人で椅子から立ち上がり、ステージから二人とも笑顔でお辞儀をした。
緊張感から解放された安堵感もあり、今回は落ち着いて妻を探すことが出来た。
妻は席から立ち上がって、グッドサインを出してくれていた。
こんなことを思い出しながら、吾輩は窓の外の秋の空をぼんやりと眺めていた。
もうひとつ、よく思い出す春の日がある。
システム部にいた頃、年に一度のお花見に、家族を連れて行ったことがあった。美月が桜の下を元気に駆け回る中で、次女の千尋は、ベビーカーの中から、ひとり遠くの空をじっと見つめていた。
「ちーちゃん」
写真を撮ろうと顔を覗き込んでも、名前を呼んでも、その視線が吾輩と交わることはなかった。ただ静かに、遠くの一点を見つめていた。その小さな横顔が、なぜだか今も、胸の奥に残っている。
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あの日見た遠い横顔の理由を、吾輩はまだ知らない。知るのは、もっと先の話だ。 (第12話「転機」へつづく)