
吾輩は猫なのだろうか 第5話 猫舌と馬鹿舌
翌日起きると、吾輩はまだ猫だった。
恐る恐る鏡を覗いてみると、昨日見た猫と同じねずみ色の縞模様の猫がそこに映っていた。
吾輩は慶子さんのベッドに一人でいた。慶子さんはどうやらもう会社に出勤していたらしい。
いつもやっているかのように体を伸ばしてから、ベッドを飛び降りた。全く足音を立てずに着地できたことに吾輩は感動した。丁度良い硬さの肉球が衝撃を吸収してくれるので、一切足音を立てずに走ることも出来た。今まで感じたことのない、何とも言えない心地の良い感触だった。
猫用トイレで用を足した後、一口水を飲んだ。
横には、柔らかくてとても旨そうなキャットフードが高そうな白い陶器の器にテンコ盛りで用意されていた。昨日の飲み会で「うちのタロウ、私の食費よりかかるのよ」と慶子さんが言っていたが、なるほどとも思えた。マグロやカツオなどの赤身魚が半生状態で入った高級なキャットフードを、吾輩はムシャムシャと平らげた。
食感は非常に良かったが、味が薄くそれほど旨いとは感じなかった。
吾輩は人間の時から「猫舌」であり、加えて「馬鹿舌」の持ち主だった。
毎朝コンビニで百円のホットコーヒーを買うのが日課なのだが、熱くてすぐ飲めないため、水筒の麦茶をコーヒーに混ぜてぬるくしてから飲んでいた。妻に伝えると「コーヒーに麦茶を入れるなんて、信じられない」と呆れられたが、少し入れるだけなので味はほぼ変わらなかった。
一方で、妻は料理がとても上手だった。特にピザやスパゲッティ、リゾットが絶品で、夕食に出ると娘の美月はいつも「ママ、超美味しい!」と言っていた。だが吾輩が大好物な丼だけは、滅多に出ることがなかった。「どうして丼を作らないの?」と聞くと妻はこう言った。
丼は見栄えしないから、作り甲斐がないの。
お料理って、味だけじゃなくって、器だったり色合いだったり、旬の食材を使った季節感だったり、そういうのを全部含めて料理っていうの。
だから丼は作りたくないの。
ある日珍しく丼が出てきた。吾輩は一気に食べ終え「我が家の牛丼は、チェーン店とは全然違うね。断然美味しかったよ」と伝えたところ、妻から想定外の一言が返ってきた。
「それ、豚丼なんだけど」
妻の後ろで、高校三年生の美月がゲラゲラと腹を抱えて笑っていた。娘には妻に見えないところで、吾輩は右手でグッドサインを出した。それは、吾輩が娘を笑わせた時に出すサインだった。娘も妻に見えないようにグッドサインを出してくれた。申し訳ないことだが、この吾輩の血が若干娘にも流れてしまっているようだ。
高級そうなキャットフードを食べ終え、こんな話を思い出しながら時間をつぶした。
猫になって分かったことがある。
暇である。ただひたすら暇なのだ。
以前「猫が羨ましい」と思ったことがあったが、実際になってみると「飯を喰う、寝る、ご主人様に撫でてもらう」くらいしかすることがない。忙しいサラリーマン時代とは真逆の状況だが、することがないのは忙しいよりもっと苦痛かもしれない。
あまりに暇なので、家中を徘徊した。旦那の部屋に行くと大きな本棚があり、ビジネス書に並んで、吾輩が高校時代に夢中になった星新一の文庫本が何冊も並んでいた。星新一のショートショートには、人間が突然別の何かに変わってしまう話が幾つかある。まさか自分がそういう話の登場人物になるとは、あの頃は思いもしなかった。久しぶりに読みたくなったが、高い棚にあって取り出せず、仮に取り出せたとしても、この肉球付きの前足では本がめくれなかっただろう。「この肉球で、指紋認証はうまく出来るのだろうか」などとつまらないことを考え、思わずニヤついた。
そういえば「暇でやることがなく、本が読みたい」という状況には、以前も陥ったことがあった。
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その「以前」とは、大学最後の夏、遠い北海道の牧場での出来事だった。 (第6話「スタンド・バイ・ミー」へつづく)