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吾輩は猫なのだろうか【第二部 長いお別れ】第23話 少しずつ、いなくなる

     長女は今年、就職した。子供たちに職業体験をさせる会社だ。毎日毎日、色んな子どもたちがやってくる。

     ある日、ハンバーガーショップの店員を担当していた時、女の子の姉妹がお母さんに連れられてやってきた。お姉ちゃんが妹の手を引っ張って、「妹と一緒にハンバーガーを作りたいです」と言った。

     弾けるような笑顔のお姉ちゃんだった。でも妹の方は、不思議そうに黄色いハンバーガーショップのマークを眺めていた。

     二人一緒に着替えて、ハンバーガーショップの店員の恰好をさせた。お母さんが写真を何枚か撮った。弾けるような笑顔でピースサインのお姉ちゃんと、どこか別の方向を見ている妹。

     私達姉妹と、同じだ——長女はすぐ、気付いたようだった。

     長女は子供達に向かってこう言った。

     「お姉ちゃん、すっごく似合ってるわ。妹さんは初めてでびっくりしてるみたい。でもね、二人で作るハンバーガーはとっても美味しいわよ!」

     一生懸命ハンバーガーを作る姉と、遠くを見詰めて動かない妹。

     「できた~!」

     弾ける笑顔で、お姉ちゃんは母親に向かって言っていた。妹は何をしているのか分からない様子だった。

     長女はお姉ちゃんとハイタッチし、お母さんのところへ姉妹を連れて行った。

     お母さんから「ありがとうございました」と言われ、「写真撮りましょうか?」と言って、姉妹の写真を撮ってあげた。

     「お姉ちゃん、ハンバーガー美味しかった」

     そういうお姉ちゃんに向かって、長女はこう言ったそうだ。

     「二人は、きっと最高の姉妹になれるわ!」と。

     お母さんは、泣きそうな顔で笑ってくれた。

     後日、会社のホームページにそのお母さんから投稿があった。長女は全員の前でそれを発表された。

     「ハンバーガーショップのお姉さんへ。二人が笑顔でカメラ目線の写真は、この写真が初めてです。あなたから力と勇気を貰えたような気がして、あの日からまた一生懸命頑張れています。最高のプレゼントを本当にありがとう!」

     長女はこう言ったという。

     妹がいたから、自分は成長できた、と。

     吾輩も今では、そう思える。

     吾輩は、慶子さんの膝の上で、じっとしていた。

     「だいじょうぶ。私が守るから」と言った子が、今では誰かを守っている。

     妻はいつも言っていた。

     「この子よりも一日でも長く生きることが、私の目標」だと。

     吾輩は、その言葉の重さを、当時は本当には分かっていなかった。

     吾輩は、慶子さんの膝の上で、目を開けた。

     長い記憶から戻ってくると、部屋は静かだった。慶子さんは缶チューハイを片手に、ぼんやりと天井を見ていた。

     「タロウ、そう言えばね」

     慶子さんが、ふいに言った。

     「昔いた職場に、伊藤さんっていうセンター長がいたの。いつも笑わせてくれる、面白い人だった」

     吾輩の心臓が、静かに鳴った。

     「二十年くらい前、部署のお花見にお子さんを連れてきてたって、先輩から聞いたことがあってね。五、六歳の活発な長女と、もう一人、ベビーカーに女の子。ベビーカーの子は、もう卒業してもいい年格好なのに、ずっと中にいて。写真を撮ろうって呼んでも振り向かないで、遠くの空ばかり見てたって。センター長は『ちーちゃん、寒いからそろそろ帰ろうか』って、早めに帰っていったらしいの」

     吾輩は、動けなかった。

     「センター長からは、長女の話しか聞いたことがなかったけど……」

     慶子さんは、少し間を置いた。

     「一度ね、秋口だったかしら。急に『家庭の事情で帰ります』って午後からお帰りになったことがあって。戻ってきた時に『どちらへ』って聞いたら、『ちょっと……長野まで』って、困った顔をしてた。それ以上は、聞けなかった」

     慶子さんは、缶チューハイをそっと置いた。

     「あの人、いつも面白い話ばっかりだったけど……ほんとは、何か、大きなものを抱えてたのかもしれないね」

     吾輩は、何も言えなかった。当然、言えない。猫だから。

     ちーちゃん、と心の中で呼んだ。声にはならなかった。ならなくていい。それでも、呼んだ。

     「タロウはちゃんと食べて、長生きしてね」

     そう言ってから、慶子さんは少し笑った。それから独り言のように続けた。

     「明日、孫が来るから寝ないと」

     窓の外では、半月が夜空に静かに浮かんでいた。

     吾輩は、その言葉の温もりを、じっと体の中に受け取っていた。

     今日も食べられなかった。体は動かない。痛みは消えない。

     それでも。

     「にゃーお」

     声が、出ていた。

     自分でも、気がつかなかった。制御できなかった。ただ、出ていた。

     慶子さんが振り返り、吾輩を見て、少し驚いた顔をした。それから、柔らかく笑った。

     「タロウ、良かった。元気な声じゃない」

     それから、また季節が巡った。

     「ちーちゃん」

     吾輩の耳に、その名前が残っていた。

     お花見の写真に写らなかった女の子の名前。廊下の奥へ消えていった女の子の名前。満月を見上げて「おつきさま」と言った女の子の名前。

     吾輩がずっと、胸の中だけで呼び続けてきた名前。

     慶子さんは、何も知らないまま、静かに眠っていた。

     吾輩は、その名前を、体の中にそっとしまった。

    ――――――――――

    そして、最後の朝がやってくる。 (最終話「長いお別れ」へつづく)

     
     
    50代の、出向を控えたサラリーマン。 母と妻の父の介護を終え、ふと振り返る。妻に任せきりだった子育てと介護、しっかり言えなかった「ありがとう」。猫の視点を借りて綴る『吾輩は猫なのだろうか』。猫になって振り返る吾輩の人生は、不器用で、だけど案外いい人生(猫生)だったのかもしれない。

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