
吾輩は猫なのだろうか 第4話 缶チューハイ
「明日も仕事だからもう寝ないと。でも、もう一杯だけ」
そういって、慶子さんはさっきまで散々飲んでいたにも関わらず、部屋を出てから手に缶チューハイを持って戻ってきた。
そしてベッドに座り、料理の本をめくりながら缶チューハイを飲みだした。
プルタブを引くと「メリメリッ」と音を立てアルミ缶に網目模様が入る「シチリア産レモン入り」と書かれた、ブルーのラインが入った缶チューハイだった。どうやら慶子さんは、レモンの缶チューハイが好物らしい。
そういえば吾輩も、毎日必ず会社帰りに缶チューハイを飲んでいた。しかも慶子さんのと同じブランドのレモンの缶チューハイだった。ただ、吾輩の飲んでいた方がブルーのラインの色が濃かった。
今夜見た赤い満月は、遠くて、美しくて、手が届かなかった。
だが、この「メリメリッ」というプルタブの音は違う。誰も奪えない、自分だけの夜の合図。慶子さんも、妻も、そして吾輩も——その音に、どれほど救われてきたことか。
ある夜のことを、今になってふと思い出す。帰り着いて缶を冷蔵庫に入れようとすると、すでに棚の缶が、ラベルをすべて同じ方向にきれいに向けて並べられていた。誰がそうしたのか、声には出さなかった。
吾輩が缶チューハイを毎日飲んでいたのには、単に「お酒が好き」とは別に、情けない訳があった。
吾輩は数年前から、背中に痛みを感じていた。最初は肩甲骨の下あたりの一点だけだったのが次第に範囲が広がり、痛みも増していった。まるで古びた水道管が、長年の錆と水圧に耐えかねて、内側からひびが入るような痛みだった。アルコールを飲むとその痛みが少し和らいだため、会社帰りにコンビニで毎日缶チューハイを飲むようになった。徐々に痛みが増したため更に強いアルコールを求め、次第にストロング系の五百ml缶が欠かせなくなっていた。
整形外科でレントゲンやMRIなど様々な検査を受けたが、いずれも「特段異常は見られない」と診断された。近所の整形外科で処方された痛み止めは次第に効かなくなり、消化器内科のある大学病院の紹介状を書いてもらい、来月行く予定だった。
妻からは「そんな姿勢は首や背中に良くないわよ」と何度も言われた。「分かった……。もう寝るから」と答え、妻が部屋を出るとまた腹ばいになってすぐにスマホで動画を見続けた。次第に不眠症の症状も出始め、翌朝になっても疲れが全く取れなくなった。一晩充電しても二十パーセントほどしか回復しない古いスマホのように、体も同じだった。まさに自業自得であり、妻にも完全に呆れられていた。
妻には以前「家族に背を向けていると、そのうち背中が痛くなるわよ」と言われたこともあった。確かに「仕事が忙しい」という理由で、子供がまだ小さく妻が一番大変な時、子育てや家事の全てを妻にやってもらいながらろくに感謝もせず、部屋に閉じこもりゴロゴロしてばかりいた時期が長くあった。「ありがとう」の一言すら、ろくに言えなかった。その言葉は喉もとまで出かかりながら、いつもどこかに消えてしまった。消えたのではない。明日言おう、と先送りにしていたのだ。牧場の時もそうだった。親方に謝ろうと思いながら、足がすくんでその日のうちには言えなかった。なんでも先送りにする——それが吾輩の、長年変わらなかった悪い癖だった。
そう言えば、妻には小さな癖があった。
何か考え事をしている時、右手の人差し指でこめかみを軽く叩く。怒っている時は、少しだけ鼻にシワが寄る。嬉しいことがあると、何も言わずに台所で鼻歌を歌う。
三十年近く一緒にいて、吾輩はそれを知っていた。ただ、一度も「知っているよ」と言ったことがなかった。
慶子さんは缶チューハイを飲み終え歯を磨いた後、部屋に戻ってきた。そしてベッドに横になり、吾輩を自分と壁の間に置いた。
お風呂上りのストレッチと酔いからか、慶子さんはあっという間に軽い寝息を立てて寝入っていた。
その寝顔は、吾輩が小学生の頃に夢中になっていたアニメに出てくる謎の美女のように映った。
こんなことを考えながら、慶子さんの長く美しい髪の香しい匂いを感じているうちに、人間の時は中々寝付けないはずだった吾輩もだんだん眠くなってきた。
カーテンの隙間から、月の光がわずかに差し込んでいた。その光の中で、空になった缶チューハイのブルーのラインが、静かに光を反射していた。眠りかけた頭の片隅に、ふと浮かんだことがあった。部下との面談で「最近ついてないんです」という言葉を聞くたびに、吾輩はこんな話をしていた。そういう時は決まって俯いて歩いている。ある日、俯いたまま帰る道でふと空を見上げたら、大きな満月が浮かんでいた。上を向いて歩くと、気分も上向いてくる。満月を見ていると、いつか「ツキ」も巡ってくるような気がする、と。今夜、慶子さんと並んであの赤い満月を見上げた。あの「ツキ」が、今夜の吾輩にも、少し巡ってきた気がした。
やっぱり今日は猫になった夢でも見ているのだろう。目を覚ませば、明日からどうせまた同じ毎日が始まるさ。
そう頭の中で思いつつ、慶子さんの方に顔を向け、そして目をつむった。
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だが眠りは、長くは続かなかった。目を覚ましても、吾輩はまだ猫のままだった。 (第5話「猫舌と馬鹿舌」へつづく)