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吾輩は猫なのだろうか 第3話 ニャーオ

    部屋にあるドレッサーの鏡を覗くと、そこにはねずみ色の縞模様の猫が映っていた。どこにでもいそうな太った猫だったが、以前どこかで見たような気がした。吾輩は体のところどころの毛が丸く抜け落ちており、だいぶみすぼらしい感じだった。それに、背中や腹部に鈍い痛みを感じた。

    記憶の糸を辿ろうとしたが、すぐに霧の中へ消えた。──高速道路のどこかのサービスエリアだっただろうか。駐車場の片隅に置かれた段ボールの中で、ボロ布のようなものが小さく動いていた気がする。通り過ぎながら一瞬だけ目が止まり、しかし足も止めずに行ってしまった、そんな記憶が、どこかに残っていた。あれが……いや、まさかそんなことがあるはずはない。

    慶子さんはお風呂から出てきたところで、ベッドの近くのドレッサーで長い髪にドライヤーをかけていた。部屋にはシャンプーの甘い香りが漂っていた。オレンジ色のやわらかい灯りの中で、温風に揺れる髪が光をはらんでいた。その後ろ姿は、上機嫌で少し嬉しそうに見えた。

    ドレッサーの端に、小さな額縁が一つ置いてあった。日焼けして色が少し褪せた写真の中で、まだ幼い二人の子供が慶子さんの両腕にしっかりと抱かれていた。旦那の姿はそこにはなかった。写真の慶子さんは、今夜と同じように笑っていた。ただ、その笑顔はもう少しだけ、軽そうだった。

    キッチンの方から、やかんが沸き上がる細い音がかすかに聞こえてきた。柔軟剤だろうか、洗濯物の甘くほのかな香りも漂っていた。蛍光灯のあの白い光とは全く違う、人が生きている部屋の匂いと音だった。吾輩は気が付くと、深く息を吸い込んでいた。

    ドライヤーをかけ終わると今度は床に座り、マットを敷いてストレッチを始めた。やはり若々しさとスタイルを保つには、日々の努力が欠かせないのだろう。そう言えば、妻も毎晩ストレッチをしていたが、まるで気にも留めなかった。

    猫になって気づいたことがある。床の感触が、まるで違うのだ。

    システムセンターの床は、冷たく硬いタイルだった。システム機器類が多く設置されていることから、エアコンの設定温度が通常のフロアよりも低めに設定されていた。その冷たさは夏でもじわりと足の裏から伝わってきた。一日中そこに立ち、座り続けると、体の芯まで冷えるような感覚があった。

    だがここは違う。慶子さんの部屋の床には柔らかいラグが敷かれており、肉球にほんのりと温もりが残っている。部屋には柔軟剤の甘い香りがほのかに漂い、シャンプーの香りと混ざり合って、生き物が暮らす場所の匂いがした。

    ふと気づくと、喉の奥からゴロゴロという音が漏れていた。猫になって初めて出た音だった。制御できなかった。でも、悪い気持ちではなかった。

    我が家にも、こういう匂いがあった。

    玄関を開けた瞬間に漂う夕食の香り。豚肉の生姜焼きを炒める音。味噌汁が静かに沸く音。洗いたてのタオルを顔に当てた時の、日向の匂い。

    吾輩は、はっとした。

    乾燥機から出したばかりの洗濯物を、妻は必ず手で丁寧に伸ばしてたたんだ。その手から、ほんのりとした温もりが伝わってくることがあった。吾輩は一度も、それをありがとうと思わなかった。

    冬の朝、出かける前にコートを羽織ると、昨夜のうちに妻がハンガーに掛けておいてくれたことに気づく。それだけのことだ。ただそれだけのことが、今になって、なぜこんなに胸に沁みるのだろう。

    気づかないふりをしていたのではない。本当に、気づいていなかったのだ。

    吾輩は慶子さんに悟られないよう前足で顔を隠しつつ、薄目を開けてずっと慶子さんがストレッチをする姿に見とれていた。慶子さんはストレッチのたびに「ふぅ~」とか「はぁ~」とか、色っぽい声を出していた。吾輩は思わずニヤついてしまった。

    こんなことを思った瞬間、鏡越しの慶子さんと一瞬目が合ったような気がした。

    すると突然慶子さんが吾輩の方に振り向き、こう言ってきた。

    「タロウ、今日何か少し変よ。いつもとちょっと違うみたい」

    吾輩は慶子さんの鋭い指摘にびっくりした。心臓がバクバクと音を立てているのが自分でも分かった。

    本当に猫になったのではないだろうか。いやいや、そんなことはあり得ない。

    動揺しながら自分の前足を眺めてみると、そこには鏡で見たねずみ色の縞模様の前足があった。前足を舐め、その足で顔を撫でてみた。すると、少し湿った足で顔が撫でられている感触がちゃんとあった。

    ちなみに吾輩は「猫の毛アレルギー」であったが、自分の足を舐めてもアレルギーは出なかった。

    ストレッチを終えると、慶子さんは機嫌良さそうに吾輩に話しかけてきた。

    タロウ、今日はとっても楽しかったのよ。

    私お酒が大好きなのに、コロナでずっと飲みに行けなかったでしょ。

    でも今日久しぶりの飲み会だったの、新しいセンター長と。

    新しいセンター長は年が近いから、飲み会もとっても盛り上がったの。

    今までのセンター長って真面目で堅苦しくて、つまらない人ばっかりだったけど、新しいセンター長ってパートの私達にも普通に話しかけてくれるのよ。

    タロウのことも沢山話したわ。

    でもセンター長、猫アレルギーなんだって。だから、あんまり猫には触わったことがないんだって。

    ほんと、今日はとっても楽しかった。あー私、また行きたいわ。

    でもセンター長をパートの私からは飲みに誘えないし。次はいつ行けるかしら。

    「吾輩もすごく楽しかったです。そして飲み会での慶子さんは、いつもよりもずっとずっと素敵でした」

    そう伝えようとして思わず声を出したが、口から出た言葉は

    「ニャーオ」

    にしかならなかった。

    そういえば、コロナ禍の在宅勤務期間中、吾輩はこのシステムセンターに着任する二年前、初めて自宅でまる一週間仕事をしたことがあった。

    それまでは毎朝七時に家を出て夜の十時過ぎに帰宅していたため、自宅にいる時間がほとんどなかった。在宅勤務初日の朝、書斎に閉じこもってパソコンに向かい、気が付くと昼になっていた。

    ドアを開けると、キッチンから妻が洗い物をする音が聞こえてきた。昼食を食べながら、吾輩は初めて気がついた。妻が朝から何をしているかを、何も知らなかった、ということに。

    朝六時に起き、美月の弁当を作り、洗濯機を回しながら朝食を準備し、美月を送り出し、掃除機をかけ、洗濯物を干し、スーパーで買い物をして帰ってきて昼食の準備をする。

    それが毎日、休みなく、続いていた。

    三日目の昼、書斎を出ると、妻がリビングの床に座り込んでいた。台所の流しには、まだ洗われていない朝食の食器が重なっていた。

    「どうした?」

    「ちょっと、腰が……」

    妻は少し笑いながら言った。「ちょっと休んでるだけ。大丈夫」。笑顔のまま、右手が一瞬だけ流しの縁を強く握った。それから、ゆっくりと立ち上がった。そうして、またキッチンに入っていった。吾輩は「何か手伝おうか?」と言えなかった。言えないまま書斎に戻った。

    その夜の夕食がいつもより少し遅れた時、妻は「ごめんなさいね」と言った。

    「全然いいよ」

    吾輩はそれだけ言った。ありがとう、とも、腰は大丈夫か、とも、言えなかった。

    あの一週間、吾輩は書斎からほとんど出なかった。在宅勤務が終わり、また通勤する生活に戻ると、あの一週間のことをすっかり忘れた。妻が毎日どれだけのことをしているかを、一週間も見ていたのに、それでも忘れてしまった。そのツケを、今こうして猫になって払っているのかもしれない。

    ――――――――――

    思えばあの夜も、缶チューハイを片手に自分を誤魔化していた。今夜もまた、同じ音が鳴る。 (第4話「缶チューハイ」へつづく)

     
     
    50代の、出向を控えたサラリーマン。 母と妻の父の介護を終え、ふと振り返る。妻に任せきりだった子育てと介護、しっかり言えなかった「ありがとう」。猫の視点を借りて綴る『吾輩は猫なのだろうか』。猫になって振り返る吾輩の人生は、不器用で、だけど案外いい人生(猫生)だったのかもしれない。

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