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吾輩は猫なのだろうか 第13話 約束

    窓の外でカラスが一声鳴いた。吾輩は前足を舐め、そして思い出の続きへと引き戻された。

    その後の人事異動で、真田部長という方がシステム部長として着任した。支店長経験も持つシステム畑の人で、着任時に若手行員と面談してくれた。

    その際吾輩は

    「あれもやってますし、これもやってます。いつも一生懸命やっているつもりなのに全然評価されない。それに、他の人よりも絶対にやってます」

    と懸命に訴えた。

    真田部長が着任してから半年後、突然「個人部への異動」を告げられた。「個人のインターネットバンキングを抜本的に改革せよ」という指示だった。七年ほど在籍したシステム部を離れ、三十代半ばで個人部へ。上司の小田グループ長に支えてもらいながら一年半の開発期間を何とかやり遂げ、個人インターネットバンキングを全面刷新した。

    ある日、真田部長に「部長室に来い」と呼ばれた。

    入ると、真田部長はこう切り出した。

    「次は個人の基盤を活用した法人インターネットバンキングの更改だ。お前がこの仕組みを一番わかってるんだから、お前が起案しろ」

    さっそく関連部署に打診したが、どこも「問題なく稼働しており不要だ」と一蹴された。

    だが真田部長が関連部署の部長を集め、出席者の目をじっと見ながら低い声で必要性を説くと、流れは変わった。同じ内容でも、資料を棒読みする吾輩とは全く別物だった。

    法人部長が「この機を逃す理由はありません。やりましょう」と言うと、他の部長たちも次々に賛成した。会議が終わりかけた時、陪席していた井出調査役が言った。

    「でも、これを一体誰が進めるのでしょうか?」

    その時、吾輩の口から「私がやります」という言葉が自然と出た。

    廊下を二人で戻る途中、真田部長から言われた。

    「長い銀行員生活だが、久しぶりに”オレがやります!“なんて言葉を聞いた。気持ちがいいな。よし、今日一杯奢ってやる」

    この約束が果たされたのは、後日の京都出張だった。システム統合の先行事例調査で名古屋・京都の銀行を訪れ、夕方に鴨川沿いの納涼床へ。麻雀とドラクエしかしていなかった学生時代の吾輩には縁のない店だったが、二人で天ぷらをつまみながらシステム統合の計画を真剣に話し合った。京都の空には満月が輝いていた。

    「何故あの時、直属でもない俺に法人の更改を指示したんですか」

    そう聞くと、真田部長はこう言った。

    「当たりめぇーだろ。重要なシステムを下手な奴に任せられるかよ。それに画面遷移が遅いとイライラするのは、お前も分かってんだろ」

    この一言で、失っていた自信を少し取り戻せた気がした。会計は軽く四万円を超え、真田部長が全額払ってくれた。約束は、京都で果たされた。

    こんなことを思い出していると、いつもと同じように午後六時頃、慶子さんが帰ってきた。

    ただし、いつもは帰ってくると一番に私に声をかけ撫でてくれるのだが、今日は声をかけてくれなかった。

    そして夜遅く、旦那が帰ってきた。

    「慶子、明日は予定通り休日出勤するから。それから明日も多分遅くなる。十月初めに新しく切り替わった人事システムでトラブルが多発していて、人事評価の作業が中々進まないんだ」

    「あら、そう。私は明日の午前中は美容院に行ってくるわ。それから午後は気分転換に高島屋へ行ってくるわ」

    こんな会話が聞こえてきた。

    しばらくして、慶子さんが部屋に入ってきた。

    ただ慶子さんは、寝る前にいつも飲む缶チューハイを今日は飲まなかった。

    それに、吾輩に一言も話しかけてくれなかった。

    その顔は、どこか悲し気だった。

    会社で何か嫌なことでもあったのだろうか。

    二人の子育てをしながら働き、子供を無事に育て上げた慶子さんの、その背中の細さを、吾輩はただ眺めていた。

    子供達二人が家を出たからといって家事がなくなる訳でもないし、食事や洗濯、掃除等の家事は変わらずある。

    加えて、今後は親の介護などもあるのだ。特にお義母さんの介護まで進んで受け入れようという慶子さんの姿勢が、胸に刺さった。

    簡単にはとても真似できない。

    慶子さんは吾輩に背を向け、壁の方を向いて横になっていた。

    何か相当悲しいことがあったようで、慶子さんの細い背中が揺れていた。こんな悲しげな慶子さんを見たのは、会社でも自宅でも初めてだ。

    猫の鼻は、人間のとは比べものにならないほど鋭い。慶子さんの涙には、かすかに塩の匂いが混じっていた。背中に触れた肉球に、声を殺して泣く震えが、小さく、しかし確かに伝わってきた。まるで弦を張りすぎた楽器のように、その細い体の芯が、静かに、きしんでいた。

    吾輩に背を向けて眠る慶子さんの背中に「早く元気になって下さい」という思いですり寄り、前足の肉球で慶子さんの背中をずっとずっとさすった。

    情けないが、これが今慶子さんに吾輩ができる全てだった。

    ――――――――――

    慶子さんを泣かせた何かに、吾輩はまだ心当たりがない。それでも、あの夜のことだけは、はっきり思い出せる。 (第14話「システム統合プロジェクト」へつづく)

     
     
    50代の、出向を控えたサラリーマン。 母と妻の父の介護を終え、ふと振り返る。妻に任せきりだった子育てと介護、しっかり言えなかった「ありがとう」。猫の視点を借りて綴る『吾輩は猫なのだろうか』。猫になって振り返る吾輩の人生は、不器用で、だけど案外いい人生(猫生)だったのかもしれない。

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