
吾輩は猫なのだろうか 第7話 モーターショー
「タロウ、ただいま」
夕方六時頃に慶子さんが仕事を終えて帰ってきた。
ドアが開いた瞬間、コートに染み込んだ秋の外気と、慶子さんのほんのかすかな香りが一緒に流れ込んできた。吾輩は反射的にベッドから飛び降り、玄関へ向かった。慶子さんはいつものように吾輩をもみくちゃにするくらい撫でまわし、顔を近づけて匂いを思いっきり嗅いだ。その手は温かく、ほんの少しだけ仕事帰りの疲れを含んでいた。この人の手の温もりに触れるたびに、吾輩は何か深いところで、ほっとするのだった。その後、慶子さんはキッチンへ向かった。
今日、旦那は出張先からいつもより早く帰ってくるようだった。しばらくすると「ただいま」という声とともに旦那が帰ってきた。
ドアの外で聞き耳を立てていると、夕食を食べながら慶子さんが旦那とこんな話をしているのが聞こえた。
「今日のお昼、あなたのお母さんの地域のケアマネージャーから電話があったの。お義母さんの認知症が進んで、そろそろ一人暮らしは難しいって。これからお義母さんをどうされますかって」
「……俺の携帯にも電話があったかも。今度、考えておくよ」
「えー、この前も相談したじゃない。子供たちが二人とも独立したから、お義母さんと一緒に住んでもいいと思っているんだけど」
「俺は、せっかくお前と二人でのんびり暮らせると思ったのに、認知症が進んだお袋と一緒に住むのは嫌だな。施設に入れればいいんじゃないの」
「でも、それじゃあお義母さん可哀想じゃない。子供達が小さい頃、お義母さんには本当に助かったのよ。あなたは子育てをほとんどしてこなかったから、その有難みが分からないのよ」
「……そんなことないさ。でも施設に入れた方がお互い楽だって。せっかくお前と二人で気楽な老後を楽しもうとしてたのに」
こんなやり取りが続き、最後は「もういい、私もう寝るわ」「あー俺、明後日土曜日出勤するから」「あっ、そう」という会話で終わった。
慶子さんのお義母さんへの優しい気持ちが良く伝わってきた。一方で旦那の言うことも、ごもっともであるような気もした。
ただ、その旦那の声がずっと引っかかっていた。どこかで聞いたことのある声だった。記憶の糸を手繰ろうとすると、するりと逃げてしまう。霧の中で何かが動いているのに、輪郭が掴めない。そんな不思議な感覚が、しつこく残った。
しばらく経ってから、慶子さんは部屋に戻ってきた。珍しく顔が少し怒っていた。会社ではそのような表情を見せたことはなかった。手には昨日と同じ缶チューハイを持っていた。
部屋に入るなり慶子さんは窓の外をしばらく見つめた。それから小さな声で、独り言のように呟いた。「もう少しだけ、ちゃんと話を聞いてくれたらいいのにな」。その言葉は吾輩に向けられたものではなかった。おそらく慶子さん自身も、聞かれているとは思っていなかった。
それにしても、毎日毎日缶チューハイを良く飲むな。これじゃあまるで吾輩と同じじゃないか。勝手に「缶チューハイつながり」を感じ、吾輩はとても気分が良かった。
世間の夫婦はどこも同じだな。疲れて帰ると相談が続き、意見を伝えると否定され、最後は言い合いになる。吾輩は少しだけ、慶子さんの旦那に同情した。
すると、突然慶子さんがこんなことを言い出した。
「あーあ、夫が定年したらイタリアに旅行しようと思っていたんだけど。でも、夫とは行く気にならないわ。あー、本場のイタリアで、本物のシチリア産レモンの缶チューハイ飲んでみたいわ」
慶子さんは、さらにこう続けた。
私、夫から猛烈にアタックされたんだから。
もっとかっこいい人で私を誘ってくる男なんか、他にも沢山いたんだから。
私、昔モーターショーのコンパニオンをやっていたの。
その時、男の人から随分声をかけられたのよ。
高橋さんから、慶子さんが以前「東京モーターショーでコンパニオンをしていた」ということは聞いていた。
だけど、みんな軽そうでね。
でもね、そんな中に一人だけ真面目でしっかりしてそうな男の人がいたの。
私がコンパニオンをしてた自動車メーカーって、名古屋に本社がある大手なの。だからモーターショーに二十台くらい展示してたんだけど、毎日クルマに触る人の指紋がベタベタついて汚くなるの。
ただ、毎朝モーターショーが始まる直前まで、ワイシャツの袖をまくって汗だくになってクルマを拭いている男性がいたの。
その男性が、今の夫。今はだいぶ見た目も変わっちゃったけどね。
モーターショーの最終日、何となく初日から視線を感じてたから「私に何か御用ですか」ってわざとらしく聞いてみたら、彼から「も、もしよければ、今度食事に行ってもらえますか」って言われて。
その時私「この人だったら、偉くなるかも」なんて思って、付き合うことにしたの。
ちょっと、打算的だったかしら。
名古屋に本社がある自動車メーカー、か。
ふと、吾輩の兄のことが頭をよぎった。兄は名古屋で自動車関連の会社に勤めていると聞いていた。まさかとは思うが……いや、そんな偶然があるはずがない。吾輩はすぐにその考えを打ち消した。
そう言って、慶子さんは引き出しから古い写真を一枚取り出し、ベッドに座り眺め出した。吾輩も慶子さんの膝に乗って、一緒にその写真を見た。
そこには赤いスポーツカーを前に、モーターショーの白いコスチュームを着てピースサインをする慶子さんと、隣にワイシャツの腕まくりをしている若い男性が映っていた。古い写真の上、クルマ全体が写るよう離れて撮られていたため、慶子さんや男性の顔までははっきりとは見えなかった。
家ではあんまり会社の話をしないから良くわからないけど、まあまあ会社で偉いらしいわ。
でも今、正直毎日がつまらないわ。夫に相談しても嫌そうだし、面倒臭そうにしゃべるし、話も面白くないし。長男が産まれるまでは、こんなじゃなかったのになあ。
でもね、新しいセンター長って話がとっても面白いの。学生時代の牧場バイトの話とか、もうおかしくって。
職場でもセンター長のいる場所って、見なくても分かるのよ。笑い声が聞こえてきたところに振り向くと、いっつもいるの、そこにセンター長が……。
もう私、いっそのこと、何もかも放り出して、センター長とどこかへ逃げちゃいたいわ。
吾輩の心臓がドクンドクンと激しく音を立てた。
ねえタロウ、もし私が誘ったら、センター長、どんな顔するかしらね。……なんて、ね。
吾輩は、もう少しで心臓が口から飛び出しそうになった。
でも、ちょっとお腹がねぇ……。タロウ、あなたとおんなじくらい太ってるのよ、センター長。
心臓は出なかったが、思わず「えー」と声をあげてしまった。だが、出てきた声は
「ニャーオ」
だった。
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太っているのはお互い様、ということにしておこう。それより、慶子さんが選んだあの男には、まだ続きがある。 (第8話「お義父さん(前編)」へつづく)