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吾輩は猫なのだろうか 第19話 エピローグ(「満月と缶チューハイ」完)

    どこかで誰かが泣いていた夢を見ていた気がする。それが誰だったのか、もう思い出せない。

    一体ここはどこなのだろう?今日はいつなのだろう?ここ数日の記憶が曖昧だった。ただ、動物病院に行ったことは何となく覚えている。

    ふと見ると、黒い服を着た慶子さんが、ドレッサーの前に力なく座っていた。慶子さんは目を真っ赤に泣き腫らしていた。

    外はもう真っ暗だった。秋の冷たい雨が降っているようで、部屋の中まで雨音が聞こえてきた。

    慶子さんはしばらくすると部屋を出て行き、一時間ほどしてパジャマ姿で戻ってきた。その手にはいつものように缶チューハイを持っていた。ただし、それはいつもよりブルーのラインが濃い缶チューハイだった。

    吾輩は慶子さんの膝に乗った。

    すると慶子さんは吾輩を見て、いつものように優しく吾輩を撫でてくれた。

    吾輩が「ニャーオ」と鳴くと「タロウ、ありがとね」と、慶子さんは静かに泣きながら吾輩を撫でてくれた。

    十年前、段ボールの中で瀕死だった吾輩を、こうして同じ手で撫でて元気にしてくれたのも、慶子さんだった。

    タロウが来てくれなかったら、私達、ダメだったかも知れない。

    聡は中学校から口を聞かなくなって。敦子は高校でいじめにあって、部屋から出なくなって。主人は仕事が上手くいかなくって、食卓にいつも重たい空気が漂っていた。毎日、お通夜みたいだった。私、限界だったの。

    本当に出て行こうとしたことがあったの。荷物をちょっとまとめて、玄関に立った。もうダメだって思って。

    そしたら後ろから、ニャーオって聞こえたの。

    振り返ったら、タロウが玄関に座って、私を見てた。あの子の目を見たら……行けなかった。

    けどね、まだほんの子猫だったタロウが、聡と敦子の足にまとわりついて、主人の後を、ひたひたとついていってくれて。

    「来ないでよ」「あっちへいって」「触らないで!」って言われても、ご飯の時間になると必ず、みんなのそばに来てくれた。

    そのうちに、みんなが「タロウ、こっちに来て!」って言うようになって。

    砂のお城のように崩れかけていた家族を、タロウがつないでくれたの。

    慶子さんの声が、少し遠くなった。元から体が弱かった吾輩は、もうそんなに長い間生きられないかもしれない。だが——

    だが、これから生まれるお孫さんが、きっと吾輩の代わりに慶子さんを癒し、笑顔にしてくれる。

    慶子さんの生き甲斐にもなるはずだ。

    だから吾輩は安心して逝くことができる。

    それまでの間、慶子さんを癒し続けよう。

    その時、慶子さんが吾輩の背中を撫でながら言った。

    「タロウ、今度、皆既月食を一緒に見ようね。

    皆既月食って、月が見えなくなるんじゃなくて、月が赤くなるのよ。知ってた?」

    吾輩は窓の外を見た。

    さっきから降っていた雨が上がり、雲の切れ間から満月が静かに浮かんでいる。雨上がりの、しんとした静けさの中に。

    吾輩は窓の外の満月を見つめた。赤く鈍く光るその色を、どこかで知っている。

    あの夜、慶子さんと並んで見上げた、あの色だった。

    兄とマルちゃんが、今も並んで月を見上げているような気がした。

    慶子さんの頬に落ちる月の光が、あの夜と同じやわらかさだった。

    だが、それがいつのことだったのか、もう思い出せない。

    それでも――

    こうして誰かを想いながら、

    同じ月を見上げることができるのなら、

    人生というものも、

    そう悪くはないのかもしれない。

    慶子さんの指先が、背中をゆっくりとなぞる。

    その温もりは、どこかで知っている温もりだった。

    夜遅く帰ると、テーブルの上に必ずラップをかけた夕食が置いてあった。熱を出した夜、額に濡れたタオルを当ててくれた手。子供が生まれた日の朝、妻は泣きながら笑っていた。

    ずっと当たり前だと思っていた。だから、ありがとうと言えなかった。

    一度だけ、妻がこんなことを言ったことがある。夜、台所で洗い物をしながら、独り言のように。

    「ねえ、毎朝『気をつけてね』って言ってるの、あなた気づいてる?」

    「ああ、まあ」と答えると、妻は少し笑ってまた流しの方に向き直った。それだけだった。吾輩はそれ以上、何も言わなかった。

    「気をつけてね」

    ただの挨拶だと、ずっと思っていた。低く、温かく、少し眠そうに掠れた——いつも、台所の奥から届く、あの声を。

    吾輩が仕事に溺れていた時も、疲れて眠り続けていた時も、君だけが目を覚ましていた。

    毎朝のあの声は、私の背中をそっと押してくれる、小さな祈りだったのだ。

    あの声だけは、最後まで消えなかった。

    吾輩は、静かに目を閉じた。

    人間だった頃の記憶が、少しずつ遠くなっていく。あの病室も、妻の声も、娘の笑顔も、今はもう夢の中のように霞んでいる。

    残るのは、この温もりだけだ。

    どこからか、レモンの香りがした。

    もしも生まれ変われるのなら――

    吾輩は、次もやっぱり猫がいい。

    そしてまたいつの日か、

    慶子さんの膝の上で、

    あの赤い満月を、もう一度、一緒に見上げたい。

    ――――――――――

    物語はここで終わらない。吾輩にはまだ、誰にも話していない、もう一人の娘のことがある。 (第二部「長いお別れ」 第20話「まだ、ここにいる」へつづく)

     
     
    50代の、出向を控えたサラリーマン。 母と妻の父の介護を終え、ふと振り返る。妻に任せきりだった子育てと介護、しっかり言えなかった「ありがとう」。猫の視点を借りて綴る『吾輩は猫なのだろうか』。猫になって振り返る吾輩の人生は、不器用で、だけど案外いい人生(猫生)だったのかもしれない。

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