
吾輩は猫なのだろうか 第12話 転機
その後は心機一転、システム部の仕事を頑張っていたつもりだった。
ベッドの端に顎を乗せながら、吾輩はそんなことを思い出していた。猫の体は小さく丸く、回想の中の自分よりずっと無力だ。それでも、記憶だけは人間のままだった。
あれは、まだ三十代の頃のことだ。
底辺にいた吾輩を、妻と娘が何度も救ってくれた。
だが、吾輩が仕事に没頭していた間も、その後に続いた長い介護の日々も、妻が毎日どんな思いで過ごしていたか、吾輩はほとんど知らなかった。
ある夜のことを、今になって想像する。
深夜一時。お義父さんが粗相をした。妻は目を覚まし、黙ってシーツを取り替えた。お義父さんは「すまないねぇ」と繰り返した。「いいのよ、気にしないで」と妻は言った。
後始末を終え、台所に立つ。電気ポットのスイッチを押す。コポコポという音だけが、静かな台所に響く。
マグカップにインスタントコーヒーを入れ、お湯を注いで、それをそのまま忘れていた。気づいた時には、すっかり冷めていた。
妻はその冷めたコーヒーを飲みながら、窓の外を見ていた。吾輩はその時、確かに眠っていた。
茶碗の底が流しに触れる、カチャという小さな音がした。それきり、台所は静かになった。
吾輩が今、猫として感じるのは、その夜の「音」だ。
冷蔵庫の低く唸るモーターの音。タイルの床に、妻の素足がそっと触れる音。
妻はあの夜、どれくらい台所に立ち尽くしていたのだろう。
吾輩には分からない。眠っていたから。
翌朝、吾輩が出かける前に妻は「気をつけてね」と言った。その顔に疲れは一切見えなかった。
吾輩は何も言えなかった。言えないまま、玄関を出た。
あの頃の話に戻る。まだ三十代だった吾輩がある朝出社すると、監査部による「早朝セキュリティ監査」という抜き打ち検査が始まっていた。
個人情報保護法が施行されてから、顧客情報の管理が今まで以上に厳しくなっていた。
毎月幾つかの支店で「顧客情報を紛失した」「別のお客様に、他のお客様の顧客情報を誤送付した」という報告が行内のイントラネットに掲載されており、銀行全体で「情報管理の徹底」に注力していた時期だった。
こういったこともあり、従来の監査に加え「セキュリティ監査」という、情報管理に特化した検査が開始された。
吾輩が執務室に入ると
「はい、カバンの中を見せて。まさか、顧客情報は持って帰ったりしていないよね」
と、吾輩よりも先に来ていた先輩達のカバンの中身を厳重に点検していた。
吾輩もカバンを開けるよう言われ、カバンを開いて中を見せた。
カバンの中には財布と弁当、そして文庫本の小説が一冊入っていただけで、カバンからは何も見つからなかった。
担当者は少し残念そうな表情をしていた。
その後吾輩の席まで監査部の担当者が同行し
「じゃあ、君の席の引き出しを開けて」
と言われ、鍵穴に貼られていた封印シールを外し鍵を開けた。
監査部の担当者がキャビネットの引き出しを順に開け、中に現金や顧客情報の書かれた書類がないか点検を始めた。
顧客情報が記載された書類は所定のキャビネットにしか収容してはいけない決まりとなっており、当然そのルールは知っていた。
そのため、自席のキャビネットにそのような書類は一切しまっておらず「どんなに調べても、何も出てくるはずない」と思いながら点検する監査部の担当者を後ろで見ていた。
すると
「おい、こっちに来てくれ」
と、別の担当者を呼ぶと
「おー、やっぱり出てきたか。しかも二本も」と言い出した。
何かと思ったら、それは「消せるボールペン」だった。
しまった!
先週、都内に出張してセミナーを見学した際、幾つかの会社から商品のパンフレット類と一緒に、紙のケースに入った消せるボールペンをもらったことを思い出した。
消せるボールペンは、それで契約書を書いた後に書かれた内容を消して改竄できてしまうことから、執務室に持ち込んではいけないというルールとなっていた。
見学の翌日、セミナーに参加できなかった先輩の分とともに、机の引き出しにパンフレットをしまう際に気付いたが「明日捨てればいいや」と思い、その後すっかり忘れていた。
監査部の担当者が監査部長に
「部長、この席からこれが二本、出てきました」
そう言うと、部長は「良くやった」という目をしながら「よし、今日の作業はここまで」と言って、監査部の担当者達を引き上げさせた。
一時間ほど経ってから監査部長がシステム部長宛に来て、二人で部長室に入って行った。それから三十分ほど経った後、監査部長は出て行った。
しばらくすると、鬼のような形相のシステム部長から「伊藤!ちょっと来い!!」と呼び付けられ、吾輩は部長室に入った。
すると、入った瞬間に
「何てことしてくれたんだ!あれだけ消せるボールペンを持ち込むなって言ってただろ!しかも二本も入っていたそうだな。お前は何てことをしてくれたんだ?俺は元監査部だぞ?俺に恥を掻かせるつもりか?」
と、部屋の外まで聞こえるくらいの大声で怒鳴りつけられた。
その日の夕方、監査部から書面で「セキュリティ監査報告書」が提示された。
システム部全体で幾つかの軽微な不備があったようだが、吾輩の消せるボールペン二本と、他にもう一名席から消せるボールペンが見つかっており、それらが原因で監査結果は「要改善」という一番下の判定が下された。
その日以降、システム部長は吾輩と口を聞くことはなかった。
その日の帰りは「お前は使えないらしいんだよな」と言われた時以上に、足が重たく感じた。あの日よりも更に、家に着くまで時間がかかったと思う。
コンビニのガラス扉に映った吾輩は、ボロ布どころかドブネズミのようにさえ見えた。
その週末、夕食のあとに「洗い物やってもらっていい?」と妻に言われた。渋々流しに立つと、不思議と仕事のことが頭から消えた。皿を一枚ずつ洗っている間だけは、何も考えなくて良かった。
「もしかして、よっぽど妻の方が会社勤めに向いているんじゃないか」
そう思った時、妻がこう言った。
「色んな部署の色んな立場の人達と何度も交渉したりしないとダメなんでしょ? だから私にはとても無理。あなたは凄いことをやってるのよ。ちょっとくらい躓いたって、もっと自信を持っていいんじゃない?」
この日から、週末は必ず食後すぐに皿を洗うようにした。会社のことを家で悩む時間が、少しずつ減っていった。
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だがあの頃の吾輩を、もう一度救ってくれた上司がいた。京都の夜、満月の下で交わした約束の話だ。 (第13話「約束」へつづく)