
吾輩は猫なのだろうか 第8話 お義父さん(前編)
そういえば吾輩も妻をゲットするために様々な手を尽くした。付き合う前は全力で行くが、いったんモノにしてしまうとその後は力を抜くし、結婚すればなおさらだ。
ただし、妻の玲子と結婚する前、吾輩は一度重大なピンチに陥った。現在認知症がだいぶ進行している妻のお義父さんとの初対面の時だった。
妻とは吾輩が初めて配属された支店で出会った。スラリと背が高く、ワンレンの髪を片方に束ね、まるでスチュワーデスのように銀行の青い制服を着こなす妻を見た瞬間、吾輩の脊髄に稲妻が走った。
「付き合って欲しい」と告白したが二回連続で断られた。だが性懲りもなく三度目の告白をしたところ、若干嫌そうではあったが「食事に行くだけなら」と了解を得た。今なら百%ストーカーである。そこから得意の話術を駆使し牧場話等で押しまくったところ、見事彼女にすることができた。
ただし、付き合うに際して一つ問題があった。支店内で付き合っていることがバレるとどちらか一方が違う店舗に異動させられるという「銀行の掟」があったため、支店内で付き合っていることを隠す必要があった。スマホもパソコンもない時代、妻との連絡は「行内専用郵便」に見せかけ、妻宛の郵便物入れにそっと紛れ込ませるという作戦だった。
ある日の午後、通路で妻とすれ違った際「今日お父さんが帰らないから、泊りに来てもいいよ」と突然声をかけられた。だが待ち合わせ場所と時間を伝える手段がない。悩んだ末、月に一度回覧する「管理簿」にピンク色の付箋をつけ「今日七時に、西口のマックで」と書き、妻の机に置いた。
しばらくして、課長代理から皆が聞こえるような大声で「伊藤!この付箋は何だ」と何度も呼ばれた。融資係全員がニヤつく中、吾輩は顔を赤らめながら「間違えです」と付箋を取り返した。後で妻に聞くと、その月は管理簿を開かずに回したとのことで、付箋が妻に届いていなかった。慌てて廊下で妻を追いかけ、ようやくOKを得たのだった。なおこの「付箋事件」は後に結婚式で融資係の人達による寸劇となり、結婚式を大いに盛り上げてくれた。
その夜も「今日お父さんが帰らないから、泊りに来てもいいよ」という約束だった。夜の十時を回り「これから」という瞬間に、玄関から「ガチャ」っと鍵が開く音がした。
「まさか!?」
そう思った瞬間、妻のお義父さんの「ただいま」という声がした。靴は玄関にあるし、スーツとワイシャツはリビングのソファーにかけっぱなしだし、何よりも吾輩は妹のピチピチのピンクのスウェットを着ているし。絶体絶命である。
とりあえず二人で玄関へ行き、吾輩は
「は、はじめまして。玲子さんと同じ支店で働いている、伊藤と申します」
と、ピチピチのスウェットを着ながら玄関に正座し、初めて会うお義父さんに挨拶をしたのだった。
吾輩達以上に動揺していたのはお義父さんの方だった。泊りがけの出張が急遽取りやめとなり自宅に戻ってみたら、ピンクのスウェットを着た知らない男が待っていることなど、想像を絶したことだろう。そのためか普段なら絶対に開けないような、ゴルフのコンペで貰った「ゴルフボールが蓋になっているウィスキー」を開け、グラスに注いでストレートで飲み始めた。
ふと部屋を見渡すと将棋盤があることに気が付いた。「よろしければ将棋を指しませんか」と準備したところ、お義父さんは無言のまま駒を並べ始めた。
序盤からお義父さんは猛烈に攻めてきた。「お前のような奴に、大切な娘は絶対にやらん」という気迫が伝わってきた。
飛車先の歩を切り、棒銀で一直線に攻め込んできた。こちらが守りを固める間もなく銀交換が成立し、手にした銀を容赦なく腹に打ち込まれた。桂馬が跳んで守りの金を剥がされ、飛車が成って竜となった瞬間、もう受けがなかった。詰めろを解く手が見えないまま、あっけなく吾輩の投了となった。
「それでは今日はこれで失礼致します」と伝え、スーツに着替えた。その時、階段の暗闇の中にじっと座っていた猫がいたことに初めて気付いた。
とぼとぼと帰りの電車に乗ると、クシャミが止まらなかった。妻の家に入ってから鼻がムズムズしていたが、どうやら吾輩は猫の毛でアレルギーが出るらしい。
これが、吾輩と妻のお義父さんとの「初めての出会い」だった。
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あれから三十年近く。あのお義父さんは今、少しずつ、大切な記憶を手放し始めている。 (第9話「お義父さん(後編)」へつづく)