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吾輩は猫なのだろうか 第16話 走馬灯

    体中が痛く、昨夜吾輩はあまり寝られずにいた。

    今朝も吾輩は依然として猫のままだった。

    慶子さんはまだ隣で寝ていた。秋の朝の光が薄いカーテン越しに差し込み、慶子さんの顔の半分だけを照らしていた。昨夜も泣いていたのだろう。マスカラが少し滲んでいた。

    朝八時を少し過ぎた頃、吾輩が少し体を動かすと「タロウ、大丈夫?」と、心配そうな顔で慶子さんが吾輩を覗き込んだ。吾輩は鳴く力もなく、体を震わせていた。そのうち腹部と背中に激痛が走り、体が痙攣し始めた。

    慶子さんは驚いて「タロウ、大丈夫?すぐに病院に連れて行ってあげるからね」と、パジャマから着替え、吾輩をクルマに乗せ日曜日もやっているかかりつけの動物病院に連れていってくれた。

    病院に着くと、消毒液の匂いが鼻をついた。冷たいステンレスの診察台の上に置かれ、獣医がお腹や背中を押し、触診をしてきた。その手は的確で、迷いがなかった。レントゲン写真を指で差しながら、冷静に言った。

    「まだ、しっかりと診ていないので確実ではありませんが、膵臓のあたりに腫瘤のようなものが見えます。かなり進んでいる状態のようです」

    「小さい頃は病気がちだったけど、それからは元気だったのに。突然こんなことってあるんですか」

    慶子さんが目に涙を浮かべながら聞くと、獣医は「猫は、私達のように定期的に人間ドックを受ける訳じゃありませんし。それに人間みたいにどこどこが痛いって、話せませんから」と言った。

    「タロウは、助からないのですか」

    慶子さんは泣きそうになりながら獣医に聞いていた。

    「残念ですが、相当悪化しているようです。手術も難しいと思います。結構厳しい状況で、もしかすると……」

    「とりあえず、強い痛み止めの注射をしておきましょう。しばらくは眠ってしまうことでしょう」

    注射を打たれた瞬間から、痛みがすっと引いていった。そして吾輩は、ゆっくりと意識を失っていった。

    病院の窓から、秋の朝の光が細く差し込んでいた。その光が慶子さんの頬に触れ、浮かんでいた涙の粒がひとつ、光の筋の中をゆっくりと落ちた。吾輩はその一粒の軌跡を、目で追った。視界の端から、白い靄のようなものがそっと忍び込んでくる。

    夢を見ていた。

    そこは真っ白で広い空間だった。まるでどこかのホテルのロビーのように静かで、柔らかな光が満ちていた。

    肩に届くくらいの髪のスラリとした女性が近づいてきた。白い制服を着ており、淡いピンク色のマスクをしていた。

    「コーヒー召し上がりますか?」

    女性はそう言って、白いカップにコーヒーを注いでくれた。飲もうとしたが、熱くて飲めなかった。

    「お客様は猫舌なんですね」

    女性は優しく微笑みながら言った。それから自分のカップにもコーヒーを注ぐため、マスクをそっと外した。

    微笑んだ時、真っ白な八重歯とチャーミングなエクボが見えた。

    マスクを取ったその女性は、若い頃の慶子さんだった……

    目を覚ますと、そこは動物病院のベッドの上だった。再び、猫に戻っていた。

    高校時代に読んだ星新一のショートショートが、よく似たオチで終わっていた。最後に見る夢が、あんな話とは。

    見上げると、そこには目に涙をため、心配そうに吾輩を見つめる慶子さんがいた。

    「タロウ、タロウ、しっかりして!大丈夫?」

    しばらくして吾輩はまた意識が朦朧とし始め、そして再び意識を失った。

    再び目を覚ますと、私は人間に戻っており、そして実家の居間にいた。夢の中だと、どこかでは分かっていた。それでも、ここにある温もりは本物だった。

    その日は元旦のようで、まだ元気な母がおせち料理を並べ、人数分の寿司桶が並んでいた。ただし、いつもの正月とは寿司桶の数が違っていた。いつもなら母と私、妻と美月、そして兄の五人前であったが、その日は六人前の寿司桶がテーブルに置かれていた。

    しばらくして、兄が実家に帰ってきた。しかも兄一人ではなく「お義母さん、遅くなりました」という女性の声が玄関から聞こえてきた。

    兄と女性が居間に入ってきた。その女性は、センターで勤務しているはずの慶子さんだった。

    あり得ない。頭のどこかがそう呟いた。だが夢は構わず続く。

    慶子さんは「玲子ちゃん、久しぶりー。美月ちゃん、段々お母さんに似てきたね」と言うと、妻もごく普通に「慶子さん、お久しぶりです」と答えていた。

    唖然として慶子さんを見ると、いつもと変わらない素敵な笑顔だった。

    すると兄が「小さい頃、一緒にこの家で本当によく遊んだよな」と懐かしそうに話しかけてきた。

    兄とは小さい頃、野球盤、人生ゲーム、トランプなど、一日中遊んでも遊び足りなかった。そして何といっても兄と一番の思い出は、小学校三年生の夏休みに六年生の兄と二人だけで初めて行った、富山県にある母の実家への帰省だった。

    新幹線に二人だけで初めて乗った。指定席に座り、しばらく窓の外を二人で眺めていた。お腹が空いてきた頃、兄が車内販売でサンドイッチを買ってくれた。いつも母が握ってくれたおにぎりとは違う「銀色の箱に入った新幹線のサンドイッチ」の美味しさは、今でも忘れられない。最後の一切れを「ともちん、食べなよ」と譲ってくれた兄の優しさも。

    母の実家での楽しみは「カブトムシを捕まえること」だった。実家近くの山のクヌギ林に自転車で行けば、大きなカブトムシが捕まえられた。だが二日続けて行っても見つからなかった。帰る日の前日、兄が「クヌギの木に傷を付けてハチミツを塗っておくと、カブトムシが集まってくるって昆虫図鑑に書いてあった」と言い出した。おばあちゃんからハチミツをもらい、再びクヌギ林へ。「今日の夜、こっそり家を抜け出そう!」と兄が言った。

    その夜、おばあちゃんに「おやすみなさい」と言ってから一時間ほど経った頃、二人でこっそり玄関を出た。自転車のライトと月明かりを頼りにハチミツを塗った木を目指した。だが暗い山の中でいつの間にか道が分からなくなっていた。三十分近く探したが見つからず、帰ろうとすると今度は帰り道も分からなくなっていた。

    「えー、じゃあどうやって帰るの?もう真っ暗だよ。電話ボックスもないし!」と私が泣き出しかけると、兄が言った。

    「ともちん、絶対大丈夫。この道にクルマが来たら、俺が手を振って止まってもらうから」

    一時間近く待ってもクルマは一台も通らず、兄も少し怯えていたように見えた。来るときに食べた母のおにぎりが最後の料理のように思えて、余計に涙が止まらなくなった。それからしばらくして、ようやく遠くにクルマのライトが見えた。兄が懐中電灯を大きく振り「すみませーん!」と叫ぶと、軽トラックが止まってくれた。おじさんに事情を説明し、軽トラックの荷台に乗せてもらいおばあちゃんの家まで送り届けてもらった。

    家の外にはおばあちゃんも近所の人達も総出で私達を待っていた。「誠ちゃん、友ちゃん!」と泣きそうになりながらおばあちゃんが駆け寄ってきた。兄は「ともちんにおっきなカブトムシを捕らせてあげたかったんです」と言いながら、ついに泣き出した。

    翌朝、親戚のおじさんが朝六時に起こしに来た。「カブトムシ、捕まえに行くちゃ」。クルマでクヌギ林へ向かい、言われた通り木の根元を探すと兄が「いた!」と大声をあげた。大きなカブトムシだった。さらに奥へ進むと、昆虫図鑑でしか見たことのない金色に輝くミヤマクワガタがいた。二人の興奮は止まらなかった。

    帰りの新幹線の車内で、おばあちゃんが握ってくれたとろろ昆布のおにぎりを二人で食べ、いつの間にか二人とも眠ってしまった。一生忘れることのない兄との大冒険だった。

    翌年兄が中学校に入学したため、母の実家への帰省はこの夏休みが最後となった。

    私が小学校三年生の頃、六年生の兄は「マル」と呼ぶ髪の短い元気な女の子とよく遊んでいた。私はその子を「マルちゃん」と呼んでいた。

    マルちゃんは鉄棒の地獄回りが得意で、笑った時に見える真っ白な八重歯とチャーミングなエクボが、まるでアイドルのようだった。だが翌年三月の卒業式の直前に、また別のところに引っ越してしまった。引っ越し業者のトラックに乗るマルちゃんが、窓から半身を乗り出し「セイちゃーん!セイちゃーん!」と兄に叫んでいた。マルちゃんが引っ越した日の夜、兄は自分の部屋でずっと泣いていた。

    こんなことを思い出していると、慶子さんが突然私の方を向き、少し顔を近づけて微笑みながら小声でこう言った。

    「大丈夫、ともちん?」

    「あっ――!!」

    笑った時の真っ白な八重歯とチャーミングなエクボ。

    四十年以上経って、あの真っ黒に日焼けしたマルちゃんは、素敵な大人の女性になっていた。

    マルちゃんの名前は「丸岡慶子」。結婚して、丸岡から佐藤に変わった。ただ、それだけのことだった。

    *

    夢と現実、過去の記憶と妄想が入り乱れ、益々頭の中が混乱した。だがその時、一つのことだけが静かに、確かに腑に落ちた。

    ――あの声だ。

    「明日も多分遅くなる」「人事システムでトラブルが多発していて」と、ドアの向こうから話しかけてくる旦那の声。四日間、ずっと聞き覚えがあると思っていたあの声。

    それは、あの夏の夜に真っ暗な山道で「ともちん、絶対大丈夫。この道にクルマが来たら、俺が手を振って止まってもらうから」と言ってくれた、兄の声だった。

    お兄ちゃん……。

    マルちゃんのこと、ずっと忘れられなかったんだね。

    *

    夢の中だけが、二人を引き合わせてくれた。目が覚めれば、それぞれの現実がある。だがこの夢が見せてくれたものは、確かだった。

    本当にそうなのか、確かめる術はない。これはきっと、吾輩がそう願っただけの夢なのだろう。それでも——確かに、繋がっていた。

    私は兄のことを思い、目が潤んでいた。

    ――――――――――

    あの夏の夜、山道で交わした約束を、兄は忘れていなかった。だが吾輩自身の記憶も、ここでようやく一つに繋がろうとしていた。 (第17話「最後の瞬間」へつづく)

     
     
    50代の、出向を控えたサラリーマン。 母と妻の父の介護を終え、ふと振り返る。妻に任せきりだった子育てと介護、しっかり言えなかった「ありがとう」。猫の視点を借りて綴る『吾輩は猫なのだろうか』。猫になって振り返る吾輩の人生は、不器用で、だけど案外いい人生(猫生)だったのかもしれない。

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