
吾輩は猫なのだろうか 第9話 お義父さん(後編)
それから三十年近くたち、八十代半ばとなったお義父さんは体は非常に健康だが、昨日の出来事が覚えられないくらいに認知症が進行していた。
三か月前にシステムセンターに異動となった際、部下の一人から「送別の品として何が欲しいか教えて欲しい」と聞かれ、「将棋盤と駒のセット」をお願いした。コロナで人と話す機会が減り急激に物忘れが進んでいるお義父さんへの、小さな親孝行を考えてのことだった。
着任後最初の夏休みに家族皆で妻の実家へ行き、お義父さんと久しぶりに勝負した。将棋を指すお義父さんの眼光は、あの初めて会った日と同様に鋭く、とても認知症が進んでいるようには思えなかった。
あの時のようにお義父さんの攻めが続き、終盤に差し掛かった時だった。お義父さんは馬で王手をかけ、その後桂馬を持ち上げた瞬間、駒を握ったまま動きが止まり、急に「きょとん」とした表情になった。
「お義父さん、桂馬はここにありましたので、ここかこっちですね」
「あっ、そ、そうだね。じゃあこれで王手」
あの時と同じように腹銀を打たれ自玉が動けなくなったところで吾輩は投了した。お義父さんは「友明さん、次はいつ来る?」と、吾輩との将棋をとても楽しみにしてくれていた。
ある時、お義父さんのマンション近くの蕎麦屋に二人で出かけた。イカゲソの天ぷらをつまみにビールを飲みながら将棋の話をした。山かけ蕎麦を美味しそうに頬張るお義父さんは、お店に入った時に比べて明らかに血色が良くなり、女将さんの顔も少し思い出したようだった。帰る直前には「また来るよ」と手を振りながら嬉しそうに挨拶していた。それは、全く普通に見えた。
蕎麦屋を出て、二人で夕暮れの商店街を並んで歩いた。お義父さんは杖をつきながら、ゆっくりとした足取りで歩いた。吾輩も歩調を合わせた。
しばらく歩いたところで、お義父さんが突然立ち止まり、空を見上げた。
「今日は月がキレイだな」
吾輩も空を見上げると、夕暮れの青い空に、まだ白っぽい月が浮かんでいた。
「本当ですね。昼間から出てるんですね」
「昔、玲子が小さい頃、よく一緒に月を見たよ。あの子は月が好きでな。『お父さん、あの月、どうして昼間にいるの?』って、毎回同じことを聞くんだ」
お義父さんは少し遠くを見ながら、そう言った。認知症が進んでいるのに、三十年以上前の娘の記憶はよく残っているのだ、と吾輩は思った。
「玲子さんって、子供の頃からそういうことが気になる子だったんですか」
「そうだな。好奇心が強くて、何でも『なぜ?』って聞く子だった。で、私が答えられないと、ニコッと笑って『そっか、お父さんも知らないんだね』って言うんだ。その顔がまたかわいくてな」
お義父さんはそう言って、小さく笑った。吾輩は妻の子供の頃のことを、今まで聞いたことがなかった。
「友明さん、玲子のことを、よろしく頼みますよ」
お義父さんはそれだけ言って、また歩き出した。吾輩は何も言えなかった。「はい」とも言えず、ただお義父さんの隣を歩いた。
この時、吾輩は初めて「妻孝行」という言葉の本当の意味を考えた。
それからお義父さんの介護を極力引き受けようと思い、一週間ほど我が家に泊ってもらったことがあった。ある日妻から「お義父さんの下着が足りないから、スーパーで買ってきて」と言われ、二人で出かけた。エスカレーターにうまく乗れないお義父さんを後ろの客が待つ中、慌てて逆走して手を引き乗せた。お義父さんは後ろの人達に「す、すみません」と申し訳なさそうに頭を下げていた。
その日自宅に戻ると「トイレはどこだっけ?」と何度も聞かれ、「ここですよ。さっきも教えましたよ」と若干イライラして答えてしまった。お義父さんは「あっ、そうだっけ」と、済まなそうな表情をした。
翌朝、会社に行くために起きると、お義父さんもちょうど部屋から出てきた。だが何とお義父さんはパジャマ姿ではなく、スーツ姿だった。しかもそれは、妻が準備して衣紋掛けに掛けていた、吾輩のスーツだった。
妻が起きてきて「お父さん、それ友明さんが今日会社に着てくスーツよ、もう」と言うと「あっ、そうなの。これが部屋に掛かってたから……」と済まなそうに言った。朝から吾輩のやや大きいスーツを着こなすお義父さんを見て、思わず妻も吾輩も吹き出してしまった。
「朝からうるさいなぁ~」と起きてきた娘の美月がお義父さんのスーツ姿に「おじいちゃん、その恰好なに?どこかの会社の偉い人みたい!」と言うと、お義父さんは「そ、そうかな」と少し嬉しそうに照れていた。
妻が「お父さん、早く脱いでよ」と言うと、お義父さんはスーツを脱ぎ始めた。上着を脱ぎ、ワイシャツを脱ぐと、なんとその下はパジャマだった。皆で朝から大笑いした。お義父さんも一緒になって笑っていた。
「お義父さんを、これからも笑顔にしよう」
この時、吾輩はそう心に決めた。
せいぜい週末にゴミを捨てに行くことと皿洗いくらいが、吾輩が家でできる仕事だった。妻のお義父さんを笑顔にすることが、言葉の代わりに差し出せるせめてもの気持ちだと考え、毎月妻の実家を訪れ一緒に食事をするとともに将棋を指すようにしている。
ある夜遅く帰ると、妻がいなかった。
リビングの電気が消えていた。食卓に夕食はなかった。財布も鍵も、いつもの場所にない。
まさか、家出でもしてしまったのか。それほど吾輩が無関心だったのか、と青ざめた瞬間、スマホに着信が入った。
警察署からだった。
「お宅のお父様をお預かりしています。奥様がいらしています。お早めに」
タクシーを拾い急いで向かうと、署の待合室でお義父さんが警察官と楽しそうに談笑していた。ただ、警察官の方は困り果てた表情を浮かべていた。
妻は隣に座り、深々と頭を下げていた。スマホも財布も持たず、着の身着のまま飛び出してきたのだろう。コートも羽織っていなかった。
警察官から事情を聞くと、お義父さんが夕食後にふらりと外に出て、そのまま戻らなかったという。妻が気づいた時には、もう外は暗くなっていた。
妻の隣に座り「大丈夫か」と声をかけると、「うん」とだけ言って、また頭を下げた。その横顔に、疲れと安堵が混じっていた。
帰りのクルマの中、お義父さんはすぐに眠ってしまった。妻は助手席でじっと前を向いていた。
「ありがとう」と、その時も言えなかった。 こんなことを思い出している間に、慶子さんは寝てしまっていた。ベッドの棚には、今日も缶チューハイの空き缶が置かれていた。
外からは、枯れ葉を踏む風の音がかすかに聞こえてきた。吾輩が住む首都圏のマンションでは聞こえない音だった。十一月の夜が、静かに更けていた。
窓のカーテンの隙間から、夜の光がほそく差し込んでいた。
慶子さんが安らかな吐息をたてて眠る横で、その静かな音に耳を傾けながら、吾輩も目をつむった。
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だが朝が来ても、吾輩はまだ猫のままだった。人間に戻れないまま、猫になって三日目の朝を迎えることになる。 (第10話「底辺(前編)」へつづく)