
吾輩は猫なのだろうか 第15話 夜の声
目を覚ますと、相変わらず吾輩は猫のままだった。
もう既に、時刻はお昼を過ぎていた。旦那は人事評価作業のために休日出勤し、慶子さんも美容院に出かけていて、二人ともいなかった。
昨夜は痛みで何度も目が覚め、ほとんど眠れなかった。今朝も腹部と背中に重い痛みがあり、吾輩はベッドからほとんど動けないでいた。キャットフードも水も、今日はまだ口にしていない。
ふと気が付くと、いつもベッドの棚に置いてある缶チューハイの空き缶が、今日はなかった。
慶子さんは昨夜、缶チューハイを飲まなかった。吾輩に一言も話しかけてくれず、ただひたすら壁を向いて横になっていた。あの細い背中が、かすかに揺れていた。
空き缶のない棚の前で、吾輩はしばらく動けなかった。いつも賑やかな慶子さんの部屋が、今日はひどく静かだった。
こんなに静かな部屋にいると、忙しかった頃の自分が不思議と懐かしくなった。毎朝ギリギリに起きて満員電車に揺られ、昼食も取れず夜遅くまで働く。そんな毎日が嫌で「猫になりたい」と思っていたのに、いざ猫になってみると「暇」と「静寂」がこれほど苦痛なものだとは思わなかった。
あの忙しさの中に、吾輩の人生はあったのだ。
猫になってから四日目の今日、体の痛みがひどくなるにつれ、不思議と妻のことばかり頭に浮かぶようになってきた。
猫の鼻は敏感だ。人間だった頃には気づかなかった、あの匂いを今は感じることができる。
妻がそばに来ると、いつも同じ匂いがした。洗剤の清潔な香りに、ほんのわずかに混じる台所の油の匂い。それから、吾輩には名前のわからない、ただ「玲子の匂い」としか言いようのない、温かいもの。
あの匂いに、吾輩は三十年近く包まれて生きていた。
痛みが来ては引き、来ては引く。その合間に、記憶だけが続いた。
それからさらに数年が経ち、母が施設に入ることになった。
施設を訪れると、妻はいつも葉子の部屋の空気を入れ換え、枕元を整え、乱れた髪を小さなブラシで丁寧に梳かした。その時の妻の表情を、吾輩は一度しか見たことがない。慈しむような、それでいてどこか静かに覚悟を決めたような顔だった。吾輩には、決してできない顔だった。
父と母が「友達や周囲の人を明るくするように」と願いをこめてつけた名前、友明。
だが本当に、周りの人を明るく照らし続けていたのは、妻だった。吾輩はその光の恩恵を、ただ受け取るばかりだった。
吾輩は妻に、何を返せただろうか。
何十年も、その問いから目を逸らし続けていた。
猫の吾輩は床に伏せたまま、そんなことをぼんやりと思っていた。背中の奥で、重い痛みが波のように来ては引いていた。体を動かすことも、声を出すことも、もうほとんどできなかった。
それでも、この痛みの中でだけ、はっきり見えてくるものがあった。
吾輩の人生の最も大きな部分は、妻の心の中にあった。吾輩が気づかないまま、ずっとそこにあった。
午後四時を少しまわった頃に、美容院と高島屋に行っていた慶子さんが帰ってきた。
慶子さんが吾輩の様子に気付き、背中を優しく撫でながら心配そうに見つめた。
「タロウ、大丈夫?そう言えばちょっと前から、具合が悪いみたいね」
キャットフードにも全く手を付けていないことに気づいた慶子さんは、しばらく吾輩の側を離れなかった。
しばらくして慶子さんはキッチンで旦那の夕食の支度をしながら、独り言のようにこう言った。
「最近夫に冷たすぎるかしら。夫も会社でずっと忙しそうにしてるし、今日だってこうして休みの日も働いてるしね。せっかくデパートに行ってきたんだから、デパ地下で美味しそうなお弁当でも買ってきてあげれば良かったのに。すっかり忘れて駅前のスーパーの割引シールが付いてるお弁当にしちゃった。シールくらい剥がしとかないと」
そう言いながら、赤い割引シールを剥がしていた。
赤い割引シールが、慶子さんの指の先でくるくると丸まった。
吾輩は、その後ろ姿をただじっと見ていた。
夜遅く、旦那が帰ってきた。
「慶子、明日も予定通り休日出勤するから。それから明日も多分遅くなる。十月初めに新しく切り替わった人事システムでトラブルが多発していて、人事評価の作業が中々進まないんだ」
「あら、そう」
短い返事だった。二人の間に、しばらく沈黙が続いた。
低くて、少し急いているような、それでいてどこか落ち着きのある声。
猫になって四日間、この声を聞くたびに、何かが喉もとまでせり上がってきた。牧場の月夜に思い出した兄の声と、底辺の夜に電話で聞いた兄の声。その声と、この旦那の声が、どこかで重なっていた。
だがそれ以上のことがどうしても思い出せないまま、吾輩はまた体の痛みに引き戻された。
それからしばらくして、慶子さんの足音が廊下を近づいてきた。慶子さんが部屋に入ってきた。今夜は缶チューハイを持っていた。昨夜とは違い、少しだけ表情が和らいでいた。
缶チューハイから、シチリア産レモンの柑橘の香りが、かすかに漂った。吾輩はその匂いを嗅ぎながら、ゆっくりと目を閉じた。
猫になって最初の夜、慶子さんが缶チューハイを片手に、職場では見せたことのない顔で、とりとめもなく話しかけてくれた夜のことを思い出した。あの夜の慶子さんは、上機嫌で、お酒の香りがして、長い髪がとても綺麗だった。
その笑顔を、吾輩はどこかで見たことがある気がしてならなかった。ずっと前から、何十年も前から知っているような、そんな気がした。
だがそれが一体いつのことなのか、どうしても思い出せなかった。
慶子さんの缶チューハイが空になり、やがて慶子さんの寝息が聞こえ始めた。
カーテンの隙間から、月の光がほそく差し込んでいた。空になった缶のブルーのラインが、その光をわずかに受けて、静かに光っていた。慶子さんの穏やかな寝顔が、その淡い光の中にあった。
夜中に何度も背中の激痛で目が覚め、そのたびにじっと耐えた。痛みの波が引くたびに、その光の中の慶子さんの顔を見た。それだけで、もう少し耐えられた。
吾輩にはもう、あまり時間が残っていないのかも知れなかった。
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そして翌朝、吾輩は動物病院のベッドの上で目を覚ますことになる。 (第16話「走馬灯」へつづく)