狐の嫁入り
目を閉じて、君はとんだ。
大きな太陽に口づけをするようだった。
永遠とも言えるような刹那、君は消えた。
空は明るかったのに雨が降った。
確かに君はとんだ。
その後のことは何も覚えていない。
夏だった。空は青く、太陽は赤く燃えていた。
雨は急に激しさを増した。
あれが10年前なのか、はたまた昨日のことなのかはっきりしない。
あの日のことは覚えているようで朧げで、君は友のようで恋人のようだった。
当時、LGBTのような概念は普及していなかった。私たちの住む田舎ではまだ風当たりが強いままである。
実は君があのあとどうなったのか、定かではない。
君の家族はいつのまにか、どこかに引っ越していた。
君のことは知っているが、家族のことはよく知らなかったのだ。
もはや、あの記憶が本物であるのか、君が本当に存在したのかさえ、私には確かめるすべがない。学校のアルバムをめくっても、君の名前はない。
君と初めて会ったのはバス停だった。君は私とは違う学校に通っていた。その制服は何だか荘厳で高そうだった。
私たちは、いつも他愛のない話をした。互いを深く探ることはなかった。その距離感が気持ちよかった。
唯一あるファミレスではなく、寂れた喫茶店でよくお茶をした。
私たちの世界はあまりにも小さく脆かった。
君は自転車に乗れなかった。私の背中に捕まって移動するとき君はいつも楽しそうだった。
あの日私たちは1日に3本しかないバスで山の上の限界集落にいった。
廃校が入れるようになっていて、中には当時の面影が残され、地域の歴史に関する展示などがあった。
君はサリンジャーを読んでいた。綺麗な服を着て、寂れた教室で小説をめくる君は何処か浮世離れしたような美しさがあった。
私たちは、そのあと川や森を歩いた。丸太で作られた橋の上で君ははしゃいでいた。川の水は冷たく、木陰が涼しかった。
石積の崩れた神社、道端に放置された謎のシビック、そんなものが何故か記憶に残っている。
疲れた私は神社の手頃な岩に座った。
君はまだ辺りを散策していた。
神社の裏に湧き水を見つけて君は飲んだ。私は少し躊躇した。
今日私はその湧き水を探しにやってきた。
バスは1日3本しかない。冷房が効きすぎていた。
窓の外を田んぼが流れていった。稲はもう穂をつけていた。お盆だった。
きっかけはたいしたことではなかった。誰かにとってもどうでもいいようなことで、私は10年ぶりにバスの時刻を調べた。
終点で降りたのは私だけだった。
廃校は観光スポットになっていた。入口に手書きの看板があって、駐車場には県外ナンバーの車が数台止まっていた。中から子供の声がした。あの教室に、知らない子供たちがいる。
私は入らなかった。
舗装されていない道を山のほうへ歩いた。蝉が鳴いていた。日差しは重く、影は濃かった。
川沿いの道に差し掛かったとき、丸太の橋がなかった。きれいに、なかった。対岸に渡るコンクリートの橋が新しく架かっていた。君がはしゃいでいたあの橋は、もうどこにもなかった。
シビックはまだあった。ツタが窓まで這い上がっていた。
神社の石積は直っていた。崩れていた記憶があるのに、きれいに積み直されていた。誰かが手を入れたのだ。私の知らない誰かが。
人はいなかった。
裏に回った。湧き水があるはずだった。君が飲んで、私が躊躇った、あの水が。
あった。
私はしばらくそこに立っていた。水は今日も湧いていた。夏の光の中で、細く、静かに。
水は冷たかった。
躊躇わなかった。手のひらに受けて、飲んだ。
10年越しに私の喉を通ったものは甘くも苦くもなかった。ただ冷たかった。
神社の周りを歩いた。君がそうしたように。木陰に入ると蝉の声が遠くなった。苔が濃かった。
見つけたのは、偶然だった。
崖だった。高くはないが、低くもなかった。眼下に岩があった。夏草が揺れていた。
私は長いことそこに立っていた。
彼女はその縁に立っていた。風が吹いた。蝉が鳴いていた。夏の光は変わらず重く、影は濃かった。
彼女は目を閉じた。