
【短編小説】本日会社は平日休暇につき
この前の金曜日は会社の平日休暇だった。
せっかくの平日だ。昼間に誰かと会おうと思っていた。
水曜日の夜、マナトに連絡してみたものの、その日は東京にいないという。あっさり断られた。
実はその少し前、サナから久しぶりに「会わない?」と連絡が来ていた。けれど、せっかくなら久しぶりにマナトに会いたいと思い、返事を保留にしていた。
結局、金曜日はサナと会うことになった。
木曜日の夜。
ジムでパーソナルトレーニングを終え、普段ならそのまま帰って寝るだけなのだが、その日はどうにも空腹が収まらなかった。
消化のいいものでも食べようと思い、スーパーで豆腐を買う。
そこで、ついビールも手に取ってしまった。
ジムの日は飲まない。
そんな決まりを、自分であっさり破った。
豆腐をつまみにビールを飲み始めると完全にスイッチが入った。
翌日は休みだ。
そう自分に言い訳をして、冷蔵庫に半分ほど残っていた赤ワインまで飲み干してしまった。
翌朝、六時ごろ目が覚めた。
ワインが残っていて身体が重い。
その日はビン・缶・ペットボトルの回収日だったが、「まだそんなに溜まっていないだろう」「少しくらい寝ても家事を済ませる時間はある」と自分に言い聞かせ、もう一度布団に潜り込んだ。
次に目を覚ましたのは九時だった。
思っていたよりゴミは多かった。
もちろん回収は終わっている。
仕方なくペットボトルを潰して場所を空け、一週間乗り切ることにした。
洗濯を済ませ、靴を磨く。
そのくらい終えたところで、伸びてきたツーブロックが気になった。
僕は数か月に一度、美容室でパーマとカットをしてもらう。その間、ツーブロックの部分だけは二、三週間に一度、自分でバリカンを入れている。
正直、面倒ではある。
でも、人に会う日くらいは整えておこうと思えた。
三ミリで刈り終え、鏡の前で頭を撫でたところで、サナからメッセージが届いた。
「今日は姪っ子の運動会だったんだけど、このあとみんなで食事に行くことになっちゃって。また別の日にしよう!」
せっかくの予定が、ぽっかりと消えた。
これから誰かを誘ったところで、一、二時間後に会える人なんていないだろう。
そう思ったとき、欧州出張から戻って以来、首と肩の痛みが続いていたことを思い出した。
整体に行こう。
週末より平日の昼間の方が空いている。
そう思い、その場で予約を入れた。
整体院は思ったとおり空いていた。
受付を済ませて待っていると、名前を呼ばれた。
振り向くと、担当はミサキという女性だった。
落ち着いた声で、「こちらへどうぞ」と微笑む。
どこかで見たことがあるような気がした。
施術室へ向かう途中、その正体に気づく。
大学時代、同じゼミだったカスミに雰囲気によく似ていた。
よく話す仲ではあったけれど、二人で遊びに行くほど親しかったわけではない。
それでも、笑ったときに少しだけ右の口角が上がるところや、柔らかな話し方がよく似ていた。
そんな記憶が、不意に蘇った。
「かなり張ってますね。」
そう言うと、ミサキは見た目からは想像できない力で背中を押し始めた。
「痛っ……。」
思わず声が漏れる。
「皆さん、最初はそう言います。」
笑いながら、さらに背骨に指が食い込ませた。
痛い。
でも、嫌な痛みではなかった。
固まったものを少しずつ剥がしていくような痛みだった。
途中で話しかけられても、「うーん」と唸るくらいしか返事ができない。
施術が終わるころには、身体が少し軽くなっていた。
「あと二、三回来られると、もっと楽になりますよ。」
そう言って見送られた頃には、時計は四時半を回っていた。
予定のない平日の夕方。
まだ帰るには少し早い。
ふと思い立って、立教大学へ向かった。
キャンパスに入るのは卒業以来だった。
クリスマスの時期には、正門のヒマラヤスギを見に来たことがある。
前の恋人とも、その前の恋人とも。
でも、校内を歩くのは本当に久しぶりだった。
二十代前半の学生ばかりの中を、アラフォーの男が歩いていて浮かないだろうか。
そんなことを考えながらも、そのまま中へ入っていく。
ちょうど講義中だったらしく、人影はまばらだった。
芝生ではノートパソコンを囲む学生がいた。
昼寝をしている学生もいる。
時間だけが、ゆっくり流れていた。
彼らが僕をどう見たかは分からない。
でも、自分ではちゃんと風景に溶け込めていたと思うことにした。
学生の頃、もう少し何かに夢中になっていたら。
今より少しは賢くなっていただろうか。
そんなことを考えながらキャンパスを歩いた。
一周すると急に空腹を覚えた。
朝食べたハムサンド以来、何も口にしていない。
そういえば、よく立ち食いそばチェーンの池袋店限定メニューがあったことを思い出した。
「池袋オールスター」。
名前だけはずっと気になっていた。
天ぷらが全部乗った豪華なそばだった。
僕はこのそばチェーンが好きだ。
武蔵小杉駅では、時間がないときによく食べる。
だから少し期待していた。
でも、池袋店の天ぷらは驚くほど乾いていた。
話のネタにはなった。
食べ終わると、そのまま無印良品へ向かった。
最近、部屋をできるだけシンプルにしようと思っている。
不揃いだったグラスを全部処分したので、新しいものを揃えたかった。
ところが目当てのグラスは在庫切れだった。
仕方がない。
しばらくは、小さなグラス一つで暮らすことにした。
帰りの副都心線は通勤急行だった。
渋谷から特急になる。
都立大学は通過してしまう。
いつもなら渋谷で乗り換えるところだが、その日はそのまま自由が丘まで乗った。
今日は少し違う一日だった。
帰り道くらい、いつもと違ってもいい。
自由が丘から歩いて帰ることにした。
家に着くころには足が重くなっていた。
前日のジムに加えて、今日は思った以上によく歩いた。
ソファに座ると、そのまま眠ってしまいたい衝動に駆られる。
でも今寝たら、この休暇は終わってしまう。
夜も眠れなくなる気がした。
眠気をごまかすようにアマプラで映画を一本観る。
見終わると二十時を少し過ぎていた。
先月の欧州出張で買ってきたアルトビールを一本開ける。
グラスに注ぐと、香ばしい麦の香りがゆっくり立ちのぼった。
軽く夕食を済ませながら、ようやく一日が落ち着いてきた気がした。
金曜日も、もう終わる。
そう思った、そのときだった。
ふと、以前よく通っていた立ち飲みバーのことを思い出した。
少し前にInstagramで「イチローズモルトあります」と投稿していた。
そういえば、まだ飲みに行っていない。
時計を見ると二十三時を回っていた。
外へ出る。
半袖では少し肌寒い。
でも歩き始めると、すぐ身体が温まった。
店内は金曜日らしく賑わっていた。
空いていたのは入口近く。
ウイスキー棚の前だった。
僕はこの場所が好きだった。
マスターにイチローズモルトのリーフラベル三種類を飲み比べたいと伝える。
ほどなくして、三つのグラスが目の前に並んだ。
香りを確かめながらゆっくり飲んでいると、三人組が隣へやってきた。
男が二人。
女が一人。
楽しそうな笑い声が店の空気によく馴染んでいた。
どうやら女性の誕生日らしい。
小柄で、よく笑う人だった。
落ち着いた雰囲気があって、きっと僕と同じくらいの年齢なんだろうと思った。
笑うたびに見える八重歯が、不思議なくらい無邪気だった。
僕の隣に立った男は、とにかくナンパの話ばかりしていた。
でも嫌味がない。
武勇伝というより、生き方そのものだった。
呼吸をするようにナンパする男。
そんな表現が一番しっくりきた。
世の中には、まだこういう人がいるらしい。
しばらくすると、その男が僕のグラスを見て話しかけてきた。
「それ、全部違うウイスキーですか?」
「イチローズモルトです。三種類飲み比べてます。」
すると女性が笑いながら言った。
「違いって分かるものなんですか?」
「それを確かめるために飲んでるんでしょ。」
もう一人の男がすかさず突っ込む。
僕も思わず笑った。
そこからは自然だった。
誰かが話し始める。
誰かが笑う。
また別の話になる。
そんなことを繰り返しているうちに、いつの間にか僕もその輪の中にいた。
女性はユカといった。
あと少しで誕生日だった。
零時を回る。
みんなで「おめでとう」と乾杯する。
タクミが笑いながら言った。
「俺たちももう四十過ぎだけど、こういう日くらい騒いでもいいでしょ。」
その言葉がおかしくて、みんなで笑った。
若さとは少し違う。
年齢を重ねた人たちだけが持っている軽やかさだった。
時計を見ると二時を回っていた。
閉店の時間だった。
帰ろうとすると、トモヤが言った。
「明日、友達のイベントがあるんだけど。」
ユカを見る。
「空いてるでしょ?」
「たぶん。」
「じゃあ、彼も。」
僕の方を見る。
土曜日は実家へ行く予定だった。
でも途中で帰ればいい。
「空いてます。」
そう答えると、
「じゃあ連絡先交換しておいて。」
トモヤが笑った。
イベントの連絡なら、トモヤが送れば済む話だった。
それでも僕とユカが連絡先を交換する理由を作ったようだった。
そんな気がした。
店を出る。
夜風が少し心地よかった。
家へ帰り、シャワーを浴びる。
ベッドに入る。
いつもなら三秒で眠る。
でも、その日は少しだけ考えていた。
昨年十月に自然消滅した元恋人の私物を、先月ようやく送り返した。
長く胸の奥に沈んでいた記憶に、ようやく静かにけじめをつけられた気がした。
これからは、その空いた場所に新しい風を通したい。
前に進みたい。
そう思った。
今日の出来事は、新しい流れが入ってきた合図だったのかもしれない。
普段なら笑ってしまうような考えだった。
でも、その夜だけは少しだけ信じてみてもいい気がした。
今晩たまたま出会って、愉快に飲んだ少し同世代の彼らと明日の晩また飲む。
そんな状況なら、そう思ってしまうのも不思議ではない。
そのまま眠りに落ちた。
振り返れば、あの日はただの平日休暇だった。
けれど、止まっていた何かは、あの日を境に少しだけ動き始めたような気がしている。