「クズ夫と愛人にざまぁを。嫁が選んだのは“義父”でした」28話 終幕 完結です
三年が過ぎた。
振り返れば、あっという間だったようにも思う。
診察室を出ると、待合室で待っていた里奈がすぐに近寄ってきた。
「どうでした?」
「ああ。もう仕事を始めても大丈夫だと言われたよ」
「そうですか」
目に見えて安堵した彼女の表情に、正幸は思わず笑みをこぼした。
「ただの風邪だ。普段からよく気をつけていると、医者に褒められたくらいだよ」
「よかった……」
「里奈さんのおかげだよ。君が気を配ってくれるから、医者にも褒められた」
里奈は小さく首を振った。
正幸自身が摂生に努めていることを知っているのだ。
「今日は、大根の煮物にしましょうか」
頷きながら、正幸は会計を待つために椅子へ腰を下ろした。
「こんにちは。喉の具合はどうですか?」
顔なじみの看護師に声をかけられ、正幸は穏やかに会釈を返す。
「ええ。おかげさまで、今日で通院も終わりです」
「それ、奥様のおかげですね」
受付へと向かう里奈の背中を見送って、看護師が微笑んだ。
正幸は、ただ曖昧に笑っただけで返事はしなかった。
妻ではない。息子の嫁だった女性だ。
わざわざ訂正しないのは、説明が面倒だったから。そして、おそらく彼女もまた、外で「妻」と間違われることに無頓着だろうと思ったからだ。
そんな些細なことを気にする余裕など、これまでの二人にはなかった。
以前、息子との離婚届を出したらどうかと勧めたことがあった。
そのとき返ってきた言葉に、正幸は今も答えを見つけられずにいる。
『――ここに住む理由が、なくなってしまいますから』
追い出すつもりなどない。そう言おうとして、彼女の顔を見たとき。
笑われてしまった。
桜川がこの件をどう着地させるつもりなのか、正幸は、あえて問わなかった。
知るのが怖かったわけではない。
必要がないと思っていた。
それほどまでに、今の生活は満たされていたのだ。
三年という歳月は、過ぎてみれば、あっという間だ。
だからこそ、桜川から「一度会いたい」と連絡が来たときは驚いた。
今の生活を壊されたくないと思ってしまった。
だが、結局は……。
電話越しに聞こえてきた桜川の声は、以前と変わらず落ち着いていたが、その奥にある温度は感じ取れない。
「優一さんは、こちらでの生活に満足しています」
淡々とした報告。
「日本に残してきた人のことをどう思っているのか、何度か探ってみましたが……最初は、聞きたくない、知りたくないと」
そこで一度、言葉が途切れる。
正幸は何も言わず、ただ耳を傾けていた。
「ただ――最近になって、少し様子が変わりました」
自分たちが築いてきたものに、外から手が触れようとしている。
そんな予感だ、桜川は、続けた。
「ですが、俺があの男を日本に戻すつもりはありません。絶対にです」
静かな声、断言するような意思を感じた。
いや、それだけではない、言葉の端に滲むものを正幸は感じた。
(……恨んでいる)
そう思った。
優一に対してだ、それも、かなり深く。
「だから、言ってやった」
桜川は、感情を抑えたまま言った。
だが、それが言葉の重さを際立たせる。
「日本に残してきた人たちは――もう、それぞれの時間を歩いている、と」
一瞬、沈黙が落ちた。
具体的なことは何一つ語られていない。
だが、その言葉の中に含まれている意味は、あまりにも明白だった。
過去の延長ではない、別の時間。
同じ場所に戻ることを前提としない、穏やかな日常。
そこに優一の居場所がないことだけは、はっきりと伝わる言い方だった。
正幸は、目を閉じた。優一は何を思ったか。
胸の奥にあったわずかな緊張が、ゆっくりとほどけていくのを感じた。
(……それでいい)
誰かを否定するわけでも、奪うわけでもない。
ただ、それぞれが別の場所で生きている。
それだけの話だ。
「そうか、君が、どう伝えたのかは、聞かない。ただ――」
言葉を選ぶように、少しだけ間を置く。
「それで十分だと思っている」
静かな声だ。
「私は今、ようやく手に入れたこの幸福を、手放すつもりはないんだ」
それ以上は言わなかった。
過去を否定しないまま、そこに戻らないという選択を選んだ。
誰にも宣言せず、ただ続けていく日々。
受話器の向こうで、桜川は何も言わなかった。
だが、それで会話は終わっていた。
すでに必要なことは、すべて伝わっている。
通話を切ったあと、正幸はしばらくその場に立ち尽くした。
部屋の奥から、かすかな生活音が聞こえる。
振り返れば、そこには日常がある。
特別なものではないが、失いたくないものだ。
正幸は何も言わず、その音のするほうへ歩き出した。
それだけで、十分だった。
その日の夕食時、正幸は里奈に静かに声をかけた。
「映画を観ないか」
里奈は意外そうに目を瞬かせ、壁の時計を振り返った。
「今から映画館ですか? でも最終の上映にも間に合いませんよ」
正幸は首を振った。
「見せたいものがある」
部屋の扉を開けた瞬間、里奈は小さく息を呑んだ。
白い壁、据え付けられたプロジェクターとスピーカー。
「映画館に行けない日もあるだろう。天気が悪い日も、外に出るのが億劫な夜も。そんなときでも、ここでならいつでも観られる」
レンズから放たれた一筋の光が、暗がりの部屋を青白く切り裂く。
「君は、映画が好きだろう?」
正幸は、隣に立つ里奈の横顔を見つめた。
「これからも」
最後まで言葉にしなかった。
二人きりの生活を続けていく中、思わず言おうとしたのだ。
そのたびに、躊躇ってしまった。
だが、桜川の電話、会話で気持ちの揺らぎ、いや背中を押されてしまった。
「結婚」という形でもなく、「親子」という絆でもない。
里奈は答えなかった。もしかしたら驚きのあまり声が出なかったのかもしれない。
いや、言葉にしなくても伝わると思っているのか。
暗がりのなかで正幸の手をそっと握り返した。
指先の熱が、どんな誓いの言葉よりも饒舌に、彼女の覚悟を物語っていた。