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【小説】いただきますを、あきらめない。

    あらすじ
    葉山みなとは、病気の人向けの冷凍宅配食をつくる会社「からだ想い食堂」で働く、入社三年目の管理栄養士。

    食事を届けるだけではない。毎日かかってくる食事や栄養に関する相談電話に応えることも、彼女たち管理栄養士の大切な仕事だった。そんな仕事にもすっかり慣れ、一人前になったつもりでいた。

    けれど、ある日の失敗をきっかけに、自分が本当は何も分かっていなかったことを思い知る。憧れの先輩・香川のように、お客様の心に寄り添えない自分。

    理想と現実の間で揺れながら、みなとは、電話の向こうの一人の老人と、その孫娘との出会いを通じて、少しずつ「食で人を支える」ことの本当の意味を知っていく。

    やがて商品開発にも挑戦し、失敗を重ねながら、彼女は自分だけの管理栄養士の道を見つけていく。

    病気で「食べる楽しみ」を失いかけた人に、もう一度その喜びを届けたい――これは、一人の若い管理栄養士が、本物のプロになるまでの、成長の物語。


    第一章 三年目の私

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    食事や栄養の悩みを抱えたお客様から、今日も一本の電話が入る。

    葉山みなとは、二回目のコールで受話器を取った。
    三年ですっかり身についた、反射のような動きだった。

    「お電話ありがとうございます。からだ想い食堂、管理栄養士の葉山です」

    相手は、常連の女性だった。腎臓病の母親のために、いつも食事を注文している五十代の娘さん。

    みなとは、その人のことを覚えていた。
    声を聞いただけで、名前がすぐに出てくる。

    「田中様、いつもありがとうございます。
    お母様、その後いかがですか」

    我ながらスムーズだと、みなとは思った。
    入社したての頃は、電話を取るだけで心臓が口から飛び出しそうだった。

    相手の質問に、しどろもどろで何度も先輩に代わってもらった。
    それが今では、常連さんの声を聞き分けられる。
    献立の質問にも、ほとんどよどみなく答えられる。

    ―私も、成長したな。

    三年目の春。みなとは、少しだけ自分の仕事に自信を持ちはじめていた。

    からだ想い食堂は、病気を持つ人のための、冷凍宅配食をつくる会社だ。

    腎臓病、糖尿病、塩分制限、噛む力が弱くなった人のための、やわらか食。

    医師が食事療法を指示しても、多くの家庭ではそれを毎日の献立に落とし込めない。

    塩分を何グラムに抑え、たんぱく質を何グラムに調整し、それでいて食べたいと思える味にする。

    その、気の遠くなるような設計を、二十人ほどの管理栄養士が一食ずつ担っている。みなとも、その一人だった。

    この会社は、新卒しか採らない。だから、社員はみんな若い。

    平均年齢は、二十六歳。

    みなとの周りも、同期や一つ二つ上の先輩ばかりだ。

    その中で、みなとは、三年目という絶妙な立ち位置にいた。

    新人ではない。だが、ベテランでもない。

    少し慣れて、少し天狗になりかけている。そんな時期だった。

    電話を切ったあと、みなとは、隣の席の同期に小声で言った。

    「田中様、今日も、長かったね」

    「お疲れ」
    同期が、笑った。

    「みなと、ほんと、常連さんの対応、うまくなったよね」

    「そう?」
    みなとは、まんざらでもなかった。

    「まあ、三年目だからね」

    そのカスタマーサポートの島の少し離れた席に、香川千尋がいた。

    入社七年目。この若い会社では、もうベテランの部類だ。
    時短勤務をしながら、CS全体をまとめている。
    みなとにとって、香川は憧れの先輩だった。

    香川の電話は、みなとの電話とは、どこか違った。

    みなとが、質問に的確に答えることを目指しているとすれば、

    香川は答えのその先を、見ていた。

    同じ献立の説明でも、香川がするとお客様の声が電話越しでも分かるくらい、和らいでいく。

    相談が終わる頃には、お客様はみんな少し元気になっている。

    ―どうやったら、あんなふうになれるんだろう。

    みなとは、時々、香川の電話を盗み聞きしては、そう思った。

    でも、三年目の今の自分も、そんなに悪くはない。そう、思っていた。

    みなとが、管理栄養士を志したのには理由があった。

    中学生の頃、祖母が糖尿病を患った。食いしん坊で、料理上手だった祖母。

    それが病気のあとは、食べたいものも食べられず、みるみる元気をなくしていった。

    「もう、おいしいものは食べられないんだね」

    台所で寂しそうに笑った祖母の顔を、みなとは今でも覚えている。

    あのとき、幼いみなとは、思ったのだ。

    病気になっても、おいしく食べられるごはんを作れる人になりたいと。

    それが、管理栄養士を目指した原点だった。

    だから、みなとはこの会社を選んだ。
    病気の人のための食事を作るこの会社を。

    就職活動の面接で、みなとは祖母のことを話した。

    「病気の人にも、食べる喜びを届けたいんです」。

    その、まっすぐな想いを買われてみなとは、採用された。

    なのにと、みなとは時々思う。

    いつの間にか、私は、あの初心を忘れかけていないだろうか。

    毎日、たくさんの電話をこなして。質問に答えて。数字を説明して。

    それは、確かに管理栄養士の仕事だ。

    でも、あの祖母の寂しそうな笑顔に応えられる仕事を、
    私は、本当にできているだろうか。

    その、問いへの答えをみなとは、まだ持っていなかった。
    いや、正確にはその問いを真剣に考えることから、
    みなとは無意識に目をそらしていた。

    三年目の慣れが、みなとの心に薄い膜を張っていた。

    その日の午後だった。
    一本の電話が、みなとのその根拠のない自信を粉々に砕いた。

    電話の相手は、初めてのお客様だった。

    七十代の男性。少しぶっきらぼうな話し方だった。

    腎臓病と診断されたばかりで、これから食事療法を始めるのだという。
    みなとは、いつものようにてきぱきと対応した。

    腎臓病の食事の基本。
    塩分とたんぱく質の制限。
    うちのコースの種類。
    数値の目安。

    みなとは、自分の知識を次々と説明した。
    完璧な説明だったと思った。

    だが、電話の向こうの男性の反応は鈍かった。

    「……で、結局、俺は何を食えばいいんだ」

    男性は、苛立ったように言った。

    「ですから」
    みなとは、少し焦った。

    「たんぱく質を一日何グラムに抑えて、塩分は―」

    男性は遮った。

    「俺は、女房に、先立たれてな。
    この歳で、初めて自分で飯のことを考えなきゃならなくなったんだ。
    数字だグラムだって言われても、頭に入らん」
     
    みなとは、言葉に詰まった。

    「あんた、若いだろう」

    男性は続けた。

    「若い人には分からんだろうな。
    歳を取って、一人になって、病気になって、
    飯まで制限される。この気持ちは」

    みなとは、何も言えなかった。

    男性は、「もういい」と言って、電話を切ってしまった。

    ツー、ツー、という切断音が、みなとの耳に残った。
    みなとは、しばらく、受話器を握ったまま動けなかった。
     
    ―何が、いけなかったんだろう。

    説明は完璧だった。知識も間違っていない。
    なのに、あの男性は怒って電話を切った。
    みなとの言葉は、あの人に、何一つ届いていなかった。

    その様子を、香川が見ていた。
    香川は、みなとの席まで来て静かに言った。

    「難しい、お客様だった?」
    「……はい」
    みなとはうつむいた。

    「腎臓病の男性の方で。私、ちゃんと説明したんです。
    塩分のこととか、たんぱく質のこととか。全部、正しく。
    なのに『分からん』って、怒られて、切られちゃって」

    香川は、みなとの、隣に座った。

    「みなとちゃんは、その方に、何を伝えたかったの?」
    香川は尋ねた。

    「え?」

    「腎臓病の食事の、正しい知識を伝えたかった?」

    「それは……はい」
    みなとは、答えた。

    「だって、それが、私たちの仕事ですよね。正しい食事療法を教える」

    香川は、少し微笑んだ。

    優しいけれど、どこか寂しそうな微笑みだった。

    「その方はね」
    香川は、言った。

    「たぶん、知識が欲しかったんじゃないと思うの」

    「え?」

    「奥様を亡くされて、一人になって、病気になって。

    その方は、きっと不安で心細かった。
    誰かにその不安を分かってほしかった。

    でも、みなとちゃんは、いきなり数字の話を始めた。

    それは正しい。
    正しいんだけど……

    その方が本当に聞いてほしかったことには、
    答えていなかったのかもしれない」


    みなとは、はっとした。
    あの男性の言葉が蘇った。

    「若い人には、分からんだろうな。この気持ちは」

    そうだ。あの人は、気持ちを分かってほしかったんだ。
    私は、それに全然気づかなかった。

    「私……」
    みなとは、声を震わせた。

    「私、三年もやってきて。自分はもう一人前だって思ってました。
    でも、全然分かってなかった。お客様の気持ちなんて何も」

    香川は、みなとの肩にそっと手を置いた。

    「気づけてよかったじゃない」香川は言った。

    「本当に怖いのは、気づかないまま三年目、四年目って進んでいくこと。
    みなとちゃんは、今日、大事なことに気づいた。それは成長よ」

    その日の帰り道。

    みなとは、一人、駅までの道を歩きながら考えていた。

    三年間、自分は何をしてきたんだろう。
    知識を覚えて、質問に答えて。
    それだけだったんじゃないか。
    お客様の顔も気持ちも見ないで。
    ただ、正しいことを言うだけの機械みたいに。

    悔しかった。恥ずかしかった。

    みなとは、ふと祖母のことを思い出した。

    「もう、おいしいものは食べられないんだね」

    あの寂しそうな笑顔。
    私は、あの笑顔に応えたくて、この仕事を選んだはずだった。

    それなのに、今日の私はあの佐藤さんというお客様の寂しさに、まるで気づけなかった。

    数字の話ばかりして、あの人の心を置き去りにした。

    ―私は、いったい、何のために管理栄養士になったんだろう。

    でも、それ以上に、みなとの胸の奥には小さな火が灯っていた。

    もっと、ちゃんとした管理栄養士になりたい。
    香川さんみたいに、お客様の心に寄り添える管理栄養士に。

    知識を伝えるだけじゃなくて、その人の不安に寄り添える管理栄養士に。

    今日、初めてみなとは本気でそう思った。

    三年目の春だった。

    みなとの、本当の意味での管理栄養士としての歩みは、この日のたった一本の失敗した電話から、始まったのだった。


    第二章 寄り添うということ

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    あの失敗の日から、葉山みなとは、変わろうとしていた。
    だが、変わろうと思うことと、実際に変われることは別だった。

    みなとは、電話に出るたびに、意識してお客様の「気持ち」に寄り添おうとした。だが、それがどうにもうまくいかない。

    「お辛いですよね」「ご不安ですよね」と、言葉では寄り添ってみる。

    でも、その言葉は、なんだか上滑りして聞こえた。
    心がこもっていない。自分でも、それが分かった。

    ある日、みなとは思い切って、香川千尋に相談した。

    「香川さん。私、お客様に寄り添おうとしてるんです。でも、うまくいかなくて。
    『お辛いですよね』とか、言ってみるんですけど、なんかわざとらしくて。香川さんはどうやって寄り添ってるんですか」


    香川は、少し考えてから言った。

    「私はね、寄り添おうって思ってないの」

    「え?」
    みなとは、驚いた。

    「思ってない?」

    「うん」
    香川は、微笑んだ。

    「寄り添おうって思うと、なんか上から目線になっちゃう気がして。

    私は、ただそのお客様のことを、知りたいなって思ってるだけ。

    どんな人で、
    どんな暮らしをしてて、
    何に困ってるのか。

    それを知りたい。

    純粋に興味があるっていうか」

    みなとは、香川の言葉を噛みしめた。

    「寄り添う、じゃなくて……知りたい」

    「そう」
    香川は、うなずいた。

    「たとえば、この前の腎臓病の男性の方。
    あの方がどんな暮らしをしてるか。
    奥様とどんな思い出があるのか。
    今、何をいちばん寂しく思ってるのか。
    それを、知りたいって思って聞く。
    そうすると、自然と言葉が変わってくるの。
    マニュアルの『お辛いですよね』じゃなくて、その人だけの言葉が」

    みなとは、その言葉に、目が覚めるような思いがした。

    ―そうか。寄り添うってテクニックじゃないんだ。
    相手を知りたいって思う、その気持ちなんだ。

    みなとは、あの腎臓病の男性のことが、ずっと気になっていた。

    電話を切られてから二週間。あの人は、結局注文をしなかった。
    うちの、食事を頼まなかった。みなとの対応が悪かったから。
    そう思うと、みなとはいても立ってもいられなかった。

    みなとは、香川に相談した。

    「あの腎臓病の男性の方。もう一度、電話してもいいでしょうか」
    みなとは言った。

    「注文を取るためじゃなくて。ただ、あの人のことが心配で。ちゃんと食べてるのかなって」
    香川は、みなとをじっと見た。

    そして、優しく言った。

    「行ってらっしゃい」

    みなとは、記録を探した。あの日の、男性の電話番号は残っていた。

    みなとは、深呼吸をして番号を押した。
    しばらくコールが続いた。出ないかもしれないと思った、その時。

    「……はい」

    あの、ぶっきらぼうな声だった。

    「あの」
    みなとは、緊張しながら言った。

    「からだ想い食堂の葉山です。二週間前、お電話をいただいた……」

    沈黙があった。

    「ああ」
    男性は、言った。

    「あの、若い、栄養士さんか」

    「はい」と、みなとは言った。

    「あの日は、本当にすみませんでした。
    私、あなたのお気持ちを考えずに、数字の話ばかりしてしまって。
    ずっと、気になっていて。
    お食事、その後どうされてるかなと思って、お電話しました」

    また、沈黙があった。

    みなとは、心臓がどきどきした。
    また、怒られるかもしれない。切られるかもしれない。

    だが、男性の次の言葉は、意外なものだった。

    「……気にかけて、くれたのか」
    男性は、少し驚いたように言った。

    「わざわざ」
    「はい」
    みなとは、言った。

    「あの余計なお世話かもしれませんけど。
    おひとりで食事療法を始めるのは、大変じゃないですか」

    「大変だよ」
    男性はため息をついた。

    「スーパーで食品の成分表示を見てもな。塩分がどうとか、たんぱく質がどうとか。よく、分からん。

    適当に買ってきて、適当に食ってる。医者には怒られるがな」


    みなとは、その、男性の暮らしを思い浮かべた。

    一人で、スーパーの棚の前で、途方に暮れている老人の後ろ姿を。

    奥さんがいた頃は、きっと何も考えずに食べられた。
    それが、今は一食一食が戦いなのだ。

    「あの」みなとは、言った。

    「よかったら、少しお話聞かせてもらえませんか。

    お仕事の電話じゃなくて。
    あなたが普段どんなものを召し上がってるのか。
    何がお好きなのか。それを教えてください」

    「なんで、そんなこと、聞くんだ」
    「知りたいんです」
    みなとは、言った。

    香川の言葉を思い出しながら。

    「あなたのことを、知りたいんです。そうしたら、あなたに合った食事のこと、一緒に考えられるかもしれないから」
     
    それから、みなとと、その男性、佐藤さんとの長い電話が始まった。

    佐藤さんは、少しずつ話してくれた。

    若い頃は、鉄工所で働いていたこと。
    奥さんとは五十年連れ添ったこと。
    奥さんの作る肉じゃがが大好きだったこと。
    二年前に奥さんを亡くしてから、一人で暮らしていること。
    子どもは遠くにいてあまり会えないこと。

    みなとは、ただ聞いた。
    相槌を打ちながら。
    時々、質問をしながら。
    注文を取ろうとはしなかった。
    ただ、佐藤さんという一人の人を知ろうとした。

    一時間近く話しただろうか。

    最後に、佐藤さんはぽつりと言った。

    「あんた、いい栄養士さんだな」

    みなとの胸が熱くなった。

    「久しぶりに、こんなにしゃべった」佐藤さんは言った。

    「なあ、あんた。あんたの会社の飯、頼んでみようかな。あんたがいる会社なら信用できそうだ」

    「本当ですか」みなとは、思わず声を上げた。

    「ただし」佐藤さんは言った。

    「肉じゃがあるか? 女房の味には負けるだろうが。まあ、我慢して食ってやる」

    みなとは、笑った。泣きそうな笑顔だった。

    「あります」みなとは、言った。

    「塩分を抑えた肉じゃが。腎臓病の方でも召し上がれる肉じゃが。
    うちの開発の人が心を込めて作ったんです。
    きっと、気に入っていただけます」

    電話を、切ったあと。
    みなとは、しばらく席でじっとしていた。

    二週間前、みなとはこの人に電話を切られた。
    自分の言葉が、何一つ届かなくて、打ちのめされた。

    でも、今日は違った。
    今日、みなとは佐藤さんの心に届いた。
    注文を取れたからじゃない。

    佐藤さんの「久しぶりにしゃべった」という、あの言葉。
    「いい栄養士さんだな」という、あの言葉。

    それが、みなとには何より嬉しかった。

    香川が、みなとの席に来た。

    「どうだった?」香川は、尋ねた。
    「香川さん」みなとは、顔をあげた。
    目に、涙がにじんでいた。

    「私、分かった気がします。寄り添うってこういうことなんですね。
    知りたいって思って、聞く。
    そうしたら、いつの間にか、その人とつながってる」


    香川は、優しく微笑んだ。

    「よかったね」香川は、言った。
    「みなとちゃん、いい管理栄養士になるよ」

    みなとは、まだ半人前だった。

    でも、この日、彼女は管理栄養士として、いちばん大切なものの入口に立った。知識でもテクニックでもない。

    目の前の、一人の人を知りたいと思う、その心。
    それが、からだ想い食堂の管理栄養士の原点だった。

    それから、佐藤さんは、からだ想い食堂の常連になった。

    みなとは、時々、佐藤さんと電話で話した。届いた肉じゃがの感想を。

    「女房のには、まだ負けるがな」と憎まれ口を叩きながら、佐藤さんは、それでも毎回完食してくれた。腎臓の数値も、少しずつ安定していった。ある日、佐藤さんはこう言った。

    「あんたと話すようになってから、飯が楽しみになったよ」
    佐藤さんは、言った。

    「女房がいなくなって、飯なんて腹に入ればいいと思ってた。
    でも、あんたが俺の好みを覚えててくれて、
    『今日の、肉じゃが、いかがでした?』なんて聞いてくれる。
    それが、なんだか嬉しくてな」

    みなとは、その言葉に胸が熱くなった。

    私は、この人の数値を下げたわけじゃない。
    病気を治したわけでもない。

    ただ、この人の、毎日の食事を、少しだけ楽しみに変えた。それだけだ。

    でも、その「それだけ」がこんなにも人を元気にする。

    ―これが、私のしたかったことだ。

    中学生の頃、寂しそうに笑った祖母。

    「もう、おいしいものは食べられないんだね」

    あのとき、応えられなかった祖母の言葉に、
    みなとは今、少しだけ応えられた気がした。

    病気になっても。
    歳を取っても。
    食べることは楽しくて、いい。
    おいしいと、笑っていい。

    それを伝えるのが、私の仕事なのだ。
    みなとは、少しずつ自分の原点を取り戻していた。


    第三章 おじいちゃんへ

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    夏が近づいていた。

    葉山みなとは、あの佐藤さんとの電話をきっかけに、少しずつ変わっていった。

    電話を取るとき、みなとはまずその人を知ろうとした。

    どんな暮らしをしているのか。何に困っているのか。何が好きなのか。

    すると不思議なことに、以前よりずっとお客様との会話が弾むようになった。難しい常連さんも、みなとには少しずつ心を開いてくれるようになった。

    そんな、ある日。
    みなとは、一本の電話を取った。

    「お電話ありがとうございます。からだ想い食堂、管理栄養士の葉山です」
     
    返ってきたのは、幼い子どもの声だった。

    「あの……おじいちゃんのごはんのこと、聞きたいんですけど」

    みなとは、少し驚いた。子どもからの電話は珍しい。

    「はい」
    みなとは、優しく言った。

    「おじいちゃんの、ごはんのことね。教えてね。
    あなたは、お名前なんていうの?」

    「……ミク、です」

    その子は、言った。

    「小学四年生です」

    「ミクちゃん」
    みなとは、言った。

    「電話してくれて、ありがとう。おじいちゃんのこと心配なのね」

    「うん」
    ミクは、言った。

    「おじいちゃん、腎臓の病気なの。
    それで、ごはん気をつけなきゃいけなくて。
    パパとママ、お仕事で忙しいから。
    私がおじいちゃんのごはん注文するの」

    みなとは、そのけなげな言葉に胸を打たれた。

    小学四年生の女の子が、共働きの両親に代わって、祖父の食事の世話をしている。そのために、勇気を出して管理栄養士に電話をかけてきた。

    「ミクちゃん、えらいね」
    みなとは、言った。

    「おじいちゃんのために、頑張ってるんだね」

    「えらくないよ」
    ミクは、言った。

    「だっておじいちゃん大好きだもん。
    おじいちゃんに元気でいてほしいから」

    みなとの目に涙がにじんだ。

    この日から、みなとと、ミクちゃんの電話でのやり取りが始まった。

    ミクちゃんは、時々電話をかけてきた。

    「おじいちゃんが、このおかずをいちばん好きって言ってた。」

    「今度、おじいちゃんの誕生日なの、特別なメニューある?」

    「学校で栄養のこと習ったよ。おじいちゃんの腎臓のこと、私分かるようになったんだ。」

    みなとは、その電話をいつも大切にした。

    子ども相手だからと、手を抜くことはなかった。

    むしろ、ミクちゃんがおじいちゃんを想う、
    その気持ちに、正面から応えた。

    難しい栄養の話も、ミクちゃんに分かるようにかみ砕いて説明した。

    ミクちゃんが、電話を切るとき、いつも少し元気になっているのが、
    みなとには、嬉しかった。

    みなとは、ミクちゃんとのやり取りを丁寧に記録に残した。

    この会社には、顧客記録シートというものがある。
    お客様、一人ひとりの「人となり」を書き留めておくシートだ。

    数値や、病状だけでなく、その人がどんな人か、何を大切にしているかをみんなで共有する。

    みなとは、そのシートにミクちゃんとおじいちゃんのことを書いた。

    シートの、いちばん上には「この方について、次に電話する人にいちばん伝えたいこと」という欄がある。みなとは、そこに、こう書いた。

    「電話をくださるのは、小学生のお孫さん(ミクちゃん)です。

    おじいちゃんが大好きで、一生懸命、食事の世話をしています。
    子ども扱いせず、一人の立派な介護者として接してあげてください。

    そして、ミクちゃん自身も、時々不安になります。

    おじいちゃんのことだけでなく、
    ミクちゃんのことも気にかけてあげてください」

    みなとが、そう書いたのには理由があった。
    ある日の電話で、ミクちゃんが、ふとこう漏らしたのだ。

    「私、ちゃんとできてるかな。おじいちゃんのごはん」

    ミクちゃんは、心細そうに言った。

    「もし、私が間違えたら、おじいちゃん病気悪くなっちゃうかな」

    みなとは、その言葉にはっとした。
    ミクちゃんは、けなげに頑張っている。

    でも、まだ、小学四年生の女の子なのだ。その小さな肩に、大好きなおじいちゃんの命がかかっている。

    その、重圧をたった一人で背負っている。

    「ミクちゃん」
    みなとは、優しく言った。

    「大丈夫だよ。ミクちゃんは、間違えてない。
    ミクちゃんが、おじいちゃんのこと、こんなに考えてること。
    それが、いちばんおじいちゃんの体にいいの」

    「本当?」

    「本当」
    みなとは、言った。

    「それにね、ミクちゃんは、一人じゃないよ。
    私たち、からだ想い食堂の、みんながついてるから。
    困ったことがあったら、いつでも電話してね。
    ミクちゃんと一緒に、おじいちゃんのこと考えるから」

    電話の向こうで、ミクちゃんが、少し泣いているような気配がした。

    「……うん」
    ミクちゃんは、言った。

    「ありがとう、お姉さん」

    夏の盛り。

    からだ想い食堂に、一枚のハガキが届いた。

    子どもの字のような、大きくて不揃いな文字だった。

    「おじいちゃんへ。おいしいごはん、ありがとう。またつくってください」

    差出人は、ミクちゃんだった。

    みなとは、そのハガキを手に取って、しばらく見つめていた。

    おじいちゃんへと書いてある。

    会社宛てではなく。
    ミクちゃんは、きっと、からだ想い食堂のごはんを、
    おじいちゃんが作ってくれるごはんみたいに思っているのだ。

    みなとは、そのハガキをオフィスの入口のあの壁に貼った。

    白い壁一面に、お客様からの感謝のハガキが何十枚も貼られている、あの壁。

    みなとが、入社した時からずっとあったあの壁。

    三年間、みなとはその壁を、ただ通り過ぎるだけだった。

    壁に貼られた、一枚一枚がこんなにも重い物語を抱えていることに、気づかないまま。

    でも、今は違う。

    みなとは、ミクちゃんのハガキを貼りながら思った。

    この、一枚のハガキの向こうに、確かに一つの、食卓がある。
    おじいちゃんと、ミクちゃんの食卓が。

    そして、その食卓をからだ想い食堂のごはんが支えている。

    私の仕事が支えている。

    ―私の仕事は、こんなにも大切な仕事なんだ。

    みなとは、初めて心からそう思った。

    その様子を、香川千尋が見ていた。

    「そのハガキ、みなとちゃんの、お客様?」
    香川は尋ねた。

    「はい」みなとはうなずいた。

    「ミクちゃんっていう、小学生の女の子です。
    おじいちゃんのために電話をくれるんです」

    香川は、そのハガキを見て、優しく微笑んだ。

    「みなとちゃん」香川は、言った。

    「あなた、変わったね。この半年で」

    「そうでしょうか」

    「うん」香川は言った。

    「前は、知識を伝える管理栄養士だった。
    でも、今は、人とつながる管理栄養士になった。それはすごいことだよ」

    みなとは、少し照れた。

    「でも、まだ半人前です」みなとは言った。

    「香川さんみたいには、なれてない」

    「そんなこと、ない」香川は、首を振った。

    「私にもできないことが、あなたにはできてる。
    子どものミクちゃんの心に寄り添えること。
    それは、みなとちゃんだからできることよ」

    みなとは、その言葉に勇気をもらった。

    管理栄養士としての道は、まだ始まったばかりだ。

    でも、みなとは少しずつ、自分の居場所を、自分の役割を見つけはじめていた。

    壁のミクちゃんのハガキが、夏の光の中で、静かにそこにあった。


    第四章 開発の扉

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    秋。

    葉山みなとに、転機が訪れた。
    その日、みなとは、開発部の戸倉諒に呼ばれた。

    戸倉諒。三十歳。

    この会社の、商品開発を、引っ張る管理栄養士だ。
    物静かだが、味には誰よりも厳しい。

    カスタマーサポートのみなとたちからは、少し近寄りがたい存在だった。

    何か失敗しただろうか。
    みなとは緊張しながら、開発部の小さな会議スペースに向かった。

    「葉山さん」戸倉は言った。

    「あなたの電話相談の記録を読ませてもらったの」
    「はい」
    みなとは、身構えた。

    「特に、あのミクちゃんの記録。あれは素晴らしいわ」
    戸倉は言った。

    「お客様の人となりを、これだけ深く捉えて、次の人に渡そうとしてる。
    あなたは、いい管理栄養士になったのね」

    みなとは、ほっとすると、同時に驚いた。
    あの、味に厳しいと評判の戸倉さんに、褒められるとは思わなかった。

    「それでね」
    戸倉は、続けた。

    「一つ頼みたいことがあるの。
    うちの開発チームにしばらく入ってみない?」

    「開発チームですか」
    みなとは、目を見開いた。

    「うちの新商品開発には、今、足りないものがあるの」戸倉は、言った。

    「それは、お客様の生の声。私たち開発は、味を作る腕はある。
    でも、厨房にこもりきりで、お客様が実際に何に困ってるか、
    何を食べたいと思ってるか、その生の声をあまり知らない。
    あなたは、カスタマーサポートで、毎日お客様と話してる。
    その声を開発に持ち込んでほしいの」

    みなとは、戸惑った。

    「でも、私、開発なんてやったことないです」
    みなとは言った。

    「戸倉さんの足を引っ張るだけじゃ」

    「最初は、誰でもそう」戸倉は言った。

    「私だってそうだった。やってみないと分からない。
    あなたには、カスタマーサポートで培ったお客様へのまなざしがある。
    それは、開発でも必ず武器になる。挑戦してみない?」

    みなとの、胸が高鳴った。

    怖い。自信もない。でも、その扉の向こうに新しい自分がいるような気がした。

    「……やらせて、ください」
    みなとは、言った。

    だが、開発の現実は、みなとが思っていた以上に厳しかった。

    戸倉は、優しく誘ってくれた。だが、いざ仕事が始まると、その味への厳しさは容赦がなかった。

    みなとは、焦っていろいろなアイデアを出した。カスタマーサポートで、聞いたお客様の声をもとに。

    「もっと味の濃いものが欲しいっていう声が、多いんです」
    「見た目が、もっと華やかだといいって」
    「量が少ないって、言う方も」

    だが、戸倉の反応は、冷たかった。

    「味を、濃く?」
    戸倉は、みなとをまっすぐ見た。

    「うちは、腎臓病の食事よ。塩分を増やせって言うの?
    お客様の体を、どうするつもり?」

    「そういう、意味じゃ」
    みなとは、慌てた。

    「お客様の声をそのまま持ってくるだけなら、誰でもできる」
    戸倉は、静かに、でも、厳しく言った。

    「開発は、そんなに甘くないの」

    みなとは、言葉を失った。

    その日、みなとは、悔しくて悔しくて、たまらなかった。
    カスタマーサポートでは、少し自信がついてきたところだったのに。
    開発の世界では、自分は、また何もできない素人に逆戻りだった。

    ―やっぱり、私には無理だったのかな。

    落ち込んだみなとは、香川千尋に相談した。

    「私、戸倉さんにそのまま声を持ってくるだけなら、誰でもできるって言われて」

    みなとは、しょんぼりと言った。

    「私の意見なんて、開発の役に立たないんです」

    香川は、しばらく聞いてから言った。

    「みなとちゃん。戸倉さんに出したアイデア。
    あれは、誰の意見だったの?」

    「え?」

    「味を濃くとか。見た目を華やかにとか。あれは、みなとちゃんが、本当に、お客様のことを考えて出した意見だった?」

    みなとは、はっとした。

    ―違う。

    あれは、お客様の声をそのまま右から左に流しただけだった。

    「濃い味が、欲しい」という、表面的な言葉を。

    その、奥にある本当の気持ちを考えないまま。

    「私……」
    みなとは、言った。

    「お客様の声をただ、伝えただけでした。
    その奥にある本当の願いを考えてなかった」

    「そう」
    香川は、微笑んだ。

    「みなとちゃんは、佐藤さんやミクちゃんの時、どうした?
    表面の言葉じゃなくて、その奥にある気持ちを知ろうとしたでしょう。
    開発でも同じよ。
    お客様が『濃い味が、欲しい』って言う。
    その本当の意味はなんだろう。
    それを考えるのが、みなとちゃんの仕事なんじゃない?」

    みなとの、頭の中で何かがつながった。
    みなとは、もう一度考え直した。

    お客様は、なぜ「濃い味が欲しい」と言うのか。

    みなとは、カスタマーサポートの記録を片っ端から読み返した。
    そして、たくさんのお客様と電話で話した。

    「味が薄い」と、言う、その奥にある、本当の気持ちを探るために。

    すると、見えてきたことがあった。

    お客様が本当に求めているのは、「濃い味」ではなかった。

    「食べる楽しみ」だった。

    病気で、食事を制限されて、味気ない食事ばかりになって。
    食べることが、義務になってしまった。

    その、失われた「食べる楽しみ」を取り戻したい。
    それが、「濃い味が欲しい」という言葉の奥にある本当の願いだった。

    みなとは、その気づきをまとめて、戸倉に持っていった。

    「戸倉さん」
    みなとは、言った。

    「この前はすみませんでした。私、お客様の声をそのまま流すだけで。本当の意味を考えてなかったんです」

    戸倉は、みなとを見た。

    「お客様が、欲しいのは濃い味じゃないんです」
    みなとは、続けた。

    「食べる楽しみなんです。

    塩分を増やさなくても、食べる楽しみを感じてもらう方法が、あるはずなんです。

    香りを豊かにするとか。
    食感に変化をつけるとか。
    彩りで目を楽しませるとか。
    だしのうまみを効かせるとか。

    塩分に頼らないおいしさを」

    戸倉は、しばらく黙っていた。

    そして、初めてみなとに興味を持ったような目で言った。

    「……それ、自分で、考えたの?」

    「はい」
    みなとは、うなずいた。

    「お客様とたくさん話して。記録も全部読み返して」

    戸倉の表情が少し変わった。ふっと目元が緩んだ。

    「香りと食感と彩りと、うまみね」
    戸倉は、つぶやいた。

    「塩分に頼らない、おいしさ。それは……開発の王道よ。
    私たちが、いつも格闘してるテーマ。
    それを、あなたはお客様の声からたどり着いたのね」

    戸倉は、立ち上がった。

    「面白いわ」
    戸倉は、言った。

    「葉山さん。
    あなたのそのお客様の声を、聞く力。
    それは、私にはない力よ。

    私は、味は作れる。
    でも、お客様が、本当に何を求めてるか、それを聞き出すのは苦手なの。

    組みましょう。あなたの耳と私の腕で。

    お客様が本当に食べたいものを作りましょう」

    みなとは、胸がいっぱいになった。

    あの、味に厳しい近寄りがたかった戸倉が。素人と突き放したみなとを、今、対等のパートナーとして認めてくれた。

    「はい!」
    みなとは、言った。

    「よろしく、お願いします!」

    その日から、みなとの、開発部での日々が本格的に始まった。

    厨房は、カスタマーサポートの島とは、まるで別の世界だった。

    ステンレスの調理台。
    ずらりと並んだ鍋やフライパン。
    壁には、栄養価の計算式や、試作の記録がびっしりと貼られている。

    戸倉は、その真ん中で、まるで実験室の科学者のように1グラム単位で、調味料を量り、味を確かめていた。

    みなとは、初めて戸倉の仕事ぶりを間近で見て、圧倒された。

    同じ煮物を作るのにも、戸倉は出汁の引き方を五通りも試した。
    塩分を0.1グラム減らすために、香りの立て方を何度も変えた。

    「病気の人の食事は、1グラムの狂いが命に関わる。
    でも、その制限の中でいかにおいしくするか。
    そこが、私たちの腕の見せどころなの」

    戸倉は、そう言いながら湯気の立つ小皿をみなとに差し出した。

    みなとは、それを口に運んだ。

    ―おいしい。

    塩分を、極限まで抑えているのに、しっかりと味がする。

    出汁の香りが、ふわりと広がって、舌の上でうまみがほどけていく。

    これがプロの技なのだ。

    みなとは、カスタマーサポートでお客様に「うちの食事はおいしいですよ」と、何百回も言ってきた。でも、その裏に、これほどの格闘があることを、みなとは、今、初めて知った。

    「戸倉さん、すごい……」
    みなとは、思わずつぶやいた。

    「まだまだよ」
    戸倉は、涼しい顔で言った。

    「これでも、私はお客様が、本当に何を食べたいのか分からないまま作ってる。だから、あなたの力がいるの。
    おいしいものを作る力は、私にある。
    でも、そのおいしいを誰にどう届けるか。
    それは、あなたにしか分からない」


    みなとは、その言葉に身が引き締まる思いがした。

    開発の扉が、みなとの前で大きく開いた。

    カスタマーサポートで培った「お客様を、知りたい」という心。

    それが、開発という新しい世界でも、みなとのいちばんの武器になった。

    みなとは、少しずつ自分だけの管理栄養士の形を、つかみはじめていた。


    第五章 金目鯛の煮付け

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    冬が、来た。

    その日、葉山みなとに、カスタマーサポートから、一つの知らせが届いた。

    ミクちゃんのおじいちゃんの容態が悪くなっているというのだ。

    みなとは、開発チームに移ってからも、ミクちゃんのことは、ずっと気にかけていた。

    時々、カスタマーサポートに顔を出して、ミクちゃんの電話の様子を聞いていた。そのミクちゃんが、最近、元気がないという。

    みなとは、カスタマーサポートの記録を確認した。

    ミクちゃんのおじいちゃんは、腎臓の数値が悪化して、腎機能をこれ以上落とさないために、食事療法をいっそう厳しくする必要が出てきていた。

    たんぱく質も塩分も、そして進んできた数値に合わせてカリウムも。
    制限が増えるほど、献立は味気なく単調になる。

    そして、おじいちゃんが食べる気力をなくしてきていると書かれていた。

    食事療法が、これまで以上に厳しくなる。
    そして、本人が食べる気力をなくしてきていると書かれていた。

    みなとは、いても立ってもいられなかった。

    その日の、ミクちゃんからの電話を、みなとが代わりに受けた。

    「からだ想い食堂です」

    「あ……お姉さん」
    ミクちゃんの声だった。元気がなかった。

    「久しぶり」「ミクちゃん」
    みなとは、優しく言った。

    「おじいちゃん、大丈夫?」

    しばらく、沈黙があった。

    「おじいちゃん……ごはん、食べないの」
    ミクちゃんは、消え入りそうな声で言った。

    「私が、注文しても。せっかく届いても。
    『食べたくない』って。病気、悪くなってきてて。
    食べられるもの、どんどん少なくなって。
    おじいちゃん、元気ないの。
    私……どうしたらいいのか、分からない」

    ミクちゃんは、電話の向こうで、泣いていた。

    みなとの、胸が締めつけられた。

    「ミクちゃん」
    みなとは、言った。

    「よく話してくれたね。一人で抱えてて、辛かったね」
    みなとは、言った。

    「大丈夫。一緒に考えよう。おじいちゃんが、また食べたいって思えるような、ごはん。私たちで作るから」

    「本当?」
    「本当」

    みなとは、言った。

    「おじいちゃん、昔、好きだった食べ物ある? お姉さんに教えて」

    ミクちゃんは、少し考えてから言った。

    「……金目鯛の煮付け」
    ミクちゃんは、言った。

    「おじいちゃん、金目鯛の煮付けが大好きなの。
    おばあちゃんがよく作ってくれた味なんだって。
    『あの味が、また、食べたい』って、いつも言ってる」

    みなとは、その足で、戸倉諒のところへ走った。

    「戸倉さん」
    みなとは、言った。

    「お願いがあります。
    腎臓病の食事制限が進んだ方でも食べられる、
    金目鯛の煮付けを作りたいんです。」


    戸倉は、腕を組んだ。

    「腎臓病食で、金目鯛の煮付けね」
    戸倉は、渋い顔を、した。

    「鬼門ね。魚は、たんぱく質が多い。
    腎臓を守るには、たんぱく質を抑えないといけない。塩分も控える。
    おまけに、数値が進んでくると、カリウムも気をつけなきゃならない。
    煮付けのあの濃い味を、その制限の中で出すのは……」

    「難しいですよね」
    みなとは、言った。

    「でも、やりたいんです。
    あるお客様のおじいちゃんが食べる気力をなくしていて。
    でも、金目鯛の煮付けだけは、また食べたいって。
    亡くなった奥様の味なんです」

    戸倉は、みなとを見た。

    「そのお客様のこと、詳しく話せる?」
    戸倉は、言った。

    みなとは、ミクちゃんのおじいちゃんのことを話した。ミクちゃんのことも。
    奥様との思い出も。戸倉は、黙って聞いていた。

    聞き終わって、戸倉は言った。

    「よし」
    戸倉は、立ち上がった。

    「やりましょう。あなたの耳と私の腕で。
    そのおじいちゃんが、また笑って、ごはんを食べられるように」

    それから、二週間。

    みなとと、戸倉は、厨房にこもりきりになった。

    腎臓病の厳しい制限の中で、金目鯛の煮付けのあの味を再現する。
    たんぱく質を抑えるために、魚の量は減らさなければならない。

    塩分を抑えれば、あのこっくりとした甘辛い味は出せない。
    そのうえ、進んだ数値に合わせて、カリウムまで気を配らなければならなかった。

    だが、みなとには、あの開発の扉を開いた時の気づきがあった。

    ―塩分に、頼らない、おいしさ。

    戸倉は、出汁を工夫した。出汁を濃く取れば、うまみは増す。

    だが、昆布はカリウムを多く含む。
    腎臓の弱った体には、それが負担になる。

    「昆布だしを濃くすれば、簡単に味は出る。でも、それじゃ意味がないの」

    戸倉は、昆布をあえて薄めに使い、
    代わりに鰹のうまみと焼き目の香ばしさで味の深みを出した。

    塩分を減らす分は、生姜やゆずの香りで補った。
    魚の量を減らして物足りなくなる見た目は、彩りのよい野菜で満たす。

    ただし、その野菜も、カリウムを逃がすために下茹でをしてから使った。

    戸倉の手さばきは鮮やかだった。みなとは、その確かな腕に見とれた。

    みなとは、その試作を味見しては意見を言った。
    だが、みなとの役割は味見だけではなかった。

    みなとは、何度もミクちゃんに電話をした。
    おじいちゃんの、今の状態を聞くために。

    「おじいちゃん、最近、噛む力も弱くなってきてる?」
    「うん」
    ミクちゃんは、言った。

    「硬いもの、食べにくそう」
    「じゃあ、もっと柔らかくしなきゃね」

    みなとは、メモを取った。
    そして、戸倉に伝えた。

    「戸倉さん、もっと、柔らかく。おじいちゃん、噛む力が落ちてます」

    「なるほど」戸倉はうなずいた。

    「じゃあ、身を、ほろっとほぐれるまでじっくり煮ましょう。
    骨はきれいに外して。噛む力が落ちたお年寄りでも、安心して飲み込めるように」

    みなとの「お客様を知る力」と、戸倉の「味を作る腕」
    二つが、一つの、皿の上で溶け合っていった。

    だが、道のりは、平坦ではなかった。

    最初の試作は失敗だった。塩分を抑えた煮汁は水っぽくて、金目鯛の上品な身の味を殺していた。

    二度目は、うまみを足そうと、つい昆布だしを濃くしてみたが、
    それではカリウムが上がってしまう。

    「これじゃ、腎臓に障る。うまみと制限の両立が、いちばん難しいの」

    戸倉は、ため息をついた。

    三度目、四度目。戸倉と、みなとは何度も頭を突き合わせた。

    「たんぱく質の制限がきつすぎて、魚をこれ以上、増やせない」

    戸倉は眉を寄せた。

    「でも、少なすぎると食べた気がしない。満足感が出ない」
    「おじいちゃんは、奥様の味を覚えてます」

    みなとは、言った。

    「きっと量じゃないんです。あの懐かしい味。
    それさえあれば、少なくても心が満たされるはず」


    「懐かしい味か」
    戸倉は、腕を組んだ。

    「昔の家庭の煮付けは、どんな味だったのかしら」

    みなとは、その夜、家に帰って、亡くなった祖母のことを思い出した。

    祖母の作る煮魚はどんな味だったか。甘くて、少し、濃いめで。

    でも、それは、塩分の濃さではなかった。

    醤油と砂糖とみりんが、じっくり煮含められた、あの時間の味。手間の味。

    翌日、みなとは、その記憶を戸倉に話した。

    「時間をかけて、味をしみこませるってこと?」
    戸倉の目が光った。

    「塩分じゃなくて、時間で味を届ける。それなら……」

    五度目の試作。戸倉は、低温でじっくりと金目鯛を煮含めた。

    塩分は変えずに、煮る時間だけを倍にした。
    すると、薄い煮汁でも味が身の奥までしみこんで、
    あの懐かしい家庭の煮付けの風味が蘇った。

    みなとは、その試作を味見して思わず、声を上げた。

    「これです! これ、おばあちゃんの味です!」

    戸倉が、笑った。初めて見る心からの、笑顔だった。

    「あなたの、おばあちゃんが教えてくれたのね」
    戸倉は、言った。

    完成した腎臓病の制限に合わせた金目鯛の煮付けを、
    みなとたちはミクちゃんのおじいちゃ様に届けた。

    届ける前、みなとは、ミクちゃんに電話をした。

    「ミクちゃん」
    みなとは、言った。

    「今度のごはんは、特別なの。
    おじいちゃんの大好きな金目鯛の煮付けが入ってるよ。
    私と戸倉さんが、心を込めて作ったの」


    「本当?」
    ミクちゃんの、声が弾んだ。

    「本当」みなとは、言った。

    「おじいちゃんが食べてくれるか、また教えてね」

    数日後。

    カスタマーサポートの、電話が鳴った。みなとが、飛びついて取った。ミクちゃんからだった。

    みなとは、しばらく電話を聞いていた。
    そして、電話を切ったあと、みなとは、戸倉のところへ走った。

    みなとは、泣いていた。
    でも、それは悲しみの涙ではなかった。

    「戸倉さん!」
    みなとは、言った。

    「おじいちゃん、食べたそうです!金目鯛の煮付け、全部! 『女房の、味だ』って、言って! そして……」

    みなとは、涙を拭った。

    「『まだ、頑張れる気がする』って、おっしゃったそうです!」

    戸倉は、その場に立ち尽くしていた。
    いつも、冷静な、この開発者の目に、みるみる涙が盛り上がった。

    「……間に合ったのね」
    戸倉は、絞り出すように、言った。

    「葉山さん。あなたのおかげよ。
    あなたが、あのおじいちゃんのことを、あそこまで、深く知ってたから。
    だから、この味にたどり着けた。
    私一人じゃ、絶対に作れなかった」

     
    みなとは、首を、振った。

    「戸倉さんの、腕があったからです」
    みなとは、言った。

    「私は、ただ知ってただけ。それを、味にしたのは戸倉さんです」

    二人は、顔を見合わせて、笑った。

    その日の、夜。

    みなとは、一人、オフィスのあのハガキの壁の前に立っていた。

    夏に、ミクちゃんが送ってくれた、あのハガキ。

    「おじいちゃんへ。おいしいごはん、ありがとう。またつくってください」

    みなとは、そのハガキを見つめた。

    三年目の春、みなとは、この壁をただ通り過ぎるだけの管理栄養士だった。
    お客様の気持ちも分からず、知識を伝えるだけの。

    あの日、佐藤さんに電話を切られて、初めて自分が何も分かっていなかったことを知った。

    それから、みなとは、変わろうとした。
    お客様を知ろうとした。

    佐藤さんと、つながった。
    ミクちゃんと、出会った。
    開発の扉を開けて、戸倉さんと組んだ。

    そして、今日、一人のおじいちゃんに「まだ、頑張れる」と思わせる一皿を届けた。

    ―私の仕事は、こんなにも素敵な仕事なんだ。

    みなとの、胸に静かな誇りが満ちていた。
    まだ、半人前かもしれない。
    でも、みなとは、確かに管理栄養士として歩いていた。

    自分の足で。自分の道を。


    第六章 届かなかった日

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    年が、明けた。

    葉山みなとは、開発とカスタマーサポートの両方で、着実に力をつけていた。金目鯛の煮付けの、成功は社内でも評判になった。

    みなとは、少しずつ自信を取り戻していた。

    いや、以前の根拠のない、自信とは違う。
    お客様と向き合い、失敗を重ねて掴んだ、地に足のついた自信だった。

    ミクちゃんのおじいちゃんは、
    あの金目鯛の煮付けをきっかけに、また食べるようになった。

    厳しい食事制限は続いていた。
    それでも、少しずつ食欲を取り戻していった。

    みなとは、開発した腎臓病向けのメニューを少しずつ増やして、おじいちゃんに届け続けた。

    すべてがうまくいっているように、思えた。

    だが、二月のある日。

    ミクちゃんからの、電話は来なかった。
    いつもは、週に一度はかかってくるミクちゃんの電話が、ぱたりと止まった。

    一週間、二週間。みなとは、胸騒ぎを覚えた。

    三週間目。

    みなとは、耐えきれず、こちらから電話をかけた。
    出たのは、大人の女性だった。ミクちゃんの母親だった。

    「からだ想い食堂の、葉山です」
    みなとは、言った。

    「いつも、ミクちゃんにお電話いただいて。最近、お電話がなかったので、気になって……」

    電話の向こうで、母親はしばらく黙っていた。

    そして、静かに言った。

    「父は……先週、亡くなりました」

    みなとの手から、力が抜けた。

    「腎臓が、だいぶ弱ってきて。少し体調を崩して。入院して。そのまま……」
    母親は、言った。

    「最期は穏やかでした。おかげさまで、最後までからだ想い食堂さんの、お食事を楽しみにしていました。
    特に、あの金目鯛の煮付けを。『女房の味だ』って、何度も」

    みなとは、言葉が出なかった。

    「ミクは……」
    母親は、続けた。

    「ずっと、泣いています。
    おじいちゃんっ子でしたから。
    ごはんの世話を、一生懸命していたので。
    自分のせいだって。
    自分がちゃんとできなかったから、おじいちゃん死んじゃったんだって」

    みなとの、目から涙がこぼれた。

    電話を切ったあと。
    みなとは、席で動けなかった。

    ミクちゃんのおじいちゃんが亡くなった。あの金目鯛の煮付けを開発して、あんなに喜んでもらって。「まだ、頑張れる」って、言ってもらえて。それなのに。

    ―私の、仕事は、なんだったんだろう。

    みなとは、初めて管理栄養士という仕事のいちばん辛い現実に直面していた。

    どんなに、心を込めても。
    どんなにいい食事を作っても。
    人は、いつか亡くなる。

    特に、この会社の、お客様は病気を抱えた人たちだ。
    食で支えても、支えても救えないことがある。

    みなとは、その当たり前の事実に打ちのめされた。
     
    そして、ミクちゃんのことを思った。

    「自分のせいだ」と、泣いているミクちゃん。

    まだ、小学四年生の女の子が、大好きなおじいちゃんの死を、自分の責任だと背負っている。

    みなとは、自分を責めた。

    ―私が、もっとちゃんとしていれば。もっといい食事を作っていれば。ミクちゃんに、あんな思いをさせずに済んだかもしれない。

    みなとは、その夜。オフィスに一人残った香川千尋に、思いの丈をぶつけた。

    「香川さん」
    みなとは、泣きながら言った。

    「私、分からなくなりました。
    私たちの仕事ってなんなんですか。
    どんなに頑張っても。心を込めても。
    お客様は亡くなる。救えない。
    だったら、私たちの仕事に意味なんてあるんですか」

    香川は、みなとの話を最後まで聞いた。

    そして、静かに言った。

    「みなとちゃん。私たちの仕事は、命を救うことじゃないの」

    「え?」

    「私たちは、医者じゃない。
    病気を治すことは、できない。
    命を延ばすこともできないかもしれない」

    香川は、言った。

    「じゃあ、私たちの仕事はなんだろう。

    私はね、こう思うの。

    私たちの仕事は、その人の一日一日を、あたたかくすることなんだって」

    みなとは、顔を上げた。

    「ミクちゃんのおじいさまは、亡くなった」
    香川は、言った。

    「それは、とても悲しいこと。

    でもね、ミクちゃんのおじいさまは、最期まで金目鯛の煮付けを『女房の味だ』って喜んで食べてくれた。厳しい食事制限の続く辛い毎日の中で。

    みなとちゃんと、戸倉さんが作ったあの一皿が、ミクちゃんのおじいさまの最期の日々を少しでもあたたかくした。それは、意味のないこと?」

    みなとの、涙が止まらなかった。

    「私たちは、命の長さは変えられない」
    香川は、言った。

    「でも、その、一日一日の質を、あたたかさを変えられる。それが、食の力なの。
    『いただきます』って言える。おいしいって思える。
    その、当たり前の喜びを病気の人にも、最期まであきらめないでいてもらう。
    みなとちゃんがしてきたことは、決して無駄じゃない。
    むしろ、いちばん大切なことをしたのよ」

    数日後。

    みなとは、ミクちゃんの家に手紙を書いた。

    電話では、言えないことがあると思った。みなとは、便箋に向かって、何度も書いては消し、書いては消した。そして、最後にこう書いた。

    「ミクちゃんへ。

    おじいちゃんのこと、本当に残念です。
    お姉さんも、悲しいです。

    でも、ミクちゃん、これだけは覚えていてね。
    おじいちゃんが、最期まで、笑ってごはんを食べられたのは、ミクちゃんがいたからだよ。

    ミクちゃんが、一生懸命おじいちゃんのごはんを注文してくれたから。
    おじいちゃんは、幸せだったと思う。

    ミクちゃんは、何も間違ってない。

    ミクちゃんは、世界でいちばん優しいお孫さんだよ。

    おじいちゃんは、きっと、ミクちゃんに、ありがとうって言ってるよ」

    みなとは、その手紙を送った。

    しばらくして、ミクちゃんから返事が来た。

    子どもの字で、こう書かれていた。

    「お姉さんへ。おてがみありがとう。
    わたし、いっぱいないたけど、すこしげんきになりました。
    おじいちゃんは、からだ想いしょくどうの、ごはんがだいすきでした。
    わたしも、おおきくなったら、お姉さんみたいな、えいようしになりたいです。
    びょうきの人を、あたたかくするおしごと、すてきだから」

    みなとは、その手紙を読んでまた泣いた。

    でも、今度は、さっきまでとは違う涙だった。

    ―びょうきの人を、あたたかくするおしごと。

    ミクちゃんの言葉が、みなとの胸に深く染みた。

    そうだ。
    それが、私の仕事だ。

    命を救えなくても。その人の、一日をあたたかくする。

    「いただきます」を、あきらめないでいてもらう。

    それは、こんなにも尊い仕事なんだ。

    みなとは、ミクちゃんの手紙を、あのハガキの壁にそっと貼った。

    ミクちゃんが、夏に送ってくれたハガキの隣に。

    「おじいちゃんへ。おいしいごはん、ありがとう。またつくってください」。

    その隣に。

    みなとは、二枚の手紙を見つめた。一つの命は、終わった。
    でも、そこにあった、あたたかさは、確かにこの壁に残っていた。

    そして、そのあたたかさが、ミクちゃんの未来へとつながっていく。

    「お姉さんみたいな、えいようしになりたい」という、その言葉へと。

    みなとは、涙を拭って顔を上げた。

    彼女は、この辛い経験を通じて、管理栄養士として、また一つ大きく成長した。
    悲しみを知ることで、みなとは食の本当の意味を知ったのだった。


    終章 いただきますを、あきらめない

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    桜が、咲いた。

    葉山みなとが、あの失敗の電話から歩きはじめて、ちょうど一年。

    四年目の春が来た。

    みなとは、変わった。

    この一年で、彼女はたくさんのことを学んだ。

    お客様を、知ること。
    表面の言葉の奥にある、本当の願いを聞くこと。
    カスタマーサポートと開発をつなぐこと。

    そして、悲しみを通じて、食の本当の意味を知ること。

    三年目の春、「一人前になったつもり」でいた、
    あの、みなとはもういなかった。

    代わりに、そこには、まだ発展途上ながら、
    確かな芯を持った一人の管理栄養士が、立っていた。

    その日、からだ想い食堂に、新しい仲間が加わった。

    新卒の新入社員たちだ。
    この会社は、新卒しか採らない。

    今年も、フレッシュな若者たちが入ってきた。
    その中に、一人、管理栄養士の資格を持った女の子がいた。

    名前は、あかりと言った。

    みなとは、そのあかりの教育係を任された。

    「え、私がですか」

    みなとは、驚いた。

    「私、まだ、四年目ですよ」

    「四年目だから、いいのよ」

    香川千尋は、笑った。

    「新人の気持ちが、いちばん近いところで分かる。それに、みなとちゃんは、この一年で管理栄養士として、大きく成長した。その経験を、次の子に渡してほしいの」

    みなとは、あかりと向き合った。
    あかりは、緊張していた。

    一年前の、いや三年前の自分を見ているようだと、みなとは思った。

    まっさらで、やる気にあふれていて、
    でも、右も左も分からなくて、不安で。

    「あかりちゃん」みなとは、優しく言った。

    「一つだけ、覚えておいてほしいことがあるの」
    「はい」
    あかりは、身構えた。

    「私たちの仕事は、正しい食事の知識を伝えることじゃないの」
    みなとは、言った。

    「私たちの仕事は、電話の向こうにいる一人ひとりのお客様を知ること。
    その人の暮らしを、気持ちを、願いを。
    そして、その人の一日を、少しでも、あたたかくすること。
    病気で食べる楽しみを失いかけた人に、もう一度、『いただきます』をあきらめないでいてもらうこと。
    それが、からだ想い食堂の、管理栄養士の仕事なの」


    あかりは、真剣な目で聞いていた。
    みなとは、そのあかりの目を見て思った。

    ―ああ、私は、あの日、香川さんから教わったことを、今、次の子に渡してるんだ。

    三年目の春。
    失敗して打ちのめされたみなとに、香川は言った。

    「その方は、知識が欲しかったんじゃないと思うの」と。

    あの、一言がみなとを変えた。

    今度は、みなとが、あかりに、それを渡す番だった。

    その日の、午後。
    あかりの、初めての電話があった。

    あかりは、がちがちに緊張していた。

    相手は糖尿病のお客様だった。あかりは、教科書通りの説明をしようとして、しどろもどろになった。みなとは、隣で見守っていた。

    手を出したくなるのを、ぐっとこらえて。

    電話を切ったあと、あかりは半分泣きそうな顔で言った。

    「私、全然ダメでした」
    あかりは、言った。

    「うまく説明できなくて」

    みなとは、微笑んだ。

    その言葉は、一年前、みなと自身が香川に言った言葉とそっくりだった。

    「大丈夫」
    みなとは、言った。

    「あかりちゃん、今の電話で、そのお客様が、どんな人か少しでも分かった?」

    「え……」
    あかりは、考えた。

    「あのお客様一人暮らしで、料理が苦手で。それで、糖尿病の食事をどう、したらいいか困ってて。ちょっと寂しそうでした」

    「うん」
    みなとは、うなずいた。

    「ちゃんと見えてるじゃない。
    それが、いちばん大事なことよ。
    説明がうまいか下手かじゃない。
    その人を、見ようとする、その気持ち。
    あかりちゃんにはそれがある」

    あかりの顔がぱっと明るくなった。

    「本当ですか」

    「本当」

    みなとは、言った。

    「あかりちゃんは、いい管理栄養士になるよ」

    みなとは、その言葉を口にして、はっとした。
     
    ―香川さんが、私に言ってくれた言葉と同じだ。

    あの日、みなとが、いちばん欲しかった言葉。

    それを、今、自分があかりに言っている。

    あたたかさは、こうやって、人から人へと渡っていくのだ。

    香川から、みなとへ。みなとから、あかりへ。
    そして、いつか、あかりから、また次の誰かへ。

    夕方。

    みなとは、一人、あのハガキの壁の前に立った。

    壁には、この一年で、みなとが貼った二枚の手紙があった。

    ミクちゃんの、ハガキと手紙。

    「おじいちゃんへ。おいしいごはん、ありがとう」

    「わたしも、おおきくなったら、お姉さんみたいな、えいようしになりたいです」。

    みなとは、その二枚を見つめた。

    ミクちゃんのおじいちゃんは、亡くなった。
    それは、今でも悲しい。

    でも、みなとは、もうあの日のように打ちのめされてはいなかった。

    ミクちゃんのおじいちゃんの、最期の日々をあたたかくできたこと。
    ミクちゃんの心に種を蒔けたこと。

    それが、みなとの誇りだった。
    みなとは、この壁一面のハガキを、改めて見渡した。

    何十枚もの、感謝の言葉。

    「母が、完食しました」
    「先生に、褒められました」
    「最期まで、おいしいと、言ってくれました」

    三年間、みなとは、この壁をただ通り過ぎていた。

    壁に貼られた、一枚一枚の重さに気づかないまま。

    でも、今は違う。

    この、一枚一枚の向こうに、
    一つひとつの食卓がある。
    一つひとつの家族がいる。
    一つひとつの、命の時間が流れている
    。

    そして、そのすべてに共通する願いがある。

    病気になっても。
    歳を取っても。
    最期の日まで。
    「いただきます」と手を合わせて、
    おいしいと笑いたい。

    ただ、それだけのささやかで、切実な願いが。
     
    みなとの隣に、香川千尋が立った。

    「みなとちゃん」

    香川は、言った。

    「あかりちゃんの教育どう?」
    「難しいです」

    みなとは、笑った。

    「でも、楽しいです。あの子を見てると、一年前の私を見てるみたいで」

    香川は、微笑んだ。

    「私も、そうだったよ」

    香川は、言った。

    「みなとちゃんを、見てて、昔の自分を思い出してた。そうやって、この会社は続いてきたの。
    誰かが誰かにあたたかさを渡して。
    その子が、また、次の子に渡して」

    みなとは、うなずいた。

    この会社は、新卒しか採らない。
    みんな、若い。経験も浅い。

    でも、だからこそ、あたたかさが、まっすぐに受け継がれていく。

    香川から、みなとへ。
    みなとから、あかりへ。
    まるで、リレーの、バトンのように。

    みなとは、窓の外を見た。

    桜が風に揺れていた。

    四年目の、春。
    みなとは、もうあの頼りない、三年目の管理栄養士ではなかった。

    だが、まだ香川のように、完璧でもなかった。

    彼女は、その途中にいた。

    学び続け成長し続ける、その道の真ん中に。

    それでいいと、みなとは思った。

    管理栄養士としての道に終わりはない。

    お客様がいる限り。
    その人の、一日を、あたたかくしたいと願う限り。

    みなとは、これからも歩き続ける。

    失敗しながら。
    悩みながら。
    でも、一歩ずつ、確かに。

    あかりが遠くから、みなとを呼んだ。

    「葉山さーん! 次の電話のこと教えてください!」
    「はーい、今、行く!」

    みなとは、ハガキの壁に向かって、小さく頭を下げた。

    三年前のみなとが、この壁を通り過ぎるだけだったように。

    でも、今のみなとは、違う。

    この壁の、一枚一枚に込められた思いを知っている。
    そして、自分もその、あたたかさを届ける一人になった。

    病気を抱えた誰かが、今日も食卓に向かう。
    手を合わせる。いただきますと。

    その小さな、けれど、かけがえのない瞬間を守るために。

    ―いただきますを、あきらめない。

    それがみなとの、そして、からだ想い食堂のみんなの願いだった。

    みなとは、あかりの待つ、
    カスタマーサポートの島へと歩き出した。

    その足取りは、一年前とは、比べものにならないほどしっかりとしていた。

    若い管理栄養士の成長の物語は、まだ始まったばかり。
    だが、みなとは、確かに自分の道を歩きはじめていた。

    あたたかいを、届ける管理栄養士として。

    (了)

    ※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・出来事はすべて架空であり、実在のものとは関係ありません。

    #お仕事小説部門  
    #創作大賞2026

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