AI生成マンダラ集(4)way_finding2025年4月3日 08:18 述語。述語、主語ではない述語。非主語である述語。名指されることを拒み、主語の座からずれ続ける、述語。 主語なき世界を震わせる。 述語は主語に奉仕しない。 むしろ主語を要請し、招き入れ、必要とあらば捨て去る。 述語は関係であり、運動であり、生成そのものである。主語を失った述語の世界、 それは誰のものでもない言語のゆらぎ。 非主語たる、述語――そこに、語りの根がある。 ふるえる、ゆれる、ふるふる、ゆらゆら 述語が名詞の軛から逃げ出すとき、 言葉は、音と運動へと変わる。意味は薄れ、現実界の消息が。 やぶれる。ぶれる、ふれる。やぶれる、われる。ひろがる。 主語を持たぬ述語たちが、 ただ「起こる」「生じる」「零れる」ことで、 分節がはじまる。 われ、片割れ、カタワレ、われならぬものと分たれたかたほう。 神話はそこから生まれる。 太陽と月、天と地、海と山、姉と弟。 カタワレーであるーこと・・が分節言語を語り出す。 「こちら」から見るならば、「それ」は、二つでひとつ、ひとつが二つ 時間はゆれてのびちじみするし、空間もゆるんでのびちじみする。「時間」と「空間」も述語なのである。 無論、それは、「こちら」から見ればである。・・述語「見れば」。見なければ、来るでもなく、来ないでもない。 述語さえ、主語にしてしまう業の深さたるや。 述語の身振りを主語の座に据え、 世界を固定し、意味を囲い込み、 流れを像に、気配を名にしてしまう。 動きを、止める。 関係を、対象化する。 出来事を、「もの」と呼ぶ。それが知であり、文明であり、 同時に、世界との距離の始まり。 しかしこの業は、わたしのものではない。わたしはあくまでも主語なのだ。単に主語。カタワレ。業そのものを全て担い得ると思い上がる片割れ、それも二分の一の片割れではないよ。もっとさらに小さな、果てしなく無量に小さな。 述語を主語に従属させてはならない(従属させてもいいけれど、させなければならないものではない)。主語こそその名のとおり従属するものである。 しかもしかも。述語と主語の「存在感」はイコールではない。ふたつは天秤にて釣り合うことはない。 非主語としての述語ではない述語 ひらく、のびる 縮む。縮みつつ伸びる。 ふるえる、ふえる、るるる。 ある。いる。なる。 る。る。る。空海が『声字実相義』に書いている。五大にみなひびきあり 言葉には限界がある。せや。限界のないもんなんてあらへんからな。せやけど、言葉が「あかん」いうんは、非言葉なら「ええ」いうことやあらへんねんで。 これがあかんとか、あれがええとか。こういうの言葉の桎梏や〜みたいに思うとるやろうけど。なんかちゃうねんよ。分けとんのがことばやけど。な、ことのはな。せやけど選んだんのは身なんやで。 なら、身が業のかたまりや、身がわるいんや〜って、また、悪うない方選ぼうとしとる。分かれたらええねん。いいわるいのええとちゃうよ。ほうっておいたらええ。なんやて?無責任?!おもろいこと言うね。レスポンスするアビリティなんで誰ぞ何処ぞの主語が持っとると思っとんねん。思い出すんや。あんたが、主語が、あんたの身いが、まだ赤と白の混じりけやった瞬間を。な。 そら、思い出すいうてもな、いまの身の感覚器官による分別そのままでは難しいな。いかにして超感覚的認識をする述語を黄泉がえらせるかや。身は選ぶの塊みたいなもんやさかいな。せやけどことばを遊ばせてみるならな。この身そのままで選ぶだけやない述語をな、自在にできるんやで。これ声字実相義に書いてあるで。五大に皆響きありや。親切やね同行二人。ひびく。ひび。ひびわれのひびやね。 空海がなんで空海を自分のことばの主語にしたかわかるやろ?空と海やで。陸地は何処やちゅう話や。陸地。人間が生きてあれこれ選んどるここな。ここ、あらへんねん。ちゅうか、あるようなないような、ってな。述語の分かれるいうのも分けておわりやあらへんて。終わりいうたらそら、分かれるとはまたちがう様相や。述語の様相な。 選んで終わりにしたいいうんはこの身の宿痾やね。もちろん選んだらええねん。せやけどそらいまここで一時的なことや。空の海のあいだの波風みたいなもんや。そういうな、ゆらゆらふるえる、るるるな感じのやね、述語をな、この身このままゆらしとったらええねん。 せやな。ゆらゆらが、ことことになるんよ。これがことのは、ことばや。ことばが物々しくなってな、ものが出てくる。ものものしいことのはゆらゆらゆれとる。 ふるえゆらゆらとふるえ、という。 #AI#心#意識#心理#無意識#精神#神話#調和#集合的無意識#分別#マンダラ#夢見者#AI#心#意識#心理#無意識#精神#神話#調和#集合的無意識#分別#マンダラ#夢見者