
【短編小説】約束の場所
依頼人の男は、ひどく場違いな依頼を抱えて事務所に現れた。男の顔には、まるで何日も眠っていないような、深い疲労の影が落ちていた。
「明日、この場所で花束を抱えて立っていてほしい」
男は街のはずれにある、古びた公園の時計台を指定した。
「俺は、そこへは行けない。もし誰かに声をかけられたら、黙ってその花を渡してくれればいい」
私は何も聞かずに引き受けた。
翌日。私は指示通りに花束を持って時計台の下に立った。やがて、一人の老婦人がゆっくりと歩いてきた。彼女は私の抱える花束を見ると、「……あの子は、来られないのですね」と静かに呟いた。
私が無言で花束を差し出すと、老婦人は震える両手でそれを受け取り、大切そうに胸に抱いた。
「……あの子があなたを雇ってくれた。それだけで十分です」
老婦人はふと顔を上げ、私の肩越し――遠く離れた公園の暗がりへと視線を向けた。そこには、息を殺して立ち尽くす男の気配があった。しかし、彼女は決してそちらへ駆け寄ろうとはしなかった。
音もなく降り出した雨が、足元のアスファルトを静かに濡らしていく。互いに、これが最後だと悟っているのだろう。老婦人はただ花束を抱きしめたまま、息子のいる暗がりへ向かって深く頭を下げると、一度も振り返ることなく歩み去っていった。
夜。行きつけのバーの重い扉を開け、端の定位置に腰を下ろす。私はネクタイを少しだけ緩め、胸の奥に居座る息苦しさを吐き出した。ポケットから煙草を取り出して火を点け、深く吸い込んだ煙を細く吐き出す。
「……やれやれ」
ウイスキーのグラスに口をつける。……俺には、できなかったことだ。
「……この街では、想いを届けるのにも、ひどく遠回りな道が必要らしい」
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