
こびとづかんと一緒に育ってきた少女
うちの娘は、3歳の頃からこびとづかんが大好きだ。
10歳になった今も好きで、寝る前になると本を開いている。
好きなものはたくさん増えた。
シナモロールも好きだし、ラボットも好きだ。
でも、こびとづかんだけはずっと変わらない。
娘の隣にずっといて、見守ってくれる存在。
思えば娘は昔から少し変わっていた。
1歳半の頃から勇者ヨシヒコが好きだったのだ。
アンパンマンでもなく、おかあさんといっしょでもなく、勇者ヨシヒコである。
テレビの前にちょこんと座り、ホトケが出てくるたびに大笑いしていた。
私は思った。
「え?赤ちゃんにもホトケのボケって伝わるの?」
言葉の意味なんて分かっていなかったはずだ。
それでも娘は笑っていた。
だから今思うと、こびとづかんが好きなのも不思議ではない。
娘は昔から、ちょっと変で、ちょっと不思議で、
でもどこか愛すべきものたちに惹かれてきた。
ただ、私には別の問題があった。
初めてカクレモモジリを見た時である。
「え?高木ブーやん」
それが率直な感想だった。
しかも顔の長いコビトを見るたびに、
「いかりや長介やん」
と思う。
長いこと私は、作者がドリフターズをモデルにしているのだと本気で思っていた。
もちろん違った。
でも私にはどうしてもそう見える。
今でも見える。
娘は純粋にコビトを見ているのに、私は娘の隣でドリフターズとして透かして見ている。
同じ本を読んでいるはずなのに、見えている世界が全然違う。
そんな娘のために、私はクサマダラオオコビトの捕獲器を作ったことがある。
今思うと、なかなかどうかしている。
でも当時の娘は本気だったし、私も本気だった。
コビトを信じている娘に対して、
「そんなのいないよ」
とは言いたくなかった。
だから段ボールと紐、そして鈴を持ち出して、
ダンボールには草原と黄色いお花の絵。
捕獲器は完成した。
捕まるかどうかは分からない。
でも、もしかしたら捕まるかもしれない。
そんな時間が楽しかった。
ただ、同じこびとづかんを読んでいても、
娘の感じ方は少しずつ変わってきている。
ある日、娘が聞いてきた。
「こびとって、本当はいないんだよね?」
私は少し考えてから答えた。
「……うん。いないかもね」
3歳の頃なら言わなかった答えだ。
娘ももう10歳になった。
サンタクロースも、コビトも、少しずつ現実との境界線が見えてくる年齢だ。
それでも娘は、こびとづかんを閉じない。
きっと心のどこかでは思っているのだろう。
「でも、実はいるかも」
と。
私はそんな娘を見るたびに、嬉しくなって、少しだけ心配になる。
そのままの目線で育っていってほしいと思う。
風の揺れに何かを感じたり、星をみて綺麗だなと思ったり、
「いるかも」
と思えたりする心を失わないでほしい。
でも同時に、こんなに純粋で生きていけるのだろうか、と親としては心配にもなる。
世の中には優しい人ばかりではないし、
「いるかも」と思う事で傷つくことだってある。
それでも私は信じたい。
不思議は、理解しようとする前に信じることから始まるのだと。
「いるかも」
「できるかも」
その小さな発見が、世界を少しだけ広くしてくれる。
だから願わくば。
現実を知ることと、不思議を信じること。
そのどちらも手放さない大人になってほしい。
そしていつか大人になった娘が、こびとづかんを開いて笑いながら言うのだ。
「いたいた。この子たち。」
本当にいるかどうかは分からない。
でも、彼女の人生のすぐ隣には、いまもずっといる。
3歳の頃も。
10歳になった今も。
そしてきっと、これからも。
そんな気が、している。
好きは変わらないから。