
神田、午前零時のFDE 終話「AIには、恋の代行ができない」
連絡をくれたのは、白瀬のほうからだった。
「日本橋の、あの喫茶店で。日曜の、午後三時に」
短いメッセージだった。攻略の地図には、載っていない展開だった。僕は、待ち合わせの言葉を、AIに考えさせようとして、やめた。考えさせて、完璧な一言を用意することなど、いくらでもできた。でも、それをした瞬間、僕はまた、あの男に戻る。
だから、僕は、何の準備もせずに、丸腰で、店に行った。
白瀬は、先に来ていた。窓際の席で、濃いコーヒーを、両手で包んでいた。
「来てくれて、ありがとうございます」と僕は言った。
「私、ずっと、揺れないと決めて、生きてきました」白瀬は、前置きもなく、言った。芯のある人の、まっすぐな話し方だった。「昔、好きという気持ちを、軽く扱える人に、壊されたから。だから、あなたを見たとき、同じ匂いがして、線を引いた。あれは、正しかった」
「はい」
「でも」彼女は、顔を上げた。「私が壊れたのは、揺れたからじゃなかった。本気じゃない人に、本気で揺れたからでした。揺れること自体は、たぶん、間違いじゃ、なかった」
胸が、鳴った。
「あなたは、案件も、評価も、捨てました。私たちの名前を守って、自分が損をした。見返りのない告白をして、振られる覚悟で、帰っていった。――私は、演技を見抜く達人です。その私が、見抜けなかった。あれは、本物だった」
「白瀬さん、僕は」
「最後まで、聞いてください」彼女は、少し笑った。「私、決めたんです。もう一度だけ、揺れてみる、って。相手さえ間違えなければ、揺れることは、愚かじゃない。あなたが、本物かどうか、私は、これから、時間をかけて、確かめます。すぐには、信じません。たぶん、何度も、試します。それでも、よければ」
それは、甘い告白では、なかった。芯のある人の、対等で、慎重で、けれど、確かに一歩踏み出した言葉だった。勝ち取ったのではない。彼女が、自分の意志で、扉を、半分、開けてくれたのだ。
「よろこんで」と僕は言った。「何度でも、試してください。僕は、もう、逃げません」
そのあと、僕は、何か気の利いたことを、言おうとした。長年の癖だ。この場面を締める、完璧な一言。頭の片隅で、いつもの“最適な台詞”が、もう組み上がりかけていた。
僕は、それを、飲み込んだ。
代わりに、ただ、黙った。白瀬の、コーヒーカップを包んだ指を見て、窓の外の、雨上がりの光を見て、何も言わずに、しばらく、そこにいた。気の利いた言葉より、その沈黙のほうが、よほど怖くて、よほど、本当だった。
白瀬が、ふっと、肩の力を抜いた。「……あなた、いま、何か上手いこと言おうとして、やめましたね」
「ばれましたか」
「ええ」彼女は、初めて、声を出して、少し笑った。「やめてくれて、よかった」
その笑い方を、僕は、たぶん一生、忘れない。落とした相手のことは、何ひとつ覚えていなかった僕が、初めて、覚えておきたいと思った表情だった。
僕は、長いあいだ、人を落とす天才だった。AIを使えば、誰の弱点も当てられた。どんな相手の欲しがる言葉も、一瞬で出力できた。今だって、できる。完璧な口説き文句なら、AIは、三秒で千通り、作るだろう。
けれど、この席で、僕が差し出せる唯一のものは、AIには、決して作れないものだった。
傷つく覚悟。
失っても、もう逃げないという、賭け。
相手を、攻略する対象としてではなく、知りたい一人の人間として、見続ける、痛みを伴う時間。
AIは、恋の言葉を代行できる。最適な一手も、出せる。相手の心さえ、予測できる。
でも、AIは、誰かを本気で欲しがることも、傷つくことも、その人のために自分を賭けることも、できない。
恋だけは、人間にしか、できないのだ。
それは、いちばん非効率で、いちばん予測できなくて、いちばん壊れやすい――だからこそ、いちばん、人間が人間である証だった。
接待ができないこと。信頼を継ぐこと。そして、誰かを本気で想う、その痛み。AIに代行できないものの中に、いつも、人間の、いちばん大事なところが、残っていた。
店を出ると、日本橋の空は、よく晴れていた。
午後三時の光が、川面で、やわらかく揺れていた。僕の長い夜は、午前零時を越えて、ようやく、明けようとしていた。
白瀬が、橋の上で、ふと立ち止まって、こちらを振り返った。
「九条さん。あなた、攻略をやめたら、本当に、いい仕事をしますよ」
初めて会った日に、彼女が言ったのと、同じ言葉だった。
でも、その響きは、もう、まるで違っていた。
僕は、笑った。たぶん、生まれて初めて、何の計算もない、本物の笑顔で。
(終話 了/『神田、午前零時のFDE ── AIには、恋の代行ができない』完)