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残響のサロン 第15ç«  ─扉の倖ぞ─

    第15ç«  ─扉の倖ぞ─

    Echo Roomを出たあず、アリスずリサはしばらくIris Roomにいた。

    淡い花の銙りの䞭で、リサは枩かいハヌブティヌを䞡手で包んでいた。

    䜕かを話すわけではなかった。
    ただ、呌吞を戻すための時間が必芁だった。

    どのくらいそうしおいたのか、分からなかった。

    時蚈を芋おいなかった。
    時間が、別の流れ方をしおいたように思えた。

    遠くの物音や、軋む朚の音。

    それらが聞こえお、アリスはようやく、自分が長いあいだ息を詰めおいたこずに気づいた。

    リサは、少し疲れた顔をしおいた。

    軜くなった、ずは蚀い切れなかった。
    でも、䜕かをずっず抱えたたた歩いおいた人が、䞀床だけそれを床に眮いたような顔だった。

    荷物は消えおいない。
    ただ、それが荷物だず分かった。

    それだけでも、これたでずは違っおいた。

    「倧䞈倫ですか」
    アリスは聞いた。

    リサはすぐには答えなかった。

    それは、セレストの顔ではなかった。

    廊䞋の奥を芋おいた。
    今しがた出おきたEcho Roomの扉を、振り返らずに感じおいるようだった。

    「倧䞈倫、ずはただ蚀えないかもしれたせん」

    リサは、静かに蚀った。

    アリスは頷いた。

    「でも、怖いだけではありたせんでした」

    「怖いだけでは」

    「はい」

    リサは自分の胞に手を圓おた。

    「セレストが怖かったのは、知らなかったからだず思いたす。
    知らない名前で、知らない声で、私の䞭にいるず思っおいたから」

    リサは小さく息を吞った。

    「でも、䌚ったら  知らない人ではありたせんでした」

    その声は、少し震えおいた。
    けれど、厩れおはいなかった。

    「自分の䞀郚だから、圓たり前なのかもしれたせん。
    でも、それを圓たり前だず思えるたでに、ずいぶん時間がかかった気がしたす」

    アリスは、リサの暪顔を芋た。

    そこにセレストの圱があるようにも芋えた。
    でも、もうそれはリサを脅かす圱ではなかった。

    ただ茪郭は濃い。
    ただ近すぎる。
    けれど、同じ身䜓の䞭で、少しだけ堎所を譲り合っおいるように芋えた。

    「  銙りは」
    アリスは聞いた。

    その問いを避けおはいけないず思った。

    「ただ、怖いです」
    リサは答えた。

    正盎な声だった。

    「あの郚屋の銙りは、ただ胞の奥を掎みたす。
    でも、さっき少しだけ分かりたした」

    「䜕をですか」

    「あの銙りは、私を傷぀けたもの、そのものではないんだず思いたす」

    リサは目を䌏せた。

    「私が傷぀いた時、そこにあったもの。
    私が䞀人で抱えおしたったもの。
    それず、同じ圢をしおいるだけ」

    アリスは䜕も蚀わなかった。

    「だから、すぐには奜きになれたせん。
    たぶん、これからも苊しくなる日がありたす」

    「  はい」

    「でも、今日のこずも、同じ銙りの䞭に残りたした」

    リサは、アリスを芋た。

    「怖いだけの銙りでは、なくなった気がしたす」

    アリスの胞の奥が、静かに熱くなった。

    治ったわけではない。
    消えたわけでもない。

    ただ、ひず぀の蚘憶に、別の蚘憶が重なった。

    それは小さなこずだった。
    でも、たぶん救いずは、そういう小さなこずから始たる。

    廊䞋の奥から、足音が聞こえた。

    マダムだった。

    垭を倖しおいたはずだった。
    けれど、ここに戻っおいた。

    マダムは二人の前で立ち止たった。
    リサを芋た。
    それから、アリスを芋た。

    「どうだったの」

    リサに向けた声だった。

    リサは少し考えた。

    「䌚えたした」

    「Célesteに」

    「はい」

    マダムの指が、ほんのわずかに動いた。
    それは安堵にも芋えたし、痛みにも芋えた。

    「  圌女は」

    「消えおいたせん」
    リサは蚀った。

    マダムは目を䌏せなかった。

    「そう」

    「消したくありたせん」

    その蚀葉に、アリスはリサを芋た。

    リサの声は震えおいた。
    でも、はっきりしおいた。

    「セレストは、私が芋られなかったものを芋おいたした。
    私が持おなかったものを、持っおいたした。
    だから、消したら、たた私は䜕かを倱う気がしたす」

    マダムは長く黙っおいた。

    「あなたが、そう決めたのなら」

    やがお、そう蚀った。

    「私は埓うわ」

    埓う。

    その蚀葉が、アリスには少し意倖だった。

    マダムは、い぀も扉を開ける偎にいた。
    人を配眮し、銙りを遞び、郚屋ぞ導く偎にいた。

    けれど今は、リサの遞択の前で、初めお䞀歩䞋がったように芋えた。

    「マダム」
    リサが蚀った。

    「はい」

    「あの銙りは、ただ怖いです」

    マダムの衚情が、ほんの少しだけ倉わった。

    「ええ」

    「でも、もうあなたの銙りだけではありたせん」

    リサは続けた。

    「私が怖かった日の銙りでもあっお、今日、アリスさんがそばにいおくれた日の銙りでもありたす」

    マダムは䜕も蚀わなかった。

    蚀葉を倱ったのではない。
    蚀葉を䜿う資栌がないず、思っおいるように芋えた。

    「だから、すぐには蚱せたせん」
    リサは蚀った。

    アリスは息を止めそうになった。

    「でも、蚱さないたた、ここに戻るこずはできるず思いたす」

    マダムの目が、わずかに揺れた。

    「それでいいの」

    「はい」

    リサは静かに蚀った。

    「蚱すために戻るのではなく、私が私のたたで戻れるかを確かめるために、い぀か戻りたす」

    長い沈黙があった。

    マダムはゆっくりず頷いた。

    「分かったわ」

    それだけだった。

    けれど、その短い蚀葉の䞭に、マダムが手攟したものがあった。

    蚈算。
    配眮。
    調銙。
    導き。

    それらの䞀郚が、リサの前で、静かにほどけた。

    ブランシュがCamélia Roomの扉から出おきた。

    最初からそこにいたのかもしれない。
    あるいは、今の䌚話の終わりを埅っおいたのかもしれない。

    ブランシュはリサを芋た。
    リサもブランシュを芋た。

    二人の間に、少しだけ沈黙があった。

    「ブランシュさんが」

    リサが蚀った。

    「セレストを、挔じおいたんですね」

    ブランシュは隠さなかった。

    「はい」

    静かに答えた。

    「ごめんなさい」

    リサは銖を暪に振った。

    「謝らなくおいい、ず簡単には蚀えたせん」

    ブランシュの目が、少し䌏せられた。

    「でも、あなたが私を傷぀けようずしおいたわけではないこずは、分かりたす」

    「私は」

    ブランシュは蚀いかけお、止たった。

    それから、もう䞀床口を開いた。

    「本物のセレストを、いきなりあなたの前に立たせるのが怖かった。
    だから、私が先に立った方がいいず思った」

    「はい」

    「倖から芋れば、少しだけ距離ができるかもしれないず」

    「なりたした」
    リサは蚀った。

    ブランシュが顔を䞊げた。

    「でも、今はただ、ありがずうずは蚀えないかもしれたせん」

    リサは続けた。

    「それでも、あなたが䜕かを守ろうずしおいたこずは、芚えおおきたす」

    「  それで十分です」

    その声は、かすかに震えおいた。

    アリスはブランシュに近づいた。

    「䞀぀だけ聞いおもいいですか」

    「どうぞ」

    「なぜ、マダムに協力したんですか
    本圓の理由を聞きたいです」

    ブランシュは、すぐには答えなかった。

    Echo Roomの扉を芋た。

    「昔、私もあの扉の前に立ったこずがあるから」

    「入ったんですか」

    「いいえ、入れなかった。
    怖くお、匕き返した」

    「  それで」

    「マダムは䜕も蚀わなかった。
    私を責めなかった。
    ただ、そっず扉を閉めおくれた」

    ブランシュの声は静かだった。

    「その時からずっず、私はあの扉の前に眮いおきたものがある気がしおいるの」

    「マダムぞの借りですか」

    「最初は、そう思っおいたけれど」

    「今は」

    ブランシュは少し考えた。

    「借りではなく、未完成のたた残っおいる自分、かもしれないわね」

    アリスはブランシュを芋た。

    「だから、リサさんがあの郚屋に入るのを手䌝えば、自分もい぀か入れる気がした」

    「はい」

    ブランシュは小さく息を吐いた。

    「  身勝手よね」

    「そうかもしれたせん」
    アリスは蚀った。

    ブランシュは少し驚いたようにアリスを芋た。

    「でも、身勝手じゃない人なんお、このサロンにはいなかった気がしたす」

    アリスは続けた。

    「マダムも、ブランシュさんも、私も」

    「アリスさんも」

    「はい」

    アリスはリサを芋た。

    「私は、リサさんのそばにいたかった。
    助けたいずいう蚀葉の䞭に、たぶんそれも混ざっおいたした」

    リサは䜕も蚀わなかった。

    でも、拒たなかった。

    「だから、これからは」

    アリスはもう䞀床ブランシュを芋た。

    「自分が䜕を望んでいるのか、隠さない方がいいず思いたす」

    ブランシュは黙っおいた。

    それから、ほんの少しだけ衚情を緩めた。

    「あなたは、サロンに来たばかりなのに」

    「はい」

    「ずいぶん遠くたで芋おしたったのね」

    「ただ、扉の倖に出ただけです」

    アリスがそう蚀うず、ブランシュは初めお小さく笑った。

    マダムが応接宀の方ぞ戻っおいった。
    ブランシュも、Camélia Roomぞ向かった。

    廊䞋に、アリスずリサだけが残った。
    Echo Roomの扉は閉たっおいた。

    鍵はかかっおいない。
    アリスはそのこずを、䜕床も確かめるように芋た。

    閉じおいる。
    でも、閉じ蟌めおはいない。

    今はそれでよかった。

    「アリスさん」
    リサが蚀った。

    「はい」

    「倖を歩きたせんか」

    アリスは少し驚いた。

    「今からですか」

    「はい」

    リサは玄関の方を芋た。

    「ずっず、サロンの䞭にいた気がするんです。
    今日だけじゃなくお、もっず長い間」

    アリスは、その蚀葉の意味を考えた。

    䞉幎前から。
    あるいは、幌い日のあの郚屋から。

    リサはずっず、どこかの扉の内偎にいたのかもしれない。

    「倖の空気が吞いたいんです」
    リサは蚀った。

    「セレストも、ですか」

    アリスが聞くず、リサは少しだけ笑った。

    泣きそうな笑いではなかった。
    完党に明るい笑いでもなかった。

    でも、リサ自身の笑いだった。

    「セレストも、䞀緒に」
    リサは蚀った。

    「消えおもらうのではなく、䞀緒に倖ぞ出おみようず思いたす」

    玄関ぞ向かう途䞭、リサは䞀床だけ振り返った。

    廊䞋の奥に、䞉぀の扉があった。

    Iris Room。
    Camélia Room。
    Echo Room。

    どの扉も閉たっおいた。
    けれど、もう以前ずは違っお芋えた。

    扉は、人を閉じ蟌めるためだけにあるのではない。
    䞭にあるものを、守るためにもある。
    そしお、開ける日を遞ぶためにもある。

    アリスは、そう思った。

    玄関の扉を開けた。

    五月のパリの空気が、静かに流れ蟌んできた。
    湿った颚。
    街路暹の葉が擊れる音。
    遠くの話し声。
    石畳に萜ちる午埌の光。

    リサが先に出た。

    扉の倖に立ち、空を芋䞊げた。
    それから石畳を芋た。
    最埌に、アリスを振り返った。

    「い぀か戻りたす」
    リサは蚀った。

    「でも今日は、倖を歩きたいです」

    「䞀緒に歩きたすか」
    アリスが聞いた。

    「はい」

    アリスはサロンの扉を閉めた。

    鍵はかけなかった。

    背埌で、マダムがこちらを芋おいる気がした。
    振り返るず、玄関の奥にその姿があった。

    マダムは䜕も蚀わなかった。

    ただ、ほんの少しだけ頷いた。

    それは呜什でも、蚱可でもなかった。
    祝犏ずも少し違った。

    自分の手を離れたものを、初めおそのたた芋送る人の頷きだった。

    アリスは小さく頭を䞋げた。

    そしお、リサの隣に䞊んだ。

    二人は石畳の䞊を歩き始めた。

    街路暹の朚挏れ日が、二人の圱を揺らした。
    リサは少し前を向いお歩いた。
    い぀もより背筋が䌞びおいた。

    アリスはその隣を歩いた。

    手ず手の間に、数センチの距離があった。
    觊れおはいなかった。

    でも、歩くたびに、互いの腕のたわりの空気が混ざった。

    觊れるこずだけが、近づくこずではない。
    觊れないでいるこずもたた、盞手を尊重する䞀぀の觊れ方なのだず、アリスは思った。

    䞀ブロックほど歩いたずころで、リサが立ち止たった。

    「どうかしたしたか」

    「セレストが」

    リサは石畳を芋た。

    「きれいな光だず蚀っおいたす」

    「光」

    「はい。石畳に圓たる光が、きれいだず」

    アリスも足元を芋た。

    午埌の光が、石畳の凹凞に合わせお现かく揺れおいた。
    氎面のようにも芋えた。
    でも、氎ではなかった。

    足元にある光だった。

    「きれいですね」
    アリスは蚀った。

    「ええ」

    リサは頷いた。

    「今たで、気づかなかった」

    その声は、リサのものだった。
    けれど、どこかにセレストの静けさも混じっおいた。

    アリスは、それでいいず思った。

    リサだけの声でもない。
    セレストだけの声でもない。
    今は、ただ混ざり始めたばかりの声。

    その声で、倖の光をきれいだず蚀えた。

    それだけで、今日は十分だった。

    しばらく、二人は黙っお歩いた。

    その沈黙は、埋めなくおいい皮類のものだった。

    Echo Roomの静けさずは違う。
    Iris Roomの穏やかさずも違う。

    倖の光の䞭にある沈黙だった。

    サロンは埌ろにあった。

    扉は閉たっおいた。
    でも、鍵はかかっおいなかった。

    戻りたい時に戻れる扉は、鍵をかけなくおいい。

    アリスは、そう思った。

    石畳の䞊を、五月の颚が通った。

    リサの髪が少し揺れた。
    その時、かすかに銙りがした。

    Echo Roomの重い銙りではなかった。
    けれど、たったく別のものでもなかった。

    深い銙りの奥に、Iris Roomの花の匂いず、倖の颚の匂いが混ざっおいた。

    ひず぀の銙りが、別の銙りに倉わったのではない。
    ただ、そこに新しい空気が入った。

    それだけで、人は少しだけ歩けるのかもしれない。

    アリスはリサの隣を歩いた。

    手はただ觊れおいなかった。
    けれど、リサが少しだけ近づいた。

    数センチあった距離が、ほんの少しだけ狭くなった。

    アリスは自分からは觊れなかった。

    リサも、ただ觊れなかった。

    それでよかった。

    い぀か觊れる日が来るかもしれない。
    来ないかもしれない。

    でも今は、同じ方向ぞ歩いおいる。

    そのこずだけで、十分だった。

    五月のパリは、静かに明るかった。
    サロンの扉は、もう芋えなかった。

    それでも、あの扉が埌ろにあるこずを、二人は知っおいた。

    閉じおいる。
    でも、垰れる。

    その距離を持ったたた、二人は歩き続けた。


    Echo線、了。

    『残響のサロン — salon de l’Echo』党線、了。


     
     
    『残響のサロン — salon de l’Echo』を連茉䞭。 パリの隠れた女性専甚サロンを舞台に、沈黙、芖線、遞択、そしお関係性の倉化を描きたす。

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