
#20「おっとり女子大生のゆかり、あんずの香りで男の防衛線を爆破する。」
仕送りと先月の頑張りのおかげで、由香里はようやく念願だった「いち髪」のシャンプーを手に入れていた。
お風呂上がりの髪からふわりと漂う、みずみずしく甘酸っぱいあんずの香り。いつもの割引シールの菓子パンを食べながらも、由香里は自分の髪の毛からする良い匂いに、おっとりと小さな幸福感を噛み締めていた。
けれど、その幸せな気分とは裏腹に、送迎の軽自動車の中は凍りついていた。
(くそ、なんか今日こいつ、やけにいい匂いするな)
「木村さん、今日の夜はお月様がとっても綺麗ですよ」
「あぁ」
「木村さん、あそこのドラッグストア、ミルクティーが5円安くなっていました、飲みます?」
「いらねーよ」
何を話しかけても、木村は頑なに前を向いたまま、地吹雪のような塩対応を返してくる。前回の待機所で、由香里の天然すぎる「木村さんみたいに優しくて、金持ちが良い」という発言によって、彼のガラスのハートは粉々に粉砕されていた。これ以上あいつの無自覚な言動に振り回されてたまるかという、木村なりの必死の防衛線(ひきこもり)だった。
けれど、そんな男の繊細な葛藤など、おっとりした由香里には伝わらない。
(……わたし、何か怒らせるようなことをしてしまいましたかね……)
由香里は助手席でやきもきと眉を下げ、どうにか機嫌を直してもらえないかと頭を悩ませていた。
*
「木村くん、最近ずっと肩に力が入ってるねぇ。なんか心に余裕がない感じだよ」
案内所の待機所。デスクで背伸びをした山本がそんな心配を口にしたとき、ソファで爪を磨いていた祥子が「仕事じゃなくて恋煩いでしょ、あの童貞」とニヤニヤしながら付け足した。
それを聞いた由香里は、ストローをくわえていたミルクティーをそっと机に置いた。
(木村さん、お仕事が大変で、あんなに元気がなかったんですね……。いつもお世話になっていますし、お返しをしなきゃいけませんね)
ちょうどその時、次の現場の指示を受けに、木村が待機所のドアを開けて入ってきた。パイプ椅子にドカッと腰掛け、不機嫌そうにため息をつく木村。
由香里は無言で席を立つと、トボトボと木村の背後に回った。
「あ、おい、何すんの──」
木村が振り返ろうとした瞬間、由香里の両手が、不意に彼のガチガチに強張った両肩へと乗せられた。
「木村さん、肩を揉んであげます」
「ぶっ……! おま、やめ、ろって……っ!」
弾かれたように拒絶しようとした木村だったが、由香里の指先がツボを捉えた瞬間、動きがピタリと止まった。
夜の世界で男たちの身体に触れ、その緊張を「生きるために割り切った手」で解きほぐしてきた由香里の指圧は、いつの間にか素人離れした絶妙な力加減(プロの手つき)になっていた。
「う、わ……っ」
極上の気持ちよさに木村の口から情けない声が漏れる。だが、それ以上に彼の防衛線を木っ端微塵に粉砕したのは、由香里がさらに力を込めようと身を乗り出してきた瞬間だった。
ふわり、と鼻腔をくすぐる、圧倒的に甘くみずみずしい、あんずの香り。 いつもの安いミルクティーじゃない。彼女がずっと欲しがっていた、あの新しいシャンプーの匂いだ。髪が揺れるたびに漂うその香りと、背中に背後から押し当てられる、由香里の豊かな胸の感触──。
(近い近い近い!! っていうか、めっちゃ柔らかいっ!?)
必死に理性の防波堤を築こうとする木村だったが、背中から伝わる体温と、脳を直接麻痺させるようなあんずの香りの前では、砂の城も同然だった。
由香里は凝っている場所を探そうとして、無意識にさらに身を乗り出した。豊かな胸が木村の背中にふわりと触れ、熱を帯びた吐息が耳元をかすめる。
由香里としては、ただ凝っている場所を探しているだけだった。けれど、その指先は夜の仕事でいつの間にか妙に器用になっていた。
「ひ、あ……っ!」
木村の背筋に、電気のような痺れが走る。マッサージというにはあまりに艶かしく、それでいて急所を的確に突いてくるその手つきに、抗う術などなかった。
「ふふ。 お客さんたちの肩を揉んでいるうちに、なんとなくコツを掴んでしまいまして……。あ、ここ、すごく固くなってますね」
由香里は無自覚に、木村の耳たぶに触れそうなほど顔を近づけ、とろけるような甘い声で囁いた。
(……あ、ダメだ。もう、どうにでもなれ……。親父、おふくろ、先立つ不幸をお許しください)
木村の脳内はパニックを超えて、もはや一種の悟りの境地へと至り、顔面が真っ赤なトマトのように沸騰していく。
ソファでその様子を見ていた祥子は、持っていた爪ヤスリで口元を隠しながら、腹を抱えてケタケタと笑い転げた。
「あーあ、木村っちチョロすぎ。塩対応始めてから3分で完全陥落じゃん。由香里ちゃん、その男、もう心拍数が限界突破してるからそこまでにしときな」
「ふぇ? 心拍数ですか……?」
由香里はパチクリと瞬きをして手を離すと、自分の手のひらを見つめてきょとんと小首を傾げた。
木村はパイプ椅子の背もたれに頭をのけぞらせ、真っ白な灰のようになって息を荒くしている。
「あ、木村さん、少しは元気になりましたかぁ?」
「……う、うるせぇ、さっさと次の現場行くぞ」
消え入りそうな声でぶっきらぼうに言い捨て、よろよろと立ち上がって部屋を出ていく木村。その背中からは、あんずの香りがほんのりと移って漂っていた。
由香里は「あ、待ってくださいぃ」とおっとりその後ろを追いかけながら、木村の機嫌が少しだけ直った(ように見える)ことに、ふにゃりと満足げな笑顔を浮かべるのだった。