
財前五郎物語
あらすじ
その男は、人生の敗者に見える者の中から、誰も気づかない輝きを見抜く。
大富豪・財前五郎。
彼の屋敷には、貧困に沈む神童、夢を失った元レーサー、名もなき馬を愛した老執事、制度の狭間で苦しんだ若者たちが集まっていた。
彼らは皆、財前に拾われ、人生を変えられた者たちである。
なぜ財前は、人を救うのか。なぜ傷ついた才能ばかりを見つけ出すのか。
破天荒なお嬢様・真依子と執事山本の不条理な日常、その背後に隠された財前五郎の過去と正体が、拾われた者たちの記憶を通じて少しずつ明かされていく。
これは、笑いと奇跡の屋敷に刻まれた、ひとりの男の救済の物語。
1)神童山本の目覚め
中学生の山本は、放課後の校庭の隅で、地面を這う蟻の行列を凝視していた。
「……情報伝達の効率化。先行個体のフェロモンに盲従するだけの、意思なき集団。この行列に、宇宙の真理など一片も存在しない」
独りごちる山本の声は、隠しきれない飢えと、行き場のない絶望に震えていた。貧困という不条理な重力が、彼の神童としての翼を、地面へと縫い付けていたからだ。
「何をしているんだ? 地べたを這って」
不意に頭上から降ってきたのは、重厚なバリトンの声だった。顔を上げると、そこには夕日を背負った一人の男性が立っていた。
放つオーラは、山本がこれまで出会ったどの大人とも違う。宇宙の深淵をそのまま形にしたような、巨大な質量を感じさせる男だった。
山本は動じず、蟻の特性と、それが示す社会の無意味さについて淡々と語った。
男は「ふむ。神童というのは本当らしいな」と頷いた。
「君は、新堂中学の山本君ではないかね?」
「……僕を知っているのですか。神童、ですか。参考書一冊買えず、宇宙の真理を覗くレンズさえ持てない者に、そんな呼称は虚しいだけです」
「子供は嫌いか?」
男の突飛な問いに、山本は一瞬眉をひそめた。脳裏をよぎるのは、理解不能な行動を繰り返し、不条理を撒き散らす周囲の幼き同胞たち。
「嫌いです。何を考えているのか、全く理解できませんから」
「おや。君にも解らないことがあるのか? 君は、相手を解ろうとしたことがあるのかね?」
心臓を直接掴まれたような衝撃だった。山本は絶句した。
「君にはまだ、知るべきことがある。それは『人の心』だ。いくら難解な数式が解けても、人の心が解らなければ一人前とは言えないだろう。……うちに来ないか。君が望む知識のすべてと、進むべき進路を保証しよう」
「……! 詐欺か、何かですか」
「条件がある。我が家には、少々変わった幼い娘が一人いる。その子の心を開かせることができればの話だが」
男から放たれるオーラが、山本の疑惑を霧散させた。自分と似た、しかし桁違いに強大な、運命の引力。山本は確信した。この男の言葉に従えば、自分は地べたを這う蟻ではなくなると。
「わかりました。そのお子様の心、必ずや開いてみせます」
「それでこそ男だ。石田」
「はっ」
いつの間にか、男の背後に老執事が立っていた。理知的で柔和、しかし隙のない佇まいの老人が、静かにリムジンのドアを開ける。
「旦那様、どうぞ。お坊ちゃんも、ささ、こちらへ」
スルスルと滑り出す巨大なリムジンの車内で、男は予言めいた口調で告げた。
「娘は変わっているが、君なら良き理解者になれるだろう」
窓の外、流れゆく景色が、今までとは全く違う色に書き換えられていく。これから出会う「少女」は、一体どのような不条理を自分に突きつけるのか。山本の思考が初めて心地よい混濁に包まれたところで――。
ハッと目を覚ますと、そこはいつもの執事室だった。
「……ふっ、久しぶりに視ましたね」
時計の針は午前三時五十九分。四時のアラームが鳴る一分前に目覚めるのは、山本の精密な体内時計によるルーティンである。
「おはようございます。旦那様、お嬢様」
四時を刻む瞬間にアラームのスイッチを無音で切り、山本は立ち上がった。燕尾服の皺を伸ばし、鏡の中の自分に微かな笑みを浮かべる。
「今日もわたくしは、全力でお屋敷を守ってみせます。人の心という、宇宙で最も難解な数式を解き明かしながら」
静寂の中、執事山本の新しい一日が始まった。
2)銀色の轍
パキッ、と乾いた音がガレージに響く。
お抱え運転手の瀬名は、漆黒のリムジンに「毛ばたき」を走らせていた。最高級のオーストリッチの羽が、ボディに積もった微細な塵を絡め取っていく。
その瞬間、羽の擦れる音が、あの日の「アスファルトを削るスキール音」に重なった。
――視界が真っ赤に染まる――
GT300、最終コーナー。昇格を賭けた執念の突っ込み。横から強引に割ってきたマシンのノーズ。
衝撃。視界が上下に激しく揺れ、火花の散る音が鼓膜を叩く。爆ぜるオイルの匂い。
「動け……動いてくれッ!」
歪んだロールケージの中で、瀬名は動かない右足に絶望した。
「……ふぅ」
瀬名は短く息を吐き、回想を振り払った。
50代。白髪の混じった頭を小さく振り、ガッシリとした体躯を屈めてタイヤの空気圧を確認する。かつてコンマ1秒を競った男の指先は、今や「1ミリの揺れ」を許さない究極の平穏を追求していた。
リハビリ病院のベンチで腐っていた瀬名の前に、一人の紳士が現れた。
「私のお抱え運転手(ショーファー)にならないか」
その打診を、瀬名は鼻で笑った。
「俺にトロトロ走れってのか? 冗談はやめてくれ」
しかし、旦那様は動じなかった。
「笑う前に、私の車に乗ってみてくれ。君なら、この『意味』がわかるはずだ」
用意されていたのは、銀色のBMW 540i (E39)。
瀬名は後部座席に座り、腕組みをした。内心では、素人の運転にケチをつけてやろうと身構えていた。
だが、車が動き出した瞬間、瀬名の背筋に電流が走った。
「……なんだ、これは」
荒れた路面を走っているはずなのに、車内には一切の微動だに伝わらない。
旦那様は、V8エンジンの溢れるトルクをあえて抑え込み、ベルベットのような滑らかさへと変換して操舵していた。
加速は重力を感じさせず、減衰は絹を裂くように静か。
「速く走るための技術」をすべて「乗員の快適さ」に捧げる。
それは、サーキットでコンマ1秒を削るよりも、遥かに高度で、残酷なまでに精密な「支配」だった。
「これほどのパワーを、これほど優しく飼い慣らすのか……」
その日から、瀬名の新しいレースが始まったのだ。
「瀬名さん」
声をかけたのは、執事の山本だった。
「我に返られましたか。いつもお嬢様の送り迎え、ありがとうございます。もうすぐお嬢様がいらっしゃいます」
瀬名は愛車を見つめたまま、口角をわずかに上げた。
「山本。貴様にも運転のイロハを叩き込んだな。今や、技術だけなら貴様の方が上かもしれん」
「とんでもありません、師匠。私のハンドルには、まだあなたの『魂』が足りません」
山本は深々と頭を下げる。かつての弟子であり、今は屋敷を支える仲間。
「久しぶりに、峠で競いたいものだな」
「今の時代、叶わぬことです。……ですが、いつかまた、あなたと本気でバトルしたい。それが私の本音です」
「フッ。ならば今ここで勝負だ。どちらがより優雅にお嬢様をお運びできるか。」
「望むところです」
その直後、屋敷の重厚な扉が開く音がした。
二人の空気は一瞬で切り替わる。先ほどまでの師弟としての熱を帯びた眼差しは消え、そこには完璧な「執事」と「運転手」が立っていた。
「待たせたわね」
凛とした声と共に、お嬢様が姿を見せた。
「今日もよろしくね、瀬名。留守をよろしくね、山本」
「「畏まりました、お嬢様」」
二人の男が、同時に深く頭を下げる。
ドアが吸い込まれるように閉まり、V12エンジンのハミングが静かに始まった。
黒い輝きを放つリムジンが、まるですり抜けるようにガレージを後にする。
かつての最速王は、今、バックミラーに映る主人の穏やかな微笑みを守るため、世界で最も静かな加速を刻んでいく。
3)追憶のリズム
お嬢様は、遠い日の夢を見ていた。
小学校の授業参観。教室の後ろには、着飾った保護者たちが並んでいる。お嬢様の背後に立っていたのは、父兄の代わりを務める老執事、石田だった。
周りの父親や母親たちは皆若く、子供心にそれが妙に悔しかったのを覚えている。
「お嬢様のところ、おじいちゃんが来てたよね? お父さんとお母さんは?」
放課後、無邪気なクラスメイトの質問に、お嬢様は言葉を詰まらせた。
「……うちは両親とも忙しいの。金持ちも大変なんですのよ」
強がってみせても、「ふーん、お嬢様って可哀想」という何気ない一言が、鋭い棘となって心に突き刺さる。
寂しくなんてない。わたくしには石田も、メイドも、そして山本だっている。
だが、張り裂けそうな孤独を埋めるには、お屋敷で暴れ回るしかなかった。
「山本! メリーゴーランドをやりなさい!」
「はい、お嬢様」
屋敷に来て二年、当時高校生だった見習いの山本は、お嬢様の腕を掴んで勢いよく振り回した。
遠心力で体が浮き、視界がぐるぐると回転する。
「アハハ! 楽しいわ! 山本、もっと速く!」
「畏まりました」
さらに回転を早めたその時、山本の足元が僅かにぐらつき、お嬢様の足がテーブルのグラスを蹴り飛ばした。
ガシャリ、という破砕音。
「山本! お前がついていながら何たる失態だ!」
老執事・石田の厳しい叱責が飛ぶ。
「山本は悪くないわ! わたくしが頼んだの!」
必死に庇うお嬢様を余所に、石田は首を振った。
「執事は完璧でなければならないのです」
その頑なさに、幼いお嬢様は言い返すことができなかった。
楽しい時間は呆気なく終わり、夜。自室のベッドでテディベアを抱きしめる。
(寂しくなんて……ないんだから)
布団を頭から被り、涙を堪えて眠りにつく。
夢の中に現れた見知らぬ女性が、「おいで」と手を広げていた。
「お母様? お母様なの!?」
泣きながら縋り付くと、女性は「良い子ね」と、お嬢様のお尻を優しく、一定のリズムで叩いてくれた。
ぽん。ぽん。
その温もりと心地よさに浸り、幸せな眠りに沈んでいく――。
ぽん。ぽん。
そのリズムがあまりにリアルで、お嬢様はハッと目を開けた。
そこは自室ではなく、昼下がりのソファだった。お嬢様は山本の膝を枕にして、うつ伏せで眠っていたのだ。
そして、今もなお、山本の大きな手がリズムよくお嬢様のお尻を叩いている。
「……っ! な、何をしていますの、山本!」
お嬢様は顔を真っ赤にして飛び起きた。
「お嬢様が涙を流しながら夢を見ておられたので。……昔よく、『山本、お尻ぽんぽんして』とせがまれたのを思い出しまして」
「や、山本のえっち! 変態! 痴漢!」
アホ毛をヘニャヘニャにさせながら罵倒するが、なぜか体に力が入らない。
「失礼に当たるのであれば、もう止めておきますが」
山本が手を引こうとしたその時、お嬢様は真っ赤な顔を背けたまま、蚊の鳴くような声で言った。
「……このまま、続けて」
山本は一瞬だけ目を見開き、それから慈しむような手つきで再び手を添えた。
「畏まりました、お嬢様」
ぽん。ぽん。
静かなお屋敷に、柔らかく温かいリズムだけが、いつまでも響いていた。
4)追憶の地、笠松へ(前編)
昼下がりのお屋敷。お嬢様は、山本の膝の上でうつ伏せになり、心地よい「ぽん、ぽん」というリズムに身を委ねていた。
「……石田は今頃、どうしているのかしら」
ふと思い出したように溢れた言葉に、山本は手を止めずに答えた。
「年賀状も届いておりましたし、音沙汰がないということは、健やかにお過ごしなのでしょう。今は故郷である岐阜の笠松にお住まいにございます」
「競馬で有名なところよね? 競馬かぁ、やってみたいわ!」
「お嬢様は未成年ですので禁止されております。……それに、お嬢様が参戦すれば、その天賦の才により予想が全て的中し、競馬場が破産してしまいますから」
「まさか、大袈裟ですわ。ふふっ」
自分に「不条理な強運」があることを自覚していないお嬢様は、無邪気に笑った。山本は(博打にだけは一生触れさせまい……)と、心の中で固く誓った。
「久しぶりに石田に会いたいわ。山本、その笠松とやらは遠いの?」
「高速道路を走れば、それほどではございません」
「なら、連絡を入れてもちょうだい。週末に伺いますわ!」
山本の電話に対し、石田は「暇にしているから、いつでも構わない」と快諾した。
「やったー!」
お嬢様は喜びのあまり、山本の膝の上で足をバタバタとさせた。
その微笑ましい光景を、部屋の隅から呪わしい眼差しで見つめる影があった。メイドの田中である。
お尻を叩かれて喜ぶお嬢様への嫉妬で、その表情はもはや『貞子』のそれであった。
「あのぉ……私も、連れて行ってくださいぃ……」
「ひっ!?」
あまりの気迫に、お嬢様と山本は断る隙もなく承諾せざるを得なかった。
土曜日の早朝。山本の運転する赤いヤリスは、お嬢様を助手席に、そして狭い後部座席で呪いを振りまく田中を乗せて、岐阜へと走り出した。
「石田さんって、どんな人なんですか?」と田中。
「厳格な方ですね。私も、執事としてのイロハを全て叩き込まれました」
「わたくしなんて、小さい頃によく頭突きをされましたわよ。あはは!」
「えぇっ!? お嬢様に頭突き!?」
驚愕する田中に、山本が笑いながら補足する。
「世界広しといえど、お嬢様に頭突きができるのは石田さんくらいでしょう。お抱え運転手の瀬名さんとも、よく喧嘩をしておられましたね」
「ひぇぇ、おっかなそう……」
「普段は温厚なのよ。ただ、山本への指導だけは凄まじかったけれど」
怯える田中に、お嬢様が意地悪く笑う。
「怖いなら、名古屋で降ろして差し上げますわよ?」
「ひぃぃ!? なんでそんな酷いことが言えるんですかぁ!」
山本の快活な笑い声と、田中の悲鳴を乗せて、ヤリスは快調に高速道路をひた走る。
その先に、石田の待つ「笠松」の町と、彼が隠し持っていた「名もなき芦毛の馬」の物語が待ち受けているとは、まだ誰も知る由もなかった。
5)追憶の地、笠松へ(中編)
木曽川を渡る赤いヤリスのの車内で、お嬢様は窓に顔を寄せるようにして声を上げた。
「見て! 大きな川ですわ!」
「木曽川でございます」
ハンドルを握る執事・山本が、いつもの落ち着いた声で答えると後部座席のメイド田中は、ナビ画面と前方の景色を交互に見比べながら首を伸ばした。
「もうすぐ着くんですかぁ?」
「はい。石田さんのお住まいは笠松競馬場の近くとのことです。ほどなく到着いたします」
その言葉どおり、やがて視界の先に競馬場のスタンドが現れた。
「あっ! あれが競馬場ですのね!」
お嬢様の声は、遠足前日に眠れなかった子どものように弾んでいた。
ナビの案内に従い、赤いヤリスは住宅街の細い道へ入っていく。数分後、一軒の平屋の前で静かに停まった。
すると、到着を時計より正確に読んでいたかのように、玄関先には一人の老人が立っていた。白髪で小柄。しかし背筋はしゃんと伸び、その姿には古い樹木のような芯の強さがあった。
「お嬢様! お久しぶりでございます!」
嬉しさを隠しきれぬ声で老人が頭を下げる。
「石田! 元気にしてましたの?」
お嬢様もぱっと笑顔になる。
「立派なレディになられて……感無量でございます」
石田は目元を潤ませた。
「相変わらずですね」
山本が呆れ半分、懐かしさ半分で言う。
「山本も息災そうじゃのう」
そして石田の目が田中へ向いた。
「そちらのお嬢様は?」
「あ、あうぅ……メイドの田中ですぅ。よろしくお願いしますぅ」
ぺこりと頭を下げる田中に、石田は柔らかく笑った。
「立ち話も何です。どうぞ中へ」
案内された家の中は質素ながら整っており、窓からは競馬場の一部が見えた。まるで馬たちの息遣いが風に混じって届いてきそうな距離だった。
ほどなくして、冷えた緑茶と饅頭が卓に並ぶ。
「遠いところお疲れでしょう。競馬場以外、何もない土地ですが、ゆっくりしていってください」
「この土地は買ったのですか?」
山本が尋ねる。
「いや、生家の土地に平屋を建て直しただけですじゃ」
「本当に競馬場と目と鼻の先ですわね」
お嬢様が窓の外を見やる。
石田は湯呑みを置き、少し遠くを見る目になった。
「なんの縁か、わしは笠松競馬場で厩務員をしておったのです。そこで旦那様に拾われました」
「ええっ!? 石田が馬のお世話を?」
お嬢様は饅頭を落としかけた。
「初耳ですわ!」
「貧しくて、薄給で、雑用も何でもやりました。馬房掃除、餌やり、泥だらけの毎日です。ですが……縁とは不思議なものですな」
石田は小さく笑う。
「まさか、二人の怪物に出会うとは思いませんでした」
「怪物?」
三人の声が揃う。
「はい。田中さん。世の中には、不条理なほど強運を持つ者がおるのです。わしはそれを、この目で見ました」
「へぇ……聞きたいですぅ」
田中が身を乗り出す。お嬢様も目をきらきらさせて頷いた。
「こんな年寄りの昔話でよければ」
石田は静かに語り始めた。
「当時のわしは、金もなく、良い馬も任されず、腐っておりました。そこへ一頭の芦毛の幼駒がやって来たのです」
その声は、遠い厩舎の匂いを連れてくるようだった。
「しかし、その子は……とんでもなく脚が遅かった」
三人は思わず顔を見合わせる。
「八番馬房にいたので、皆からハチと呼ばれておりました。誰も世話をしたがらぬ馬でした」
石田の目が細くなる。
「ですが、その瞳には不思議な気品がありました。笠松のどの馬とも違う、静かな誇りのようなものがあったのです」
だから自分が引き受けた。
脚は遅い。勝てぬ。だがこの品格なら、いつか立派な誘導馬になれるかもしれぬ。
そう信じて、石田はハチを育てた。歩き方、姿勢、物音に驚かぬ胆力。泥にまみれた馬体を磨き、ただひたすらに愛情を注いだ。
「そんな時です」
石田の声が少し低くなる。
「隣の馬房に、もう一頭の怪物が来たのです」
「怪物……?」
「はい。後のオグリキャップです」
「ええっ!?」
部屋の空気が跳ねた。
「本物とは、ああいうものを言うのでしょうな。瞳、背中、立っているだけでわかる王者の気配。若いわしは、ただ圧倒されました」
一方、ハチは走っても走っても負け続けた。決定的に脚が足りなかった。周囲の視線は冷たく、笑う者もいた。
それでも石田は磨き続けた。
泥だらけのその馬体を。
負け癖の染みついたその心を。
「ある日、厩舎と練習場の間の道路を、ハチと横断歩道で渡っておりました」
信号待ちの先頭には、黒いポルシェ911ターボ。
この田舎には似合わぬ猛禽のような車だった。
「運転席の男が、じっとこちらを見ておりました」
石田は笑った。
「若かりし頃の旦那様です」
「お父様、昔からポルシェ好きですのねえ」
「当時は黒だったのですね」
「湾岸に現れる黒い怪鳥、ブラックバードと呼ばれておりました」
「ブラックバード!?」
山本ですら珍しく驚いた。
「ええ。それはもう、とんでもなく速く。危ないのでお止めくださいと何度諫めたことか」
石田は肩をすくめた。
「のちに、優しく運転する喜びを知ったようですが」
部屋に笑いがこぼれる。
やがて石田は再び真顔に戻った。
「ハチと、ハツラツ。後のオグリキャップは仲良しでな。よく一緒にじゃれておりました」
だが現実は分かれ道だった。
オグリキャップはデビューから連勝し、世間の熱狂を背負って中央へ旅立つ。
やがて競馬界を席巻する伝説となる。
片やハチ。正式名ハクリョウ。
勝てず、負け続けた。
そして追い打ちのように、馬主が破産寸前となった。
「勝てぬ芦毛など要らぬ。処分する話まで出ました」
お嬢様たちの表情が曇る。
「わしは必死に訴えました。将来きっと立派な誘導馬になります、と。しかし……どうにもならなかった」
石田は湯呑みに手を添えた。
「万事休す。そう思った、その時です」
静かな部屋に、競馬場から遠く歓声が流れてくる。
石田はゆっくり顔を上げた。
「もう一人の怪物が現れたのです」
6)追憶の地、笠松へ(後編)
あの時、もう一人の怪物が現れたのです。
石田のその一言に、部屋の空気がすっと張りつめた。
お嬢様も、山本も、そして先ほどまで井戸から這い出てきそうな無表情を漂わせていた田中までもが、今や好奇心の塊となって石田を見つめている。
「……万事休す。そう諦めかけた私の前に、もう一人の怪物が現れたのです」
石田の視線は、遠い日の笠松の空を映していた。
「その方は、あの信号待ちの時と同じ、黒いポルシェから降り立ちました。破産寸前の馬主が、処分を急ごうとハチを家畜運搬車へ追い込もうとしていた、その時です」
石田は一拍置き、当時の声色をなぞるように低く告げた。
『その馬を、わたくしが買い取ろう』
「お父様……!」
お嬢様が思わず小さく声を漏らす。
「はい。旦那様は、借金の肩代わりはおろか、その場にいた全員が言葉を失うほどの額を提示されました。そして、私にこう仰ったのです」
石田は背筋を伸ばし、どこか誇らしげに続けた。
『君が、この芦毛を磨いた男か。信号待ちのわずかな時間、わたくしは君たちの歩様に見惚れて、危うくブラックバードのクラッチを繋ぎ損ねるところだった。……馬の次は、わたくしの人生を磨いてみないか?』
田中が息を呑み、山本は無言で眼鏡を押し上げた。
「昔、湾岸に黒い怪鳥が現れていたと噂で聞いたことがありますが……もしや」
「ええ」
石田は静かに頷く。
「旦那様は、ハチ……のちのハクリョウが放つ、負け続けても折れぬ品格を一目で見抜いておられた。隣の馬房にいたオグリキャップが王者のオーラなら、ハチにはその対極があったのです」
石田の目が細くなる。
「不条理なまでに静かな、『徳』のオーラでございます」
「あうぅ……なんだか、すごい話ですぅ……」
田中がぽやんとした声で呟く。
「石田さんは、その時お屋敷へ行くと決めたんですかぁ?」
「ええ。この御方なら、私の理想とする究極の給仕を実現させてくださる。そう直感しました」
石田は懐かしそうに笑った。
「ハチは、新冠にある旦那様のお知り合いの牧場へ移され、私はそこで初めて執事の制服に袖を通したのです」
「知ってるわ! 『Eカップ』でしょ! 行ったことありますもの!」
「『にいかっぷ』でございます」
山本が咳払いをひとつし、お嬢様はみるみる顔を赤くした。
「……言い間違えただけですわ!」
「堂々と言い切られましたが」
「山本、うるさいですわよ!」
石田は、そんなやり取りを目を細めて見つめていた。
「ハチはその後、旦那様の手厚い支援により、最高級の誘導馬として各地の重賞レースで活躍しました。引退の日まで、一糸乱れぬ歩様で後輩たちを導き続けたのです」
窓の外から、遠く競馬場のざわめきが聞こえる。
「真っ白になったその姿は、かつて泥まみれで道路を渡っていた頃とは、まるで別の生き物のようでしたよ」
「……素敵なお話ですわ」
お嬢様が珍しくしんみりと呟く。
「山本。わたくしも、お父様のような審美眼を持ちたいものですわね」
「お嬢様には、すでにそれ以上の才能がございます」
山本が柔らかく微笑む。
「石田さんがハチに見出した気品。旦那様が石田さんに見出した忠誠。そして今、お嬢様が私に振るわれる……」
一瞬の間。
「私の脛を正確に砕く脚力」
「……最後のは余計ですわよ!」
お嬢様の軽やかな蹴りが山本の脛に炸裂した。
乾いた音が響く。
「見事な再現性でございます」
「褒めてませんわよ!」
石田は肩を揺らして笑い、冷めかけた緑茶をひと口啜った。
「ところで、お嬢様はもう山本に告白されたので?」
「な、なにを言い出しますの!? 石田!」
「昔、『山本と結婚するー!』と、毎日のように仰っておられましたからなあ」
「あ、あれは子供の時の話でしょう!?」
お嬢様のアホ毛が、しおれた草花のようにへにゃりと垂れる。
山本は口元を押さえて笑いを堪え、石田は実に楽しそうだった。
その隣で田中だけが、再び感情を置き忘れたような無表情に戻っている。
まるで、役目を終えた貞子であった。
木曽川の川風が、開けた窓から静かに吹き抜ける。
かつて名もなき芦毛の馬が渡った交差点の信号機は、今も変わらず、青と赤を繰り返していた。
7)真依子
狭いユニットバスに、ジャーッというシャワーの音が響き渡っていた。
お嬢様は、その音の大きさに思わず肩をすくませた。
(これでは、わたくしがどれほど緊張しているかまで、山本に伝わってしまいますわ……)
湯気のこもる鏡には、赤くなった自分の顔が映っていた。
ここは、いつもの広いお屋敷ではない。
天井の低い、和光市のしなびたビジネスホテル。
ふかふかのソファも、センチュリーも、山本の淹れる紅茶もない。
あるのは、小さなベッドと、薄い壁と、逃げ場のない沈黙だけだった。
一方、山本は部屋の隅で壁を向き、直立不動を貫いていた。
「……無心。無心でございます」
そう呟きながらも、浴室から聞こえる物音の一つひとつが、妙に鮮明に耳へ届いてしまう。
石鹸の落ちる音。
お嬢様が小さく慌てる声。
シャワーを止めた後の、しんとした沈黙。
山本は目を閉じた。
(これは試練……いえ、修行……いえ、もはや人生そのもの……)
やがて、浴室のドアが開いた。
湯気とともに現れたお嬢様は、白地にピンクのパジャマを着ていた。
いつもの高慢な表情はなく、どこか心細そうに袖口を握っている。
「や、山本。あなたも浴びてらっしゃい」
「畏まりました」
山本は深々と一礼した。
だが、いつもの執事らしい動きとは違い、その背中には明らかなぎこちなさがあった。
お嬢様はベッドの端に腰かけた。
布団の奥には、瀬名から託された小さな袋が隠されている。
渡された時には顔から火が出るかと思ったが、今となっては、その重みが妙に現実味を帯びていた。
(わたくし、本当に……今夜、山本と……)
そこまで考えて、お嬢様は両手で顔を覆った。
山本のシャワーの音が、部屋に響く。
お屋敷なら、こんな音はきっと聞こえない。
広い浴室、厚い扉、遠い廊下。
いつもなら守られている距離が、今夜だけはすべて取り払われている。
やがて、山本が戻ってきた。
グレーのパジャマ姿の山本は、普段の燕尾服とはまるで違って見えた。
筆頭執事ではない。
ただ、一人の男性として、そこに立っていた。
しばらく、二人は何も言えなかった。
薄いカーテンの向こうで、遠くの車の音が流れていく。
先に口を開いたのは、お嬢様だった。
「山本」
「はい」
「わかっているわね。わたくしが、ここにいる意味を」
山本はすぐには答えなかった。
いつものように軽く受け流すことも、冗談でごまかすこともできた。
けれど今夜だけは、それをしてはいけない気がした。
山本は静かに膝をつき、お嬢様の前で深く頭を下げた。
「お嬢様。私は、ずっとあなたをお守りしてきました」
「ええ」
「ですが今夜は、守るだけではなく……あなたのお気持ちに、正面から向き合いたいと思います」
お嬢様の目が揺れた。
「山本……」
「怖ければ、ここで止めます。迷いがあるなら、今夜は眠るだけでもよいのです。私は、それでも構いません」
その言葉を聞いた瞬間、お嬢様の胸の奥で、張り詰めていたものが少しだけほどけた。
山本は、急かしていない。
奪おうとしていない。
ただ、自分が手を伸ばすのを待っている。
お嬢様はゆっくりと手を伸ばし、山本の頬に触れた。
「怖いわ」
「はい」
「でも、嫌ではないの」
「……はい」
「ずっと、あなたが好きだったのよ。山本」
山本の表情が、わずかに崩れた。
それは執事としての顔ではなかった。
長い年月、胸の奥にしまい続けてきた想いが、ようやく許された者の顔だった。
「私もです」
山本は、かすれた声で言った。
「ずっと、お慕いしておりました。真依子様」
その名で呼ばれた瞬間、お嬢様の瞳に涙が浮かんだ。
お屋敷では、山本はいつも「お嬢様」と呼ぶ。
それは役目であり、距離であり、二人を守る境界線でもあった。
けれど今夜だけは、その境界線が静かにほどけていく。
山本は立ち上がり、そっとお嬢様の隣に腰を下ろした。
二人の肩が触れる。
それだけで、お嬢様の心臓は跳ね上がった。
「山本」
「はい」
「もう一度、名前で呼んで」
山本は、少しだけ困ったように微笑んだ。
「真依子様」
「……様はいらないわ」
山本は息を呑んだ。
そして、今度はごく小さな声で言った。
「真依子」
その瞬間、お嬢様は山本の胸に飛び込んだ。
山本の腕が、ゆっくりと背中に回る。
抱きしめる力は強すぎず、弱すぎず、まるで壊れ物を包むようだった。
「山本……」
「はい」
「わたくし、変ではない?」
「何がでございますか」
「こんなに緊張して、こんなに怖がって、それでもあなたに近づきたいと思っていること」
山本は、お嬢様の髪を優しく撫でた。
「変ではありません。とても、あなたらしいです」
「それ、褒めているの?」
「この山本、全身全霊で褒めております」
「ふふ……本当に?」
「はい。少し強がりで、少し臆病で、それでも最後には自分の気持ちに正直であろうとなさる。私の知る真依子は、ずっとそういう方です」
お嬢様は、山本の胸元に額を押しつけた。
「ずるいわ。そんなふうに言われたら、泣いてしまうじゃない」
「泣いても構いません」
「では、泣かないわ」
「そこは泣いてくださってもよろしいのですが」
「意地ですわ」
そのやり取りに、二人は小さく笑った。
笑えたことで、部屋の空気が少しだけ柔らかくなった。
張り詰めていた夜が、ようやく二人のものになっていく。
山本は、お嬢様の頬に触れた。
「よろしいですか」
お嬢様は、目を閉じた。
「ええ」
唇が重なった。
それは激しいものではなく、確かめるような口づけだった。
長い時間をかけて積み重ねてきた信頼が、言葉の代わりに静かに流れ込んでくる。
何度も、何度も、確かめ合う。
お嬢様は震えていた。
山本もまた、震えていた。
完璧な執事など、そこにはいなかった。
世間知らずのお嬢様でも、万能の山本でもない。
ただ、不器用に想いを抱えた二人が、ようやく同じ場所に立っていた。
「山本」
「はい」
「最後に、ひとつだけ約束して」
「何なりと」
「明日の朝になっても、いつものように紅茶を淹れて」
山本は一瞬目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。
「もちろんでございます」
「何もなかったみたいに、ではないわ」
「はい」
「ちゃんと、今夜のことを覚えたまま、いつもの紅茶を淹れて」
山本は、お嬢様の手を取った。
「承知しました。今夜のことを忘れず、これからもあなたのそばにおります」
お嬢様は安心したように頷いた。
その後のことは、言葉にする必要がなかった。
薄い壁の向こうで、どこかの部屋のテレビの音がかすかに聞こえていた。
窓の外では、夜の道路を車が一台、また一台と通り過ぎていく。
世界はいつも通りに動いている。
けれど、二人の間にある何かだけが、静かに形を変えた。
長い主従の時間が終わったわけではない。
お嬢様と執事であることも、きっと明日から続いていく。
ただ、その奥にもう一つ、誰にも見えない名前のない絆が生まれた。
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む淡い光の中で、お嬢様は目を覚ました。
隣には山本がいた。
山本はすでに起きていたらしく、ベッドの端にきちんと座っている。
その姿勢があまりに山本らしくて、お嬢様は思わず笑ってしまった。
「あなた、こんな朝まで姿勢がいいのね」
「職業病でございます」
「もう。変な人」
「お褒めにあずかり光栄です」
山本は立ち上がり、備え付けの小さなポットで湯を沸かした。
ホテルの安いティーバッグを取り出し、紙コップに注ぐ。
お屋敷の紅茶とは比べものにならない。
香りも浅く、カップも味気ない。
それでも、山本はいつもと同じように、丁寧にお嬢様へ差し出した。
「おはようございます、真依子様」
お嬢様は紙コップを両手で受け取った。
「おはよう、山本」
一口飲む。
正直、お屋敷の紅茶の方がずっと美味しい。
けれど不思議と、その朝の紅茶を、お嬢様は一生忘れないだろうと思った。
和光市のしなびたビジネスホテル。
狭い部屋。
安い紙コップ。
薄いカーテン。
そして、隣にいる山本。
不条理な夜は終わった。
けれど二人の日常は、少しだけ形を変えて、また始まろうとしていた。
8)山本譲二
夏休みの午後、エアコンのよく効いた広間のソファで、お嬢様は心地よい冷気に包まれながらうたた寝をしていた。
微睡み(まどろみ)の深い淵へと沈んでいくお嬢様の脳裏に、いつかの遠い、幼き日の記憶が鮮やかな色彩を持って蘇ってくる。
――それは、まだお嬢様がほんの小さな子供だった頃の、ある日のこと。
「おとうさまー。わたくし、おねがいがあるの」
「なんだい? 真依子」
新聞から顔を上げたお父様が優しく聞き返す。お嬢様はまっすぐお父様を見つめて、無邪気な声をあげた。
「あのね、おにいさまがほしいの」
唐突で、けれど子供らしい我が儘な願いに、普段はどんなことにも動じないお父様が、珍しく困惑の表情を浮かべた。
「真依子……お兄さんはね、欲しくても無理なんだよ」
「どうしてー?」
不思議そうに首を傾げるお嬢様。お父様は「うーん……」と困ったように唸るばかりだった。
小さなお嬢様は、女の子とのお人形さんごっこよりも、男の子と一緒に外を走り回って遊ぶのが大好きだった。
幼少期からワンパクだったお嬢様に、たじろぐことなく全力でついてこられるのは男の子しかいなかったのだ。
メイドたちに囲まれてお行儀よくお人形を並べる遊びに、お嬢様は子供心にどこか物足りなさを感じていたのである。
そんなある日の、夕暮れ時のことだった。
お父様が、当時の筆頭執事であった石田と一緒に、一人の少年を連れてお屋敷に帰ってきた。
(……だれだろう?)
お嬢様は玄関の影から、メイドの後ろにひょこっと顔を隠しながら、その少年をじっと盗み見た。
少年は、まるで他人のものを譲り受けたかのような、ぶかぶかで着古した学生服を身に纏っていた。
その佇まいには、子供とは思えないほどのどこか深い憂いが帯びていたが、同時に、お嬢様にしか感じ取れないような、内側から迸る(ほとばしる)激しい情熱のようなものを発しているようにも思えた。
正直に言って、少しだけ怖かった。
お父様が、その少年をお嬢様の前に立たせる。
「真依子、今日からこのお屋敷で一緒に暮らすことになった、山本譲二(やまもと じょうじ)くんだ。お兄様ではないけれど、お兄様のように一緒に遊んでくれるぞ」
「おにいさま……? わたくしといっしょに、あそんでくれるの!?」
お嬢様は、自分よりもずっと身長が高く、鋭い眼光を持ったその少年を、改めてまじまじと見つめた。
山本少年もまた、じっとお嬢様を見つめ返している。だが、その瞳はお嬢様を見ているようでいて、もっと先の、何か遠くの別のものを見つめているようだった。うまく言葉にできない不思議な感情に、幼いお嬢様はもどかしさを覚えていた。
少年は、お嬢様に向かって静かに頭を下げた。
「お嬢様。山本譲二です。……『山本』とお呼びください」
冷徹な、どこか大人びた声だった。しかし、その響きの奥には、決して冷たいだけではない本質的な優しさが含まれているのを、お嬢様は敏感に察知していた。不思議と、もう彼のことを怖いとは思わなかった。
その日は、執事石田が「少年の着替えや生活の用意をせねば」と山本を別の部屋へと連れて行ったため、それ以上言葉を交わすことはなかった。
翌朝、お嬢様が目を覚まして廊下に出たとき、山本少年はすでに真新しい黒い学生服に身を包み、学校へ出かける準備を整えていた。
お嬢様の姿を見かけると、彼は立ち止まり、綺麗なお辞儀をした。
「おはようございます、お嬢様。中学校に行って参ります」
丁寧な挨拶を残し、彼は迎えの車に乗って出かけていった。
夕方、お嬢様が食堂の椅子に座り、晩御飯を今か今かと心待ちにしているところへ、山本が帰ってきた。
「ただ今戻りました」
「お、おかえり、やまもと!」
お嬢様が声をかけると、山本は小さく笑おうとした。けれど、まだこのお屋敷に慣れていないせいか、うまく笑顔を作ることができずに少し顔を強張らせた。お嬢様はテーブルをトントンと叩きながら、少年に向かって言った。
「やまもと。わたくしといっしょにあそんで?」
「畏まりました、お嬢様」
山本は丁寧に一礼すると、お嬢様の隣に腰掛けた。
お嬢様が持ってきたのは、上質な高級画用紙と、きらびやかな200色はあるかと思われる見事な色鉛筆のセットだった。
「おえかきしてあそぼーっ!」
「お絵描き、でございますか……」
山本は何を描けばよいのか、しばらく鉛筆を握ったまま静かに悩んでいる様子だった。しかし、やがて意を決したようにサラサラと手を動かし始めた。
彼が描き上げたのは、まるでお屋敷を外からじっくりと観察しながら模写したかのような、寸分の狂いもない、完璧な「お屋敷の全景画」だった。線の一本一本が美しく、まさに完璧。少年がこのお屋敷で暮らすと決めたその日に、自らの網膜に焼き付けた光景そのものを、凄まじい才能で描ききったのだ。
しかし――小さな小さな今のお嬢様にとって、毎日見ているお屋敷の絵など、何ら刺激のないつまらないものだった。
「やまもと。とってもじょうずだけど……おもしろくないわ」
お嬢様が口にしたその一言は、山本少年の心に、極めて強く、そして鋭く突き刺さったようだった。
普段の冷静さが嘘のように、山本は分かりやすく動揺した。
しかし、次の瞬間、彼は「そうか……!」と何かに気づいたかのように、その鋭い瞳をキラリと輝かせた。
山本は別の新しい紙に向かうと、パステル調の色鉛筆を手に取り、猛烈な勢いで即興の絵を描き始めた。
そこに現れたのは、可愛らしい天使たちが広い空をパタパタと楽しげに飛び回る、おとぎ話のような世界だった。
天使たちの手には小さなラッパと、なぜか真っ赤な「りんご」が握られている。ふわふわとした綿菓子のような雲と、世界を優しく照らすオレンジ色の太陽。
淡く、優しい色彩で満たされたその可愛い絵を見た瞬間、お嬢様の目がキラキラと星のように輝いた。
「やまもと! すごくじょうず! とってもかわいいわ!!」
頭頂部の小さなアホ毛がぴょこんと立ち上がった。お嬢様は大層喜び、手を叩いてはしゃいだ。
そんなお嬢様の笑顔を見た山本は、それまでの強張った表情をすっかり崩し、少年のものらしい、本当に優しい声でお嬢様に言った。
「どうぞ、お嬢様。この絵に、お嬢様の描きたい絵を、好きなように足してください」
「え? こんなにじょうずにかけているのに、うえからかいていいの?」
困惑するお嬢様に、山本は「良いんですよ」と微笑みながら、空飛ぶ天使の横に小さなクマさんの絵を描き足し、その背中にちょこんと小さな羽をつけてみせた。
「絵は、自由であるべきです。さぁ、お嬢様もお好きな絵を描いてください」
「うん! わたくしもかくわ!」
お嬢様は嬉々として色鉛筆を握りしめると、お世辞にも上手とは言えない不恰好なライオンや、丸っこいブタの背中に大きな羽を描き足し、天使たちの住む空へと次々に浮かべていった。
「大変お上手でございます、お嬢様。……よし、ここにはロケットも飛ばしましょう」
「わたくしは、まっかなしょうぼうしゃをかくの!」
二人が大きな画用紙いっぱいに描き上げた、賑やかで不条理で、世界で一番温かい共同作品を見て、古参の執事石田は大層喜んだ。
「お嬢様、とても素晴らしい絵でございますな。……山本、お前は本当に素晴らしい才能を持っている」
お屋敷の住人たちに囲まれて褒めちぎられ、山本少年は耳をほんのり赤くしながら、恥ずかしそうにハニカんだ。お嬢様はそんな山本の学生服の袖をぐいぐいと引っ張る。
「やまもと! こんどは、おにわでかけっこしましょう?」
「はい、お嬢様。どこまでもお供いたします」
二人は弾かれたように、広大なお屋敷の長い廊下を、笑いながら全力で駆け抜けていった。
通りすがるメイドたちが「お、お嬢様!?」と驚いて足を止める。けれど、誰も二人を叱ろうとはしなかった。なぜなら、その時のお嬢様の顔が、これまで見たこともないような飛び切りの笑顔で溢れていたからだ。
山本という一人の少年の登場によって、お屋敷の空気は、まるですべてがパステルカラーに塗り替えられるように、優しく変わっていくのだった――。
「……やまもと……わたくしと……けっこんして……っ」
広間のソファの上、お嬢様は寝言を呟きながら、夢の中で山本に向かって手を伸ばしていた。
夢の中の山本少年は、やっぱり少し困ったような、けれどどうしようもなく愛おしそうな顔をしてお嬢様を見つめている。
そして、小さな小さなお嬢様をその広い肩にヒョイと肩車して、お屋敷の向こうに沈んでいく、燃えるような夕暮れの景色を二人で眺めていた。
お嬢様は、彼の肩の上で、その温もりを感じながら不思議に思う。
(やまもとは……どこをみているの?)
少年の眼差しの先にあるものが、幼いお嬢様にはまだ分からなかった。けれど、お嬢様は彼の髪を小さな手で弄びながら、心の底から強く願うのだった。
(やまもとのみているものが、わたくしもみたい――)
ツクツクボウシの鳴き声が、遠くの庭から微かに聞こえてくる。
エアコンのよく効いた広間で、お嬢様は幸せな夢の温もりに包まれたまま、静かに寝返りを打つのだった。
9)迷子と瀬名
お屋敷のお抱え運転手・瀬名がお嬢様を学校に送り届け、屋敷に戻る道中のことだ。
黒塗りのセンチュリーを走らせていると、前方の歩道に一人、三輪車を漕ぐ幼女を見かけた。
このあたりに民家はない。一人でここまで来たのか?
瀬名は車を停めるか迷ったが、センチュリーのハザードランプを点灯させ、幼女の近くに停車した。
「子供は苦手だが……」と思いながらも、窓を開けて声をかける。
「お嬢ちゃん、どこから来たんだ? お母さんは?」
白髪混じりの男に声をかけられ、幼女は怯えた顔をした。
「おじさんは悪い人じゃない。お家はどこだ?」
「あっち」
幼女が遥か彼方を指差す。そこには確かに分譲住宅地があるが、あまりに遠い。
「一人でここまで来たのかい?」
「うん。三輪車で来た」
得意げに答える幼女。その懸命にペダルを漕ぐ足を見て、瀬名は右足の古傷が疼くのを感じた。
かつてサーキットで全てを失ったあのクラッシュ。リハビリを重ねても戻らなかった、レーサーとしての「感覚」。
「……大した根性だ。だが、その足じゃあ、もう限界だろう」
警察を呼ぶ手配を済ませた瀬名は、ひとまず彼女を落ち着かせようと「お嬢ちゃんは車好きかい?」と尋ねた。
「あんまりすきじゃない」
即答だった。車馬鹿の自分には、車以外の話題が頭に浮かばない。瀬名は仕方なく、自分の知っている唯一の「昔話」をしてあげることにした。
「昔、東京の高速道路に、黒い怪鳥『ブラックバード』という車乗りがいてな」
「くろい? かいちょー? ぶらっくばーど? おじさんのこと?」
「違う。おじさんではなく、私がお仕えしているご主人様……旦那様の話だ」
「ごしゅじんさまエライ?」
「それは偉いとも。……俺が逆立ちしても勝てなかった御方だ」
瀬名は、挫折の淵にいた自分をスカウトしに来た旦那様の姿を思い出す。あの時、旦那様が駆るBMWが見せた、水面を滑るような、それでいて暴力的なまでに「優雅な走り」。あれを見た瞬間、最速だけを追い求めていた瀬名の世界は崩れ去ったのだ。
「わたしはしらないよ?」
「お嬢ちゃんはまだ子供だからな」
瀬名は言葉を継いだ。そのブラックバードと呼ばれた旦那様は、真っ黒なポルシェという車で、新幹線と同じスピードで高速道路を走り回っていたのだと。
「はやいの?」
「速いってものじゃない。新幹線と同じだ」
「のったことある! でも、はやくなかったよ?」
「うむ。確かに乗車中は速さを体感しにくいか……。まぁ、本当はめちゃくちゃ速いんだ」
瀬名は旦那様のライバル、古いフェアレディZ――「悪魔のZ」に乗る男との決着がつかなかった話を始めた。
「どうして?」
「それは、Zが高速道路で『風の抵抗』に耐えきれなくなり、吹き飛んでしまったからだ」
「かぜのていこう?」
幼女の首が傾く。瀬名は言葉に詰まった。三歳か四歳の子供にどう説明すればいい。
「うむ。物凄く速く進むと……その、『空気の壁』に遮られるのさ」
「くうきにかべがあるの?」
「……そうだ。普段は目に見えないが、時速300キロを超えれば、空気はコンクリートの壁と同じ硬さになる。その壁に弾き飛ばされて、彼は死んだ。……粉々になってな」
「しんだの?」
幼女の目が潤み、今にも泣き出しそうになる。
瀬名は「しまった」と内心で舌打ちした。
「あ、いや、泣くな。死んだと言っても、その、魂は風になったというか……。とにかく、バラバラの鉄屑になって、ガソリンの匂いと共に夜の闇に消えたんだ。……余計に怖いか」
瀬名は額の汗を拭った。仕事の交渉ならいくらでもこなせるが、子供の情緒を扱うマニュアルは持ち合わせていない。
「……とにかく、死ぬほど速く走ることに、何の意味もなかったんだと、残された者は思い知らされるのさ」
瀬名の声が少し沈んだ。唯一のライバルであり友であった男を亡くし、旦那様は悲しみ、自分が如何に愚かなことをしていたか気づいたのだと語る。
「おろか? おろかってなに?」
「……狂ってたのさ。あの頃の俺たちは、誰よりも速ければ、それだけで何にでもなれると信じていた」
それ以来、ブラックバードは高速から姿を消し、速く走らせるのをやめた。
「あぶないもんね」
「そう。お嬢ちゃんの言う通りだ。危ないし、大切な人を失うって解ったから、大好きな車を速く走らせるのではなく、優雅に走らせることにしたのさ。だからお嬢ちゃんも、交通事故に遭わないように気をつけなきゃいけない。お母さんを放ったらかして、遠くに一人で出ちゃいけないんだよ」
「はーい。おかあさん、きんじょのひととずっとはなしてて、ひまだった」
なるほど、と瀬名は納得した。
やがてパトカーがやってきた。お屋敷のセンチュリーだと気づいた警察官が、オドオドしながら「連絡ありがとうございます!」と駆け寄ってくる。
「お嬢ちゃん、もうお家に帰れるよ。もう一人で遠くに出かけちゃ駄目だぞ」
瀬名がそう言ってセンチュリーに戻ろうとすると、幼女――明日菜がぺこりとお辞儀をした。
「おじさん、ありがとう」
「ちゃんとお辞儀ができて偉いぞ。じゃあな、お嬢ちゃん」
軽く手を振り、瀬名は車を発進させた。バックミラーに映る明日菜が「ばいばい、おじさん!」と手を振っている。
(お嬢様も、昔からメンタルだけはタフだったな……)
(……やはり、似ている) 車を発進させ、瀬名は独りごちた。
幼い頃のお嬢様を思い出し、瀬名はフフと笑みを浮かべてハンドルを切る。旦那様から受け継いだ「優雅な走り」で、お屋敷への帰路についた。
10)見守り隊No.13の回顧録、あるいは制度の光と影
彼のコードネームは『お嬢様見守り隊員No.13』。
普段の彼は、都会のオフィスに籍を置く敏腕経営コンサルタントである。手がける事業はどれも軌道に乗り、今や若き成功者として名を馳せていた。しかし、そんな彼には「何よりも優先すべき絶対の使命」がある。
お嬢様が一人でお使いに行くなど、少しでも危険な目に遭いそうな気配を察知した瞬間、彼はどれほど重要な大企業の案件を抱えていようとも、全ての仕事を放り出して現場へと「馳せ参じる」のだ。
彼がこれほどまでにお屋敷に忠誠を誓うのには、ある理由があった。
元々、彼はごく普通の中流家庭の生まれだった。
父親も母親も真面目に働き、なんとか人並みの生計を保っていた。
しかし、そんな彼の家に、ある日小さな、しかし決定的な悲劇が襲う。
母親が若くして重度のリウマチを発症したのだ。進行は予想以上に早かった。生活のため、家計のためにと母親は無理をしてパートの仕事を続けて身体を酷使し、結果として病状は最悪のレベルまで悪化してしまった。
働き手は、父親一人になった。
家の経済状況は、坂道を転がり落ちるようにみるみる悪化していった。
当時、少年だった彼は国公立大学への進学を目指して猛勉強に励んでいたが、それどころではなくなりつつあった。
一番の不条理は、父親の所得が「そこそこ」あったことだ。困窮しているのは事実なのに、書類上の数字のせいで、国や大学の『授業料減免対象』の基準からわずかに外れてしまう。
これがいわゆる、中流家庭の限界ゾーンの悲劇だった。
「なんとかするしかない……!」
少年は高校に黙って、深夜のコンビニや牛丼屋のアルバイトを転々とした。当然、睡眠時間は削られ、あんなに得意だった勉強もおろそかになっていく。
父親は「無理して大学に行かなくても、高卒で無難な大企業に入ればそこそこの収入は確保できる」という現実的な考えの持ち主だった。
しかし、少年は自分の才能を信じたかった。経営コンサルタントになって、いつか社会を動かすのが夢だったのだ。
まだ17歳。俺の人生は、このまま貧困の連鎖の中で決まってしまうのか。
母親の治療費や病院へのタクシー代で、貯金は底を突きかけていた。
絶望に押しつぶされそうになりながら、少年が最後にたどり着いたのは、とある広大なお屋敷の『庭師のアルバイト』だった。とにかく、時給が破格の高さだったのだ。
見渡す限りの広大な庭園。延々と木々を手入れしても、次から次へと新しい草木が伸びてくる。
少年は学校を休んででも出席日数の限界ギリギリを攻め、一心不乱に枝切りバサミを動かした。
切って、切って、切って――。
気づけば、辺りは夕焼けに染まっていた。ふと自分の両の手のひらを見ると、マメが潰れてボロボロになっていた。
張り詰めていた糸が、プツリと切れた。
思わずこぼれた涙は、堰を切ったように溢れ出し、少年は庭の隅で声を上げて男泣きしてしまった。
「――どうしてないているの?」
後ろから、鈴を転がすような高い声がした。
振り返るまでもない。このお屋敷の、まだ幼いお嬢様だった。
お嬢様は何不自由のない豪華な生活をしている。俺の苦労なんて、きっと分かりはしないのだ。
「かなしいことがあったの?」
少女の純粋な質問が続く。間違っても雇用主の娘だ、無礼を働くわけにはいかない。本当は「あっちへ行ってくれ」と叫びたかったが、その少女は、ふんわりと微笑んで、手に持っていたクッキーを少年に差し出した。
どうせ話したところで、この世間知らずの小さな少女に意味など通じない。
けれど、少年は胸の奥に溜まりに溜まった泥のような辛さを、誰かにぶちまけずにはいられなかった。母親がリウマチになったこと、家が貧しいこと、父親が進学を許してくれないこと、自分が働かないと家が回らないこと、夢を諦めたくないこと。
少年は涙を流しながら、一気にすべてをぶつけた。
少女は、難しい社会の仕組みなど一つも分からなかった。けれど、「目の前の少年がとても困っていて、悲しんでいる」ということだけは、その真っ直ぐな心に通じたようだった。
少女はそっと手を伸ばすと、涙を流す少年の頭を、小さな手で優しくなでなでし始めた。
「わたしがないてたら、いしだがなでなでしてくれるの。だから、おにいちゃんも、なでなで」
少女のあまりにも純粋な慈愛に、少年は声を上げて号泣した。
すると、その泣き声を聞きつけたのか、一人の巨大な男の影が目の前に立ちふさがり、夕日を完全に遮った。
「男が何を聞き苦しくめそめそと泣いている」
地響きのような声の主は、お屋敷の旦那様だった。少年は無礼を咎められ、クビになることを覚悟した。しかし、旦那様は静かに続けた。
「お前の仕事ぶりは、前から陰で見させてもらっていた。実に真面目で、良い筋をしている。……少年、わたくしがお前を援助してやろう」
「え……?」
あまりの展開の速さに、少年の頭は追いつかない。
「お前のその才能を見込んで、無償で学費と生活金を提供してやる。その代わり、必ず社会で結果を出せ。それが男というものだろう」
旦那様から差し出されたのは、家に振り込まれる形ではなく、少年に直接託された。一夜にして少年は、学費と生活費、そして将来への準備金として十分すぎるほどの資金を手にし、挑戦の切符を掴んだのだ。
その後の彼の快進撃は凄まじかった。旦那様から託された資金を元手に、彼は自らの才覚でそれを何倍にも増やし、夢だった経営コンサルタントへの道を切り拓いていった。
地方の国立大学へ進学し、家賃の安いマンションで寝る間を惜しんで猛勉強を重ねた。難関の資格を次々と取得し、無事に大学を卒業。大手のコンサルタント会社に入社すると一瞬で頭角を現し、若くして独立を果たした。
旦那様から託された潤沢な運転資金が、彼の才能を完全に爆発させたのだ。
男は、一生をかけてもこの恩を返すべくだと誓っていた。旦那様はもちろん、あの時クッキーをくれて頭を撫でてくれた、幼き日のあのお嬢様に。
ある日、男は礼を尽くすためにお屋敷の門を叩いた。かつて庭師のアルバイトをしていた者だと告げると、重厚な巨大な正門が静かに開いた。
玄関先で対応に当たったのは、いかにも聡明そうな、若い眼鏡をかけた青年だった。聞けば、先代の執事から跡を継ぎ、今は執事になったばかりだという。名前を『山本』と言った。
男が「お嬢様に一生をかけて恩返しがしたい」と熱い胸の内を語ると、若き執事山本は、眼鏡の奥の目を鋭く光らせ、静かにこう言った。
「ならば……お嬢様を、我々の目が届かない『外の世界』から、市井に紛れて見守っていただきたい」
男にとって、その提案はまさに渡りに船、光栄の極みであった。
こうして男は、お嬢様見守り隊の『No.13』となった。
現在の彼の経営コンサルタント業は相変わらず順調そのものだ。
そして彼は今、自身のメイン事業とは別に、個人的なある「救済プロジェクト」を立ち上げていた。
かつての自分のように、国からの授業料減免対象にはならないけれど、実質的に経済的な苦境に立たされている『限界ゾーンの中流家庭』への、無償の奨学金支援事業である。
そんな彼のスマートフォンに、聞き馴染んだ着信音が鳴り響いた。画面には『執事山本』の名。
「No.13。お嬢様が急に『ワンルームマンションで独り暮らしをしてみたい』と言い出されましてね。現地での外部警護を、あなたに一任したい」
「――了解した。喜んで引き受けよう」
夜の街。お嬢様が独り暮らしをスタートさせたマンションの、ぽつんと灯る一部屋の明かりを、遠くの車内からじっと見つめながら、男は静かに、深く呟いた。
「お嬢様、ありがとうございます。今度は、私があなたを守る番です」
11)ベテランと指人形
「お嬢様、森の動物たちで遊びましょう」
それは、まだお屋敷の空気に馴染みきっていない、高校1年生の執事見習い――山本の声だった。
「わぁーっ! クマさん、こちらはうさぎさん。これはトラさん。こっちにはリスさんもいますわ」
まだ小学生だったお嬢様は、山本の大きな手がせっせと針を動かして作ったフェルトの指人形を小さな指にはめ、大層喜んでそれを揺らした。
「一緒に遊びましょう。お嬢様はどの動物が良いですか?」
「わたくし、リスさんがいいですわ!」
お嬢様が嬉しそうに声を弾ませると、山本は「では」と、お嬢様の小さな人差し指にちょこんとリスの指人形を被せた。
「私はトラにしましょう」
「トラ……? こわいわ、やまもと。わたくしのこと、たべないでね?」
本気で少し怯えたようにお嬢様がアホ毛をきゅっと縮めると、山本はふっと目元を和らげて言った。
「この森の動物たちは、みんなとても仲良しでございます。ご心配なさらず」
「そお? ……トラさん、ごきげんいかが?」
お嬢様は恐るおそる、山本の指のトラに話しかけた。山本は即座に声を低くして、トラの声を演じる。
「ガオーッ。お腹が減ってペコペコだ。リスさんや、ケーキを持ってきてくれませんか?」
「ケーキね! まってて!」
お嬢様は小さなお手てをいそいそと動かし、おもちゃ箱の中からプラスチック製のミニチュアのケーキを取り出すと、トラさんの前に丁寧に置いた。
「おお? これは美味しそうだ。いただきます。むしゃむしゃ……うん、甘くてとっても美味しい。リスさんも一緒にいかがですか?」
「わたくしもいただきますわ。ぱくぱく……うーん! とっても美味しいですわ!」
そんな二人の微笑ましいおままごとを、部屋の入り口から温かく見守る二人の影があった。
老執事・石田と、お抱え運転手の瀬名である。
石田は小さく顎を引き、隣の瀬名に静かに声をかけた。
「瀬名や。山本をどう見る?」
瀬名は、普段の険しい表情をすっかり綻ばせながら答えた。
「私はお嬢様と上手に遊ぶことができませんからね……。山本はお屋敷に来てまだ半年ですが、あの堅苦しかった少年が、まさかここまで柔らかくなるとは」
「ふふ、旦那様の目に狂いはなかったということかのう」
石田は細めた目の端を優しく緩め、白髪の髭をそっと撫でた。
「儂らはお嬢様に対して常に『完璧』であろうとしてきた。だが、それ故に、旦那様と奥様が不在のいま、お嬢様の寂しい心を本当に癒やすことは難しかったのかもしれん。そう考えると、山本の存在はお嬢様にとって、まるで太陽の温もりのようじゃな」
「左様で。私のような車バカには、指人形を自ら作っておままごとをするなどという発想すら浮かびませんよ。あの少年、私には『子供は嫌いだ』なんて生意気を言っていましたが……お嬢様のことは、相当気に入っているようです」
ベテラン二人が、小学生のお嬢様と高校1年生の山本の絆を深く噛み締めていた、その時だった。
おままごとに熱中していたはずのお嬢様が、クルリと振り返り、二人を指差して唐突な命令を下した。
「いしだ! せな! あなたたちもどうぶつごっこにくわわりなさい!」
「は……?」
「はい!?」
まさかの指名に、お屋敷を支えるレジェンド二人が同時に素っ頓狂な声をあげた。
「いしだはライオンさんで、せなはゾウさんね!」
「お、お嬢様、それは……」
あまりの不条理な無茶振りに、百戦錬磨の老執事と最速の元レーサーが、顔を見合わせて激しく狼狽する。しかし、主の命令は絶対である。
「ほら、ふたりともやまもとにあいさつなさい」
お嬢様に促され、石田は意を決したように居住まいを正すと、拳を小さく握って胸の前に掲げた。
「が、がおー……。こんにちは、トラさん」
日本一の気品を誇る老執事が、恥ずかしそうに放った渾身の猛獣の咆哮。
山本のトラさんが、嬉しそうにそれに応じる。
「ガオーッ! 石田ライオン様、こんにちは!」
「せな!あなたもあいさつなさい!」
石田以上に顔を真っ赤にして、完全に借りてきた猫状態になっている瀬名が、助けを求めるようにお嬢様を見た。
「あの……お嬢様、私は一体どうしたらよろしいので?」
「ゾウさんといえば、ぱおーんでしょう。そんなこともしらないの? だめなせなね」
「くっ……!」
瀬名は覚悟を決めた。視線を斜め下に落とし、蚊の鳴くような声で絞り出す。
「ぱ、ぱおーん……。こんにちは、トラさん……」
「よろしい!」
お嬢様は満足そうにアホ毛をうねらせた。しかし、ここで山本のトラさんが、悪戯っぽい光を瞳に宿して余計な燃料を投下する。
「瀬名さん。ゾウさんはもっと高い声で『ぱおーん!』と呼ばなくては、森の仲間には届きませんよ?」
(このガキ……ッ!!)
瀬名は山本に向けて猛烈に歯ぎしりをした。が、お嬢様の目の前で愛弟子の指摘を無視するわけにはいかない。瀬名は限界まで肺に空気を吸い込み、お屋敷の天井を仰いだ。
「ぱ、ぱおーんっっ!!!」
その瞬間、後ろで控えていたメイドたちが、普段は死ぬほど渋い瀬名の情けない絶叫に耐えきれず、「くすくす」と影で吹き出した。
「か、勘弁してください、お嬢様……!」
顔をゆでダコのように真っ赤にした瀬名が半泣きで訴えるが、お嬢様はピシャリと言い放った。
「だめよ。みんなでぴくにっくにいきましょう!」
お嬢様を先頭に、すぐ後ろを山本。そして石田、最後尾に瀬名が並ぶ。
成人男性3人と小学生の少女が縦一列になり、指にはめたフェルトの指人形を天井に向かってピンと突き立てながら、お屋敷の長い廊下を「てくてく」と練り歩いていく。
「ぱおーん」と「がおー」が微かにエコーする不条理な隊列のなかで、山本少年は静かに前を見つめていた。
旦那様からスカウトされたあの日、投げかけられた言葉。
『お前は、人の心を知ろうとしたことはあるか?』
(人の心、か……)
まだその明確な答えは出ない。けれど、自分の作った不格好な指人形で、世界一嬉しそうに笑って前を歩くお嬢様の小さな背中を見つめながら、山本少年は、その温もりへの道標を必死に探すように、一歩一歩、その足跡の後をてくてくとついていくのだった。
12)真依子誕生と、五郎の願い
東都総合医療センターの分娩室に、新たな生命の力強い産声が響き渡った。
「おぎゃあ、おぎゃあ――」
小さな、小さな女の子だった
その泣き声は、まだ生まれたばかりとは思えないほどに明るく、頼もしく、どこかこの不条理な世界に向かって堂々と文句を言っているかのようでもあった。
大仕事を終えた母親――由貴(ゆき)は、汗ばんだ額に髪を貼りつかせたまま、ぼんやりと白い天井を見上げていた。身体中の力が完全に抜けている。痛みも、疲労も、まだ全身に重く残っていた。
それでも、看護師に抱かれた我が子の姿が目に入った瞬間、由貴の表情はふっと柔らかくほどけた。
「お母さん、元気な女の子ですよ」
看護師がそう告げ、由貴の胸元へ赤ん坊をそっと抱かせた。
よたっとした、小さくて柔らかい身体。まだ頼りない首。ぎゅっと握られた、もみじのような小さな手。生まれたばかりの赤ん坊は、まだ目もろくに開かないまま、由貴の腕の中で懸命に泣いていた。
由貴は愛おしそうに目を細めた。
「……やっと、産まれてくれたわ」
立ち会いを許されていた父親――五郎(ごろう)は、分娩室の隅で、いつもの豪胆さなどどこへやら、妙に神妙な顔をして突っ立っていた。
「よく頑張ったな、由貴」
その声は、普段の彼からは想像もつかないほど少しだけ低く、そして優しさに満ちていた。
由貴は疲れ切った顔のまま、小さく笑った。
「本当に……死ぬかと思ったわ」
「産気づいてから、随分と長かったからな。こっちも本当に、生きた心地がしなくて心配したんだぞ」
「ふふ、心配してるだけで済む男の人は気楽でいいわね」
「む……」
五郎は何か言い返そうとして、しかし由貴の腕の中で一生懸命に泣いている我が子を見て、言葉をそっと飲み込んだ。
「しかし……お前には、本当に苦労をかけるな」
ぽつりと言った五郎の言葉に、由貴は赤ん坊を抱いたまま、ちらりと夫を見上げた。
「あなたのせいよ」
「すまん。……我慢できなくてな」
「ほんっとにもう」
怒っているような口調だが、その声には隠しきれない甘さが混じっていた。五郎は酷く照れくさそうに、大きな咳払いをした。
しばらくの間、分娩室には赤ん坊の元気な泣き声と、慌ただしく動く医療スタッフの足音だけが心地よく響いていた。
やがて五郎は、由貴の穏やかな表情を静かに見つめた。
「……やはり、あの夢は諦めないのか」
その問いに、由貴の目がほんの少しだけ伏せられる。
「ええ」
答えは、短かった。
けれど、その一言には、これまで何度も考え、何度も迷い、それでも最後には変わることのなかった絶対の決意が込められていた。
「この娘には……少し寂しくて、悲しい思いをさせてしまうかもしれないけれど」
由貴は、腕の中の愛おしい命を見つめながら続けた。
「でも、最初から決めていた道だから。誰かさんのせいで、ちょっとだけ回り道になっちゃったけれどね」
そう言って、くすくすと悪戯っぽく笑う。
五郎はバツが悪そうに眉をひそめた。
「むう。お、俺だけが悪いんじゃないだろう。
お前だって、あの時はそういう雰囲気を存分に醸し出していただろうに」
「男のくせに、卑怯な言い分ね」
由貴は疲れた顔のまま、本当に楽しそうに笑った。
「こ、この話はもう終いだ!」
五郎は明らかに焦った様子で、強引に話題を切り替えた。
「それよりもだ。この子の名前を、俺が考えておいた」
「えっ? 私の意向は?」
「そんなものは聞かん!」
五郎はふんぞり返って、いつもの傲慢な態度を取ってみせた。由貴はじとりと夫を睨む。
「この子の母親は私なんだけど」
「父親は俺だ」
「実際に産んだのは私よ」
「名前を考えたのは俺だ」
「……あなた、本当にそういう不条理なところがあるわね」
呆れたように言いながらも、由貴の瞳はどこか嬉しそうに潤んでいた。
五郎は赤ん坊を見下ろし、ほんの少しだけその表情を引き締めた。
「名前は、真依子(まいこ)だ」
「まいこ……?」
由貴は小さく、その響きを繰り返した。
「そうだ。この世に、ふらりと『舞い込んできた』から、真依子だ」
五郎は大真面目な顔で言い放った。由貴の表情が完全に固まる。
「ちょっと、あなた……! 本当にそんな不条理な由来なの!?」
「はっはっは! 引っかかったな、由貴。そんなわけがないだろう!」
五郎は豪快に笑った。
由貴は心底ほっと胸をなでおろした。この夫なら、本当にそんな理由をつけてきかねないからである。
五郎は、今度こそ心の底から真面目な声で、我が子の名を紡いだ。
「真実の、『真』。人に寄り添い、人からも頼られる、『依』。女の子の、『子』だ」
由貴は、黙って夫の言葉に耳を傾けていた。
「真っ直ぐで、嘘のない子に育ってほしい。誰かの痛みに寄り添える子に。そしていつか、誰かからも心から頼られるような、強い子に」
五郎の温かい視線が、赤ん坊にまっすぐ注がれていた。
「真依子。これが、この子の名だ」
由貴はもう一度、腕の中の赤ん坊を見つめた。
「真依子……」
その名を口にした瞬間、不思議と胸の奥にすとんと落ちて、温かいものが広がっていった。
赤ん坊は、由貴の腕の中で小さく身じろぎし、また元気に泣き出した。
「ほぎゃあ、ほぎゃあ――」
まるで、自分の名前に力強く返事をしているかのようだった。
由貴は目を細め、そっと赤ん坊の柔らかい頬に指を添えた。
「良かったわね、真依子。旦那様に、ちゃんとまともな名前をつけてもらえて」
「ちゃんと、とは何だ」
「あなたにしては上出来、という意味よ」
「失敬な」
五郎は不満げに鼻を鳴らしたが、その口元はわずかに緩んでいた。
由貴の腕の中で、真依子は泣いていた。
その泣き声は、生まれたばかりの小さな命が、この理不尽で不条理な世界に向かって、精一杯に「私はここにいる!」と存在を主張しているようでもあった。
――その後。
由貴は一年半のあいだ、お屋敷で真依子と共にかけがえのない時間を暮らすことになる。
けれど彼女はやがて、自らが決めた壮大な夢を追うために、真依子のもとを去っていく。
生まれたばかりの真依子は、まだ何も知らない。
自分がどれほど両親に望まれて生まれてきたのかも。
その「真依子」という名前に、どれほど深い愛の願いが込められていたのかも。
そして、今自分を抱きしめている母の腕の温もりが、いつか記憶にも残らないほど遠いものになってしまうことも。
ただ今は――由貴の温かい腕の中で、小さな手をぎゅっと握りしめながら、元気いっぱいに、優しく泣き続けるのだった。
13)財前五郎という男・第一部 屋敷の次男
東京都心から少し離れた、古くからの住宅地と雑木林が混じる一帯に、ひときわ異様な存在感を放つ高い塀があった。
ぐるりと広大な敷地を囲むその塀は、外の世界と内の世界をはっきり分けていた。塀の中には、四季折々の花が咲き乱れる庭園があり、幾本もの石畳の道があり、執事と多数のメイドたちが日々働く巨大なお屋敷があった。
その屋敷の主の名は、財前正信。
元は小金持ちの家の次男坊に過ぎなかった男である。しかし、正信は若くして商才を発揮し、事業を次々と成功させ、一代で莫大な富を築き上げた。気づけば、彼は都心から離れたこの地に、まるで要塞のような屋敷を構えるまでになっていた。
財前正信には、二人の息子がいた。
長男、三郎。
次男、五郎。
名前の由来は、あまりにも単純である。三郎は三月生まれ。五郎は五月生まれ。ただそれだけだった。
「男の名前など、覚えやすいのが一番だ」
正信はそう言って、まるで天下国家を論じるような顔で、息子たちの名前を決めたという。
長男の三郎は二十九歳。次男の五郎は二十二歳。二人の年齢は七つ離れていた。
それだけ歳が離れていれば、周囲の見方も自然と決まってくる。
財前家を継ぐのは、長男の三郎。
執事も、メイドも、屋敷に出入りする関係者も、親族も、誰もがそう信じて疑わなかった。
財前家の跡取りとして、三郎は幼いころから特別扱いされて育った。誕生日には有名料理人を呼び、学校の成績が多少悪くとも「跡取りには器があればよい」と周囲は笑った。何か失敗しても、メイドたちは頭を下げ、執事は穏やかに後始末をした。
そして三郎は、当然のように、自分は特別な人間なのだと信じるようになった。
金遣いは荒く、女遊びも激しかった。社交の場に出れば、派手なスーツを着て、父の金と財前の名前を背景に大きな顔をした。自分に逆らう者がこの世にいるなど、考えたこともなかった。
ただ一人、弟の五郎を除いて。
「兄貴、それはやりすぎだろう」
五郎は昔から、平気で三郎にそう言った。
屋敷の者たちは、そのたびに青ざめた。財前家の長男に真正面から意見する人間など、屋敷の中には誰一人としていなかったからである。
「次男坊のくせに、偉そうに言うな」
三郎はそう吐き捨てた。
けれど五郎は、不思議と怯えなかった。
五郎は、三郎とはまるで違う子供だった。
人懐こく、使用人たちに対しても偉ぶらず、暇さえあれば厨房や使用人控室に顔を出した。
父・正信は忙しく、家を空けることも多かった。その代わりに五郎の面倒を見てくれたのは、筆頭執事の茶谷や、屋敷で働くメイドたちだった。
茶谷は古風で厳格な執事だった。背筋はいつも真っ直ぐで、時計の針より正確に動く男だった。
「五郎様。人の上に立つ者は、人の顔色を読むのではなく、人の心の流れを読むのです」
幼い五郎には、その言葉の意味はまだよく分からなかった。
だが、五郎には人間を見る癖があった。
父・正信が客人に向ける顔。
三郎がメイドに向ける顔。
茶谷が主人に仕える時の目。
料理長が包丁を握る時の沈黙。
メイドたちが客間では見せない、使用人控室での素の表情。
五郎は、それらをじっと見ていた。
人間には、表の顔と裏の顔がある。
建前と本音がある。
信念を持って働く者もいれば、信念など持たず、ただ給金のために動く者もいる。
笑顔で頭を下げながら、心の奥では相手を軽蔑している者もいる。逆に、無愛想に見えて、誰よりも誠実に人のために働いている者もいる。
五郎は、それを屋敷の中で学んでいった。
彼は次男だった。
跡継ぎは兄の三郎。自分は、いずれこの屋敷を出ていく人間。
五郎はずっと、そう思っていた。
今は財前家の次男として甘やかされている。だが、父が死に、兄が屋敷を継げば、自分の居場所などどうなるか分からない。財産分与で多少の金は手に入るかもしれない。だが、金だけあっても、人を見る目も、学も、人脈もなければ、いずれ食い潰すだけだ。
五郎は子供のころから、どこかでそんな危機感を抱いていた。
だから、三郎のようには慢心しなかった。
いや、できなかった。
五郎には、屋敷の中でひとつ気づいたことがあった。
兄の三郎は、実は使用人たちから嫌われている。
表面上は、誰もそんな素振りを見せない。三郎が廊下を歩けば、メイドたちは深々と頭を下げる。茶谷も恭しく応対する。料理長も長男の好みに合わせて料理を出す。
だが、三郎が去った後、空気が変わる。
ほんのわずかに、肩の力が抜ける。
メイドたちの目から緊張が消える。
ある者は小さくため息をつき、ある者は黙って口元を引き結ぶ。
五郎は、それを見逃さなかった。
一方で、五郎が使用人控室に顔を出すと、メイドたちは不思議とよく話した。
「五郎様、またこんなところにいらして。旦那様に叱られますよ」
「茶谷には内緒にしてくれ」
「茶谷様なら、もう気づいております」
「なんだ、あの男は千里眼か」
そんな他愛もない会話の中で、五郎は使用人たちの苦労話を聞いた。
腰の痛みに耐えながら働く庭師の話。
実家に仕送りをする若いメイドの話。
客人の無礼な態度に耐えた給仕係の話。
屋敷の表側だけを見ている者には決して分からない、裏側の労働と感情。
本来なら、主人の息子に愚痴など言うべきではない。だが、五郎は不思議と聞き役になった。
偉そうに助言するわけでもなく、ただ聞く。時々、妙な質問をする。
「お前は、何のために働いている?」
「給金のためですよ」
「それだけか?」
「それだけじゃ足りませんか?」
「いや、足りる。だが、それだけで毎日人に頭を下げられるものなのかと思ってな」
使用人たちは、五郎のそういうところを面白がった。
三郎は、人を見下ろした。
五郎は、人を見た。
その違いは、屋敷の中の誰もが口に出さずとも感じていた。
ある日のこと。
三郎が夜遊びから帰ってきた。酒の匂いを漂わせ、玄関ホールで出迎えた若いメイドに無理難題を言いつけた。
「靴を脱がせろ。跡取り様のお帰りだぞ」
若いメイドは顔を強張らせた。
その瞬間、階段の途中にいた五郎が口を開いた。
「兄貴。自分の靴くらい自分で脱げ。赤子か」
空気が凍った。
三郎は顔を真っ赤にした。
「五郎、お前……!」
「財前家の跡取りが、靴も脱げない男だと思われたら困るだろう」
三郎は怒りに震えたが、五郎は涼しい顔をしていた。
筆頭執事の茶谷だけが、わずかに目を細めた。
その夜、五郎は茶谷に呼び出された。
叱られると思っていた。
だが茶谷は、静かに紅茶を淹れ、五郎の前に置いた。
「五郎様。あの場で三郎様に口を挟むのは、決して賢いやり方ではありません」
「分かっている」
「ですが」
茶谷は、少しだけ声を落とした。
「あなた様は、人の痛みを見過ごせない方なのですね」
五郎は返事をしなかった。
茶谷は続けた。
「それは美徳です。しかし、美徳だけでは人の上には立てません。怒りだけでも、優しさだけでも、屋敷は動きません」
「では、何が必要だ」
「人を見る目でございます」
茶谷はそう言った。
「人には、それぞれ役割がございます。信念も、欲も、恐れも、誇りもある。それらを見誤れば、いかなる財も家も、いずれ崩れます」
五郎は、紅茶の水面を見つめた。
その言葉は、深く胸に残った。
この世は、綺麗な理屈だけでは動いていない。
金で動く者もいる。
誇りで動く者もいる。
恐怖で動く者もいる。
愛情で動く者もいる。
そして、何によっても動かない者もいる。
財前五郎は、そうして屋敷の次男として成長していった。
スポットライトを浴びるのは、いつも兄の三郎だった。
しかし、屋敷の隅で人々の本音を拾い集めていたのは、五郎だった。
彼はまだ知らない。
自分がいずれ、この巨大な屋敷を背負うことになるなど。
そして、自分が信じて疑わなかった「長男が継ぐ」という秩序こそが、ある日、父の一言であっけなく崩れ去ることになるなど。
この時の五郎は、まだ何も知らなかった。
ただ、心のどこかで思っていた。
この屋敷は、美しい。
だが、美しいものほど、裏側には面倒なものが詰まっている。
そして人間とは、どこまでも不条理な生き物なのだと。
14)財前五郎という男・第二部 この世はインドである
大学生になった財前五郎は、屋敷の中だけで生きることを嫌った。
兄の三郎は、相変わらず夜の街と社交界を渡り歩いていた。派手な車を乗り回し、財前家の長男という肩書きを惜しげもなく使い、周囲にちやほやされながら生きていた。
一方の五郎は、暇を見つけては外へ出た。
それは反抗心というほど分かりやすいものではなかった。
ただ、屋敷の中だけを見ていても、人間のことは分からないと思ったのだ。
財前家の屋敷には、何でもあった。
広い庭。
上等な食事。
清潔な寝室。
教育を受ける環境。
丁寧に働く使用人たち。
しかし、屋敷の外には、まったく別の世界が広がっていた。
駅前で段ボールを敷いて眠る男。
夜遅くまで弁当を売る中年女性。
酔って怒鳴る会社員。
コンビニの前で笑う若者たち。
高級車の窓から見る世界と、自分の足で歩く世界は、まるで違っていた。
五郎は、その違いに惹かれた。
大学在学中、彼は海外にも足を運んだ。
父・正信の金があったからこそできたことだ。
五郎はその事実をよく理解していた。自分は恵まれている。金がある。パスポートもある。言葉を学ぶ余裕もある。海外へ行きたいと思えば、行ける環境がある。
それでも、だからこそ、五郎は見なければならないと思った。
自分のような人間が見ないまま偉そうに語れば、それこそ兄と同じになる。
そう思っていた。
いくつかの国を巡ったあと、五郎が強く惹かれたのはインドだった。
理由を問われると、うまく言えなかった。
ただ、五郎は思った。
この世はインドだ。
そこには、圧倒的な混沌があった。
祈る者がいる。
物を売る者がいる。
笑う者がいる。
眠る者がいる。
痩せた犬が道端を歩き、色鮮やかな布をまとった人々が行き交い、騒音と匂いと熱気が街を満たしている。
貧しさと豊かさが隣り合っていた。
聖なるものと俗なるものが、まるで当然のように同じ場所にあった。
理屈で整理しようとすれば、たちまち迷子になる。
なのに、不思議とそこには流れがあった。
人々は怒鳴り、祈り、笑い、交渉し、食べ、眠り、また歩き出す。
五郎は、その光景を見て、妙に納得してしまった。
この世は、綺麗に整った応接間ではない。
誰かが掃除し、誰かが給仕し、誰かが整えた屋敷の客間のようにはできていない。
欲も、信仰も、金も、愛も、嘘も、誠実さも、理不尽も、全部が同じ道の上に転がっている。
五郎は帰国後、しばらくその感覚をうまく言葉にできなかった。
ただ、屋敷の廊下を歩くたびに思った。
ここは綺麗すぎる。
綺麗すぎるものは、誰かが汚れを引き受けているから綺麗なのだ。
大学を卒業した五郎は、誰も予想しない進路を選んだ。
小さな町工場に勤めたのである。
きっかけは、あまりにも不条理だった。
ある日、公園で鳩に餌をやっている中年の男がいた。五郎はその男と、なぜか話し込んだ。
「兄ちゃん、いい靴履いてるな」
「そうか?」
「そういう靴を履いてる奴は、たいてい面倒くさい家の生まれだ」
「よく分かったな」
「鳩を見てると、人間もだいたい分かる」
その男は、小さな町工場の社長だった。
下請けの部品加工会社。社員は二十人ほど。大企業の看板などどこにもない。油の匂いが染みついた作業場で、古びた機械が朝から晩まで唸り続けている。
五郎は、その工場に興味を持った。
屋敷とは、あまりにも違う世界だった。
「働かせてくれ」
五郎がそう言うと、社長は鳩の餌を撒きながら笑った。
「財前家の坊ちゃんが、うちみたいな工場で何をするんだ」
「人間を見る」
「変な奴だな」
「よく言われる」
そうして五郎は、町工場で働き始めた。
最初は現場に入った。
油の匂い。
金属を削る音。
作業着に染み込む汗。
昼休みに食べる安い弁当。
屋敷の食事とはまるで違う。だが五郎は、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、ここには屋敷にはない剥き出しの現実があった。
下請けの町工場は、常に元請けの顔色をうかがっていた。
納期を無理に縮められる。
急な仕様変更を押しつけられる。
単価を下げられる。
理不尽な要求だと分かっていても、断れば次の仕事が来なくなる。
そして社長は、そのしわ寄せをさらに小さな孫請けの工場へ向けざるを得なかった。
「嫌なら断ればいい」
若い五郎は、ある日そう言った。
社長は苦笑した。
「断ったら、従業員の給料はどうする」
五郎は黙った。
「正しいことだけ言って会社が回るなら、誰も苦労しねえよ」
その言葉は、五郎の胸に刺さった。
正しいこと。
間違っていること。
屋敷の中では、わりと簡単に判断できた。
兄がメイドに横柄な態度を取れば、兄が悪い。
使用人に理不尽を押しつければ、それは間違いだ。
だが町工場では、誰もが少しずつ間違っていた。
元請けは横暴だった。
社長も孫請けに圧力をかけた。
先輩社員は若い五郎に嫌がらせをした。
だが、誰もが完全な悪人ではなかった。
元請けの担当者にも上からの圧力がある。
社長は社員を食わせなければならない。
先輩社員たちは、自分たちの居場所を奪われることを恐れている。
五郎は、ここでも人間を見た。
若くして数字に強く、人の配置にも妙な勘があった五郎は、社長から人事や経理の一部を任されるようになった。
それが、社内の反発を招いた。
「あいつは社長のお気に入りだ」
「財前家の坊ちゃんだから特別扱いか」
「現場の苦労も知らねえくせに」
先輩社員たちは、五郎に冷たく当たった。
書類を隠される。
必要な連絡を後回しにされる。
作業のミスを五郎の責任にされる。
五郎は怒りを覚えた。
だが、同時に考えた。
なぜ、この者たちは自分を嫌うのか。
自分が何を奪っているように見えるのか。
どうすれば、人は機能するのか。
兄の三郎から受けた嫌がらせを思い出した。屋敷のメイドたちの顔を思い出した。筆頭執事・茶谷の言葉を思い出した。
人には、役割がある。
誇りがある。
恐れがある。
欲がある。
正しい命令を出すだけでは、人は動かない。
五郎は、少しずつやり方を変えた。
先輩社員に頭を下げた。
現場の手順を教えてくれと頼んだ。
嫌味を言われても、怒鳴り返さずに聞いた。
だが、譲らないところは譲らなかった。
数字をごまかす者には容赦しなかった。
部下を潰す者には正面から向き合った。
そして、本当に腕のある者には、年齢や立場に関係なく敬意を払った。
ある日、社長が五郎に言った。
「お前、坊ちゃんのくせに、意外と泥の中で息ができるんだな」
五郎は笑った。
「この世はインドだからな」
「何言ってんだ、お前」
「俺にもよく分からん」
社長は腹を抱えて笑った。
五郎も笑った。
だが、その言葉は半分以上、本気だった。
この世は、不条理だ。
上にいる者が正しいとは限らない。
下にいる者が清いとも限らない。
金持ちが悪で、貧しい者が善というほど単純でもない。
誰もが、自分の事情を抱え、自分の小さな正義を振り回しながら、どうにか今日を生きている。
五郎は町工場で、それを骨身に染みて学んだ。
そんなある日、屋敷から連絡が入った。
父・財前正信が、二人の息子を呼んでいるという。
五郎は、胸騒ぎを覚えた。
兄の三郎も呼ばれているらしい。
町工場の社長は、五郎の顔を見て言った。
「いよいよ坊ちゃんの家のゴタゴタか」
「そうかもしれん」
「逃げるなよ」
「逃げるつもりはない」
「なら、よく見てこい。金持ちの家の不条理ってやつを」
五郎は苦笑した。
「この世は、どこに行ってもインドだな」
そう言って、五郎は久しぶりに財前家の屋敷へ戻った。
彼はまだ知らなかった。
その日、父の口から告げられる言葉が、兄の人生を一夜にして壊し、自分の人生を大きく変えることになるなど。
そして、自分があの巨大な屋敷の主になるなど、この時の五郎はまだ、夢にも思っていなかった。
15)財前五郎という男・第三部 屋敷を継ぐ者
久しぶりに戻った財前家の屋敷は、五郎の記憶よりも大きく見えた。
高い塀。
重厚な正門。
手入れの行き届いた庭園。
磨き上げられた玄関ホール。
どれも幼いころから見慣れたはずの景色だった。だが、町工場で油と鉄粉にまみれる日々を過ごしたあとでは、その美しさがどこか作り物めいて見えた。
綺麗すぎる。
五郎はそう思った。
綺麗であるためには、誰かが裏側で汚れを引き受けている。
彼は今なら、それが分かった。
玄関ホールには、すでに兄の三郎がいた。
相変わらず高価なスーツを着ている。だが、顔には苛立ちが滲んでいた。父に呼び出された理由が分からず、不機嫌になっているのだろう。
「遅いぞ、五郎」
「時間通りだ」
「俺より後に来た時点で遅いんだよ」
「兄貴の時計は相変わらず自分中心に動いているな」
三郎は舌打ちした。
かつてなら、使用人たちはそのやり取りに青ざめていた。だが、この日、玄関ホールに立つメイドたちは妙に静かだった。
筆頭執事の茶谷が、二人の前に現れた。
「正信様がお待ちです」
茶谷の声は、いつも通り落ち着いていた。だが五郎は、その表情の奥に何か重いものが沈んでいるのを感じた。
二人は、屋敷の奥にある書斎へ通された。
書斎の中央には、父・財前正信が座っていた。
年齢を重ねてもなお、圧のある男だった。広い肩。深く刻まれた眉間の皺。鋭い眼光。財を築き、人を動かし、屋敷を要塞に変えた男。
その傍らには、数名の顧問弁護士と、茶谷が控えていた。
三郎が怪訝そうに顔をしかめる。
「親父、何の用だ。俺はこの後、予定があるんだが」
正信は、長男を一瞥した。
その目には、父親としての甘さがほとんどなかった。
「三郎。五郎。今日は財前家の今後について話す」
「今後?」
三郎は鼻で笑った。
「そんなもの、決まってるだろう。俺が継ぐ。五郎には適当に金を持たせて、どこかで好きに暮らさせればいい」
その瞬間、書斎の空気が冷えた。
五郎は黙って父を見ていた。
正信は、ゆっくりと口を開いた。
「この屋敷、土地、関連する資産、私が個人で管理してきた財の大部分を、次男の五郎に譲る」
三郎の笑みが消えた。
五郎も、一瞬、言葉を失った。
「……何だと?」
三郎が低く言った。
正信は続けた。
「私は伊豆の別荘へ移る。以後、この屋敷の主は五郎だ」
「ふざけるな!」
三郎が叫んだ。
「俺は長男だぞ! 財前家の跡取りは俺だ! ずっとそうだっただろう!」
「誰が決めた」
正信の声は冷たかった。
「世間がそう思っていただけだ。お前が勝手にそう信じていただけだ」
「親父!」
「お前には、何度も機会を与えた」
正信は三郎を見据えた。
「身を固めろとも言った。事業を学べとも言った。人を大事にしろとも言った。だが、お前は何一つ聞かなかった」
三郎の顔が怒りで赤く染まる。
「俺は財前家の長男だ!」
「だから何だ」
正信の一言が、書斎に重く落ちた。
三郎は言葉を詰まらせた。
「長男であることは、手柄ではない。ただ先に生まれただけだ」
正信は淡々と言った。
「お前は、生まれ順を実力だと勘違いした」
五郎は、黙って聞いていた。
父の言葉は、三郎を切り捨てていた。容赦がなかった。だが、五郎には分かった。これは一時の怒りではない。
長い観察の末の決断だ。
正信は、五郎へ視線を向けた。
「五郎」
「……はい」
「お前は、自分がこの屋敷を継がないと思って生きてきたな」
五郎は、正直に頷いた。
「そう思っていました」
「だから見ていた」
正信は言った。
「屋敷の使用人たちの顔を。兄の振る舞いを。外の世界を。町工場で働く人間たちを。自分が追い出されても生きていけるように、お前は人間を見てきた」
五郎は息を呑んだ。
父は知っていた。
自分が屋敷の裏側に出入りしていたことも。
使用人たちの話を聞いていたことも。
町工場で理不尽に揉まれていたことも。
すべて、知っていたのだ。
「茶谷からも聞いている」
正信は続けた。
「お前には、人を見る目がある。人の痛みを見る目もある。だが、それに流されきらない冷たさもある」
「俺に、この屋敷を継げと?」
「そうだ」
「兄貴はどうなる」
その問いに、三郎がぎろりと五郎を睨んだ。
正信は迷わなかった。
「三郎は、財前家から放逐する」
「なっ……!」
三郎は絶句した。
「一定の手切れ金は渡す。だが、それ以上はない。財前の名を使った商いも認めん。屋敷への出入りも禁じる」
「親父! 本気で言ってるのか!」
「本気でなければ、弁護士を呼ばん」
三郎は椅子を蹴り飛ばした。
「ふざけるな! 俺を誰だと思ってる!」
「私の息子だ」
正信は静かに言った。
「だから、これまで切らずにいた」
その言葉に、三郎の表情が一瞬歪んだ。
怒りか、恐怖か、屈辱か。
五郎には分からなかった。
だが、その瞬間だけ、兄が初めて「長男」ではなく、ただの一人の男に見えた。
自分が当然持っていると思っていたものを失い、立ち尽くす男。
慢心した兄。
だが、慢心させたのは屋敷でもあった。
周囲でもあった。
父でもあった。
財前家そのものでもあった。
五郎は、その不条理を感じていた。
しかし、正信の決断は覆らなかった。
三郎は怒鳴り、喚き、弁護士に食ってかかり、最後には茶谷に制止されながら書斎を出ていった。
去り際、三郎は五郎を睨んだ。
「お前、覚えてろよ」
五郎は何も言わなかった。
言えば、兄をさらに惨めにするだけだと思った。
書斎に静寂が戻った。
正信は、深く息を吐いた。
「五郎」
「はい」
「三郎には関わるな」
「……兄弟です」
「だからこそだ」
正信の声は厳しかった。
「あれは、お前を恨む。自分の人生が崩れた理由を、自分ではなくお前に求める。情けをかければ、必ず屋敷に災いを持ち込む」
五郎は拳を握った。
「それでも」
「情で家は守れん」
正信は言った。
「お前が守るのは、この屋敷だ。ここで働く者たちだ。これからお前のもとに集まる者たちだ。兄一人への情で、それらを危険に晒すな」
それは、父としてではなく、屋敷の主としての言葉だった。
五郎は初めて、財前正信という男の孤独を見た気がした。
人を切る。
身内ですら切る。
それができなければ、巨大なものは守れない。
五郎は、その残酷さを受け取るしかなかった。
数日後、正信は伊豆の別荘へ移った。
筆頭執事の茶谷も同行した。
さらに、屋敷の主要なメイドや古参の使用人の一部も、正信に従って去った。
五郎は、思いがけず途方もない財産と、巨大なお屋敷を手に入れた。
だが、それは決して、楽園を受け取ったという意味ではなかった。
屋敷は生き物だった。
庭を整える者がいる。
厨房を回す者がいる。
掃除をする者がいる。
客を迎える者がいる。
金を管理する者がいる。
人の配置を考える者がいる。
その中心にいた茶谷がいなくなった瞬間、屋敷の空気は目に見えて不安定になった。
「旦那様、本日の来客予定ですが」
若い執事見習いが、緊張で声を上ずらせながら五郎に尋ねる。
旦那様。
その呼び名に、五郎は一瞬だけ違和感を覚えた。
昨日まで、自分は次男の五郎だった。
だが今日からは、この屋敷の旦那様なのだ。
「予定を見せろ」
五郎は言った。
書類を受け取り、目を通す。
不備がある。
人員配置にも無駄がある。
厨房と庭師の連絡も悪い。
茶谷がいかに巨大な歯車を一人で調整していたか、五郎は思い知らされた。
五郎は廊下を歩いた。
使用人たちの視線が集まる。
期待。
不安。
警戒。
値踏み。
そのすべてが、五郎に向けられていた。
彼は思った。
この世は、やはり不条理だ。
継がないと思っていた男が、継ぐことになった。
継ぐと思っていた男は、放り出された。
屋敷を支えていた者たちは去り、残された者たちは、新しい主の顔色を見ている。
だが、五郎は笑った。
「面白い」
近くにいたメイドが、ぎょっとした顔をした。
五郎は続けた。
「これだけ面倒なら、退屈はせんな」
その日の夜。
五郎は、かつて茶谷が使っていた執務机に座り、屋敷の人員表を広げていた。
誰が何に向いているか。
誰が何を恐れているか。
誰が誰を嫌っているか。
誰に信念があり、誰にはないか。
五郎は、ひとりひとりの顔を思い浮かべながら、配置を考えた。
町工場で学んだこと。
屋敷で見てきたこと。
インドで感じた混沌。
茶谷の言葉。
父の冷酷な決断。
兄の崩れた顔。
すべてが、五郎の中でつながっていく。
屋敷を守るには、人が要る。
金だけでは駄目だ。
血筋だけでも駄目だ。
忠誠を強要しても駄目だ。
人は、見なければならない。
その者の筋を。
欲を。
弱さを。
誇りを。
そして、いざという時に何を守る人間なのかを。
五郎は立ち上がり、窓の外を見た。
広大な庭園は、夜の闇に沈んでいる。
父が築いた要塞。
兄が当然継ぐと思っていた城。
そして今、自分が背負うことになった、不条理な屋敷。
「ならば、集めるしかないな」
五郎は静かに呟いた。
茶谷のような者。
屋敷を支えられる者。
ただ従うだけではなく、自分の信念で動ける者。
時に主に逆らってでも、守るべきものを守れる者。
優秀で、厄介で、どこか壊れていて、それでも筋の通った人間たち。
財前五郎は、その日から人を探し始めた。
屋敷のために。
自分のために。
そして、いつかこの屋敷に生まれてくるかもしれない、まだ見ぬ誰かのために。
後に、彼は父となる。
由貴という女と出会い、真依子という名の娘を授かる。
そしてその娘の周りには、執事、メイド、運転手、見守り隊、奇妙な縁で集まった多くの者たちが配置されていくことになる。
だが、それはまだ少し先の話である。
この時の財前五郎は、まだ若き屋敷の主に過ぎなかった。
父に試され、兄を失い、茶谷を失い、巨大な屋敷だけを背負わされた男。
それでも彼は、恐れなかった。
むしろ、どこか楽しそうですらあった。
この世は不条理だ。
ならば、その不条理ごと、使いこなしてやればいい。
財前五郎という男は、そうして「旦那様」になったのである。
16)財前五郎と、ふわふわオムレツの女
その夜、高級料理店『月白』の空気は、いつもより少しだけ張り詰めていた。
都心から少し離れた静かな通りに佇むその店は、看板も控えめで、表から見れば高級店とは気づきにくい。だが、磨き上げられた木の扉の向こうには、上質な料理と静かな接客を求める客たちが集まっていた。
政治家。
企業の役員。
老舗料亭の主人。
名のある文化人。
そしてその夜、そこへ一人の男がふらりと現れた。
財前五郎。
地域では知らぬ者のない資産家、財前家の跡取りである。
店内の給仕たちは、一瞬で空気を変えた。
誰が行く。
誰があの男の席につく。
視線が無言で飛び交う。
財前家の名は、それほど重かった。何か粗相があれば、店にとっても自分にとっても面倒なことになるかもしれない。そう考えたのだろう。給仕たちは、誰もすぐには前に出なかった。
その中で、一人の女だけが、静かに足を踏み出した。
真田由貴。
二十二歳。
この店に勤めて、四年になる。
「いらっしゃいませ。ご来店、誠にありがとうございます」
由貴は、深く、しかし深すぎない角度で頭を下げた。
その所作は美しかった。
だが、それは名家の娘が幼いころから仕込まれたような、型通りの美しさではなかった。どこか独特だった。ほんの少し、間が違う。視線を上げるタイミングも、手を添える位置も、一般的な接客の教本からはわずかに外れている。
それなのに、不思議と相手を不快にさせない。
むしろ、そのわずかなズレが、由貴という女の印象を強くしていた。
五郎は、席につきながら由貴を見た。
由貴もまた財前五郎を見ていた。
端正な顔立ちの男だった。三十歳前後に見える。仕立ての良い服。無駄のない身のこなし。指先の動きにも、上流の家で育った者特有の余裕がある。
けれど、由貴は少しだけ違和感を覚えた。
この男は、他の客と違う。
女の顔を見る男は、すぐに分かる。
値踏みするような目。
品定めするような間。
美しさを褒める前から、もう自分の中で結論を出している顔。
由貴は、そういう視線を何度も受けてきた。
だが、財前五郎の目は少し違っていた。
彼は由貴の顔を見た。確かに見た。だが、その後、彼の視線は由貴の手元、姿勢、歩幅、言葉の置き方へ移っていった。
まるで、人間そのものを分解して観察しているようだった。
由貴は、その視線を気味悪く思うべきだったのかもしれない。
しかし、不思議と不快ではなかった。
「ご注文はお決まりでしょうか」
由貴が尋ねると、五郎は真顔でメニューを閉じた。
「ふわふわオムレツを」
由貴は一瞬、言葉を失った。
財前五郎。
あの財前家の跡取り。
大人びた端正な顔立ちをした、見るからに上流の男。
その男が、高級料理店の静かな席で、実に真剣な顔をして。
ふわふわオムレツ。
「……かしこまりました」
由貴はどうにか声を整えた。
しかし、去り際にどうしてもこらえきれず、ほんのわずかに口元が緩んでしまった。
「クスッ」
しまった。
由貴はすぐに悟った。
接客としては失態だった。客の注文を笑うなど、あってはならない。
振り返ると、五郎の頬がわずかに赤くなっていた。
由貴は深く頭を下げた。
「大変失礼いたしました」
しかし五郎は、怒るどころか、少し気まずそうに視線を逸らした。
「いや、気にしていない。私はふわふわしたものが嫌いではないのだ」
その言い訳が、さらにおかしかった。
だが由貴は、今度こそ笑わなかった。
「すぐにご用意いたします」
料理が運ばれてくるまでの間、由貴は何度か五郎の席へ向かった。
水を注ぐ。
皿を下げる。
ナプキンを整える。
五郎は、そのたびに由貴の動きを見ていた。
そして、ふわふわオムレツが運ばれてきた。
黄金色の卵は、皿の上で柔らかく膨らんでいた。ナイフを入れると、内側から湯気が立ち、バターの香りがふわりと広がる。
五郎は、上流家庭の子息らしい、実に上品な手つきでオムレツを口へ運んだ。
その姿は、なぜか妙に可笑しかった。
ダンディであればあるほど、ふわふわオムレツとの組み合わせが不条理だった。
由貴は、今度は心の中だけで笑った。
食事を終えた五郎は、食後のコーヒーを注文した。
「かしこまりました」
由貴が答えると、五郎は不意に言った。
「君は、美しいな」
またか。
由貴の胸の奥に、冷たいものが落ちた。
やはり、この男も同じなのか。
美しい。
その言葉を、由貴は何度も聞いてきた。
幼いころから、由貴は目立つ子供だった。両親を事故で亡くし、引き取り手もなく、孤児施設で育った。それでも、いや、だからこそなのか、彼女の容姿は年齢を重ねるごとに人目を引いた。
男子たちは、よく声をかけてきた。
だが、由貴が孤児だと知ると、少しずつ距離を置いた。
付き合うなら、家族構成も大事だから。
親御さんがいないのは、少し複雑だよね。
悪気のない言葉ほど、深く刺さった。
彼らは由貴を見ていたのではない。
由貴の背後にあるはずの家族を見ていた。
財産を見ていた。
保証を見ていた。
そして、そこに何もないと分かると、静かに去っていった。
女子からも、由貴は好かれなかった。
美しいことは、時に罪のように扱われる。由貴が何かをしたわけでもないのに、妬まれ、距離を置かれ、噂された。
学校での彼女は、いつもどこか孤立していた。
それでも由貴には、夢があった。
自分を育ててくれた孤児施設のような場所を、いつか自分の手で作ること。
できれば、もっと広い世界で。
親を失った子供たちが、ただ哀れまれるのではなく、自分の力で立てるようになる場所を作ること。
小学生のころから、由貴の夢は変わらなかった。
だから高校生になると、近所のファミレスで懸命に働いた。
あの店には美人のアルバイトがいるらしい。
そんな噂を聞きつけて、大学生や社会人の男たちが店に現れたこともあった。
だが、結果はいつも同じだった。
美貌には興味を持つ。
しかし、由貴の背景を知ると離れていく。
血縁も財産もない。
ならば、自分自身を高めるしかない。
そう思って働き続けていた由貴を、今の店へ引き抜いたのは、『月白』の料理長だった。
「君は、立っているだけで客の目を引く。だが、それだけではない」
料理長はそう言った。
「自分でどうにかしようとしている動きがある。教わった者の動きではない。そこが面白い」
由貴は、その言葉を忘れなかった。
この店に来てから、由貴は必死に接客を学んだ。
しかし、彼女の接客は、どこか一般的な型とは違っていた。
家庭で自然に身につく常識。
親から注意される細かな振る舞い。
親戚付き合いの中で覚える距離感。
そういうものが、由貴には少なかった。
だから彼女は、自分で作るしかなかった。
客の目線を見る。
声の高さを変える。
不快にさせない距離を測る。
相手が何を求めているのか、言葉になる前に探る。
普通から少しズレたその接客は、いつしか由貴だけの形になっていた。
だが、それを見抜いた男は、これまでほとんどいなかった。
由貴は、表情を崩さずに答えた。
「ありがとうございます」
ただの社交辞令として流すつもりだった。
しかし五郎は、コーヒーカップに手を伸ばしながら続けた。
「顔の話だけではない」
由貴の指先が、わずかに止まった。
「君の給仕は独特だ。誰かに教え込まれた型ではない。自分で作ったのか?」
由貴は、思わず五郎を見た。
「……分かるのですか?」
「分かる。普通の家で育ち、幼いころから礼儀を叩き込まれた者の動きではない。だが、雑でもない。むしろ、相手を見る精度が妙に高い」
五郎は真面目な顔で言った。
「君は、自分で人間を観察して、その形を作ったのだろう」
由貴は、返事を忘れた。
こんな男は、初めてだった。
美しいと言った男は多かった。
可愛いと言った男もいた。
付き合いたいと言った男もいた。
だが、由貴が自分の力で積み上げてきたものを、こんなふうに言い当てた男はいなかった。
「……私は」
由貴は、なぜか話し始めていた。
普段なら、絶対に口にしないことだった。
「私は、孤児施設で育ちました。両親を幼いころに亡くして、引き取り手がいなくて」
五郎は驚いたように見えた。
だが、同情の顔はしなかった。
それが、由貴にはありがたかった。
「だから、普通の家庭で学ぶことを、あまり知りませんでした。人との距離も、家族の会話も、親に叱られる感覚も。分からないことが多すぎて、最初は失敗ばかりでした」
「それで、自分で学んだのか」
「はい」
由貴は小さく頷いた。
「接客は、相手を満足させなければいけません。自分が普通を知らないなら、普通を真似するより、自分なりに相手を見るしかないと思いました」
五郎は、興味深そうに身を乗り出した。
「面白い」
「面白い、ですか?」
「面白い。君は、家がないことで、人を見る目を鍛えたのだな」
その言葉に、由貴は胸を突かれた。
家がない。
それは、これまでずっと自分の欠落だった。
だが五郎は、それをただの欠落として扱わなかった。
欠けていたからこそ身についたものがある、と言ったのだ。
由貴は、不思議な感覚に包まれた。
救われたわけではない。
慰められたわけでもない。
ただ、自分の人生の歪みを、初めて歪みのまま見てもらえた気がした。
「君は、これから何をしたい」
五郎が尋ねた。
由貴は一瞬迷った。
しかし、なぜかこの男には話してもいいと思った。
「いつか、孤児施設の長になりたいんです」
五郎の目が、大きく見開かれた。
由貴は続けた。
「私を育ててくれた施設に、恩があります。あそこがなければ、私はきっとここにいません。でも、施設で育つ子供たちは、いつも何かを諦めることに慣れすぎてしまうんです」
由貴は、静かに言った。
「私は、そういう子供たちが、自分には何もないと思わずに済む場所を作りたい。親がいないことを、人生の終わりみたいに感じなくていい場所を」
五郎は、黙って聞いていた。
由貴は、言い過ぎたと思った。
客に話す内容ではない。
まして相手は、財前家の資産家である。孤児施設の夢など、場違いな理想論に聞こえたかもしれない。
だが、五郎は笑わなかった。
「君は、強いな」
由貴は首を横に振った。
「強くありません。強くならないと、何もできなかっただけです」
「それを強さと言うのだ」
五郎はそう言った。
由貴は、返す言葉を失った。
しばらく沈黙があった。
店内には、低い話し声と、食器の触れ合う音だけが響いている。
やがて五郎は、コーヒーを飲み終え、席を立った。
「また、この店に来ても構わないか」
由貴は、いつもの接客の声で答えようとした。
だが、その声は少しだけ柔らかくなった。
「もちろんです。いつでもお待ちしております」
五郎は頷いた。
そして、少しだけ照れたように付け加えた。
「次も、ふわふわオムレツを頼むかもしれん」
由貴は、今度こそ笑った。
接客としては、やはり少しだけ失態だった。
だが五郎も、今度は笑っていた。
その夜、財前五郎は帰っていった。
由貴の胸には、不思議な充足感だけが残った。
美しいと言われたからではない。
同情されたからでもない。
孤児である自分を、哀れまれたからでもない。
彼は、由貴が自分の手で積み上げてきたものを見た。
そのことが、なぜか泣きたくなるほど嬉しかった。
由貴は、五郎の去った席を片付けながら、小さく息を吐いた。
ふわふわオムレツを頼む、妙な資産家。
人をじっと見る、失礼なようで不思議と嫌ではない男。
そして、初めて自分の歪みを、歪みのまま面白がってくれた男。
真田由貴はまだ知らなかった。
その男との出会いが、やがて彼女の夢を回り道させること。
自分の腹に、小さな命を宿すこと。
そして、その子に「真依子」という名が与えられる日が来ることを。
この夜の由貴は、まだ何も知らない。
ただ、胸の奥に残った温かな違和感を抱えながら、静かに次の客席へ向かった。